望月 鏡翠
2026-05-29 09:44:08
844文字
Public 日課
 

#2097 萬木

#毎日最低800文字のSSを書く/とわの道行ついの国まで


 霧深き道でも熟練の狩人であれば、道を失うことはない。それでもふと来た道を辿れなくなるときがある。萬木はそういうとき、もう下手に足掻くことは無くなった。
 これは神の差配のようなもの。妖術に囚われたのと同じで、山中を読みとる術は通用しない。
 焦って戻ったり、警戒して足を止めたりせず、ただ進むのが最も早く脱出できる。
 足元の草も見慣れぬ地域のものに変わっている。
 この辺りは水が少なく、寒いのだろう。
 やがて濡れた空気の中に、煙と脂の匂いが混ざり、文明が近づいたことを知る。
 暗がりの向こうにぼんやりと提灯の灯が揺れるのが見える。初めて見る、よく来る場所だ。店構えは常に違い、見覚えはない。だが、ここがどういう場所であるのかは知っている。なんと呼ばれている場所なのかも知っている。
 灯りの酒場と呼ばれている、霧の道に迷い込んだもののための休憩所だ。
 萬木の知る酒場とは形が大きく異なっているが、金子と酒や食事を交換できるところは同じだ。
 他の客も店員も、いかなる存在か不明だが、こちらが攻撃をしなければ無害だ。近頃では雑談し、交流や取引をし、情報収集をするゆとりもできた。
 慣れてしまえば、先の見えない旅の中で、確実に安全で食事を与えてくれることができる場所というのは得難いのだ。他の多くの旅人がそうであるように萬木もそこを、辛い旅路の中にある拠り所とするようになっていた。
 だから皆争わずに、大人しくしているのだろう。
 店内に入ると活気に迎え入れられる。彼は今までどこにいて、どこにいくんのか。店はどのようにして成り立っているのか、誰も理解していない。
 ここはどのみち、旅の間に見る夢のようなもので、そう決まっていることはそのようになる以上の理屈は求めても常に裏切られる。
 道中、他の旅人に出会ったことはない。彼らから見た萬木もそのような夢路で出会う不確かな存在なのだろう。
 だから萬木は、目の前の店に入り、休み、会話をし、立ち去る。
 それだけだ。