パチン、パチン。という音が一定のリズムでリビングに響いている。その音を聞くたびに半助はいつもソワソワするようになってしまった。半助がいるリビングにはその音だけで構成されているはずもなく、周りの人に配慮して夕方よりもすこそ音量を落としているテレビの音、規則正しく正確に時刻を刻み続ける時計の針が動く音、床に敷かれているラグマットに載せている足を滑らせる音、そして外から聞こえる田んぼに生息しているであろう蛙の鳴く声や電柱に止まって鳴いている鳥…生物たちの声と、電車や車、そして自転車などの機械が動いている音など様々な音が半助の周りには溢れ漂っているというのに半助の耳は一つの音しか拾っていなかった。
その音の正体というのは半助が座っているソファーの前でラグマットに座って机に向かいながら、伸びた爪を切っている乱太郎の爪切りを使っている音だけだった。他にも聞こえる音は数多くあるにも関わらず何故半助の耳はそれだけしか聞いていなかった。その音が鳴る度に半助の胸の中はギュッと縮まり、一気に心拍数が上がり、さらに自分の顔の体温が上がるのを感じてしまう。
だからあまりその音を聞き続けたくはないのに、そんな気持ちに反して身体は半助の意思とは関係なくその音を聞き続けたいらしく、脳内に情報として送り込み続けているからである。その音だけしか聞いていないわけでは無いというのに、何故ここまでその音を敏感に拾ってしまうのか。それは単純明快な話であり、乱太郎の伸びた爪が綺麗に整えられるということは、これから始まる夜のお誘いの合図だということを半助は知っているからである。
いつからか乱太郎は爪を切るたびに毎回半助のところにやってきて爪がちゃんと整えられているかを見せに来る。こうなったのはきっと半助の背中にはいった夥しいほどの赤い線を見て、乱太郎が痛そう。なんて言いながら泣きそうな表情で呟いたことがきっかけだろう。
それを聞いた半助が大したことじゃないよ、なんて乱太郎に笑いかけて乱太郎の頭を優しく撫でるが、それに納得してくれない乱太郎は不満そうに頬を膨らませて半助をジーッと見つめ続ける。
きっと、乱太郎は半助の背中に傷をつけてしまったことに対して申し訳なさを感じているのだろうが半助からしてみれば傷なんて大体数日経てば消えるもので全然痛くないし、それよりも乱太郎のほうが負担が多いから気にしなくていいのに。と思うものの乱太郎の性格からして、きっと彼は、半助を傷つけたくないためになにか対策をしてくるだろうから、半助は乱太郎のしたいようにさせようと任せることにしたのである。
まあしかし、半助も始めは少しだけ抵抗していた。それは勿論、半助の背中に爪痕を残すことは乱太郎に激しく求められてしまったという証拠だからである。乱太郎の激しい感情が籠った証が自分の背中の肌に跡を残すことに半助は密かに嬉しさを感じていたのだ。
だって、これは半助にとって乱太郎が自分を求めたことによって付けられた傷だからである。自分だけが唯一この傷を乱太郎からつけてもらえる人間であるという優越感は凄まじく、半助にしか味わえないものだし、他の誰にもこの悦楽を感じることは出来ない。
それを感じることが出来るのは世界中を探しても自分だけなのだという事実だけで半助は多幸感が溢れて、どうしようもなくなってしまいそうになるほど愛おしく思えてくる。だからこそ、その唯一の証を乱太郎から与えてもらいたい半助としては少し不満であったが、乱太郎がどうしても嫌なのであれば仕方がない。そう思って乱太郎のするように任せたのだ。
そして乱太郎に任せた結果、こうして毎回整えられた爪を半助のもとに来て、見せに来るようになってしまったのである。この行為が始まった時、半助はなんで乱太郎がわざわざ爪を整え終わった後、半助に見せに来たのか意味が分からなかった。
最初は単純に爪が綺麗に切れたよー。と報告したいだけだったのではないかと半助は考えていたが、どうやらそれだけではなかったと気づくのは、そのあとに必ず乱太郎からそういう意味での誘いを受けると気付いてからであった。だから、こうして乱太郎が自分の目の前で爪切りをするたびに半助は期待してしまうようになった。
また今回も、爪切りが終わったら、自分と過ごす夜の時間を乱太郎が求めてくれるのではないだろうか?と期待しないようにするには無理がある。
今でも半助は爪を切るその音を聞いているだけで、脳内ではこれから先の未来、つまり二人で夜を一緒に過ごす時間のことばかり考えてしまい、身体が火照って熱くなってしまっている。
(あぁ、終わってほしいようで終わってほしくない…。)
だからこそ半助は早く終われと思いながらも同時に終わらないでとも思いながら矛盾した気持ちのまま乱太郎の綺麗な爪が整えられていくのを見守る。
乱太郎が爪を切る時間は半助にとって理性との戦いのようなものだ。獲物が前にいるのに食べさせて貰えなくて涎を垂らし続ける獣ように乱太郎を求めてしまう自分が暴走しそうなのを抑える為に必死に理性を総動員させる。気を抜いてしまったら、手折ってしまいそうになる気持ちを抑えているというのに、乱太郎は容赦なく爪を切るその音を半助へと送り続けた。
「……ふぅ。」
全ての爪をやすりで整え終わり、深呼吸をした後、乱太郎は持っていた爪切りを机の上に置き、自分の手を机の上で開いては閉じたりと色々動かして爪の具合を確認した後に立ち上がると半助の方へと向かって歩き出した。よっこいしょ。と声を出して、足取りはどこか重たく見えつつも乱太郎が歩く姿を見ていた半助はドキッとするような気分になる。
ゆっくりとだが着実にこちらに近づいてくる乱太郎を前に半助は何を言えばいいのか分からないまま黙り込んでしまう。そして、そのままソファーに腰掛けている半助の隣までやってきた乱太郎は自然な流れで隣に座ると半助の瞳を覗き込むように顔を近づけてきたので半助の心臓は一際大きく脈打つ。
「半助さん。」
「…っ!」
それを感じ取ったのか、それとも偶然なのか、乱太郎はクスッと微笑むとゆっくりとした動作で自分の指先を半助の眼前に差し出して、半助の視界は乱太郎の手と、手入れされた綺麗な指先を映すのみとなった。
丁寧に整えられた白い爪先がバッ。と半助の眼前に突き出される。その光景は美しくも妖艶で扇状的だった。半助はゴクリ。と喉を鳴らす。今すぐにでも飛びつきたいという欲求をぐっと堪えて冷静さを保ちつつ、視界いっぱいに広がる乱太郎の綺麗な手をじっくりと見つめる。
半助の熱烈な視線を受けてか、乱太郎はさらに口角を上げて微笑んだ後、そっと半助の耳元に口を寄せると、息がかかる距離まで顔を近づけて小声で囁くようにふぅ。と息を吐いた。
その吐息が耳に触れるか触れなそれはまるで甘い毒のように全身に巡っていくようで、思考回路はどんどん麻痺していくばかりである。半助が何も言えずに固まっていると、乱太郎は悪戯っぽい笑みを浮かべながら手を持ち上げて、半助の唇に触れるかどうかの所でぴたりと止めると、半助に問いかけた。
「…半助さん。私の爪どうですか?」
ね、綺麗?という言葉が耳に入ってきた瞬間、カァァッと頬が熱くなるのが分かった。自分の反応が面白かったのか、それとも別の理由があるのかはわからないけれど、クスクスと楽しげに笑う乱太郎は本当に可愛らしいと思うと同時に憎たらしさも感じてしまう。
何故なら、これもまた乱太郎からの誘い文句だと理解してしまったからである。普段、積極的に行動することが少ない乱太郎が珍しく誘ってきた時はいつもこうだ。決まって可愛らしく問いかけてくる。それがなんともいじらしく愛おしく思えてしまうのも、惚れた弱みというものなのかもしれない。半助は少し悔しそうな表情をしながらも渋々といった様子で返事をすることにしたのだった。
「…うん、乱太郎の爪は今日も綺麗だよ。」
そしてそのまま整えられた綺麗な爪先にキスをする半助。その言葉を聞いて満足げな笑みを浮かべた乱太郎はゆっくりと半助の顔に近づき、唇を重ね合わせた。触れ合うだけの軽いものだったけれど、それでも十分すぎるほど幸せな気持ちになれる。そして、名残惜しそうに離れていった後、再び目を合わせて微笑んでくれる彼の姿を見て改めて思うのだ。ああ、好きだなぁって。
「…半助さん?」
「なんでもないよ、じゃあ、行こうか。」
「…ふふ、はい。」
もう何度目かも分からないくらい繰り返しているのに未だに慣れない自分がいることに可笑しくなる一方で、これから訪れるであろう快楽への期待感に胸が高鳴る。これから長い甘い夜が訪れることを容易に想像できる半助はこの幸せを噛み締めながら、静かにソファーから立ち上がり、そっと乱太郎の綺麗に整えられた手を取って寝室へと誘導するのであった。
了
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