グラスが高い音を立てて割れ、ファルカは緊張した面持ちで少年を見た。少年は震える右手を押さえて俯いている。その首には包帯が巻かれており、殴られて出来ただろう頬の青あざも痛々しい。
聞いていた発作だろうか。あの出来事があって以来、少年は精神的な発作に悩まされていると聞いた。
だからこそファルカは見舞いに来たのだが、真っ青になった少年は声も発せずに震えているだけだ。
ファルカはまずは少年を落ち着かせるためにその手を握ろうとした。
「触んな…っ!!」
少年の切羽詰まった声にファルカは動きを止める。
明確な拒絶だったが、何よりも彼の方が自分の言葉に傷ついたかのような表情をしていた。そこから伝わることはたった一つ。今の言葉は本意ではないということだけだ。
「……ごめん、ちがくて……俺……」
「大丈夫だ、ローエン。怒ってない。ただ、何が辛いのか聞かせてくれるか?」
今にも泣き出しそうになってしまった少年─ローエンを前に、ファルカはベッドの横に膝をついて視線を合わせる。ローエンは人前で泣くような子供ではないし、決して気弱なタイプではない。
今、彼がこんな状態になってしまうのは悲惨な事件に巻き込まれたせいだ。そしてその事件は、彼にも周囲の人間にも消えない傷跡を残した。
澄んだ湖面のような瞳が縋るようにファルカをじっと見つめる。その瞳には涙が滲んでいた。
「ファルカ……俺、騎士になれないかも」
「どうしてそう思うんだ?」
苦しげに告げられた言葉へとファルカは努めて優しく問いかける。
ローエンが自分の性質を理解した時に、ファルカは騎士団に入隊することを勧めていた。
それから彼にとって騎士団に入隊するということは大きな目標にもなっていたし、生き生きと過ごすようになったとファルカも思っている。
ただ悲惨な事件に巻き込まれた結果、心身に傷を負ったローエンが当初の予定通り入隊試験を受けることは無理だろうとも思っていた。
だから彼の母親を通じて、何年か試験を見送ったとしても影響はないだろうと伝えている。
しかしローエンはそれでもダメなのだと何かに絶望しているように見た。
ローエンはファルカの言葉に口を押えて何度か嗚咽を漏らすと、ふるふると首を横に振る。
溢れる涙がシーツを濡らした。
「……αがこわい……ちかづけない…こわ、い……ごめん……ファル、カっ……」
謝罪と拒絶。
その言葉にファルカは絶望すると同時に強い怒りを感じた。自分がαだと言うことは公言していないし、ローエンにもまだ告げていなかった。それでもΩという性が完全に熟したローエンはファルカがαであることに気付いてしまったようだ。
更に言えば騎士団にはαが多く在籍しているし、何より他のαと関わる機会も多い。αという存在を避けては通れない場所が騎士団なのだ。
希望を持って生きていくはずだった。自分の性質に罪悪感を感じることなく生きていけるはずだった。それなのに、たった一つの出来事がローエンの未来とファルカとの関係を壊していく。
次に二人が顔を合わせた時、ローエンの瞳は澄んだ水色ではなく暗い赤紫に浸食されていた。
△▼△▼△
ナシャタウンから少し離れた場所に大きな洞窟がある。この辺りは誰も来ない、と言うよりは事情を知る人物であるのならば避けて通るような場所だ。
ファルカも話には聞いていたが実際に自分が訪れることになるとは思っていなかった。
隣で自分を案内してきたネフェルは慣れているのか、特に緊張した様子もなくそこに立っている。
「あんたがあそこまで殺気を漏らすなんて、珍しいこともあるもんだ」
そう言って笑みを零す秘聞の館の女主人は、どこか興味深い物を見るようにファルカへと視線を向けた。
神秘的な翠色の輝きに見つめられ、ファルカは少しだけ居心地が悪い気分をする。彼女に真っ直ぐ見つめられる時は値踏みされているようにも、何かを探られているようにも感じる。普段ならば大して気にもしないのだが、今は少しだけ居心地が悪い。
「そんなにだだ洩れだったか?」
「あぁ、アシュルが怖がるほどにね」
黒猫のアシュルは人懐っこく肝が据わっている。
普段ネフェルと行動を共にしているのだから、ある程度は荒事を目にしても動じないくらいだ。
だが、ファルカが秘聞の館に足を踏み入れた瞬間に毛を逆立て、奥の部屋へと逃げ込んでしまった。しかも従業員であるヤフォダまでもが青白い顔をしていたのだから目も当てられない。
普段そんな姿を見せたことはなかったし、自分の性質にはほど遠いと思っていた。それでもこの男が誰であるかを意識した瞬間に何もかも止められなくなってしまったのだ。本当ならば、その場で八つ裂きにしてしまいたいくらいの感情をファルカはこの男へと抱いている。
まだ子供だったローエンがこの男のせいでどれほど苦しんだのかも、歩む道がどれほど変わってしまったのかも、ファルカはよく知っていた。
生涯にたった一人しか決められない番に無理矢理なった上、ローエンを傷つけるだけ傷つけてその責任も取らずに逃げた男。そう思えば思うほどにファルカの中でふつふつと煮えたぎる感情が湧き上がってくる。しかしファルカもそれで誰彼構わず傷つけたいわけではない。
湧き上がってくる感情に蓋をして、これ以上悟られないように、傷つけないように慎重に扱う。
「そりゃ悪いことをしたな。今度煮干しでも持っていくか」
「それならあの子の機嫌も直るかもしれないねぇ……さてと、ここで待っといておくれ。話をつけてくるから」
ネフェルはそう告げると洞窟の中へと歩を進めていく。硬質なヒールの音が遠ざかっていくのを聞きながら、この状況で男と二人きりになることに嫌悪を感じた。男は意識は戻っているものの静かなものだ。
ヤフォダによって逃げないようにと縛り上げられた男は、ファルカに蹴られたせいで頬を腫らせている。
さすがにここまで来ると観念したのか暴れる様子も逃げ出す様子も見られなかった。
「……私をどうするつもりだ」
男は緊張しているのか硬質な声でそう問う。僅かに震えている声からしても恐怖は感じているのかもしれないが、その態度からは相変わらずプライドの高さが伺い知れる。自分は絶対的な被害者であるのだという姿勢を崩さないその姿には感心してしまった。
大団長という立場柄、国内国外問わずに犯罪者と関わることは多い。だが、その中でも特にこの男へ対しての怒りは一入だった。それは被害者が身内だという理由だけではなく、人一人の人生を変えておいて、ここまで無責任に振る舞えることへの怒りだ。ファルカは男へと冷たい視線を向けて見下ろす。青色の瞳にはただひたすら冷たい怒りだけが浮かんでいた。
男はそんなファルカの視線から逃れるかのように目を反らす。
「お前は今もモンドでは指名手配になっている。だから本当は連行したいんだが、生憎とそこに人員を割く余裕が今はなくてな。だから、ナド・クライでの処罰方法に準じさせてもらう」
「馬鹿馬鹿しい。モンドでの罪をナド・クライで裁くとでも?そんな事が許されるとでも思っているのか」
ファルカの侮蔑に満ちた視線に曝され、冷たい言葉を投げかけられたとしても、男は吐き捨てるようにそう告げた。どうやら彼は自分の立場をまだ理解していないらしい。
そこで限界が来てしまったファルカは思わずその胸倉を掴んで男を岩壁へと押し付ける。怒りに燃える瞳に間近で見つめられて男は引き攣った悲鳴を上げた。だがそれだけではファルカの怒りが収まることなどない。いや、きっとこの男が死んだとしてもファルカのこの怒りが消えることはないのだろう。
「許す許さないという話ならば、俺はお前を許すことができない。だから今日は大団長としてではなく、俺個人としてお前をここに連れて来た」
低く、早口に告げられた言葉の大半は男に届かなかった。だが、そこにあるどうしようもない怒りと殺意だけは伝わったらしい。すっかりしおらしくなってしまった男を放り投げると、彼は今になってがたがたと震え始めた。今になって自分の立場を理解したとしても遅い。
せめて彼がここまで愚かでなければ─高慢で差別的なαの典型例のような性格をしていなかったのだとしたら、ファルカも別の手を考えたかもしれない。それでも現実はこれだ。せめてファルカはあの時のローエンの絶望を彼に教え込まなければ気が済まなかった。
ファルカは震えている男を見下ろしながら再び口を開く。
「そう怯えることはない。なんだって、ローエンのやり方よりもここの連中の方がまだマシなはずだからな……お前さんの番はうちでは一番苛烈なんだ」
そう告げる声はきっと男には届かないだろう。それでもよかった。ただ今は、男が自分の行いを振り返り、後悔し、そうして怯えていることだけが心の慰めになるのだから。
しばらくして、大柄な男が一人ファルカ達の前に現れた。顔を隠すマスクをした男は、ファルカに軽く声をかけるとαの男を担ぎ上げて歩き出す。どうやら奥へと案内してくれるようだ。
洞窟の中は思ったよりも狭い道が幾つも走っていて複雑な構造に見える。その中をしばらく歩いていると、目の前に鉄製の大きな扉が現れた。その扉を開いた先にファルカは誘われる。中には広い空間があり、簡素な机と椅子、そして本棚が置かれている。椅子にはネフェルがゆったりと座っているが、彼女の前にいるのはファルカも知らない人物だ。
フードを被っているせいで顔立ちはよく分からないが、背丈や口元と顎のラインからファルカはその人物が少年であると仮定する。
「いらっしゃい。始末小屋にようこそ」
高くも聞こえ、低くも聞こえる不思議な声色がファルカの鼓膜を震わせた。しかし、こういった稼業の人間を詮索することはマナー違反だろう。そう思いつつもファルカは戸惑いながら軽く会釈をした。
「世話になる」
「大まかな事情はネフェルから聞かせてもらったよ。僕は君達に興味がある。さっそく話してもらおうか」
のんびりとそう告げた始末屋にファルカは少しだけ緊張した面持ちになる。ネフェルから事前に告げられた情報によると、始末屋はナド・クライのルール違反者以外にも個人的な後処理を請け負っているらしい。その時の条件が、そこに至るまでの物語を始末屋へと聞かせることだと言う。
悲惨であればいいとか、悲劇であればいいとか、そういう事ではないらしい。始末屋はそこに宿る感情を聞き、依頼を受けるかどうかを判断するのだ。だからこれは言ってしまえば面接のようなものだった。ファルカが語る物語によって、目の前のいけすかない男の処分を頼めるかどうかが決まる。しかも始末屋が何を好むのかも、何を基準に判断しているかも分からない。だからファルカは初めてローエンに会った日のこと、幼い彼が苦悩していた日々を思い出す。
まだ、特徴的な赤紫色が宿っていなかった頃のローエンをだ。
「被害者は元々少しわけありでな、闘争本能のがかなり強い子供だった」
ファルカは最初にそう告げるとローエンのことを話し始める。どんな子供だったのか、自分との関わりは何だったのか、そしてどうやって関わっていくはずだったのか。始末屋はその話を聞きながら時折相槌を打ち、気になった箇所の補足をファルカに促す。その様子はこれから一人の男を始末する依頼のやり取りとは思えないものだ。
だが、ファルカの語る話があの忌まわしい事件の話に差し掛かると始末屋の様子が少しだけ変わった。始末屋は言葉少なく相槌を打つだけになり、補足を促すようなことはしなかった。ただ、そこからファルカの感情を読み取ろうとしているような素振りは見えていた。
ファルカにとってもあの事件のことを思い出すのは辛いことだ。あの日、ローエンを保護した巡回中の騎士は真っ青な顔で団長室に駆け込んできた。ファルカもその様子を見て言葉を失ったほどだ。完全に意識を失ったローエンを前に祈祷牧師の手配を行い、その目元に色濃く残る涙の跡を拭ったことを思い出す。
その瞬間の怒りも、必ず犯人を見つけ出すと誓ったことも覚えている。犯人を見つけ出せず、捕まえることすらできなかった悔しい思い出すらもだ。それらを鮮明に思い出してファルカは思わず唇を噛みしめた。七年だ。七年経って、やっと遠征先で偶然の出会いを果たした。そしてその間もローエンの傷はずっとじくじくと膿み続けていることを、ただ見守ることしかできなかったのだ。
「あいつに関わることが全てがこいつのせいだとは思わない。でもな、あいつの人生を歪めたことは間違いない。せめてあんなことさえなければと今でも思う。それにあいつが項の傷を隠すために付けているチョーカーを見る度に思うんだ……どうして、どうして俺はあいつを助けてやれなかったのか、と」
永遠に消えない枷。永遠に消えない傷。
それを負わせる前に救うことだってできたかもしれない。少なくとも自分が最初に騎士へとなった時、そういう誰かを救いたくて騎士になったはずだった。一人でも多く、モンドの民を守るために自分はいるはずだった。それなのに現実はどうだろうか。大事に思っていた一人の少年ですら救えずに、生涯残る傷を負わせてしまった。
正直なところ、ローエンに対する特別な想いが罪悪感から始まったものだったのか、それとも別のものだったのかファルカには分からない。罪悪感から始まったものではないとは確実に言い切れるものではなかった。けれどそこにある想いは本物だと信じたかった。
苦しげに言葉を紡ぐファルカを始末屋はじっと見つめた。見定めようとするような気配を感じてファルカが顔を上げると、その口元が僅かに笑みの形に象られる。
「君はこの男を憎いと思うかい?」
「あぁ、自分の立場というものをかなぐり捨てていいならばな」
真剣な眼差しで告げられた言葉は西風騎士団の大団長としての物ではなく、ただファルカという一人の男としてのものだった。彼は愛する国と民を守りたくて大団長という立場に手を伸ばした。けれど、今それに縛られて身動きが取れなくなっている。もしかしたら過去にもそんなことがあったのかもしれない。なかったのかもしれない。始末屋にはそれを判断する材料はなかったが、この優しすぎる男が苦悩してきたことだけは確実だと理解した。
そして、もしも彼がただのファルカであったならば間違いなく目の前の男を惨殺していただろうことも。けれどそうではならないし、そうあってはならない。もしそうだったのならばローエンとの関係もないのだろう。
始末屋はファルカから受け取った物語の全てを、感情として噛みしめる。
「……いいよ、その男を始末してあげる。個人的な感情を述べるなら、そういうαは嫌いだし」
そうとだけ告げると始末屋は目の前の紙にの上に何かを書き記した。なんと書いたのかは見えなかったし、詮索するつもりもない。ただその文字が男の何かを決めたことだけは伝わった。
「ユルキ、その男を二番牢へ。そう、丁重にね」
来る時にファルカを案内したマスクの男─ユルキと呼ばれた彼は声もなく頷くとαの男を連れて行く。αの男は自分が牢に入れられるということに動揺したのか、そこにいる全員の顔を見比べた後で急に暴れ出した。そして、何かを喚いていたようだがファルカにはもうその声を聞き取る気力は残されていなかった。ひどく現実みがない。ただ、これからあの男が死に向かうということだけが事実としてファルカの眼前に晒されている。
ずっと憎いと思ってきた男がこうして見つかり、誰も知らない暗闇のなかで処理されるのだ。それはプライドの高いαの男にはさぞかし堪えることだろう。
「執行が決まったらネフェル経由で連絡する。支払いも彼女経由で」
「分かった……本当にこれだけでいいのか?」
「おや、何か問題でもあるかい?」
まるで軽い契約でもしたかのような事務的さで告げられ、ファルカは心底戸惑ったように始末屋とネフェルを見た。だが、ネフェルはそれに心底可笑しそうに笑っただけだった。
ファルカは大団長という立場上様々なことに慣れている。特に遠征に出てからは、裏の事情というものにもかなり出くわしてきたはずだ。それでもナド・クライの事情ややり方にはどうしても戸惑うことがあった。そうでなくとも、あまりに上手くいきすぎて実感が湧かないというのが正直な気持ちだ。そして何よりも、人一人の命の処遇を決めたという実感もなかっま。
「そういうわけじゃないが、いやにあっさりしすぎてな」
「ここに法はないからね。だから煩わしい手続きも必要ないのさ。必要なのは罪人と糾弾者、そしてそれを処理をする人間だけ」
あまりに順調に行き過ぎて疑っているようなファルカにネフェルは苦笑する。だが、必要な物など最初から揃っていたのだから物事がうまく進むのは当然だ。それに、秘聞の館の主人として紹介者が拒絶されるというのも外聞が悪い。ある程度うまくいくことを想定していなければ、ネフェルが始末屋を紹介することもなかっただろう。
始末屋の性質、そしてそれに対してファルカの性質と立ち回り方を計算した上で、彼女は二人を引き合わせた。実際、α嫌いでもある始末屋の印象は悪くないようだ。
「僕は複雑な手続きというのは嫌いなんだ。物事はシンプルな方が好ましい。依頼する君達もその方が都合がいいと思うけれど」
「確かにシンプルな方が俺も好きだな」
「うん、それはよかった」
特に感情を表すこともなく始末屋は頷く。
「さぁ、君は帰るといい。依頼を受けておいてなんだけれど、君にここは似つかわしくないから」
そう告げると始末屋はファルカへと顎で先程入ってきた扉を指した。二人の繋がりはここで交わした全ての言葉だけで記録には何も残らない。残るのは三人の記憶と、男を処分するという短い書類だけ。
ファルカはそれに言いしれぬ感情を抱きながら来た道を戻ることにした。案内はいらない。来た道を戻ることはそれほど難しいことではなかった。
そうして再び日の光の前に出たファルカはそれを眩しそうに見上げ、ローエンを残してきたナシャタウンへと歩を進めるのだった。
「ネフェル、わざと僕のところに持ってきたでしょ」
ファルカを見送った後、始末屋はそう言ってネフェルを見た。フードの奥から鋭利な刃物のような銀色の瞳が覗いている。ネフェルはその視線を正面から受け止めると笑みを深めた。
「さて、なんのことやら」
「僕がああいうαが嫌いなの、君は知ってるものね。まぁいいか……彼だと思ってしっかり切り刻んでおくよ。原型が残らないほどにね」
始末屋は癖のようにフードの上から項の辺りに手を振れた。何かから守るように、痛みに耐えるように、ただそっと触れるその仕草にネフェルは眉根を寄せる。彼でもなく、彼女でもない始末屋は同じようにαに運命を狂わされたΩであった。ただそれだけのこと。
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