志庵
2026-05-28 21:53:39
11920文字
Public
 

Fondness【玲歩】


 玲司がピアスを開けた。

 ——のは、随分ともう、今更の話なのだが。
……あ」
 撮影の合間に移動時間として与えられた時間は、スタジオ同士が近いこともあって、徒歩で移動しても十分すぎるほどの余裕があった。せっかくなのでウィンドウショッピングでもしようかと一番の近道から少し外れ、ブランド店やブティックが多く軒を連ねる通りを選んだのは何気のない思い付きだ。
 平日の昼下がり、ブロック舗装の小洒落た通りは緩やかな時間が流れていた。街路樹は緑に茂っていて、燦然とした日差しは柔らかく、空気は初夏の気配をまといつつもまだ春の中にある。変装のためにかけた眼鏡越しでも世界は溢れる色彩に華やいで見えた。
 通り沿いに立ち並ぶ大きなガラスの向こうには今季のトレンドが客目を誘っている。
 仕事柄、わざわざ購入まではしなくとも軒先を飾る流行には自然と気を配るようになる。特にこの数年は、自ら積極的にこんなふうに足を運んだり手を伸ばしたりすることも増えた。どんなものが今世間一般に受け入れられていて、どんなものを売り出そうとしているのか。単に与えられる仕事ものを着るだけではなくて、その先にある需要や話題にまで細かく目を向けるようになったのは、そうして周りにさりげなく気遣い続ける人間がすぐ近くにいるからかもしれない。
 白いマネキンが身に纏うのは春めいたカラーのシャツやドレスだ。中には覚えのある形の服もあって、シーズンからは随分と先駆けた自分の仕事を思い出させる。半年前くらいに撮ったスチールは今頃、トレンド誌として書店に並んでいるはずだ。今日の撮影分も、また半年後——そうやって季節と流行は流れていく。もうすぐこの通りも、爽やかで涼しげな夏の装いに塗り替わるだろう。
 ただ通りを歩くだけというのも味気ないので、気になるものがあったら店の中まで覗いてみてもいいかもしれない。そんなことを思いながらぶらりと歩いていた歩の足を止めたのは、衣類ではなく宝石だった。
 腰ほどの高さの白い陳列台の上に、ドレスよりもずっと小さくて、ずっと煌びやかなジュエリーが輝いている。その、真ん中から少し右にずれたところに、台座と同じくらい真っ白なディスプレイをバックにして輝く緑が一揃い。
 エメラルドのピアスだった。
 シルバーのベースにファセットカットを施されたジュエルが輝くスタッドピアス。シンプルなデザインながらも飾られたグリーンが綺麗で、耳朶につければワンポイントとしてさりげなく目を惹きそうだ。
 背後にした街路樹の若葉よりも青々とした、豊かな碧。柔らかい色味なのに樹海のような深みがあって、自然と視線が吸い寄せられる。その色彩に自然と脳裏へ浮かんだのは、今朝にも見た玲司の顔だった。
 歩がふと隣の横顔を見上げた時、目敏くそのことに気がついて「ん?」と首を傾ける玲司の、その耳元からさらりと零れて陽に透ける髪がちょうどこんな色をしている。
 玲司がピアスを開けたのは二年前、隔年恒例の宣材写真更新のタイミングでのことだ。ファッションの幅も広がるし、と、開けたばかりの穴が閉じないようにするファーストピアスを耳元で輝かせた玲司を見た時は多少なり驚いたものの、以前から一紗のピアスを気にしていた様子だったので納得感はあった。むしろあの天羽玲司が、二十九になるまで一度も開けたことのなかった方が意外なことだったのかもしれない。体に直接穴を開けるピアスは時に役の幅を狭めることもあるし、俳優という仕事に高いプライドを抱いている玲司のことだから敢えて開けてこなかったのかもしれないが。本人に聞いたことはないから、あくまでも歩の推測だ。
 以来、その言葉通りに、玲司のファッションアレンジにワンポイントのアクセサリーが増えた。白く純粋なダイヤモンド、衣装に合わせたブラックオニキス、瞳と同じ緋色のガーネット。もっとシンプルにシルバーやゴールドだけのこともあった。耳元で何かが揺れるのはあまり好きではないのか、プライベートでつけているものの大半は余計な飾りの無いものばかりで、変形だと精々がフープタイプだろうか。その日の服や衣装に合わせて玲司が一つを選ぶ、そのチョイスを毎朝さりげなく確認するのがいつからか歩の日課となりつつあった。ちなみに今朝はシルバーフレームの、ほとんど黒と見紛う深い青のピアスだった。耳元で玲司の印象を引き締めていて、格好良かったのを覚えている。
 ここ二年で玲司の手持ちのピアスはそれなりに数を増やしたはずだが、意外なことに、まだエメラルドがメインのピアスをつけているところは見たことがない。歩を引き止めたエメラルドよりもさらに小さな粒を、そっと端に埋め込んだタイプなら何度かしていた覚えがあるが、そもそもジュエルそれ自体が主役のアクセサリーそのものをあまり持っていたイメージがなかった。
 ガラス越しに降り注ぐ陽の光を浴びて、エメラルドは緑の影を台座の上に散らしていた。きっと、玲司に良く似合うだろう。伸びてから横に流している前髪の、その隙間から玲司の動きに合わせて見え隠れする。同じ色味だけれども決して埋もれはしないだろう。
 ちょうどもうすぐ玲司の誕生日だ。プレゼントとして贈るものを選ばなければと思っていた。
 ディスプレイの下にちょこんと置かれた黒地に金字の金額は、ただのプレゼントにするには少し大きい。
 けれども年に一度しかない誕生日なら。生まれてきてくれたことに、出会ってくれたことに感謝し祝う誕生日であれば。不自然はない、はずだ。
 ——贈ったら、喜んでくれるだろうか。
 腕時計の文字盤にちらりと目を落とし、時間を確かめる。次の予定まではまだ余裕があった。店内でもう少し、他のものも見ながら悩んでみるだけの猶予はある。迷っているほどの余剰はない。
 覚悟を決めてショウウィンドウから離れ、すぐ傍らの扉に手をかける。僅かな隙間から足下にこぼれた冷たい風に、思わずすっと背が伸びた。


 *


 宴もたけなわと解散する頃には既に日付変更線を越えていた。明日もあるからという翔、悠人、ルカの三人は先に寝かせ、キッチンを片付ける岳を手伝って、共有ルームの電気を落としたのが三十分前のこと。本日——今となっては昨日だが——の主役と別れ、自室に戻った歩はまだ、明日が夕方からであるのをいいことに、シャワーすら浴びないままソファの上から動けずにいた。
 手の中には小さな箱が一つ。
 ジュエリーボックスだ。中にはピアスが入っている。
 玲司への贈り物ではない。玲司へは既に、最初にショウウィンドウ越しに見つけたエメラルドのものを誕生日パーティーが始まる前にきちんと渡していた。歩からの贈り物に嬉しそうに笑った玲司はさっそくとばかりにその場で身につけてくれた。クリスマスのプレゼントを前にした無邪気な子どものような逸る気持ちを隠しきれていない指先でリボンをほどいてピアスを取り上げた、その目のやさしさに——そしてその後、パーティーの間も耳元で輝いていた想像通りの鮮やかな碧に——これ、、でよかった、と思ったのだ。
 だから、歩の手元に今も残るこれは、ほんの小さな未練だった。
 これは玲司への贈り物として買ったものではない、と、そう言いきってしまえば少しだけ、嘘になる。
 なにせ歩の耳にピアスのための穴は開いていない。身の回りで日頃からピアスをつけている人間は玲司を除くと孝明と一紗しかいなくて、急にこんな高価な贈り物を何の理由もなくできる間柄となると全滅だ。これは正しく歩のために買った、玲司への贈り物のひとつだった。
 店内に入った歩をにこやかに出迎えた店員は、気になっているものとして歩が指さしたピアスを見るとすぐさま同じデザインのものを数種類、ベルベットのような布を敷かれたトレーの上に並べてくれた。そのチョイスに特別な意図や意味はなかっただろう。それともエメラルドがお好きですか、と聞いてくれたあの店員は歩のことに気がついてはいなかったのであろうから。
 本当は、そこで縦に首を振るべきだったのだ。けれども、一番初めに惹かれたエメラルドの隣にそっと置かれた薄色の光につい目を取られてしまった歩は、気がつけば上下すべき首を横に振っていた。もっと吟味するべきだと諫める理性は霧の向こうの木霊のように遠い響きで、結局あろうことか、二つともラッピングを頼んでしまっていたのだった。
 歩を知る人が聞いたら仰天しそうな思い切りだったと、自分でも思う。向こう見ずと言ってもいいかもしれない。相対的に見れば些細なもの、と言い張ってしまうにはいささか大きすぎる額が利用履歴に刻まれるのと引き換えにして、歩の手元には二つの小さな宝石箱が残された。
 そうまでして買ったというのに、あの時の気の大きさはどこへやら。うち一つは玲司の手につつがなく渡ったにもかかわらず、もう一つはこうして、歩の手の中で少し浮いている。ほんの爪先のようなピアスでは大した重みもなくて、両手で持っていてもなお現実味すらない。
 さて、これはどうしようか。どこかふわふわとした思考のまま考える。まだパーティーで飲んだシャンパンが残っているのかもしれない。
 世の中にはピアスをイヤリングに変えてくれるサービスもあると聞くから、そういったところに頼んで歩でも身につけられるものにしてしまおうか。一応ブランド店で買ったそれなりに値を張るものだから——なにせ、土台のシルバーもメッキではなく本物だ——下手なところに頼むよりも購入した店舗に出向いて直接相談した方がいいだろう。ああ、でも、なにせデザインまで同じだ。ならばやはり仕舞ってしまうしかないのだろうか。忘れてしまうまで。こんな浮ついた熱までいつか、きちんと冷めてしまうまで。
 ——渡せなかった。あんなにも財布を開いた手つきは迷いなかったのに。
 だってこんなの。こんな、もの。
 ぐっと握りこむと箱の角が手のひらに食い込む。瞬きの狭間にうっかりあの日、ジュエリーショップで思い浮かべたものと同じ姿を描いてしまって、慌てて首を振ることで誤魔化した。そうすればまた、思考がぼやける。未練がひとつ手の中で非現実味と重たさを増す。
 あゆむ、とまだ新しい記憶が囁く。
 ありがとう。歩が選んでくれたんだ? すっげえ嬉しい。どう、似合ってる? まあ似合わないわけないよな。ありがとう。大切にする。
 短い間にありがとうを二回も言って、ついでに自信と傲慢さと信頼を全部一気に向けてきた玲司は、白い箱に結ばれていた緑色のリボンをその指先に大切そうに引っ掛けたまま歩を見て笑っていた。喜んでくれていた。間違いなく。
 喜んでほしい、と思いながら選んだもので、大袈裟なくらいに喜ぶ姿が見たい。内容の如何も、究極的に言うならばそのもの、、が望まれていたものかどうかも問わず、ただ相手の反応に期待する。
 贈り物とはきっとそういうものだ。
 リボンをほどいて包みを開いて、その下から現れたなにかしらに輝く瞳を見たい。笑うくちびるを見たい。はしゃぐ声を聞きたい。
 喜んでほしい。幸せでいてほしい。
 誕生日という、この、良き日に。
 その欲はきっと、愛というもので、自己満足ともいうものだった。そしてその期待はもう、疑いようもなく満たされている。薄暗い廊下の片隅で。そわそわと祝いの場を待つ、その嵐の前の静けさのような暗がりで。
 満たされたはずだ。
 なのにもっと手前で——共有ルームへと向かう前、机の上に並べたふたつの箱を前にして、歩がその身勝手さに半歩竦んでしまったものだから、歩の愛情と自己満足の一欠片がこんなところに取り残されている。
 はあ、と重たく息を吐いて、歩はソファに体を沈めた。いつまでもうだうだとしていたって仕方がない。早くこれは箪笥の奥なり引き出しの端なりに入れてしまって、眠る準備がした方がいい。そう分かっているのに、酔いのせいか、体が妙に重たかった。
 こんなところで眠るわけにはいかないと瞼をこじ開けた目で、ぼう、と天井を眺め——ピンポン、と突然鳴ったインターホンに大袈裟なほどに体が跳ねた。思わず飛び起きた弾みに手の中で踊った箱を慌てて掬いなおし、目の前のローテーブルに下ろして息を吐く。そのまま見上げた時計は深夜の二時前を指していた。
 こんな時間に、誰だろう。
 訪問者も非常識な時間であることは理解しているのか、反応のない室内に再びインターホンを押すことはなく、ノックや呼びかける声すら聞こえてこない。寮の中でまさかピンポンダッシュのような低俗ないたずらをするわけもないし、急用にしては静かだ。なんだろう、と覗き込んだモニターには、数十分前に別れた姿が映っていた。
……玲司?」
 ぽつ、と零れた声はマイクが入っていたのか、ドア前の玲司がカメラに目を向けてひらりと笑う。緩いシャツにスウェット、それから肩にかかった白いタオル。見るからに部屋着だ。しかも結構、だらしない方の。
 なんで、と通話越しに尋ねるよりも足が動く方が早かった。ぱたぱたと玄関に小走りで向かってドアノブに手をかける。開いた向こうでうお、とその勢いに小さく声を上げた玲司は、ぽかんとする歩を見て「早かったな」と口角を上げた。ぱちぱちと瞬きをすればフィルム写真のようにその姿が焼き付く。
……どうしたんだ、こんな夜更けに。明日寝不足になっても知らないぞ」
「それ、お互い様だろ」
「それは……まあ、そうだな」
 ふは、と吐息のような笑みを零した玲司に歩は渋々頷いて、とりあえずとドアを開き招き入れた。こんなところで会話していて、いくら防音とはいえ他の住人たちを起こしてしまっては忍びない。腕の長さ分だけ開いたドアの隙間を、玲司は特に遠慮もなく入ってきた。お邪魔します、と潜めた挨拶だけは礼儀正しい。
「それで、本当にどうしたんだ。なにかあったのか?」
 急いで来たから明かりもつけないままだった玄関はそのままに、明るいリビングの方へと向かう。促すまでもなく先を歩いていた玲司は自室と同じ間取りの知ったる部屋の中を躊躇いなく進み、リビングに入ったところで足を止めた。振り返っていや、と首を傾ける玲司の耳は、心なし、仄かに赤い。
「シャワー浴びたあとベランダ出たら、まだ部屋の電気がついてたからさ。消し忘れて寝落ちてたらまずいし、もし起きてんならもうちょっと歩と話したいなーって思って、覗きに来た」
「あ、ああ……って髪を乾かさずに風に当たってたのか」
「ん? ああ、まあ、うん」
 どことなく浮ついた声で頷く玲司の髪は濡れている。よく見れば肩にかけられたタオルにはまだ、一部束になった毛先から時たまぽつと水滴が滴り落ちていた。この様子だとドライヤーをかけるどころか、タオルドライすらろくにしていないに違いない。
「湯冷めするだろう」
 風邪を引きたいのか、と呆れた気持ちで近寄って、白いタオルに手を伸ばす。案の定、タオルの下のTシャツまで濡れて濃く色を変えていた。白にその下の肌色が滲んでいる。
 今歩の部屋に、玲司の着替えはあっただろうか。クローゼットの中に一、二枚くらい、前に玲司が勝手に置いていった分があったはずなのだけれども。
 端の方は水気を拭った気配もなくからりと乾いたタオルを持ち上げ、両側から玲司の頭を包み込む。妙に大人しい玲司は目を瞑ってされるがままだ。洗われたばかりの、まだ混じりあわないシャンプーの香りが微かに匂い立つ。くしゃりとタオルの下で柔らかく髪が乱れて、歩の手の動きに合わせ玲司の頭もわずかに左右へと振れた。犬か子どもみたいなその様に思わず少し笑ってしまう。
 つられてわしわしと、いくらか雑な手つきでその頭をタオル越しに掻き回した歩の目を、ふと一点が引き寄せた。束になったまま一部が頬に張り付き、一部がたわんだ緑色の、その向こう。肌色の中にポツンと煌めく、髪とおなじ色をした鮮やかな碧。
「これ……
 歩が玲司へと贈った方のピアスだった。澄んだエメラルドの、若葉を思わせる翠。それがまだしっとりとした耳朶の上で、きらきらと光を含んでいる。
 エメラルドはそんなに頑丈な鉱物ではない。勿論多少の引っ掻かれる程度で容易く傷がつくようなものではないが、所謂四大貴石の中では最も硬度が低く、繊細な扱いを求められる。いくらあまり大きさのない、ピアスに相応しい程度の小粒なものとはいえ、玲司はそれを雑に扱ったりするような人間じゃない。シャワーを浴びる時には一度、きちんと外しただろう。
 わざわざつけなおしたのか。はた、と動きを止めた歩に玲司は薄目を開いて、その視線を辿るとああ、とまた目を閉じる。くちびるで細く弧を描いて、優しい夢を見るように。
「なんか、うまく寝付けそうになくてさ。元々もうちょっと起きてるつもりだったし、また寝る前に外せばいいかと思って」
 もっかいつけた、と、ふわふわとした答えは明らかに浮かれている。その声音に心の底が、むずりと落ち着かなくなった。手の中の水を含んだタオルが冷たい。ピアスを付けなおすことよりも先にやることがあっただろうに。
 心臓が浮き上がるようで、抑え込むみたいに手の力を強くする。がしがしと少し乱暴に掻き乱せば「ちょ、いたむだろ」と笑い混じりの詰りが飛んできた。知るものか。これくらい、玲司の使っているいいシャンプーとコンディショナーなら数日も要らずに補修できる。
 ただ、頬の近くの毛先だけはそっと抑えた。せっかくの輝きを、傷つけてしまわないように。
 白いタオルと翠の髪の狭間からちろりと赤い瞳が覗く。こちらの反応を見透かして愉しむ、蛇か狐のような悪辣な目だ。ふい、と顔を背けた歩はぐしゃぐしゃになった頭からタオルを取り払う。
「ほら。着替えを取ってくるから、あとは自分でやれ」
「おー。サンキュな、歩」
 散々な髪型を指先で整えながら喉を震わせる玲司に歩はため息をついて、ひとまず濡れたタオルを置きに洗面所へ向かった。
 一応乾いた新しいタオルを代わりに取り、寝室で思った通りの位置に残されていた玲司のTシャツも回収してリビングに戻ると、玲司はカウンターの近くで手持ち無沙汰にしていた。歩を見ると立ち上がる落ち着かない姿に笑ってタオルと着替えを手渡してやる。玲司は手早く着替えを済ませ、まだ少しだけ湿り気の残る髪からシャツを守るようにふわふわのタオルを肩にかけた。
「ところでさ、歩?」
「うん?」
「さっきから気になってたんだけど……テーブルの上のアレ、何?」
……あ」
 玲司が自分の斜め後ろを見るように首を回して言う。アレ。そんな風に呼ばれるような異物、、はひとつしかない。
 位置が悪かった。歩よりもローテーブルの近くにいた玲司の指先が止める間もなくケースを拾い上げた。まるで歩が隠そうとするのを分かっていたかのような、鮮やかで敏速な手口だった。咄嗟に伸ばした手も虚しく攫われた小さな箱は紅い瞳の前へ無防備に連れ出されて、今更隠すこともできない。
 青いリボンで丁寧にラッピングされた白い小さなジュエリーケース。分かりやすいようにしておきますね、と完全な善意で変えてくれたリボンの色こそ違っているものの、箱のサイズも、素材も、デザインも、つい数時間前にあの手の中に在ったものと全く同じだ。誤魔化しようがなかった。「ピアス?」と形こそ疑問の体を成した言葉が、視線と一緒に歩の方へ向く。聞くまでもない。
…………ああ」
「なんでンな渋い顔してるんだよ」
 ぐう、と苦いものを呑み込みながら顎を引くと、玲司は困ったような顔で苦笑する。ならば手放して見なかったことにしてくれと思うが、そんなに聞き分けがいい男なら今頃二人の関係はもっと違ったものになっていただろう。
 無理矢理取り戻すことももはやできないので、歩はよろりと疲れた足取りで近づいたソファに腰を下ろした。クッションが歩の体を受け止め、甘やかす。ここでついさっきまで散々悩んでいた苦悩も苦労ももう水の泡だ。こんなことなら、こんな形で暴かれるくらいなら、とっとと仕舞っておけばよかった。そう悔やんでも後の祭りでしかない。
 俯いた視界の中にぺたりと玲司の裸足の指先が入り込む。のろのろと顔を上げると、手にした箱を手放しそうもない玲司が歩を見下ろしていた。照明を背景にしていることを除いても、玲司の浮かべる表情がいまいちよく分からない。愉しそうとも違う、困っているようでも、怒っているようでもない。喜んでいる、感じでもない。
「開けても?」
 尋ねる声は、わざとらしいくらいに抑揚がなかった。
 本当はダメだと言いたい。その目に触れさせるほどの勇気がなかったから、あの箱はまだ歩の手元にあるのだ。けれども今更、拒否をするのも悪足搔きがすぎて、歩はほとんど投げやりに頷いた。どうせダメと言ったところで、聞き入れやしないくせに。
 青いリボンを指先が引く。本日二回目だ。手つきの優しさだけは一回目とさほど変わらない。元より解かれるためのものは、そんなに力を込めずとも呆気なくその封を開いてしまう。
——へえ」
 箱の中を覗き込んだ玲司は、一目ですべてを理解したようだった。含みのある声にいよいよやけくそな気持ちになって歩は空を仰ぐように背を背もたれに預ける。目を閉じれば白い暗闇が玲司の姿を遮った。
 玲司がどんな顔をしているか、今の声だけでも大体想像がつく。もとより、困らせるとか怒らせるとか、そんなふうに思っていたわけでもない。一度は本気で贈ろうとしたものだ。それを躊躇って結局やめてしまった理由まで、玲司には察されてしまっただろう。
 まあ、分かるだろうな。
 これで分からなかったら、よっぽど鈍感か、無神経な人間だ。
 そして歩の知っている天羽玲司という男は腹立たしいほどにそのどちらでもなかった。
 白い箱の中にそっと輝く宝石の色は、嘆くように閉ざしたこの瞳と同じ色をしている。——その色を耳元に飾ることの意味を、分からないような人間じゃない。
 ひたりと足音がする。白い闇を映す目蓋の裏に影がさして、覗き込まれているのだと分かった。ほど近いところから声が降る。
……迷って、やめたんだろ」
 声は言葉少なに、過程を飛ばして、つい数時間前の歩の躊躇を容赦なくつついてきた。ぐぅ、と喉の奥が鳴って、肩身がいっそう狭くなる。うん、ともああ、とも言えずただもう一度頷くしかない。いっそにやついてくれでもしたらせいせいするのに、玲司の声は息を潜めるほど真剣な音をしていた。観念して、歩はそろそろと陰から顔を出すように瞼を開く。
 そうして見上げた玲司の瞳は優しくて——どうしようもなく、愛おしいものを見る目をしていた。
 野苺をたっぷりの砂糖とともにじっくり煮詰めたような赤い目が、その縁すらも微かに染めて嫋やかに弛む。本当に、心底から嬉しそうに。
 だってこれは、歩の独占欲だ。他の何物でもない。玲司が何を欲しがっているのかも、何であれば喜ぶのかも究極的には放り投げて、ただその耳朶に飾りたいからと選んだもの。——翠色をした髪の隙間から、自分の色アクアマリンを覗かせたいだなんて、独占欲以外に何がある。
 喜んでくれると分かっていた。玲司のことだ。歩が独占欲を向けたこと、そのことだけでも喜びそうな、趣味はいいくせに奇特な趣味もある男である。喜ばないわけがない。下手をしたら、自分の色エメラルド以上に。
 でも。
「まあ、確かに、下手なところではつけらんないかもな」
 甘い声音とは裏腹に至極冷静で真っ当なことを言った玲司は屈んでいた身を起こす。仕方ない、というように眉を下げてそのままちらりと手元に目を落とし、その色と見比べるようにまた歩をあかは見やった。
 下手なところではつけられない。——玲司の言うことは正しい。今玲司が耳に飾っているエメラルドをイヤリングに作り替えたって、歩が素直には身につけられないように。
 手のひらに青いサテンを掛けたまま、その指先が伸びてくる。右の耳に触れて、親指と人差し指の先に耳殻がつ、と挟まれた。そのまま軟らかい骨を辿って、下へ。いっとう柔らかなところへ。ゆるりと傾いた首に合わせ、微かに色濃いままの髪が流れる。
「それとも歩も、ピアス開ける?」
「いや、俺は……
「ま、だよな」
 ふに、と耳たぶを軽くつまむ玲司の指にそこを貫く針を想像して軽く竦めば、玲司はすぐにぱっと手を離した。けれどもすぐさまその手は歩の頬を包んで、目元を親指の先で撫ぜる。もはや条件反射のようなもので、優しい手つきと手のひらの温もりにわずかに強張っていた体から力が抜けると、こちらを見下ろす玲司の瞳がゆるりと細まった。頬の上を擽るようにして手を引っ込めた玲司はそのままローテーブルを軽く押し退け、歩の目の前にしゃがみこむ。
 そうして、柔らかいままの眼差しに膝の向こうから覗き込まれた。思わず顎を引いて見つめ返せば、穏やかに瞬いた玲司がそっとまた手中の箱にその瞳を向ける。節ばった大きな手のひらの中ではピアスを収めた箱はとてもちっぽけで、そのくせその白さを少しも無視できない。
 真ん中に一揃いの雫を包んだ箱のふちを指先がなぞる、その手つきに喉が詰まった。大切そうで、愛おしそうで——あんな指先でつい先にも歩に触れていたのだと、肌ではなく目で、分からされる。
「つけていい?」
 どこかざらついたささやき声に尋ねられ、歩はぎこちない仕草で頷いた。わざとだろう玲司はふ、と笑って、一度その手の箱を自身の膝の上に下ろす。
 そのままその指先は右耳——歩から見ると左側の耳にかかる髪を掬って、耳朶に光るエメラルドを晒した。わずかに首を傾け、ついほんの数時間前——シャワーの間外されていたことも考えると、数十分前——に手ずから嵌められたばかりの輝きを指先がつまんで外し取る。
 あゆむ、と呼ばれて咄嗟に手のひらを差し出すと、その上にころんと外されたばかりの翠が載せられた。片耳分しかないそれは箱以上にずっと重みがない。目を離したらふっとどこかに転がっていってしまいそうで、あわあわと手をお椀型にして包み込む。
 そうこうする間にも玲司は箱の中から水のような青をひとつ攫って、ぽっかり空いた穴へと嵌め込んでいた。歩、ともう一度、名前を呼ばれる。目を上げる。赫とかちあう。蒼が煌めく。
「似合うだろ」
 自信に満ちた響きだった。誇らしげで、躊躇いひとつない。
 傲慢だ。歩の色が、自分に似合わないわけがないんだなんて——腹が立つくらいに、似合っている。
 エメラルドでは髪の枝垂れの向こうに埋もれてしまっていたピアスが、今は控えめに、けれどもはっきりと、玲司の耳元で人の目を惹いていた。
 思わず空の片手を伸ばすと玲司の方からもその手に頬を寄せてくる。人差し指の指先に硬い石の感触。中指も使って耳朶を挟み込めば、裏側の尖ったポストがちくりと指の脇腹を刺した。構わず親指で銀に触れる。海の雫へと触れる。
 玲司がそっと、目を閉じる。
「嬉しいよ、俺は」
 すっげえ、嬉しい。二の足を踏んだ歩ごと抱きしめるようにそう言って、玲司は歩の手を上から包み込んだ。親指の付け根の辺りに軽く重みがかかる。挟んだ指先から力が抜け、弛緩するその手を持ち上げた玲司のくちびるがそっと親指の付け根に触れた。
 二人の手から離れたピアスがきらきらと、水のように室内灯の光を含んでいる。引き寄せられるように顔を寄せて、宝石の上から静かに口付けた。温かくも冷たくもない、固くて柔らかい感触がくちびるに触れてすぐに、離れる。耳元で玲司の、声がする。ちょっと笑った、冗談混じりの悪戯っぽい声。
「いっそ片耳ずつイヤリングにするとか?」
「その方がまずいだろう」
 自らさらに余計な勘ぐりを招いてどうする。ふ、と思わず笑った歩は身を引くと、「いい」と首を横に振った。
「それは玲司に贈ったんだから」
 喜んでくれたのなら、それでいい。限られた時にしかつけられなくても、例えば歩の前でしか飾られなくても、それでももう構わない。
 玲司は歩の答えににやりと笑って細い手首を掴む。浮いた骨の上を人差し指が甘く引っ掻き、ぞわりと粟立った。
「それじゃあ今度、何かアクセサリーを見繕いに行こうぜ。歩でもつけられる、ネックレスとかブレスレットとか。……エメラルドがついたやつ」
「それは……
「そんで一緒の仕事の時につけてたら、お互い揃えてきたってことで程々にはぐらかせるだろ」
 そうだろうか。そうなのかもしれない。分からないけれど、玲司がそういうのならそれでいいと思った。
 歩からも玲司の手首に触れて、もう一度軽く身をかがめる。そろそろ玲司の足が痺れてしまいそうだから、立たせた方がいいだろう。こんな狭苦しいところじゃなくて、歩も上から覗き込むより隣にいてほしい。——でも、その前に。
「生まれてきてくれて、ありがとう。……お誕生日、おめでとう、玲司」
 たった五文字の言葉に文字数以上の想いを込めて、舌先に乗せる。
 おめでとう、いとおしいひと。
 耳元で二色を煌めかせ、玲司はくしゃりと凛々しさを崩して笑った。