みずあめ
2026-05-29 18:54:47
4128文字
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ゆづあい

風邪っぴきゆづるとお見舞いにきてくれるあいさん

枕元には体温計とミネラルウォーター。おでこに貼った冷却シートはもう乾いて端が剥がれかかっていた。
……っ」
息を吸って吐くだけで喉が痛い。熱い体をのろのろと起こし、目が回るような気持ち悪さを覚えながらなんとかペットボトルに手を伸ばす。ぬるい水分でも、摂らないよりはずっとマシだ。本当はきちんとごはんを食べて回復するためのエネルギーを摂取したいけれど、この体調ではまだ難しそうだった。きっと明日には普通に起き上がれるようになっているはず。
休みの日に被ったのは不幸中の幸いだった。誰に迷惑をかけることもなく、自分だけで対処できる。出かける約束をしていた真央と揺には申し訳ないけれど二人とはまた今度一緒に出かければいい。仕事に穴を開ける方が恐ろしかった。自己管理がなっていないせいで、みんなに迷惑をかけるなんて、絶対に嫌だ。だから一刻も早く元気になって、週明けには何事もなかったかのように出勤したい。あの人に心配をかけたくない。
「はぁ……
吐き出した息は熱く、自然と涙が滲んで視界がぼやけた。ただでさえ電気を付けていない薄暗い部屋の中は熱のせいで歪んで見えるのに、もう全てがぐちゃぐちゃになってしまう。目を瞑って、このまま死んじゃったらどうしよう、と弱気な考えが浮かんだ。やだな、こんなこといつもは全然考えないのに、一人が寂しくて仕方ない。
怠いのに眠ることはできずにうとうとしながら過ごしていると、ピンポーンとインターホンの音が鳴った。何か頼んでいただろうかと考えてみるが熱に浮かされた脳はまともに働かなくて、とにかく誰かが来ているのだから出なくてはと、ただそれだけを考えてベッドから起き上がった。
壁に手をつきながら玄関に向かい、そこに誰がいるかを確認することもせずに鍵を開け、扉を押し開ける。
「っ、大丈夫か」
「え……あれ…………?」
「夢じゃない。起き上がれるくらい良いのかと思ったが、そんなことはなさそうだな。来てよかった」
「あいさん……? どうして……
「宇京から連絡が来た。おまえが風邪を引いているようだからもしなにも連絡がないなら気にかけてやって、と。軽い風邪ならおまえは隠すだろうし、一人でどうしようもないような状況ならなおさら隠すだろうと思って押しかけてきて正解だ。中に入っても?」
「え、だ、だめ……だめです、かぜ、うつっちゃう」
「マスクもするし消毒もきちんとする。絶対におまえから風邪をもらったりしない。約束する」
……
だめだってちゃんと断って帰ってもらわなきゃいけないのに。倒れかけた俺を支えてくれた逢さんの手がとても温かくて、心地よくて、この手を離してほしくないと心の底から思ってしまう。熱のせいで俺の方が体温は高いはずなのに、どうしてこんなに温かく感じるんだろう。どうしてこんなに愛おしいんだろう。
……いっしょにいたい、です」
「ああ、一緒にいる。教えてくれてありがとう。何か食事は食べたか? 薬は?」
いつも通り、より、少しだけやわらかい声。甘えていいと伝えてくれるような優しい話し方と俺を支える腕の力に、俺はほっと体から力を抜いた。
「なんにも食べてないです。薬は、朝飲んで、でもまだ熱はあります」
「少しは食べられそうか? 食欲がないなら無理にとは言わないが」
「んん……喉が、痛くて」
「ちょうどいい、のど飴も買ってきた。少しは気晴らしになるだろう。ゼリーなら食べやすいかもしれない。……歩けるか? 抱えていってもいいが、どうしたい?」
逢さんに支えられながらなんとか壁に手をついている状態で、でもこれ以上逢さんの負担になんてなりたくなくて気力だけで足を踏み出す。だけどたった一歩進むことすらできずに崩れ落ちそうになり、後ろから逢さんが抱き止めてくれた。
「無理はしなくていい。そのために来た。頼ってくれ」
「ごめんなさい……
「謝る必要もない。腕、こっちに回せるか? ん」
情けなくて、申し訳なくて、溢れそうになる涙を堪えながら逢さんの首に腕を回す。嗅ぎ慣れた香水の香りに顔を寄せ、ぐすっと鼻を啜った。逢さんがかすかに笑い声を溢す。
「いい子だ。いつもおまえに頼ってばかりだから、こういう時くらい年上ヅラをさせてくれ」
いつだって、あなたは俺には手が届かないくらいの大人なのに? こんな形で頼るのは不本意で、でも逢さんが俺のためを思って動いてくれることはとても嬉しかった。これ以上恩を重ねてしまえば一生かかったって返しきれなくなる。はやく、俺なんか逢さんから離れて行かなければいけないのに。
「よし。……まだ泣いてるのか? 体調が悪くて思考もネガティブになっているんだろう。なにも考えないで、寝てしまえ」
「ごめんなさい……
「次謝ったらキスするぞ」
俺をベッドの上に座らせた逢さんは持ってきていたらしいマスクをつけ、キツく見えがちな目を優しく細めて笑った。大好きな手が俺の目尻から溢れた涙を拭って、ついでのように額と首筋にも触れて熱を確かめる。さっきは温かく感じたその手が今はひやりと心地良い冷たさに感じて不思議だった。自然と俺のほしいものに変わっていくみたいだ。
「熱、高いな。朝から薬を飲んでいないならもう一度飲んでいいだろう。なにか食べてからにするか? 無理そうなら水だけ持ってくる」
「たべたい、です」
「ゼリーでいいか?」
「うん」
「ふ。かわいい。ちょっと待ってろ」
どこが可愛いと言うのだろうか。汗をかいているし、髪はぼさぼさだし、一人じゃ何もできないのに。うだった頭では思考がまとまらなくて、じわりと浮かんだ涙をそのままに溢していると、ゼリーとスプーン、コップを持って戻ってきた逢さんが俺を見て目を細めた。まるで何か、愛おしいものを見るような優しい目で。
「風邪を引くと泣き虫になるんだな、由鶴は」
……ないてないです」
「そうか」
ずびっと鼻を啜ったらまた涙が溢れた。きっと全部、熱のせいだ。今までずっと一人きりでもこんなふうに泣くことなんてなかったのに。
ベッドの縁に座った逢さんはゼリーを小さなスプーンで掬い、俺に差し出した。口の近くまで持ってきてくれたから何も考えないまま口を開いてそれを受け入れる。ひやりと冷たいゼリーが舌の上に落ちて気持ちいい。果物を噛むと甘い汁が口の中に広がり、久しぶりに感じる甘味に無意識のうちに口角が緩んだ。
「よかった。食べられそうだな」
「おいしいです」
「もう一口」
「はい」
俺が食べる様子をじっと見つめる瞳は、きっと細かいところまで観察して俺自身が気が付かないくらいの機微にも気が付いてしまうのだろう。ゼリーが差し出されるタイミングも、一口分の量も、文句のつけどころがない完璧さで、さすが逢さんだと思う。
ゼリーを一個食べ切った後、逢さんは風邪薬を取り出してコップと共に俺に渡した。飲めるか?と聞かれ、こくんと頷く。薬を飲むのは得意だった。どんな錠剤でも、何錠でも、えずくことなく飲み込むことができる。心配そうな顔をする逢さんに笑みを作って見せ、俺は渡された錠剤を一口で飲み込んだ。水を飲むと喉が渇いていたことに気がつき、残りの水も飲んでしまう。
「一気に飲むと気持ち悪くなるぞ。……いや、お前は大丈夫かもしれないが。すぐに横にならないで、少し腹が落ち着いてからにしろ。他に何か欲しいものはあるか?」
……もらいすぎました」
「なにをだ」
「逢さんからの、優しさを」
……まだ足りないくらいだよ。俺がお前からいつももらっている分に到底追いつかない」
「おれなんか、ぜんぜん」
「ふっ、また泣いてる。普段からこれくらい分かりやすくてもいいんだけどな? おいで、由鶴」
俺だけに向けられた罠のように広げられた腕を無視することなんてできなくて、俺は泣きべそをかいたまま逢さんに抱きついてしまった。こんなに近付いたら風邪が移ってしまう。そんなのダメなのに、この腕を離すことなんて、絶対にできない。
「あいさん、はなしてください……
……離してやらないから、安心しろ。泣き止むまでずっとここにいるし、泣き止んでもここにいる。お前を一人にはしないよ。残念だったな?」
からかうような口調なのに、誰のどんな言葉よりも優しく温かい。溢れ続ける涙が逢さんの服を濡らしていることも分かっていたけれど、どうしても離れられなかった。
泣いたせいで熱が上がったのかくらくらする視界が気持ち悪くて、逢さんの肩に額を押し付けた。逢さんは何も言わずに俺の後頭部をそっと撫でてくれた。魔法なんてないんだから何も変わらないはずなのに、本当にふっと痛みが遠のく気がする。
……もうすこし、このまま」
小さな声でそう言って、俺はぎゅっと目を瞑った。慣れた香りと体温は一人きりの部屋よりずっと心地よく、呼吸をゆっくり繰り返すうちに眠気が思考を覆い隠す。少ししたら、起こしてくれますか? せっかく逢さんが一緒にいてくれるのに眠っていたくなんてないから。
すとんと落ちた眠りの中で、逢さんが俺のことを抱きしめたまま眠っている夢を見た。なんて都合の良い、幸せな夢だろう。逢さんが寝ているなら、俺も寝ちゃおうかな? 温かい腕の中で逢さんにいっそう近付き、俺も逢さんのことを抱きしめる。夢の中でも寝られるんだっけ? ふわっとあくびをして、俺は目を瞑った。
次に目が覚めた時、夢とは違う暗い部屋の中で、夢と同じように俺の目の前には逢さんがいた。知らないうちに俺の腕は逢さんのことを抱きしめていて、逢さんも俺のことを抱きしめている。驚いて身動いだのに気が付いたのか、眠っていた逢さんがゆっくり瞼を開けた。一瞬見開かれた目は、すぐにふっと細められ、くすくす溢れる笑い声がマスク越しでもくすぐったく響く。
「わるい、俺も寝てたみたいだ」
……かぜ、うつっちゃう」
「大丈夫だよ。もうすこし寝よう。ちゃんと起こしてやるから、な?」
とんとんとゆったりしたリズムで背中を叩かれ、眠りたくないのに瞼が落ちていく。おやすみ、と囁かれた声に、俺はきちんと返事をできたただろうか。