千代里
2026-05-29 08:12:49
8731文字
Public 君ふれ短編
 

君ふれ・クガネ編・23話


 クガネの夜は、虫の音でできている。
 リムサ・ロミンサでは波の音が絶えず聞こえていたし、ウルダハの宿では階下から響く酔っ払いたちの声が耳に届いていた。
 それと比べると、鈴を鳴らしたような虫の鳴き声だけが聞こえる今の宿は、随分と静かと言えよう。
 昼から降り続けていた雨は止み、縁側と呼ばれる外へとひらけた渡り廊下には、雨上がりの土の匂いが漂ってきていた。それを鼻の奥まで吸い込みながら、フェリキシーは部屋に向けて廊下を歩いてある。
 明日、フェリキシーはクガネを発つ。エウレカと呼ばれている島に向かい、そこにいる魔物を狩り、報酬を得るためだ。
 誰のためなどと、わざわざフェリキシーは思考に上らせない。自分が何のためにそんなことをしようと決意したのか、考えるまでもなく自明だ。
 島に向かうための準備を終え、少し遅くなったが風呂を使わせてもらい、あとは体を休めるばかり。そう思って歩いていると、
「これはこれは、フェリキシー殿。今日は随分と遅いのですな」
「あんたか」
 見下ろした先にいたのは、息子のヒョウセツによく似た、燻んだ青の髪をした壮年の男――ムヒョウであった。
 縁側に腰を下ろした彼の隣には、スルメと呼ばれるイカの干物と、酒が入った瓶が置かれている。月の光を浴び、虫の音を聞きながら晩酌でもしていたのだろうか。
「ケイ殿たちから聞きましたよ。明日から、フェリキシー殿はエウレカに向かいなさるとか」
「ああ。予定とはちっと違う形になっちまったが、家を空けている分は迷惑にはならねえだろ」
「迷惑など、今までも感じたことはありませんよ。皆さんがいらっしゃるおかげで、ヒョウセツも良い刺激を受けているようです。どうにも、このあたりはあの子のような者が少ないので」
 言葉は濁されたが、それはヒョウセツのように戦う力を求める者がいないという意味だろう。
 だから、ヒョウセツは近所の同年代の子供とではなく、道場にまで足を伸ばして手合わせをしているらしい。その様子は、途中で合流したケイからも聞いていた。
 立ち話はそこで終わりかと思いきや、お盆を挟んだ反対側をムヒョウはトントンと叩いた。
 無視するのもきまりが悪く、フェリキシーは彼に倣って縁側に腰掛ける。
「少し前に、ヒョウセツが大層な剣幕で私の部屋にやってきましたよ。ユキハネ殿の家について、あの子から聞きました。今、少々厄介な状態になっているようですね」
 ムヒョウの言葉に、フェリキシーは目だけを彼へと動かした。
「誤解させてしまったら申し訳ありません。私は、そのことについて何かしようと思ってはいません。所詮、私はしがない乾物屋ですから」
 柔らかな口調で告げられたのは、ユキハネの実家が抱えた問題に一線を引くという宣言だった。
「ヒョウセツの言葉を信じるのなら、たちの悪い詐欺師に嵌められたようですね。ですが、私はそれに対抗する力がない。ヒョウセツは、どこかで私を頼ってくれていたようですが」
「別に、ユキハネも俺も、あんたにどうにかしてもらいてえなんて頼んでねえよ。あいつがまた、一人で突っ走ったんだろ」
「ええ、おっしゃる通りです。父親としては、息子に頼られて『任せておけ』と言えないのは、少々悔しくもあったのですが」
 けれども、ムヒョウは一度たりとて、助けられなくて申し訳ないとは言わない。借金について、彼は何の責任もない。自分が手を出すべき領分ではないところで、謝罪をする必要はないとわかっているのだろう。
 これだけ父親が『弁えている』のに、どうして息子はああも猪突猛進なのか。思わず、昨晩のやりとりをフェリキシーが振り返っていると、
「どうやら、フェリキシーさんには息子が随分と世話になっているようですね」
「あいつが何か言ったのか」
「『至らない所があるのかもしれないが、そんなオレでもできることをやりたい』と。ユキハネさんの問題に私ができることはない、と告げたときに、あの子に言われたのですよ」
 一度言葉を置き、ムヒョウは小さなカップのようなもの――猪口に、水のような透明な酒を注ぐ。
 こちらへ差し出さなかったのは、明日から冒険に出立する者を酔わせないための気遣いだろう。
 酒を味わうための数秒をあけて、再びムヒョウは言う。
「あの子は、いつも自分なりの正義感を持って行動しています。皆さんをクガネに招待したい、と言ったときもそうでしたね」
「随分と向こう見ずなガキだと思ったな、あん時は」
 たとえ相手がヒョウセツの父親だろうと取り繕う気もなく、フェリキシーは率直に己の意見を口にする。
「常に後ろ向きの考えを持っているよりは良いだろうと思っていましたが、いずれあの子自身が、自分の正義感を見つめ直す必要があるだろうと思っていました。ただ、私がそれを言っても、あの子はなかなか聞いてくれなかったでしょう」
「つまり、俺があんたの役割をとっちまったってか」
「結果的にそうなりますね。ただ、私が指摘したよりも、あの子にはずっと効いたでしょう」
 父親という存在は、ヒョウセツにはあまりに近すぎる。
 家族であるが故に、彼の言葉はヒョウセツの心に真っ直ぐ届かずに、いくつかの屈折を経てしまう。
 それに比べて、フェリキシーは近いようで遠い他人だ。
 そして、他人が自分にぶつけた率直な意見というものは、意外と芯まで響くものなのである。
「ケイから聞いた話じゃ、あいつ、ユキハネの借金を返すために調べ物を続けるとか言ってたそうじゃねえか」
 あんたはそれでいいのか、とフェリキシーは言外に問う。
 ひょっとしたら、ヒョウセツは借金とりであるハチベエに関わることになるかもしれない。あの黒い噂をいくつも抱えた男に。
「あの子がやりたいというのなら、やれるだけやらせてみます。どうしようもなくなったときに尻拭いするのも、親の役目でしょう」
……そういうもんかね」
 フェリキシーの回答に生じた間は、理解できないからこそ生じたものだ。
 彼には、ムヒョウのような親はいなかった。そもそも、ヒョウセツの年頃には、親は二人とも土の下に埋められていた。
 再びの沈黙。口を開いたのは、ムヒョウからだった。
……私は、長らく親という役割を放棄していました。私がかつて用心棒をしていたことは、息子から聞いているでしょう」
 首肯だけを返すと、ムヒョウはゆっくりと続きを語る。
「仕事の都合上、遠出をすることが多かったので、妻と息子を残して、私はひんがしの国の各地を渡り歩いていたのです」
 いきなり何の話を始めたのかと、フェリキシーは隣の男を見やる。彼は猪口片手に月を見上げたまま、話を続けた。
「仲間からは、妻子を持ったのならもう少し家にいたらどうか、と何度も言われました。ですが、私は刀を振るうだけしか能がない男です。今の妻と巡り会えただけでも幸運だ。家のことは彼女に全部任せている。そう言って、頑なに家から距離を置いていました」
 猪口に口をつけ、唇を湿らせるムヒョウ。伏せた目に浮かぶのは、ありし日の家族の様子か、それとも。
 「……ですが、それはただの言い訳でした。実際のところ、私はーー家に戻るのが怖かった」
「用心棒ともなれば、恨まれることもあるだろうからな」
 自分の二倍は年上の男が、わざわざ切り出してきた話だ。かつての依頼主であり宿を貸してもらった縁もある。
 故に、フェリキシーは話に付き合ってやることにする。
「あんたが今、刀を振る仕事じゃなくて、乾物屋なんていう小さい場所に収まってんのは、そういう面倒なしがらみを避けるためでもあるんじゃねえのか」
 ヒョウセツは、用心棒だった父親へ憧れを抱いていたようだ。だからこそ、父が乾物屋の手伝いなどという鄙びた職に就いているのに不満を抱いているようだった。
 だが、それが目の前の男が選んだ堅実な人生の選択だったのだろうと、フェリキシーは考えていた。
 果たして、ムヒョウは頷きもしなければ否定もしなかった。ただ静かに猪口に浮かぶ水面の月を揺らしたあと、
「フェリキシー殿の言う通り、用心棒とは恨みを買う仕事でもあります。私が家にいることで、妻子に恨みの火の粉が飛ぶとも限らない。だから、私は彼らから距離を置いていた」
 友人にもそう言っていた、と彼は続ける。
「ですが、実際のところは、どうだったのか。妻子の無事を望むのなら、むしろ妻子のそばにいるべきだったのではないか。彼女らの身の安全を守ることこそ、父親であり夫である私の役割だったのではないか。……あの頃の私を振り返るたびに、そう思うのです」
 だが、当時のムヒョウはそうしなかった。頑なに刀を握り、戦う道に固執し、自分の家族から距離を置いた。
 その理由を、男は自ら告げる。
「私は、ただ怖かったのでしょう。妻子が待つ暖かな家族という、私の知らない世界に足を踏み入れるのが」
 ーーフェリキシーの息が、瞬時止まる。
 思いがけなく胸の奥を突かれたような気分だった。
 自分が背を向けた少女の輪郭が、ふと脳裏に浮かぶ。
「物心ついたときには、私の周りに親と呼べる人はいませんでした。名前もないような小さな村で、農奴として朝から晩まで働いて、夜は死んだように眠る。病気になっても、誰も助けてくれはしない。……そんな生活が、私にとっての当たり前だったのです」
 ムヒョウにとって幸いだったのは、彼は少しばかり喧嘩が得意な子供だったことだ。子供の喧嘩で身につけた逞しさを、彼は大の大人すら倒せてしまうほどの強さへと磨いていった。
 やがて、得物を使って戦う術を得た頃には、それなりの名の売れた用心棒として知られるようになっていた。偶然仕事で縁のできた乾物屋の娘に惹かれ、娘からも思いを寄せられるようになり、荒くれ者の用心棒は家庭を持った。
 子供もできて、帰るべき家ができたことを嬉しく思いもした。
「私にとって、帰りを待つ者の存在は、ようやく手に入れた宝のようなものでした。なのに、私はその中に自分が加わることができなかった。……私がそこに足を踏み入れれば、ようやく手に入れたそれが、汚されてしまうような気がしていたのです」
 フェリキシーは答えない。
 だが、彼はすでに自分が感じている感情の答えを見つけていた。
 ユキハネにもし帰るべき家があるのだとしたら、そこに彼女を置いていくべきだと、頑なに思い続けた理由。
 仲間やヒョウセツに指摘されたときは、冒険者は危険な職だからと言い続けた。それも嘘ではない。
 彼女の手には、武器よりも細工物や糸と針のような家庭的なものが似つかわしいのではないか、と考えたことは何度かあった。
 だが、それ以上に自分の心を埋め尽くした理由は、今ムヒョウが語ったものと同じだ。
 自分は、そこにいるべきではないという疎外感。
 仲間外れにされたと感じるのとも違う。ただ住むべき世界が違うと直感で悟らされる断絶を、一体なんと表せばいい。
……それの、何が悪いっていうんだよ」
 口にした呟きは、ムヒョウへの問いの形をしていながらも、自分へのみっともない自己弁護でもあった。
「何も悪くはないのでしょう。生活に困らぬように家にお金も送っていましたし、短くはありますが顔を見せたこともありました。ただ、私の臆病な心のせいでーー私は、今際の際の妻の手を取ることができなかった」
 とん、とお盆の上に猪口が置かれる。小さな硬質な音が、やけに大きく響いた。
「どうして帰ってこなかったのか、と息子になじられて、私は初めて自分の行いが何を招いたのかを知りました。世間では、私が刀を置いたのは、妻に代わり息子の面倒を見るためであり、責任のある父親だと評価してくれました」
 それらの評判を否定するかの如く、ムヒョウはゆっくりと首を横に振る。
「私は、私の知らないところで再び家族が失われるのではないかと、怖くなってしまった……ただ、それだけなのです」
 自分のつまらない感傷が妻子との距離を作り、そして今再び失う恐怖が息子との距離を埋めた。
 皮肉なものだと笑い飛ばすことはできない。
 なぜなら、フェリキシーが今直面している先にある未来の一つの形が、そこにはあったのだから。
……どうして、それを俺に話す」
「年寄りからの、どうしようもないおせっかいです。息子が、あなたがユキハネ殿を家に送り届けたことに納得していないようでしたから」
 ムヒョウは、小さいく息を吐き出してから、初めてフェリキシーへと視線を合わせた。
「フェリキシー殿にも、相応の考えがあるのだとあの子には言いました。ただ、あなたの考えも必ずしも正解とは言えないのではないか、と思いもしたのです。私は、同じ道を選んだ末に、別の生き方を選んでいればと感じた者ですから」
 だから、ムヒョウはフェリキシーに語った。
 先をいく年長者として、後に同じ道をいく若者に何かを示唆できたら、と。
「年寄りのつまらないお節介に付き合ってくださり、ありがとうございます。明日は早いのでしょう。足を止めさせてしまい、申し訳ございません」
……別に。止めたのは俺の勝手だ。あんたに謝ってもらう理由はねえよ」
 それだけ言い残して、フェリキシーは立ち上がり、ムヒョウへと背を向けた。


 板張りの床を音を立てないように歩き、自室に戻る。
 襖を閉め、暗がりに支配された部屋に足を踏み入れてから、ようやく長く息を吐き出した。
 敷いていた布団の上にどっかりと腰を下ろすと、フェリキシーを非難するように鈍い音が響く。
 それでも、わざと音を立てていなければ、この息の詰まるような静けさに押しつぶされそうだった。
……わかってんだよ、そんなことぐらいは」
 口にした愚痴めいた言葉は、先ほどのムヒョウの話に向けてのものだ。
 自分がユキハネを実家に残し、ろくな説明もせずに立ち去った理由。ユキハネに未練を与えないためだとか、彼女に冒険者以外の生活を与えたかったからだとか、それらは結局理由の半分に過ぎない。
 「だけど、仕方ねえだろ。どの面下げて、あいつが取り戻した『普通』に混ざればいいってんだ」
 フェリキシーは、自分が今の形の生き方を選んだ経緯を、十分に自覚している。
 盗賊まがいの生活をしていた両親の下で生まれ、立つよりも先に武器の握り方を教えられた。誰かを愛しむ言葉よりも先に、誰かを罵る言葉を知った。もしあのまま生きていれば、自分は盗賊として生き、そのうち衛兵に殺されでもしていただろう。
 その人生の軌道に修正が入ったのは、両親が同族の荒くれ者たちに殺され、かろうじて生き残って奴隷のように生きていた自分を助けてくれた者がいたからだ。
……あいつがユキハネを助けてたら、もう少しマシな生き方を教えて、後腐れなく別れたんだろうな」
 そんなどうしようもない仮定がすぐに思いつくぐらいには、フェリキシーの師匠ーーフィリベールは、どうしようもないぐらいのお人よしだった。
 腕っぷしだけは一人前なのに、世間知らずなところもあり、それでも彼はどこまでも善良だった。己の内に芽生えた正義に背を向けるなという教えは、今でもフェリキシーの背を押し続けている。
 そして、ウルダハで出会った冒険者や、娼館で縁を結んだ女たち。彼らのおかげで、フェリキシーは斜に構えた心を少しばかり修正することができた。
 けれども、自分の生き方に少しばかり手を加えたところで、根っこの部分は変えられないことも承知していた。
 泥を啜り、他者を呪いながら生きてきた半生が、自分の中から消えるわけではない。今更、武器を置いて、何事もなかったような顔をして商人やら職人やらの暮らしに混ざろうという考えなど、思いつきもしない。そういうところが『自分」が『自分』である所以なのだとフェリキシーは受け止めていた。
「ユキハネ。てめえは俺ほど腐っちゃいねえ。お前の始まりは、俺よりずっとまともだ。なら、さっさとそこに戻って、お前が持つべきだった、まともな道を取り戻してこい。そこが、お前がいるべきだった場所なんだろ」
 フェリキシーの知る限り、ユキハネの人生は、イレギュラーばかりだった。
 職人の家の娘として生まれ、生涯機織りを続けて終わるだけだったはずの人生が、両親と乗った船が海賊に襲われたせいで、全てがひっくり返ってしまった。
 奴隷としてこき使われ、娼館に売り飛ばされ、やりたくもない仕事に身を削り、フェリキシーが彼女を買い取った後も冒険者として危険な日々を過ごしていた。
 どれも、機織り職人の娘には不要な道だ。だから、今ようやく、ユキハネは本来の生き方に戻れたのだ。そこに、荒くれ者が入る場所はない。あの家でユキハネの叔母が彼女を迎えた瞬間、フェリキシーはそう悟ったのだ。
 涙ながらに家族を出迎える夫妻の姿は、フェリキシーが味わったことのない普通であり、ユキハネが得るべき当たり前なのだ、と。
 冒険者として生きてきたユキハネにとって、いきなりフェリキシーから手を離され、市井の生活に送り出されるのは、それは良い気分はしないだろう。
「だが、遅かれ早かれそうしていただろう。最初は、そのつもりだったんだからよ」
 ぐだぐだと悩み続ける自分を叱咤するように呟く。
 ユキハネはこの先ずっとフェリキシーの隣に居られると思っていたのかもしれないが、フェリキシーはそのような甘い見通しは立てていなかった。
 冒険者は、明日にも死ぬかもしれない危険に身を置いている。何があっても死なないと思っていた人が、呆気なくその命に終わりを迎えることをフェリキシーは知っている。
 他ならぬ、自分の師がそうであったのだから。
 ならば、ここで手を離すことができたのは、自分にとってもユキハネにとっても最善だったはずだ。
 そう思おうとしたのに。
 ーー私は、今際の際の妻の手を取ることができなかった。
 後悔を抱えた男の声が、耳にこびりついている。
……わかっているはずだろ。そういうこともあるだろうってことぐらいは)
 伸ばした手が間に合わずに、失ってから後悔する。
 そんなありふれた悲劇は、認めたくないがこれまで何度も味わってきた。
 そして、最も大きな後悔はほんの二年前に経てきたばかりだ。
 だから、それらも全て織り込み済みで彼女をあの家に置いてきた。
 そのはずなのに、考えてしまう。
 もし、自分がクガネにユキハネを残していき、何年後か、何十年後かに、彼女が傷つくようなことがあったら。
 ――命を落とすようなことがあったら。
 自分は、この選択を後悔せずにいられるのか、と。
――くそっ」
 行き場のない衝動が、体の内側で爆ぜて、彼に拳を握らせる。衝動的に敷かれた布団の上にそれを振り下ろすも、乾いた弾力が拳を包むだけだった。
「冒険者になったままでいようが、クガネにいようが、どっちにしろ後悔するって言いてえのかよ、俺は……!」
 己の苛立ちをどれだけ熱心に観察したところで、相反する矛盾した答えが己の中にあると分かるだけだった。
 考えられる限りの仮定を積み上げ、ユキハネがたどれるだろう人生の仮定を頭の中で無数に取りあげていく。だが、どこかで何かが破綻してしまう。破綻するのはユキハネの場合もあれば、自分自身の場合でもあった。
 いっそ、ムヒョウのお節介など無視して立ち去ってしまえばよかったなどと思っても、過ぎてしまった時は戻らない。刻みつけられた躊躇は消えてくれない。
……こんなこと、いくら考えても時間の無駄だ。知らねえ土地に行くのに、寝不足で頭が回らなくて魔物に食われたんじゃ意味ねえんだぞ」
 あれこれと討論を続ける、頭の中の小賢しい自分たちに一喝する。
 ぴたり、と思考の全てが鎮まる。残ったのはクガネの虫の鳴き声だけだった。
 ーーそうだ、それでいい。
 自分は冒険者だ。ユキハネの今後については考えたい部分もあるが、彼女は今すぐどうこうなるわけでもない。
 クガネにはケイもいる。ユキハネの友人でもある彼なら、フェリキシーが戻るまで、何か事態が動いても対処するだろう。
(今の俺がするべきことは、そうじゃねえだろ)
 今日、自身が定めた『為すべきこと』は、エウレカに赴き、魔物を狩って、報酬を得ること。他のことを考えるのは、後でいい。
「まずは結果だ。そうじゃねえと、あいつの家の借金やら何やら、うるせえ雑音が多すぎる。そんな面倒な状態で、話も何もないだろ」
 自分の懊悩の全てを断ち切るように宣言してから、フェリキシーはごろりと横になった。
 瞼を閉じる刹那、昨晩の別れ際に見たはずのユキハネの顔を思い出そうとしてみる。
 だが、できなかった。
 背を向け続けた自分は、彼女の顔を焼き付ける最後の機会からすら目を逸らしていたのだと、遅まきながら気づかされる。
……戻ってからでも、遅くはねえんだ。何を焦ってやがる)
 ムヒョウが語ったお節介に心の片端をつつかれて、フェリキシーは内心で独り言つ。
 当初の予定通り、彼女を家に残していくのか。それとも、ユキハネを冒険者として再び連れ出すのか。あるいは、フェリキシーが槍を置くという選択もあるかもしれない。
 何が待ち受けていようと今度こそ、彼女の顔を覚えておこう。
 それだけを胸に、彼は漸く束の間の休息を自分に許した。