タテハ
2026-05-28 16:30:56
36425文字
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pokepasta 愛の結晶

赤い髪の少年と、「愛情」についてのお話。



人々の夢、世界一周の旅へと誘う、豪華客船サント・アンヌ号。
ジョウトとカントーを繋ぐ、高速船アクア号。
そして、そんな船たちが訪れるクチバシティの港には、とある噂があった。



ジョウト出身の、若く、しかしその強さで恐れられていたポケモントレーナー、シルバーは晩方そこを訪れていた。
港に船の影はない。広い海でただ一体浮かぶポケモンと、その背の上に立っている彼の姿さえも夜の底なしの闇の中にほとんど溶けて消えている。
空と海に映る星々の中、一際目立つ真っ赤な髪だけが、炎のようにゆらめいていた。


彼がここへ来たのは噂を確かめるためだ。
クチバの港に、船のない夜中にだけ現れるという謎の影。
未だ誰も見ぬポケモンか、はたまた悪事を働く人間か?
正体を知るものはおらず、噂が広まるにつれ憶測だけが成長していった。
いずれにせよ、シルバーは自身の目でそれを確かめずにはいられなかった。


きっとまた、ロケット団が悪さでもしてるに違いない。」
静かで果てのない海の上、誰に向けてでもなく、ポツリと言葉をこぼす。その低められた声の主の表情は険しかった。
シルバーとロケット団には因縁がある。組織は崩壊したものの、未だに残党がそこかしこで群れては乱暴を働いている。そんな身の程知らずの小悪党共の住処に、シルバーは毎度単騎で突入しては再起不能なまでに一掃してきたのだ。その経験もあってか、彼は隠れ潜む者の気配には人一倍鋭かった。

星と月明かりに照らされてきらめく波のほかに、海の上を浮かぶ物はいくら探しても、ない。だとすれば、“それ”は陸地、港の船着き場にいるのだろうか?
暖かな民家の光たちの灯る街の方に目をやる。すると、堤防に海沿いから水面を照らす、人工の光のような物があった。

見つけた。
しかし遠い。ちょうど今奴らが隠れて何かを企みでもしているのだとすれば、気付かれた瞬間こちらが追い付く前に逃げられてしまうだろう。
シルバーがポケモンに命令を下すと、そいつは黙ってゆっくりと迂回しながら、港に向かって加速していく。夜の冷え固まった空気に彼の赤く長い髪がなびいた。
波の立つ音とポケモンが水面を掻く音に紛れて、モーターの駆動音が遠くで鳴っていた。


堤防に着くと、シルバーは水飛沫一つ上げないようにゆっくりと、大股で海の上から陸へと渡る。
振り返ると、彼のポケモンと目が合う。水面から目と背中だけ出して浮かんでいるそいつはすぐさまボールに収まった。
無音で歩くのはもはや彼にとって癖として染み付いている。海が反射する月光に照らし出されないよう、シルバーは姿勢を低くして狭いコンクリートの道の上を駆け抜けた。

怪しい光の出元には大きな影がある。四角いシルエットで、高さは人より少し大きいくらいだ。
周囲に人の動きがないことを確認し、忍び寄ると同時にシルバーは奇妙な感覚を覚えた。
謎の影の正体は青い小型のトラックで、先程の光はそのヘッドライトだったことが近くからだとよく分かった。
身を乗り出して荷台の中を覗き込むと、その感覚はフラッシュのように鮮明になった。
それは、今まで海の気配にかき消されていた、まばらに鳴り響く濡れた物がぶつかる音と、生臭い匂い。

やや古びてあちこちが錆びついたトラックの荷台には、魚やら貝やらがかかった網と、それを引く機械が積まれていた。
大半がコイキングだが、いくつもの種類が見境なくかき集められているようだ。
捕まって間もないらしく、力いっぱいビチビチと跳ねては、さらに網とヒレが絡み合っていく。
乱獲、というには幾分数が少なく思えるが、奴らの組織がダメージを受けたことでその活動も規模が縮小したのか。とにかく、ポケモンを集めて何かをしでかそうとしているのなら、探る理由は十分だ。

(こいつらを逃がしてやってもいいが犯人はどこにいる?)
これほどあからさまなトラックを、隙だらけで残していく犯人などいないだろう。しかし、シルバーがここへ接近するまでの間、何かが隠れるような物音は一切していない。
(この堤防は海に囲まれてる物陰があるとするなら?)

シルバーはトラックの側面に手を置き、周囲を見渡す。するとその時、突然車体が震え出し、エンジンのかかる音が鳴った。
(最初から車の中にいたのか!)
彼が周囲を嗅ぎ回っていても慌てて逃げようとする素振りはなかった。ならば、おそらく相手は彼の存在に気付いていない。むしろこれは好都合かもしれなかった。
この密漁者が魚達を捕まえた後に行くであろう場所など決まっている。アジトへ持ち帰るか、売り捌くための保管庫のようなものがあるだろう。そこにはより多くの構成員がいるはず。奴らの邪魔をするのなら、その場所の方がきっと与えるダメージは大きい。

「ちょうどいい奴らの泡を吹かされる顔が楽しみだ。」
そう呟く彼の手で覆われた口元は、その両端が無意識の内に吊り上がっていた。


シルバーは暴れる魚で一杯のそこに飛び込むことに一瞬ためらいを感じたが、諦めたように深い溜め息をひとつつくと、荷台の僅かな隙間に入り込んで、息を潜めた。
跳ねる魚の立てるしぶきが彼の服に水玉模様を散りばめていく。日頃ポケモンの波乗りで水浸しになることに比べれば大したことではないものの、これからの夜の冷え込みを考えれば後の悩みの種となる可能性はある。何より濡れて肌に張り付く服の感覚は、彼にとってあまり気持ちのいいものとは言えなかった。

やがて床が前後に大きく揺れ、頭を打ちそうになって思わず手をついたところでトラックは走り出した。
街へバックするかと思いきや、堤防から陸へそのまま直進し、そのまま舗装もされていない斜面へと乗り上げ、夜空より暗い夜の森の中へと突き進んでいく。
今度は荷台からこぼれ落ちてしまいそうなほど激しく揺さぶられ、胸ぐらを掴まれ振り回されるような感覚だ。
側面に縋るように掴まって周囲を見ると、細長い木々のシルエットが目の前を次々通り過ぎていく。
車のヘッドライトだけが夜の闇を照らしているが、シルバーの今居る位置からでは前方はよく見えない。
道路どころか道標さえない、草が覆っているだけの凸凹した地面をトラックは正気とは思えないスピードで、しかし慣れたようなハンドル捌きで駆け抜ける。当然、人目を避けて魚を乱獲し、そのまま黙って逃げるような人間が、わざわざ法定速度なんて守るはずもないだろう。彼は内心納得した。

眠りにつき、静まりかえった森の空気を切り裂く風の音に紛れて、全く異質の音がする。
それは運転席から響く鼻歌だった。闇に溶けていくような、穏やかで温もりを感じさせるようなメロディに、不意にシルバーの心は惹きつけられていた。
遠い昔、どこかで、その旋律に満たされた空気の感触を彼は覚えている。

シルバーの目は遠くを見つめていた。不思議と心が安らぎ、悪酔いしそうなほどの揺れに今や身を任せ始めている。
トラックのスピードに置き去りにされてその場に残った振動を耳が拾うにつれ、鋭敏になる聴覚とは裏腹にシルバーの視界に黒が溶けていく。やがて平坦だったはずの世界が傾いていく。力の抜けた腕が車体の側面に垂れ下がり、指先は鉄のように動かずただ揺れる。劇の幕を閉じるように深い赤が降りてきて――

車体が跳ねるように傾き、無意識の海に沈みかけていた彼はハッとして顔を上げた。重力で血が溜まり痺れた腕で、石でも詰められたかのように重い頭を持ち上げる。歌は気付けば止んでいて、急な覚醒で熱くなった頭を冷やす鋭い風の声と段差に乗り上げた車体のきしむ音、それ以外は彼の周りから一切が消え去っていた。
(俺は今、何を……?)
不覚だった。夜中の行動には慣れている、そのはずだったのに。
薄い荷台の壁に肘をつき、頭を支えながら少年は一人心の中で悪態をつく。
どこか奇妙な気配を覚え見回すと、あれほど暴れていた魚達が今はピクリともせず黙り込んでいることに気がついた。陸で息ができず力尽きた、と考えてもこの短時間で一斉に死ぬのはいささか不自然だ。
常に揺れている車上でははっきりと確認できないが、魚を巻き込んで盛り上がった網の模様が所々上下したり波打ったりしている。まるで大きな生き物がそばで寝息を立てているようだった。
(死んだんじゃなく、眠ったのか?それも一斉になぜだ?)
渦を巻くような森のざわめきが自分の心まで響くようで、シルバーはポケットの中で握っていたモンスターボールを取り出して、祈るような姿勢で額に当てた。中身が氷タイプのポケモンだからといってそれに効果があるのかは分からないが、頭の中の重い車酔いの感覚が岩のようにのしかかるのが少し和らぐように感じられた。
頭の中の眠気と揺られてぼやけるような霧を絞り出すように欠伸が出る。状況を整理しようと思案を巡らす中で、一瞬あのくぐもった鼻歌の音色が思考の中をかすめていった。

揺れが落ち着き、それでもまだ車は蛇行を続けるので彼の気分は内臓が口から零れ落ちそうなほどに最悪だった。何度進む方向を変えても景色が変わったように見えないので、来た方角を探すことをとうとう諦めた。そして、それならむしろ運転席を覗き見てやろうと思い立ち、荷台の前側についた窓に手をついた。中にはハンドルを握る男が一人、他に目立つ物はない。
暗い中で、男の服装に目を凝らす。ロケット団のあの特徴的な、黒地にでかでかと赤いアルファベットのR一文字のユニフォーム――ではなかった。

ヘッドライトにさらされて目に入ったのは、帽子のない頭の茶色い髪と、ベージュの暖かそうなセーターベスト。やや骨ばった背恰好を見るに中年ほどの年齢だろうか。
そんな、自身とは一切縁のない一般人としか思えない見知らぬ男の背中に、シルバーは一瞬、父の気配を感じたような気がした。

そんなはずない。シルバーは舌打ちしたくなるのをすんでで抑えて首を振った。
こいつが誰だか知らないが、親父になんてちっとも似てやしない。シルエットも、格好も、ましてやロケット団員ですらないのに――

言いようのない悔しさに襲われ、シルバーは気づけば歯を食いしばっていた。隙間から漏れる息が空気を引っ掻くような音を立てる。
俯くシルバーをよそにトラックは急な下り坂に差し掛かり、大きく傾いた。
ベルトも網も、自身を固定する物がなかったシルバーの体は一瞬浮いて、反応する暇もなく胴体が運転席の背後に叩きつけられる。
魚のぶつかった音、と言い張るには大きすぎる音のおかげで激しい痛みから上がったうめき声はごまかされたが、いずれにせよ運転手に不審に思われたかもしれない。
横向きに倒れた体はそのままに、未だ痺れる背中を丸めて運転手の様子を窺う。とはいっても、身を隠しながらでは耳を澄ますくらいしかできないが

反応はない。
木に衝突した音か何かだと思われたのか、衝撃も届いたはずのその席から驚いた様子さえ感じられない。
それどころか、坂道を下り終え、再び運転が穏やかになりだした辺りから、男は独り言さえ呟き始めていた。

ああ、今日は遅くなりそうだ。これでも急いでるんだがなあ。
  ……分かってる。もうそろそろだから、あと少し待っていてくれ。」
独り言にしては妙に口数が多い。それに、妙な「間」がある。
シルバーはその違和感を確かめずにはいられず、再び男の背後から暗闇に十分慣れた目でその姿を見た。

助手席は空。両手はハンドルに。耳に通信機の類は見られず、男以外の声はしない。
(やっぱり独り言だったのか?)
勘が鈍ったのかもしれない、どうにも今日は調子が悪いと小さく溜め息をつく。その時、男の口が再び開いた。

「早くおまえの料理が食べたいよ。」
フロントミラーに映る男の顔は穏やかで、口元に微笑みを浮かべていた。


トラックのスピードが落ちる。周囲の木の数が減り、月明かりが暗闇を深い緑に照らす。
一瞬夜空が裂けたのかと疑うような、星をも飲み込む巨大な暗黒が姿を現した。
そこには木造の大きな屋敷がそびえ立っていた。古びてはいるが目立った損傷はなく、辺り一帯の雑草も人の手で刈られているようだった。
しかし中に人が住んでいるかまでは判断できなかった。窓が無かったからだ。
明かりの一切点いていないその建造物の影に入ると、辺りは完全な闇となる。月の光も当たらない闇の中は冷たく、まるで宇宙の果てに来てしまったかのような孤独感が静かに漂っている。
そして彼もまた、車とともにその中へと飲み込まれていくのだった。

シルバーは徐々に接近しその影を広げる屋敷を睨み付けながら、考えていた。
この中で一体何が行われているんだ?
一体これから何が起きるんだ?
この密猟者、トラックの持ち主は服装からしておそらくロケット団ではない。(変装している可能性も有りはするが、あれほど大胆な奴らが今更隠すような何かがあるだろうか?)
しかし、やはり後ろめたい事情があるのは確かだ。こんな人の立ち入らない森の奥深くの、中を見せたくないという意図がはっきりと見て取れる建物に用があるのだから。

彼は別に正義感に満ちた人間というわけではなかった。むしろ目的のためなら手段を選ばず、綺麗事を嫌うようなタイプだ。
しかし一度踏み入ってしまったからには、真相を確かめもしないまま、大人しく引き返すわけにもいかなかった。それは戦い、そして強さを求める者としてのプライドであり、また一度狙った獲物は逃さないという彼の野性的な本能でもあった。


車庫も存在しないほど人の出入りが少ないのか、トラックは屋敷の前で停止する。
すぐさまシルバーは荷台から飛び降り、トラックと地面の間へと潜り込んだ。タイヤが潰れていて想像より高さが低かったため入るのに少々手こずったが、運転手が車のドアを開ける頃にはなんとか靴が脱げかけつつも、足の先まで車体の下に収まった。
隙間に潜るというよりもはや挟まるような状態で様子を伺う。頭を横に向けるだけでも機械油や泥で汚れた車体の匂いと、体を板状にされてしまいそうな2トンのボディからのしかかる重圧に嫌な汗が滲む。シルバーの真上から網を回収する装置の駆動音が鳴るのが聞こえ、その後足音が玄関の方へと向かい、扉がノックされた。

ドアが開くのを待つが、一向に音が鳴らない。息を潜めるシルバーの目に映るのは壁板の木目のうねりくらいだ。しかし顔を扉に向けようと格闘する内に、「ただいま〜」と間延びした声がして、やがて遠ざかり、壁越しのくぐもった音になるのが分かった。
そして周囲から生き物の気配が消える。シルバーはトラックの下から這い出して、服についた土もそのままに屋敷の前まで忍び寄る。
そしてそっと、その固く閉じた扉に触れた。

次の瞬間、目の前の扉が蜃気楼のように歪んで、散り散りになった。
空気の感触が変わるのを肌で感じた。シルバーの体は姿勢はそのままに、木造りの室内にあった。元々は戸締まりを確認してから裏口の類を探すつもりだったのだ。こんな怪しい場所に正面から入るなど考えなしの愚者のすることでしかない。それが、いつの間にこんな場所に居るのだろう。彼は困惑した。

誰かの作業する音がする。おおかた、先程の魚を保管庫か何かにでも移しているのだろう。中に入ることができたのはともかく、身を隠す場所を探さなければ。ゆっくりと後ずさりながら辺りを見渡す。

ここは広間のようで、部屋の両脇には吹き抜けになった二階への階段が緩やかなカーブを描いて伸びており、それが包み込む中心に椅子が並んだ長机が鎮座している。音がするのはそのさらに奥だ。部屋は繋がっているが、背の高い仕切りがあるおかげで向こうの存在からは遮られている。部屋の左右には小部屋への扉がいくつもついていて、どれも同じ見た目をしている。

背後には先程の重たげな両開きの玄関扉が、やはり閉じたままで行く手を塞いでいた。シルバーは片方のドアノブに手を掛ける。怖気付いて引き返そうとしたのではない。ただ、今しがた一体何が起こって自分がここにいるのか確かめたくなってのことだ。

「あら、どこへ行くの?」
女性の声だった。
瞬時に振り返ったその時、ふわりと潮風に似た、えも言われぬような香ばしい匂いがした。

最初に目に入ったのは、二つの尖った耳。次に、真っ白のエプロン。ピンクのスリッパ。
服を着たユンゲラーが視界の先で、包丁片手に立っていた。
「お客様なんて久々だわ。そんなに緊張しないで、椅子にでも座ってくつろいでくれていいのよ。」
目の前で起こっていることを頭で理解する前に、シルバーは脊髄反射的にモンスターボールを足元へ叩きつけた。開いたボールから黒い猫のポケモンが現れる。
ずっと機会を待ち続けたことでバトルに飢えていたわけでも、包丁を恐れたわけでもない。ポケモンが主人の命令を待ち、困ったように鳴き声を上げるのも聞こえなかったほどに、ただ、混乱していた。

「何なんだあれ?」
シルバーが独り言のように呟いた、その声は震えていた。
ポケモンが人の言葉で喋っている。人の服を着て人の道具を持って、ペットやボディーガードとしてではなく、あれではまるで。

「ドうしタの、ママ?」
階上から歪な声が響いた。まるで異次元の電波のような、本来人間には聞こえない音を無理やり聞かされているみたいな気分だ。背筋を冷えた手でなぞられるような不快感にシルバーの目元がひくつく。
神経に障る音が人の言葉を成している様は違和感で脳が満たされるようで、ただただ不快で仕方がなかった。
「お客様よ。一体何年ぶりかしら。」
おキゃクさま?」
やめろ。気持ち悪い。これ以上聞きたくない。
胸の中では狭すぎると言わんばかりに暴れ回る心臓の音だけを聴きながら、後ろ手でドアノブを探し、押戸でも引き戸でも、何でもとにかく開いてくれと祈りながら、握った手で揺さぶった。
びくともしない。
焦りを感じつつも、それでも背は向けるまいとドアに寄りかかり、全体重を掛けて四方に引っ張ってみても、鍵がガチャガチャと鳴る音さえしない。まさかこの扉はダミーで、実はただの扉に見える壁なのか?そんな馬鹿な。
「おきゃクさま、ダいじょーブ?」
息を切らしながら顔を上げると、ポケモンに見張らせていたはずの周囲、シルバーの近く2メートルほどの距離にそいつは来ていた。

枝のような二本足、白い布片(やがてそれはシャツであったと分かる)、そして見覚えのある色合いのセーターベストにまた枝のような腕が生えた、その頭は人のものではなかった。
『それ』は見紛うことなき、ケーシィであった。しかし再びシルバーの頭は目の前の存在について理解することを拒否する。
(ケーシィは念力で体を浮かせるから足で立つ必要なんてない、それにテレパシーだって使えるんだから声もいらないはず。なのになんなんだ、こいつらは?)
その取って付けたような頭がまるでサファリパークに展示された生き物でも見るかのようにこちらを見つめ、自身の方へとにじり寄ってくるので、シルバーはとうとう耐えられなくなって張りぼてのドアノブから手を離し、『それ』と反対方向に飛び退いた。一瞬目が合ったシルバーのポケモンは主の方を見たままただその場に立ち尽くし、まるで迷子の子猫のように何度も小さく鳴いているだけだった。

原因ははっきりとは分からない。しかしこの時点でシルバーの中に湧いていた好奇心や、秘密を明らかにしてやるという使命感のようなものは一切が姿を消しており、代わりにここを出たいという思いが胸にぐるぐると渦巻いていた。
シルバーにはこの場の空気が何故かアレルギーのように受け付けないのだ。
彼らと関わりたくない、会話さえ交わしたくないと思うと口の中に苦い感覚が広がるのを感じるが、このままじっと黙っているわけにもいかない。
「客じゃない、間違ってここに来ちまっただけだ、だからもう出ていく。」
「こワいの?」
目の前のケーシィの閉じた目が、その石でできた仮面のような相貌を変えようとでもするかのようにピクリと動いた。

うるさい!いいから出せって言ってんだよ!」
この感情は恐怖なんかじゃ言い表せない。認めてたまるものか。普段の悪い癖でシルバーは予告もなく、ポケモンに攻撃の命令を下し――

「やめて!ここは私達の家なのよ!!」
突然、女の金切り声が辺りに響いたと思うと、猫のポケモンが目の前から消えた。
……は?」
唖然とするシルバーにさらに追い打ちをかけるかのように、彼の服がもぞもぞと動き出し、見えない手が腹部のポケットから彼のポケモンが入ったボールを次々に奪い去っていく。
「こんなものがあるから!!」
取り出されたボールは五つ。それぞれが魔法のように、静かに揺れながら空中に浮かんでいた。
シルバーの前に並んだそれらはまるで儀式のために生贄を捧げようとでもしているかのようだった。その異様な光景に目が奪われそうになるが、我に返ったシルバーは慌ててポケモンたちを奪い返そうと手を伸ばした。
しかしその内の一つにさえも触れることはかなわず、ボールたちは音もなくその場から姿を消した。瞬間、目前のユンゲラーの両目が光ったような気がした。
「なにすんだ!そいつらは俺の
「あなたと私たちの一体何が違うっていうのよ!私だって、私たちだって同じように生きてるのに!!」
予告もなく戦力を奪われたことに怒るも、ヒステリーを起こした相手に話が通じるわけもなかった。

「何やら騒がしいが、一体どうしたんだ?」
そう言って仕切りの先、カチャカチャと音のしていた方角から現れたのは先程のトラックを運転していた男だった。温厚そうな、細められた目はこちらを見つめてくる二対の目つきとどこか似た気配を放っていて、目が合った瞬間シルバーは背筋に寒気が走る思いがした。
「お前っさっきの!お前は何なんだ、ここで一体何をしてる!?」
「ああ、見られてたのか。何をもなにも、ここは僕の家だよ。」
焦るシルバーとは対照的に、男は驚きの感情が一切存在しないのではないかと疑うほど穏やかな様子だ。
「家?噓をつくな、じゃあこいつらはなんなんだよ!」
目の前の二体を指さす。同じ格好をしていても、人とポケモンが似ているはずがない。
同じ格好?いや、まさかそんなはずは――
「そうか、驚かせてしまったかな。この二人はね、僕の家族なんだ。」
今までと違いただ人間が喋っているだけであるにも関わらず、シルバーには男がまるで別の言語でも話しているかのように感じられた。
「噓に決まってる、だってじゃあこいつは、こいつは
段々と青ざめていく顔を俯けながら、シルバーは何やら取り留めもないことを呟きはじめた。
そんな招かれざる『客』の無礼かつ勝手な態度もよそに、男は『家族』に声をかける。

「料理中に場を離れないでくれよ、せめてその包丁は置いてこい。」
「ごめんなさい、本当に外の人と話すなんて久しぶりだったから。」
「分かってる。ほらアリー、お前ももう席についてなさい。」
「はアい。」
シルバーはただ頭を抱えた。乱れた髪が指に絡まる。今の状況をいくら考えようとしても、自分の周りから聞こえる声たちが思考に割り込んできて言葉の一つも浮かんでこない。
ただ、ポケモンとは離れ離れになり、出口のないこの木造りの巨大な箱の中で、話は通じず意味も分からない存在と一緒に閉じ込められて、自分は今一人なのだという事実だけが、重く心の底に響いていた。

ふと、肩に手が置かれるのを感じた。ガサガサに荒れた、暖かい手だった。
「色々、気になることがあるんだろう?まあ、まずは座ったらどうだい。ちょうど夕飯ができるところなんだ。」
見上げた男の姿は、車上から見た後ろ姿よりも大きく見えた。


一人と二体分の視線を一身に浴びたシルバーは、仕方なく(ここまでシルバーが相手に合わせたのは彼の人生全体でも数えるほどだろう)四脚ある椅子の一つを机の端まで引きずってから、そこに座った。続いて隣の席にケーシィが、向かいには男が腰掛けた。この空間の、誰もの興味がシルバーに向けられていた。
シルバーの目の前に皿が置かれる。彼はその上に置かれた二切れのパンではなく、皿を持つ手に注目していた。
念力を使うユンゲラーの腕は退化し、筋肉はほとんどついていない。つまり、物を持つ用途には適さない。そんな安物のマジックハンドと大して変わらないような手を震わせながら、わざわざ陶器の皿の重みに耐えて料理を運んでいるのだ。
シルバーとしてはむしろこのまま皿を落としてでもくれれば、こんな怪しい食卓にわざわざ参加しなくて済むのだが、先程のヒステリーを思えばそれはそれで面倒なことになりそうな気もしたので、ただ黙ってのろのろと動く円盤を見送った。

『ママ』と呼ばれたユンゲラーは次にもうもうと湯気を上げるスープ皿を両腕で挟むようにして持ち、常人の十倍は慎重に配り始めた。シルバーは出来立てのスープの熱さにも耐え得る皮膚の強さに感心していたが、他の料理を待つ者達は緊張した雰囲気の中その様子を見守ったかと思えば、全ての皿が並ぶとほっと胸を撫で下ろしたようだった。
シルバーは紫や緑、あるいはそれらが混ざり合ったような色の料理を想像していたが、出てきたのは淡いクリーム色のチャウダーで、優しい香りが夕飯を抜いていたシルバーの胃を刺激した。
至って一般的な家庭料理だろう。少なくとも、見た目は。

パチン!

シルバーの周りを囲むように音がして、顔を上げれば姿の異なる三体の生き物が両手を合わせている。薄明るい照明に茶色い頭とひときわ目立つ黄色い頭が二つ、そして大小様々ないくつもの指先が照らし出され、まるで宇宙の星々でも見ているかのような光景だった。
「いただきます」
タイミングだけは綺麗に揃った三つの声は一人分の声より歪んでいて、まるで何かの呪文のようだ。
シルバーは彼らの輪の外側からただじっと、その風景をぼんやり眺めているだけだった。

「お腹、空いてるんでしょう?」
その輪の中からはシルバーを体ごと貫くような真っ直ぐな視線が向けられている。皆食事に夢中で顔を伏せているはずなのに、一挙手一投足を見張られているような気持ちの悪さを感じていた。
「それより質問に答えろ。聞いて良いと言ったのはそっちだろ。」
こんな場所に長居していたら、その内壁や床、家具といった家中の至る所に目玉が付いている幻覚でも見てしまいそうだ。
「お前達、ロケット団との繋がりは無いんだな?」
「ロケット?聞いたこともないな。」
男は答えた。
「よく分からないけど、とにかく私達はずっとこの森から出てないわ。」
続いてユンゲラーは器用に答えた。
「ロケットダンっテなニ?きミノとモだチなノ?」
最後にケーシィが立てた奇妙な音を遮るように、話を続けたいシルバーは机に両手を突いた。そいつは音に驚いたのか、人並みに少し怯むような仕草を見せた。
「ロケット団を知らないのか?ここらじゃ知らない奴はいない、金儲けのためなら何でもする調子に乗ったクズ共だぞ?
じゃあ時々トラックで港に来る目的は何だ。わざわざ隠れてコソコソやってるってことは、見られたらまずいことしてるって自覚があるんだろ?」
「それは私から説明させてちょうだい。」
そこで申し出たのは当事者でもないユンゲラーだった。
「私達、珍しい存在だから人に見つかっちゃいけないの。」
残りの面々もそれに頷いた。
「こんな見た目だけど、私達もあなたと同じ、人間なのよ。」
そこで聞いた話はにわかには信じがたい内容であった。


そのユンゲラーはかつては紛れもない人間であり、エスパー使いの家系に生まれた。家族も、当然彼女も超能力という存在に慣れ親しんだ環境で育った。彼女たち、エスパーたちにとってそれは当然存在するもので、体の一部のようなものだった。いつも人の心の声を聞いて、物も手で持たずに念力で動かして、つまり能力に頼って楽をして生きてきた。とりわけ彼女は優秀な能力者であり、仲間たちからもほどほどにしろ、と言われるほど派手に力を使いこなしていた。
しかし、ある時彼女は知ってしまった。そして、今でも忘れられないという。人の心に聞けば何であろうと分かってしまう彼女は勉強にも飽きて、世界の全てを知りたくなり、図書館の本を全部読もうとした。その頃には彼女はもう見た情報を一瞬で理解して記憶できるほどに、能力とそれに応じて頭脳が発達しており、きっと一日あれば1000冊でも読めただろうと語った。もちろん、結局のところ最後までは読みきれなかったわけだが
“それ”は読み始めて実に164冊目だったという。案外世界とはそこまで広くないのかもしれない。“それ”はポケモンについて、史実から都市伝説まで幅広く様々な伝承を取り扱った本だった。彼女を変えてしまったのはたった一行の、真偽も不明の噂話程度のものだった。
「エスパーの少年がある朝突然ユンゲラーに変身してしまった。」
ただ、それだけ。それだけの文章が、この上なく彼女を怯えさせた。彼女は文字通り周りから浮いていたし、同じエスパーであったために、「もしかしたら自分も同じようになってしまうかもしれない」と、根拠も無いにも関わらずそう思ってしまったのだと。

「思い込みの力ってすごいのよ。特にエスパーにとっては、それが原動力なわけで。そして、一度覚えた事というのは中々頭から離れてくれないの。忘れたいと思うほど、より強く意識してしまう。やがてその疑いを勝手に確信し始めて、それ以外考えられなくなるくらい追い詰められる。」

それから彼女の人生は変わってしまった。何が体に影響するかも一切分からなかった。当然そのはずだ、そもそもが根も葉もない噂なのだから。そして家に閉じこもって、エスパーの能力に近づくことを恐れ、家族ともほとんど関わらないようにした。ベッドから出るのさえ彼女には怖かった。朝目を覚ましたら自分が自分でなくなっている悪夢を、何度も繰り返し見た。

「彼の協力もあって、一時は落ち着いたんだけどね。なんとか忘れることができて、外も出歩けるようになったの。でも結局、生きてる限りトラウマからは逃れられないみたい。」

彼、つまりあの男は彼女の古くからの数少ない友人であった。エスパー能力を持たない彼は唯一、殻にこもっていた彼女に近付くことを許された人間であった。彼の献身的な説得と手助けにより、彼女は少しづつ彼に対してだけでなく、世界に対しても再び心を開き始めていた。
そんな矢先のことだった。男と二人で買い物に出掛ける途中、彼女はポケモンバトルを挑まれた。相手は昔の彼女を知っていた人物で、彼女が応じる前にポケモンを繰り出してきた。彼女曰く、優等生で散々威張っていた彼女の鼻を折りたかったのだろう、ということらしい。彼女に対抗して同じエスパータイプを専門にしていた相手が最初に出したのが、運悪く、そのユンゲラーだったのだ……

「その瞬間、忘れようとしてたことが一気に流れ込んできて、そのショックに耐えきれなくて気づいた頃には、この姿だった。今でも覚えてるわ、道行く人達が次々に悲鳴を上げて、それがずっとうるさくて、止まなくて。段々頭がくらくらしてきて、意識が途切れる直前に気付いたの。一番大きくて長い悲鳴を上げてたのは、私だったって。」

結局、ポケモンになってしまう物質やエスパーの力の浴びすぎなどというものはなく、すべては激しい思い込みが原因。それに気付いた頃には、彼女はもう元の姿には戻れなくなっていた。
それから彼女は人目を隠れて生活するようになった。私は人間だ、と言っても誰も信じることはなかった。それは彼女の家族でさえも同じであった。

「皆を恨んではいないわ。私だって同じ立場なら、信じられなかったし、信じたくもなかったでしょうから信じてくれたのは、全部を見ていた彼だけ。私から唯一逃げずに向き合って、寄り添ってくれた。」

体力と念力はあったので新しい家作りには困らなかった。ただ、食事の調達は避けられぬ問題であった。そこで男に頼んで、森に棄てられていたトラックを使って魚や貝を獲ってきてもらっていたという。わざわざ港まで、あんな道なき道を通って、だ。

「街から遠く離れた所まで来たからか、この森には不思議なくらい誰もいないの。人も、ポケモンも。それでも、街にいるよりはずっと気が楽だったわ。人々が私を見る目はもう、同じ生き物を見る目じゃなくなってしまったから。
それからも


「待て。もう話は十分だ。」
スープ皿からのぼる湯気が収まるほどに話は長引いていた。
きっと研究者が聞けば貴重なサンプルとして一部始終を余さず記録に残しただろう。しかしあいにくシルバーにポケモンの生態解明に貢献する気など毛頭もなく、頬杖をつき、壁の木目を目でなぞりながら、聞いているのかいないのかもよく分からない態度で話が終わるのを待っていた。

「人間だとかポケモンだとかは知らねえ。どうでもいい。とにかく、夜中の漁は目立たず食料を確保したいから、ただそれだけだったって、そう言いたいんだろ。」
「そういうことになるわね。」
「作り話にしては馬鹿馬鹿しい内容だが一応調べさせろ。どこかに通信機とか隠してるんじゃないのか?」
「ああ、それなら無いよ。」
まるで疑いを気にも留めないかのような様子で否定しつつ、パンの最後の一切れを口に押し込みながら、男が言う。
「コレさえあれば連絡手段もいらないからね。」
そう言って自分の頭をつついてみせた。
「いわゆるテレパシー、ってやつさ。なんたってあいつ、ずっと僕と繋がっていないと不安で仕方ないって言うからなあ。」
歪な『夫婦』は揃って苦笑いした。

わかった。ひとまず、これ以上追及はしない。」
どうも彼らを見ていると調子が狂う。完全に疑いが晴れたわけではないとはいえ、ここは深く探るよりも、泳がせてボロを出すのを待った方が良さそうだとシルバーは判断した。
「俺のポケモンを返せ。そしたら出てってやるよ。ここにいても時間の無駄のようだからな。」
しかし、むしろ食い下がってきたのは向こうの方だった。

「まあまあ、そう言わないで。せっかく用意したんだから、料理、食べて行ってちょうだい。」
厄介なことになったな、とシルバーは思った。こういった善意を勝手に押し付けてくる人間(こいつが人間と呼べるかは別として)は苦手だった。大抵、受け入れれば調子に乗るし、突っぱねれば信じられないといった態度でこちらを見てくる。なのでこういう場合は無視が一番手っ取り早いというのが、彼の得た学びだ。
「タべていきナよ。ママのゴハんはネ、せカイいちおいシいんダよ。パパガいっテタ!」
ケーシィは白い陶器製のスプーンを荒々しく鷲掴みにしてチャウダーを掻き込む合間に、喋りを続けた。口の端からは飲み込み損ねたであろう分がこぼれ、滴っている。
「ママね、りょーりダけじゃナくてタベれるきのみとかモくわしいンだ。ぼくたチみんナがチャんとたべレルように、ってガんバってるんダよ!」
口に合うかの問題ではない。知らない土地で知らないポケモンに出された料理など、何が混ぜられているか、ましてや何が入っているか分かったものじゃない。そんな物を警戒無しに口にするなど愚の骨頂だと、わざわざ説明することさえ億劫に感じられた。

突然、女性の驚く声がして思わずシルバーは身構えた。
「あら、大変!私、あなたの分のスプーン、用意し忘れてたみたい。ごめんなさい!すぐ用意するわ。」
ユンゲラーが台所の方を向くと、ガチャガチャという音がしたのち飛行機のようにスプーンが宙を浮かんで、シルバーの元まで飛来してくる。ご丁寧に皿から一杯掬ってからそれは彼の手元で止まり、手に取られるのを待つ姿勢となった。
今度は顔を見なくても分かる。この沈黙、膠着の中でまた全員の視線がシルバーの方を向いている。目的こそ理解できないが、隙を狙われているのはこちらもなのだ。わざとらしく手を引けば、スプーンはついてきた。何度か動かしてみてもスプーンは中身をこぼすことなく、液面さえ揺らさないまま右手の前に移動してくる。うんざりしてポケットに手を引っ込めれば、今度は顔の前にまで接近してきた。
ここまでしつこく食べることを迫っておいて、最後は彼が押し負けて自分から口を開いてくれるだろうという魂胆を見せつけられては、シルバーも余計に気味悪さを感じて口を閉ざすばかりだった。
しかし目と鼻の先にある料理の存在はシルバーの鼻腔をくすぐり、空腹の胃を刺激する。思わず溜まった唾を飲み込むと、とうとう彼の腹が我慢の限界を訴え、唸り声を上げた。

その隙を逃さず、彼の口の中にスプーンとその中身がねじ込まれた。スプーンの固い感触と、潮風に似た匂いが口いっぱいに広がる。味覚が波のように押し寄せてくる。見た目通り素朴な風味の塩で味付けされたスープの中に、少しの甘みのある木の実と柔らかく煮込まれた魚の肉の食感があり、気付けばその一口を咀嚼して飲み下していた。
空きっ腹には強すぎる突然の刺激に軽くむせながらも、文句の一言も上手く言葉にできず、彼はただ眉を顰め、相手を睨むことしかできなかった。

「おいシかっタ?シるバー。」
ぬるい。」
口を袖で拭い、それだけ言って席を立った。


家の者たちが食器を奥に運び始める傍ら、シルバーは未だに正面玄関の取っ手とにらめっこを続けていた。外から見たのと同じように、当然内側からも窓は見えない。外界との繋がりがあるとするならここ以外にはないはずなのだ。
(あいつらさえいれば
ポケモンを奪い去った当の本人であるユンゲラーは食器洗いに没頭していて話の通じる状態ではなかった。エスパーなのだから呼びかけが聞こえていないはずはないのだが、まさか意図的にこちらの要求を無視しているのか?だとすれば、トレーナーが憎いからだろうか。先程の話を信じるわけではないが、人間の真似事をするポケモンの立場からすれば確かに、都合の良い時だけ呼び出され、利用されるのは彼らの望むところではないのだろう。そんな考えを、シルバーは今まで一度も持ったことはなかった。

「無理だよ、その扉は力づくじゃ開かない。」
と、背後から気配もなく現れた男はこちらが聞いてもいないのに話し始めた。
「ドアの開け閉めはあいつが担ってるんだ。普段は念力で固く閉じてるんだよ。ほら、もし間違ってポケモンや、君みたいな迷子が迷い込んできたら大変だからね。」
「俺は迷子じゃない!最初からお前を――
「だからきっと、君はわざと迎え入れられたんだろう。理由は僕もまだ教えてもらっていないけどあいつがそう望んだのなら、僕も歓迎するよ。どうやら疑いも晴れたみたいだし、説明も済んだことだ。遠慮はいらないよ。」
一体何を言ってるんだ、こいつは?余所者はお呼びでないのに、俺だけは例外で招き入れたって?ただの気まぐれだとしたら酷い冗談だ。
積もりに積もった苛立ちを晴らすかのように扉を蹴りつけたが、素人が板を釘で打ち付けた程度のつくりであるはずのそこはゴムのように音も衝撃も吸収してしまい、それが余計にシルバーの癪に障った。
文句の一つでも言えよ、と思いながら振り返ると、男はこちらには目もくれず、既に二階へと上がっていた。お気楽そうに、またあの鼻歌を歌いながら。そして、ふと立ち止まり、こう付け足した。

ああ、そうだ。君は確か、シルバー君というんだったかな。こちらの紹介もいずれ済ませるから、まあ今後ともよろしく頼むよ。じゃあ、僕はこれで。」
明かりのない吹き抜けから相手を見下ろす顔の口元だけが、一階からの光で浮かび上がって見えた。愛想の良さげな笑みをたたえ、そう言い残すと、言い返す暇も与えず部屋のひとつへと消えていった。


「どういうことだ!」
穏やかに水の流れる音だけがする台所に、怒号が鳴り響く。
「もう用はないと言ったはずだ。目的があるなら言ったらどうだ!」
シルバーは本当なら目の前のそいつに殴りかかって、枯れ木のように細くスカスカなその体を床に転ばせてやりたかった。だが、相手がここへの出入りを管理していると分かった以上、下手な動きはできない。なにより、人間一人の拳がポケモンにどれほど通用するのか、怒らせれば次はどんな反撃を受けるのか、予想もつかなかった。
いきなさい」
「は?」
「今日は泊まっていきなさい。もう夜も遅いわよ。」
「お前が長い話聞かせるからだろうが!俺は戻ってやることがあるんだよ、いいから出せ!」

噓。あなた、帰る場所なんてないでしょう?」
相手は自分より背が低く、身体も小さく見えるのにも関わらず、睨みつけられたシルバーは、その並外れた気迫に思わず腰が引けた。
「あのね、帰る家がある子はね、こんなに遅くまで外を出歩かないの。それに、こんな暗くて寂しい森の奥まで一人で来れるのは、あなたがいつも一人だから。そうでしょう?
皆気味悪がって近づきもしないわ。人もポケモンもいなくて、本当に静かなんですもの。」
「な
辺りの空気がまとわりつくような嫌な感覚に変わる。返事を待たず、相手はさらに続けた。
「それに、やることがあるのも嘘でしょう。さっきから時間に焦ってる様子もないし、あなた、ロケット団を探してると言ったけれど、ロケット団をなぜ憎むのか話さなかったでしょう?協力を乞うならそうした方が良かったはず。それなのにぼかした言い方しかしなかったのは、あなたが彼らを嫌う理由が、人には言えないものだからじゃないかしら。誰かのためでも、恨みでもない。それは多分
もう、やめろ……。」
シルバーは何も言い返すことができなかった。彼女の推理は全て当たっていたのだ。エスパーに隠し事はできないと改めて分かってもなお、これ以上自身の事情に深入りされたくはなかった。

「なんてね。今のは全部、ただの私の予想。大丈夫、心の中までは見てないわ。あなたの嫌がることはしないって約束するから、安心してちょうだい。」
ただでさえ細い目元が糸のように狭まった笑みが、この上なく胡散臭い。
「俺からポケモンを奪っておいて、よく言えるな。あいつらをどこにやった?言ってみろよ!」
応じないのではと心配したが、相手は少し考え込んでから、扉の一つを指差した。
「あの部屋。あそこへ行ったら話すわ。」
それ以上は話さなかったので、シルバーは黙って従う他に選択肢はなかった。


扉の先は洗面所で、トイレや簡易的な浴室と隣り合っているので脱衣所も兼ねているようだった。
「一体ここに何の用が――
シルバーが振り返った時には、既に背後でドアノブを握る手がちょうど扉を閉じるところだった。
おまけに「ごめんなさい、話はするからその間、体の泥を落としてほしいの。どうしても気になっちゃってお風呂が嫌いなら、着替えるだけでもいいから。」なんて声をかけてきた。
つまりはまた、シルバーはくだらないおままごとに上手いこと乗せられたのだ。彼はただ無言で舌打ちをした。あいつ、このまま俺がベッドで眠るまで続けるつもりか?

しかし、己がひどく汚れていたのも自明であった。上着は塩を含んだ水を吸い、動くたびに乾いた土が落ちるので、奴が気になって仕方がなくなると言うのも確かに無理はない。上着だけでも洗っておこうかと洗剤を探すと、洗濯物の詰まったかごの隣に箱を見つけ、何の気なしにそれを開けた。
箱の中身は男ら一家が揃って着ていたシャツとズボン、そしてケーシィの胴体に似たベージュ色のセーターベストだった。まるでシルバーにそれを着てくれと言わんばかりにそこにある物に、彼は苛立ちを通り越して寒気を感じた。この箱が元からここにあったのか、シルバーが来てから用意されたものかは分からない。いずれにせよ、一枚多く存在する揃いの服は明らかに、新しい家族の到来を待ち望んでいた。

「ねえ。あなたは人間とポケモンの違いって、何だと思う?」
扉越しに女の声がした。なるほど、姿を見ずに声だけ聞けば、人間とほとんど区別がつかない。
ポケモンは戦いを求める生き物だ。たとえそれを好まない奴だとしても、戦って生き残るだけの力は秘めてるもんだ。あいつらは戦いの中に生きている。だからいや、何でもない。」

『だから人にとって都合がいい』は余計だったかと思い、出かけた言葉を引っ込めた。
シルバーはつい先ほど目の前で消された、黒い猫のポケモンのことを思い出していた。
シルバーの手持ちになるまで、その黒猫はある人間に飼われていた。その人間はポケモンマニアで、彼の珍しいポケモンのコレクションの中にそいつはいた。そして、シルバーがそれに目を付けたのだった。
猫のポケモンは大きく頑丈そうな爪と素早く動くための軽い身体、発達した四肢を持っており、何よりその鋭い目付きが、戦いたい、戦わせろと言わんばかりに鈍い光を放っていた。正に戦い向きのポケモンと言えるだろう。
しかしどうだろう。その飼い猫は自慢の爪を短く切り揃えられ、真っ黒な毛並みに目立つ赤色の首輪を付けられて、狭い部屋に押し込められていた。床に散らばったおもちゃの類にも興味を示さず、退屈そうに転がるだけのその猫の瞳からは、闘争心の光が今にも消えてしまいそうであった。
気付けばシルバーはその猫のポケモンを盗み出していた。シルバーは強いトレーナーにならねばならなかった。かつて家を捨ててでも力を求めた彼には、そのずば抜けた闘争本能をあの家でただ腐らせてしまうのが惜しく感じられたのだ。
シルバーと共に戦うようになってから、猫のポケモンは飼い主と離れ離れにされたことなど気にかける様子もなく、むしろその目を爛々と光らせて戦いに身を投じた。たとえ傷付こうとも、戦いに敗れようともそれは変わらなかった。

「なるほどね。その考え方でいけば、人間は力の無い、平和を好む存在かしら?」
幸いにも相手はその話に興味を示したようだった。何が相手を怒らせるか分からないが、沈黙すればあちらのペースに乗せられることは確実だ。シルバーは慎重に言葉を選びながら喋った。
「そうだろうな。仮に血気盛んで鍛えた身体があっても、直接戦って勝てるポケモンは数えるほどしかいないんじゃないか?そもそも、戦う気が起きるかさえ怪しいが。」
すると今度は向こうが沈黙した。何かまずいことを言ったか?それとも、考えたこともないような話だったのか?
返事はない。ただ立ち尽くし扉を見つめているばかりでは、夜の冷気と淋しさが上着を脱ぎ去った身体にしみる。シルバーは少しの間借りるだけだと自分に言い聞かせ、箱の中の薄手のワイシャツに手を伸ばした。

サイズの合わないシャツの袖に腕を通しながら、ふと、今は洗濯桶代わりに使われている、その洗面台を見て、シルバーはどこか違和感を覚えた。部屋が妙にこざっぱりとしている。警戒の度合いを上げて目を凝らすと、共に鋭くなった聴覚が微かな音を拾った。女の呟く声だ。
私、やっぱり人間の定義からは外れてしまうのね。」
しくじったか?何を間違えた?焦る頭でその言葉の真意を探る。
「人間」という言葉にこいつは過剰に反応している。念力やテレパシーも、時折意図的に使うのを避けているように見える。あえて力を封じるのは、戦いを好まない『ただの人間』を演じるためなのか?
そこで違和感の正体に気が付いた。この部屋には、いや、この家には鏡が一つもない。洗面台の奥にはただ壁があるだけだ。

「やっぱり違うと思うわ。」
静寂を破って乾いた言葉が部屋に反響する。相変わらず相手の顔は見えない。
「人間はポケモンを見下してるから戦おうとしないのよ。だから彼らの心にも、言葉にさえ耳を傾けない。」
きぃ、と音を立てて扉が開かれる。無意識に後ずさるシルバーに、ユンゲラーが同じ歩幅で迫ってくる。
「それでも、あなたがそうだと思うのなら、きっと
ユンゲラーは自身の着ている年季の入ったエプロンのポケットから、ぎこちない手つきでボールを一つ取り出すと、見せつけるかのようにシルバーの方に向けてみせた。
「あなたとこの子達の住む世界は違うのよ。」
黄色い爪がボールの開閉ボタンを押す。重力に従って下半球が垂れ下がり、開いたそこからはただ空洞だけが覗いていた。

聞いたはずだ。さっきからごちゃごちゃとあいつらをどこにやったのか、俺が聞きたいのはそれだけだ。言えよ!」
こうなるであろうことは大方予想していた。それに、まだ可能性はある。シルバーは既に相手がどうやってポケモンを消したか見当がついていた。力を隠したいユンゲラーでも無意識に使ってしまう技といえば、ケーシィ族お得意のテレポートだろう。だとすれば、ポケモンはただどこかに飛ばされただけで、今も無事のはずだ。
ユンゲラーは少し残念そうな様子でボールをしまい直した。
「どうしてそんなに意地を張るのかしらねあの子たちは自然に帰したわ。戦いが好きならわざわざ戦いが苦手な人間なんかに従う必要なんてないでしょう?きっと彼らも本望のはずよ。」
行為の正当化どころか、憤る彼を直視していてなおユンゲラーは生き生きとしていて自慢気だ。『力のない人間』であるシルバー一人でこの森を出ることなど到底可能とは思えない。次の手を考えれば考えるほど絶望感は増していくばかりだ。既に相手の術中なのだと悟り、硬直するシルバーの首筋に冷たい感覚が走った。
「それに、いくら背伸びしたってあなたはまだ子供のはずよ。守られるべき存在なの。たとえ帰る場所が無いのだとしてもね。」
耳元で妙な音がしたかと思うと、何か軽い物が床へと落ちた。恐る恐る振り返れば、視界に映ったのは宙に浮かんだ鋏と、その刃に絡まる赤い髪。
「ふふ。こっちの方が似合ってるわよ、シルバー君。」
震える手を首元にやればチクチクとした感触がして、シルバーはもう二度と会うことができないかもしれないあの猫のポケモンのことを思い出した。
同じだ。自慢の爪を奪われ、外界の汚れも流されたあのペットの姿と。こいつは世話を焼き、力を奪うことでシルバーから野生を奪い、飼い慣らすつもりなのだ。

肩まであった彼の髪は首から背にかけてを冷気から守る役割を放棄して、部屋の埃と一体になっている。
「ひとつ聞かせろ。なんでお前、俺の名前を知ってるんだ?心を読まないって話も噓なんだろ。俺の警戒を解こうとして出鱈目言ったんだろ?」
寒さか、それとも彼の緊張のせいか、その声は震えていた。
「あら?私はてっきり、アリーがあなたを呼んでるのを聞いたから、あの子に教えたのかと。」
「アリー?あのケーシィのことか?」
ええ、あの子はアリアシムっていうの。私達の一人息子よ。まだエスパーをうまく抑えられないけれど、優しい子できっと、あなたとも仲良くなれるはず。」
『母親』は鋏をポケットにしまうと、広間に出て息子を呼んだ。そのまましばらく戻らなかったので、シルバーも遅れて様子を見に行った。


部屋を出てすぐに、セーターベストの上にエプロンをかけた後ろ姿が目に入った。その視線はキッチンの方へと向けられており、その先の光景含めこの空間のシルバー以外の全てが時が止まったかのように硬直していた。

キッチンには流し台に身を隠すように座り込んだケーシィがいて、服装から先程話題になったアリアシムという個体であることは間違いない。問題は、その正面にある冷凍庫の戸が開かれていて、そこから取り出されたであろうコイキングに、かじったような跡がいくつもあったことだ。
どういうことなの?これは。ねえアリアシム。」
「ア、あ。」
アリアシムは母親に対する反応とは思えないほど震えた声を上げた。鉄の戸の隙間から漏れる冷気を浴び続けていてもその小さな体が震え上がることがないのは、あまりの恐怖に金縛りにあってしまったからだ。
だっテ、わカるでショ、ママ。」
「いいえ。言葉で言ってくれないと、お母さん分からないわ。」
「そんナ……
空中に浮かされたままのコイキングは氷はほとんど解けているにも関わらず身じろぎひとつしないで、ただ虚ろな目で天井を見つめている。きっと既に絶命していることだろう。
ゴめんナサい。ごはんたリなくテ、おナかすいチャったんダ。」
「パンもスープもまだ余ってるわよ?それに、どうして私に聞かなかったの?そうしたら料理、温めてあげるくらいしたのに。」
ウウ。だっテ、そノ……ごめんなさイ。」

シルバーはただその場に立ち尽くし、テレビを見ているかのごとく目の前でのやり取りを傍観していた。彼自身驚くほどに、何の感情も湧いてこなかったのだ。もう長いこと一人で生きてきた彼には、普通の家庭の暖かみが分からない。だから、この『親子』の関係が正常なのか異常なのか、見当もつかなかった。

「パパはおイしイっていうケド、ぼく、ママのリョうりノあじ、よくワカんナい。だカら、あのネダめってワカってるケど、おサカナサんのほウが、ぼクノスキなあジ、ナノカナっテ
アリアシム。」
!ナ、なに?」
「魚は戻しなさい。そして、もう二度としないこと。分かったわね。」
……。」
風船の内側のように張りつめた空気の中で、一匹のケーシィがしぼむみたいにへたり込んだ。

味覚の不一致。そこでようやく、シルバーはこの『家族』の形など元から狂っているのだと思い出した。父親は人間、母親は人を自称するポケモン。ならこの子供は何だ?飼っているポケモンに人の生活を教え込んでいるにしては、シルバーの目から見ても明らかなほどにしつけの度が過ぎている。人であることにこだわる奴らが家族ごっこから逸脱するような真似をするはずがない。
だとすれば、答えは単純にして一つ。
「まさか

「ねえ、どうしたの?黙ってないで返事をしなさい。」
ママ……。」
シルバーは思わず笑いがこみ上げていた。こんないかれた一家の事情に、部外者である自分が関わる必要などない。そんな自嘲と呆れからくる笑いだった。
フン。そんな下らない話より、俺には聞きたいことがある。そこのアなんとかって奴。」
ぼク?」
「思い出した。さっき勝手に俺の名前呼んだだろ。飯の時だ。お前、読んだだろ。俺の頭の中。」
「ア、あの!ワザとじゃなイんダ、カッてにきコえてキちゃって、それデしったンだ、なマエ。ゴめん、ナおそウとハしテルんだケど。」
テレパシーと鳴き声の混じった醜い声は到底聞くに堪えないが、意味さえ伝わってくれば会話には十分だ。シルバーはゆっくり母親の隣まで進み、あえて母親の意識が自分に向くようにした。
「直す?エスパーに直すも何もあるわけないだろ。それに俺はそんな気の長い話をしてるんじゃない今も頭の中が覗かれてるのが嫌だって言ってるんだ。分かるか?」
すると、その意図が伝わったのか「分かったわ。私がなんとかする。」と母親が応えた。妙に力のこもった声色だった。

「アリー、あなたはもう部屋に戻ってなさい。」
はい、ママ。」
お前は、それでいいのか?」
ふと、そんな言葉がシルバーの口からこぼれた。彼自身、理由はよく分からなかった。
うン。ダってボく、ニンゲンにナラなイといけナイかラ。」
「そうね。人間に戻れるよう、ちゃんと頑張るのよ。」
それでもどこか俯いたような顔で、ケーシィは千鳥足をさらにおぼつかなくしたような足取りで扉の一つまで歩いていき、その遅さを一人と一体に見守られながら部屋の中へと消えていった。


「シルバー君。」
背後から声をかけられる。
「私ね、本当に感謝してるの。」
フン。俺は迷惑だったがな。」

辺りは虫の声一つせず、夜の静寂の中母親の声が一際大きな音で、空間を満たすように響き渡る。
「きっとあなたがここへ来たのは偶然なんかじゃない。あなたのおかげで私達は救われる

木々のざわめきが聞こえてくる。否、それ以外にシルバーの耳に入る音はない。
彼の内側から、心臓の鼓動、全身の脈打つ感覚と共に、その『声』は聞こえてくる。
「挨拶がまだだったわね。改めて私達の家にいらっしゃい、シルバー。」
震えるほどの寒気がシルバーの全身を駆け巡り、彼の本能が警告しているかのように恐ろしいほど鳥肌が立っていたが、不思議と胸の中には暖かい感覚があるようだった。声の主の方へ振り向くと、まるで笑っているかのように弓なりに歪められた目と目が合った。

「そしておかえりなさい。ここがあなたの帰る場所よ。」
その瞬間、シルバーの目の前が真っ白に弾けた。


全身に衝撃が走る。彼の足が一瞬立つことを忘れ、床へと倒れたことによるものだった。
なんとか上体を起こしたが、腕の震えのせいでうまく力が入らない。きっと何らかの幻術の類を受けたのだろう。シルバーは声を上げようとしたが、どれだけ腹に力を込めても空気が喉を通り抜けるだけで、上手く身体を動かすことすらできず苦しそうに乾いた呼吸音を上げるだけの彼の姿はまるで、陸に釣り上げられた魚だ。
「そんなに怖がらなくていいのよ私達はこれから家族になるんだから。」
黄色い頭が見下ろしてくる。天井の照明からの逆光で浮かび上がる影が、机の上から何かを手に取った。
「私の作ったスープ、美味しかったでしょう?今度はちゃんと温め直すから、感想を聞かせて。ねえ、美味しいでしょう?ほら。」
放置されとっくに冷え切っていたはずのスープ皿に母親の手が触れると、瞬く間に鍋の中で煮えているようなぐつぐつという音を立てて、表面からは泡と湯気が盛んに上がった。

パニックを起こし口を閉じることさえできないシルバーの口にスプーンが再び遠慮なく侵入し、溶岩のようにどろりとしたスープが乾いた喉をその熱で焼きながら潤していく。
荒い呼吸のせいで一部は気管に入り、飲み込んだもの全て吐き出しそうな勢いでシルバーは咳き込んだ。大きく見開かれた目元にはうっすらと涙が浮かんでいる。
「なんで俺にばっかりそんなこだわるんだよ、俺はただ
シルバーが手で口を覆ってしまったので二杯目を飲ませることは叶わず、ユンゲラーは残念そうにスプーンを両手で握った。
「だってあの人は私がどんな姿でも愛する、って言ってくれたけど、やっぱり私達人間に戻りたいの。だから、私達を人間として見てくれればいい。そうすれば思い込みだって解けるはず。」
シルバーの目にはスプーンが二本に分裂しては戻ったり、伸びたり縮んだりしているように映ったが、それが現実に起こっていることなのか、はたまた幻覚なのか、分からない。
「混乱してるでしょう?難しく考えなくていいのよ。全部忘れて、委ねてじきに怖い気持ちも消えるはずよ。ほら、こっちを見て

白く滑らかな表面をしたスプーンの首がにゅるりと伸び、ねじれ、うねりながら液体のように自在に姿を変える。明らかに常軌を逸した動きをしているが、錯覚にも見えない。シルバーの目は瞬きも忘れ、眼前のスプーンに釘付けになっていた。スプーンのくぼんだ面にはそれを見るシルバーの顔が薄っすらと映り込んでいて、その姿もスプーンと一緒に形を変える。彼自身の中で、まさにそれと同じような事が起こっているという感覚が彼にはあった。
そう、あなたがここを怖いと思うのは、あなたが今まで一人で、嫌われ者として生きてきたから。あなたは『愛』を知らない。あなたにとって遠く、決して手に入らなかったのに、心の底では誰よりもそれを欲していたから、忘れようとした。あなたが強さを求めたのも、父親の組織を憎んだのも、その渇望を埋めるためだったそうでしょう?」
自分の感情、頭に浮かんだ言葉、過去の記憶、自身でさえ知らなかったような本心までもが曝け出されていく。彼には帰りが遅いのを心配する家族も、再び会う約束をするような友も居ない。戦いを共にしたポケモン達でさえ、今はそばにいない。そもそも、お互い利用し合っていたような仲だ。奴らを本心から信頼していたかも分からない。長い間孤独だった彼の、今最も近くに居るのは裸の身体よりもさらに深く、彼の心に触れ、寄り添っている『母親』だ。

「家族と分かり合えない気持ちは私にもよく分かるわ。人は一度ひとりぼっちになるとね、誰も信じられなくなって、それでも一人は苦しいから、誰も彼も憎むようになって、最後には誰からも相手にされなくなって、本当に一人になっちゃうの。でも、救いの手を差し伸べてくれる人は必ず居る。私がそうだったようにね。」
シルバーの視界に映るのはもはや本来の用途は果たせないであろう歪められたスプーンただそれだけ。それ以外の景色はぼやけ、やがて白い光に包まれ形を失っていった。自身の荒れ狂う心臓、呼吸の音さえも脳に突き刺さるような耳鳴りにかき消され、何も無い空間に『母親』の声がこだましているように感じられた。
「あなたが外でどんなに悪いことをして、どれだけ皆から嫌われていても私は受け入れるわ。あなたが人として大事なものが欠けているのはあなたのせいじゃない。それに、私達ってどこか似ているし、あなたは私が助けてあげなきゃいけないもの。」
既に彼の心は目的も自尊心も奪われて、形も残らないほどに粉々に砕け散っていたが、彼女の言った通り、何も考えられなくなって、恐怖も嫌悪感も霧が晴れたように姿を消していた。彼は今、絶望に完全に支配されていたが、それは明るくて暖かい、優しい絶望であった。

「大丈夫。寂しかったことも、あなたが今までしてきたことも、全部無かったことになる。あなたは生まれ変わるのよ、シルバー。」
やがてスプーンが動きを止め、元の形に戻るとその背後から女性の姿が段々と浮かび上がってくる。背の高い、人間の女性だったがあのベージュのセーターベストだけは変わらず身に付けていた。
まるで異次元か、心の中の空間のような、どこまでも広くて狭い世界が見えている彼にもはや空間や水平の認識は無く、地面に触れている感覚までもが無いため宙に浮いているような心地だった。彼の身体は自分のものではなくなってしまったかのように動かず、力の入れ方も分からないほどだったが不思議と倒れることはなかった。
ぽっかりと開いたままの口に優しい笑顔を浮かべた女性がスプーンに掬ったスープを運んでくる。飲み込む力さえ残っていなかったため多くは溢れ、彼の着ていたシャツを汚した。完全な白一色になりつつある視界に柔らかな茶色い髪が見えて、シルバーは訳も分からず、彼の口からだけでなく目からも熱いものがこぼれていくのを感じた。


ポケモンを金儲けの道具として利用する悪の組織、ロケット団。
シルバーはそのリーダーであった男の息子として生まれた。
当然、彼にも組織の信条が教え込まれ、いずれは父の右腕として活躍することを期待されていた。
しかしある時組織は解散し、リーダー――彼の父も行方をくらました。夢も居場所も失った彼は全てを呪った。
組織を破滅に導いた世界も、未練がましく父の帰りを待つ残党達も。彼にとっては全てが敵で、一人で生きていく他に道は無かった。

父は自分を愛していたのか?自分は父を愛していたのか?
分からない。
組織の素晴らしさを知れ。組織のために強くなれ。組織にその人生を捧げよ。
二人の間にあったやり取りは組織のことばかりだ。そこに個人的な感情はあったのだろうか。
ただ一つ、彼が一人になってから分かったことだ。どうやら全ての生き物には、父親だけでなく母親という存在がいるらしい。
シルバーは自身の母の顔を知らなかった。父からも語られたことは一度もない。シルバーが母から受け取ったものは、父とは似ていない真っ赤な炎のような髪だけだった。

父は仕事を一番に優先していたから、父の顔を一度も見ずに眠りにつく日も少なくなかった。
そんな夜はいつもラジオが彼に子守唄を歌ってくれた。
親子や夫婦は愛し合うものらしい。それは人だけでなく、ポケモンも持つ当たり前の習性だそうだ。
シルバーの中にはずっと、形のない疑念のようなものがあった。しかし、その先を考えたことは今までにない。当然誰かに話したことはないし、自分自身にも隠し続けてきた。そうやってずっと封印していたものが、精神そのものが変容しつつある今、姿を見せ、輪郭を持ち始めていた。

自分は愛されて生まれた子供なのか?
いや、自分は本当に人間が愛し合って生まれた子供なのだろうか?
売買。実験。洗脳。略奪、ときに殺害。
父は組織のためならポケモンをどんな残酷なやり方でも利用してきた。そして、何よりも父は最強の戦力を欲し、目標として掲げていた。そんな男が、息子がただの人間で満足するだろうか。
自分は正真正銘人間から生まれた子供であると、誰が保証してくれる?
自分は本当に、人間なのか?

子守唄が聞こえる。組織では年の近い子供もいなかったシルバーにとってラジオは唯一の友と呼べる存在だった。あの音色に包まれると、どんなに嫌なことがあった日でも安心して眠れた。父が警察に捕まったり、ポケモン達に一斉に反乱を起こされたりする悪夢を見ても、歌が全て忘れさせてくれた。
でも歌は現実を変えてはくれない。実際父が世界の敵で、自分達がポケモンに恨まれているその事実に変わりはない。あの別れの日、シルバーは悪夢を受け入れて、ラジオを捨てた。誰も現実からは守ってくれないことを知り、自分が強くなるしかないと悟ったからだ。


いつの間にか歌は止んでいた。視界は真っ暗だったが、冷たい空気を肌に感じ、シルバーは身体が動かせることに気が付いた。どうやらしばらくの間、横になって眠っていたようだ。精神に干渉された影響が残っているのか、まだ全身の感覚が戻らない。痺れて半分しか動かない顔で周りを見た。
シルバーがいたのは知らない部屋の中だったが、既視感のある天井の色を見るにおそらくあの家からは出ていない。扉のあった部屋のどれかだろう。中は相変わらず質素で、彼が寝ていたベッドの他に、明らかに小さいベッドがもう一つあるだけの空き部屋といった雰囲気だった。見下ろしたシャツの袖から覗く腕が人間のものであることに安堵しつつ、音が立たないようそっとベッドから降りてそちらへと歩み寄った。

その小さなベッドには上から布が掛けてあったが、そのサイズと全面が柵に囲まれていることから中身が何であるかは想像がつく。しかしこの家に限っては、その姿形は全く予想ができなかった。シルバーが布をめくると、もう一枚暖かそうなブランケットが掛けられたその下に、人の頭ほどの卵があった。そばには子守のおもちゃの代わりに小型のラジオが一台、今は動きを止めて佇んでいる。
見なかったことにするべきかどうかシルバーが迷っていると、一瞬卵が揺れた。こいつは生きていて、外の世界に飛び出すその時が来るのを待ち望んでいるのだ。そして現れる姿はもう明らかだろう。あの両親はそれを、心から祝福してくれるのだろうか。
きっともうじき孵るだろう。その頃にはきっと、こいつの兄は二人になっている。そして誰もが自分の正体を忘れたままで、何も考えなくていい毎日を送るのだろう。お揃いのセーターベストを着て、あの下手な盛り付けのチャウダーを飲みながら。それは本当の幸せではないだろうが、きっと不幸にはならずに済む。案外そんな生活も悪くはないのかもしれない。

ドアノブはいくら回そうとしても動かない。ケーシィは眠ったままでも敵を察知して逃げられるという。シルバーは奴らが眠っている間でさえここから逃げ出すことはできないだろう。
奴らは目でなく、心で彼を監視しているのだから。

シルバーは顔の左半分が熱くなるのを感じた。どれだけ待っても反対側の感覚は戻ることはなく、視界の右側は闇に包まれたままだ。目から流れ落ちる雫は海水の味に似ている。二度と触れることも、見ることも叶わないあの深い青がシルバーの頭の中には浮かんでいた。あの時ポケモンの背中から足を滑らせて、そのまま沈んでしまえたらどれほど良かったか。

出してくれ……。」
声とも言えないような、囁くより小さな声だったが、それが気力の尽きたシルバーの出せる限界だった。


シルバー?だいじょうぶ?」
耳からは相変わらず眠りについた森の声しか入ってこないので、シルバーは一瞬、精神の限界からくる幻聴を疑った。
「僕だよ、アリアシムだよ。さっきの、あの子供。今ね、テレパシーで君に直接話しかけてるんだ。本当は、使うのはダメって言われてるけど。」
あれだけ気持ち悪い声だったのに、こっちでならちゃんと喋れるじゃないか、とか、お前たちは勝手に俺の名前を呼ぶのをいい加減止めてくれないか、とか、疲弊した頭に浮かんでくるのはそんな内容ばかりだ。それでも、
「分かってるとは思うけどさ、僕、ただのおしゃべりをしに来たわけじゃないよ。今は二人とも寝てるんだ。」
そう言われて何も思わないほどに思考が停止してはいなかった。
「だから、静かにしてて。僕が、君をここから出してあげるから。」
その瞬間、シルバーは止まりかけていた彼の心臓が再び動き出すのを感じた。


あれほど固く動かなかった扉がひとりでに開いた。しかし彼のいた部屋は二階の端だ。廊下を、そこを超えてもその先の階段を通れば下に音が響くのは避けられないだろう。シルバーは踏み出しかけた足を一歩引きそうになる。
「心配しないで。だいじょうぶ、今降ろしてあげるから。」
地震のような感覚がしたかと思うと、シルバーの身体は宙に浮いていた。ポケモンに乗っている感覚に近いとはいえ落ち着くものではなかったが、今は手段を選んでいられない。シルバーは間違って落とされることのないようなるべく体を動かさないように努めた。

「僕ね、君に謝らなきゃいけないことがあるんだ。」
下でシルバーの着地を待つケーシィと目が合った。
「ごめんね。君を家の中に入れたの、ママじゃなくて僕なんだ。ママはあの時、料理に集中してたから、代わりに僕がパパのためにドアを開けたんだ。そしたら、君がやって来た。」
動揺のあまり、シルバーの肩がびくりと震えた。もしもこの最後の希望さえ裏切られたら、これ以上反抗する気は二度と起こらないだろう。まさか、そのために?
「パパもママもね、お外の人達は怖いよ、って言って、僕を外に出してくれなかった。でも、僕はずっと、トモダチが欲しかったんだ。本の中のお話にいるみたいな。君とは多分、年も近いはずだし。」
シルバーは呼吸が荒くなりそうなのを必死でこらえた。ケーシィは表情を変えない。今まで見た野生のケーシィ達も、感情らしいものを表に出す所を見たことはなかった。おそらく、元からそういう生態なのだろう。
「でも君を怖がらせちゃった。ずっと君が嫌だ、怖いって思ってるの、聞こえてきたのに諦められなくてきっとママも同じだったんだ。だから君に帰ってほしくなくて、あんなこと。ごめんね。多分、君の心は元通りにはならないと思う。」
爪先が床に触れると、徐々に体を持ち上げる力が緩んだ。シルバーが二階から降りてきてなお、ケーシィは小さな体からシルバーの顔を見上げてくる。

「行こう。君のトモダチはきっと今頃、君のことを探してるよ。」
(友達?)
声を出す代わりに、心の中で読み上げるように言葉を浮かべた。
「君のポケモン達だよ。ママの知ってる場所にしか移動できないから、この森のどこかにはいるはず。」
(友達
今度は独り言のようにそう思い、少し考え込んだシルバーの目に柔らかな光が飛び込んでくる。永遠に閉ざされたままかと思われた扉が開き、外からの光が家の中まで差し込んできたのだ。
「お星様、綺麗だね。」
お前は行かないのか?)
「うん。僕はここで、君とはお別れ。元気でね、シルバー。」
肌寒い風が吹き込んで、シルバーは少し身震いした。少しの沈黙の後、彼は短くなった赤い髪を揺らし、風の中に向かって駆け出した。


あの悪夢のような家から抜け出したのはいいものの、依然そこは鬱蒼とした森の中であった。いつもならポケモンで空を飛べば難なく脱出することができたが、今シルバーにはボールどころか、ポケットの付いた服さえ無い。使えるのは自分の、この体だけだ。シルバーは日が昇り始めた森の、さらに奥へと走っていく。
しかし、いくら探せど辺りは木、木、木ばかりで野生のポケモンの一匹さえ気配を見せない。シルバーはいつの間にか、来た道も分からなくなり、森を彷徨い始めていた。頭上も木の陰に覆われ、辺りは完全な闇になりつつある。やがてシルバーは、自分が同じ場所をぐるぐると抜け出せないでいる錯覚に陥った。音も光も無く、走れば何かに躓いた。彼はもう、一人でいるには限界だった。

ポケモンを大声で呼ぼうとして、そこで息を吸ったまま、動きが止まった。
シルバーはポケモン達を道具として使ってきた。しかし、その考えは彼らと戦いを共にするにつれ、変わり始めていた。利用していたとはいえ、仲間としての情が湧いたのだ。

友達?
『あナたは、『愛』をシらナイ』
本当に?

食事を共にしたことも、一緒に眠ることも、名前を付けることさえしてこなかった。
それで彼らを愛したつもりになって、愛を知ったような気になって。
そんなお前の傲慢を、『仲間達』はどう思っているだろう。

あいつらの顔を見るのが、怖い。
もし誰も来てくれなかったら?もし、あいつらから見放されてしまったら?
その恐怖を思うと、声が出なかった。

疲労がどっと押し寄せてきて、よろめくと木に体が当たったのでそのまま根元に座り込んだ。風は吹いていないのに、葉のこすれ合う音が段々と強くなる。シルバーは地面の振動を受け、幹が不規則に震えるのを背中で感じた。何かが来ている。それも、地面を揺らすほどの大きなものが、異常なスピードで。
よく聞けばその音には聞き覚えがあった。大きな体がきしんで揺れる音と、錆びたエンジン音。
トラックだ。あの男が、脱走に感付いて追ってきたのだ。シルバーはたまらなくなってその場から逃げ出した。

しかしいくら悪路といえど、人が車から逃げきることなど不可能だろう。特にあの男の狂ったような運転ならなおさらだ。予測のできない方向に何度も行ったり来たりするので離れて撒くこともできなかった。
ヘッドライトにシルバーの全身が照らし出され、トラックが急ブレーキをかける。見つかった。
闇の中にライトを浴びて浮かび上がった男の顔には怒りや焦りといった感情は無く、ただその糸のように細かった目を見開いて、引き攣った顔を動かさないまま瞳だけで少年を捉えている。まさに異常なまでの執念と言える形相だった。

男は車から降りると、シルバーからひと時も目を離さずそちらへと歩み寄った。シルバーも背を向けるのを恐れ、追ってくる男の方を見ながら後ずさりするしかなかった。
男は右手を差し出して、小さな子供に言い聞かせるような声で言った。
「駄目じゃないか。子供が一人でこんな場所にいるなんて家まで送ってあげるから、こっちへ来なさい。」
優しい声色だったが、その目を見れば慈悲が宿っていないのは明らかだった。
「家って言ったって、どうせお前らの家に逆戻りだろ。俺は一人でここを出る。もしその前に行き倒れたとしても、一生お前らのままごと人形にされるよりは百倍マシだ。」
いくら大人でも奴もただの人間だ。車のライトが照らす範囲から離れればシルバーを再び見つけ出すのは困難だろう。
闇の中に背中から消えていく少年を引き留めることもできず、男は悔しそうに歯を軋ませる。
そして急に深呼吸をしたかと思うと、天を仰ぎ「子供が逃げたぞ!!」と吼えた。その声は空気をびりびりと震わせ、木々がざわめいたが、暗い森は静まり返ったままで返事は無い。やはりあの家からは相当離れているのだろう、届くべき相手には届かなかったようだ。

この隙に逃げようと思えば逃げられただろうが、シルバーは男には気付かれない距離を保ちつつその場で息を潜めていた。再び闇の中に飛び込むのが怖かったのもあるが、段々とそれは別の感覚にかき消されていった。
異様な気配が辺りを満たしていた。重力が増すような、それでいて持ち上げられるような感覚。まるで空間があべこべに引っ張られて、歪んでいるかのように。周囲は完全に無音になり、時が止まったようだった。

いや、音は一つだけあった。男は何かを小声で呟いていたのだ。静寂の中では小さな音もよく響く。その声はシルバーの耳にも届いた。
「きっと今頃、疲れて眠っているんだろうけど。早く早く来てくれ、お前にとってあの子は必要なんだろ?せっかくここまできたのに、逃げられてしまうよ。やっぱり僕一人じゃ、どうしようもない君の、助けにはなれない。」

闇の中、一人ライトに照らされ、くずおれる姿はまるで悲劇のヒーローだ。ヒーローと呼ぶには、少し年が高すぎる気もするが。年季の入ったヘッドライトがチカチカと点滅し、何かの予兆のように木々の葉があちこちで音を立て始めた。やがてその音は大きさを増し、やがて一帯へと広がり、ヒーローのための森の大合唱が始まる。

「僕はいつだって役立たずだった。君の苦しみの半分だって理解してあげられずに、何回も辛い思いをさせて。本当ならこんな、子供に頼らなくたって君をなんとかできたのに。僕が
男は声を段々と大きくし、ゆっくりと立ち上がる。男の髪が逆立ち、服は強風に煽られたように暴れ、男の周りにだけ竜巻が起こっているようだった。

「 僕が君と同ジだっタなラ!! 」
衝撃波のようにあの耳障りな声が響く。そこでようやくシルバーは男が立ち上がっていたのではなく、男の体が宙に浮かび上がっていたことに気が付いた。それから起こった出来事を、瞬き一つすることなく一部始終を見届けたその光景を、シルバーは一生忘れることができないだろう。

浮かび上がったまま大の字の姿勢となった男の体が徐々に縮み、黄色く変色し始めた。骨の変形する音がして、苦悶の声が上がる。男の額には星の印が浮かび上がっていた。そして叫び声や体の震えが起きるたびに、その部分から光が発された。

シルバーはそのグロテスクな光景に全身の力が抜けてしまい、へたり込んだ。彼の左目はテープで固定されたように男を見たまま、閉じることも逸らすこともできなかった。それでもずっと閉じたままの右の瞼は1ミリたりとも動かず、男を中心に発される奇妙な光に眼の裏の血管が透かされて見えるだけだった。

男の肉体の変化は末端から始まった。段々と爪が伸び、皮膚は細長く引き伸ばされてから殻のように固まった。服を突き破って尻尾のようなものも生えてくる。体の変化が終わる頃には男の髭は腹部に届くほど長く伸びていて、やがて顔までもがもぞもぞと動き出した。絶え間なく叫び声を上げる男の口が細長く尖った形に変わっていくにつれ、その声も変質しつつあった。歯だったものは液体のようにぐにゃぐにゃと動きながら横に繋がり始め、最後には口の端と一体になった。髪は硬質化した皮膚に吸収され、覆い尽くされて見えなくなる。

シルバーは過呼吸を起こしていた。胸が破裂しそうなほど息を吸い、吐こうとしても腹に力が入らない。全身が心臓になったように体が熱かったし、酷使された肺も焼けるような思いだった。
彼にはもはや自分の体を確認する余裕さえなかったが、指先に草や砂粒が食い込む感触が、彼の皮膚がまだ柔らかいことを教えてくれていた。

最後に耳が側頭部を巻き込んで縦に伸び、あのシルエットの完成がとうとう間近になった頃に、男だったものは膨れ上がり鋭い爪の生えたその手で耳をぐしゃりと掴み、変形を抑えようとするような動きをしたが、苦痛で力が入らないのか、それとも邪魔をさせまいと『力』が働いたのかその肘が再びピンと伸びて、腕全体が痙攣した。

過呼吸の影響か、それとも脳からも力が抜けてしまったのか、思考力さえも落ちつつあった。シルバーはこれが悪い夢なのではないかと思い始めていた。転んであちこち痛めたはずの傷も麻痺して何も感じなくなっていた。それでも意識を失うことだけは、彼の最後の理性が必死に止めていた。もう目が覚めたら一面あのみすぼらしい木材の壁に囲まれている、なんてのはうんざりだ。

そうしてやっと服を着たユンゲラーが完成した。身体の変形が止まってもなお、肉体と精神がともに受けたショックのせいか男の叫びは止まなかった。やがてその声の間隔は短くなり、気付けば叫びは笑いに変わっていた。それも楽しげなものではなく、泣いているような、息苦しさに喘ぎながらひたすら掠れた声を上げているような、それでもどこか満足感を帯びた笑いだった。

地獄のような変身ショーは終わり、震えは収まらなかったがようやく体の感覚が戻ってきた。しかし同時に、混乱して頭の中を飛び交う火花と詰まった息が、出口を求めて爆発した。この時初めてシルバーは声を上げた。男の叫びに負けずとも劣らない悲鳴を、息の続く限り上げ続けた。

当然、ユンゲラーは声のする方を見る。まるで自分は人間を超えたとでも言うように、見下ろす形で一体と一人の目が合った。
彼の周囲の木々は漏れ出た力を浴びて大きく歪み、頭上からは明け方の朱色の光が差し込んできていた。ユンゲラーは尻尾を引きずりながら、闇から暴き出された少年の方へとゆっくりと踏み出した。まだ使い慣れない体に戸惑いながらも、確実に前進している。

一度声が出たらもう止められなかった。言葉もなく、ただ「ああ、あああ」と穴の開いた風船のように声を吐き続けた。それはほとんど思考の放棄だった。しかし、こうやって無意味な音で頭を埋め尽くさなければあの光景が再び浮かんできてしまう。シルバーはほとんど発狂する寸前だった。
腕だけで後ろに歩くようにして男だったものから離れようとするが、震える腕で腰の抜けた体を支え切れるはずがなく、長くはもたないだろう。それに、たとえ立って走れるようになったとしても、奴が念力の使い方を覚えればその瞬間、シルバーの運命は確定する。ポケモンを相手にして人間が勝てるはずがない。当然の摂理だ。

ユンゲラーは痛みを感じているかのように額を押さえると、何かを思いついた様子で立ち止まった。ユンゲラーが目を閉じて念じ始めると、途端にシルバーは頭痛がするほどの耳鳴りがして顔をしかめた。
ユンゲラーを中心として、水溜りに水滴が落ちたような見えない波が広がる。シルバーがそれを感じ取ったのはほとんど第六感のようなものと言えるだろう。
「来テクレ!子供ガソレヨリ僕、ヤッタンダツイニナッタンダ!
子供ハ僕ガ何トカスルヨ。ソレヨリ見テホシインダ、今スグニ!ダカラ早ク、早ク!!」
ユンゲラーは遠くへ向かってテレパシーを発した。しかし、加減を誤ったのか近くにいたシルバーにまで言葉が伝わってきた。やっぱり、狂っている。細目のユンゲラーは笑って、指同士がくっついて本数の減った手をシルバーの方へと向けながら、また歩みを再開した。

ああ、もうおしまいだ。
俺はここで捕まって、あの家に戻される。そして、もう二度と逃げ出さないように足を奪われるか、それか自分で思考できるほどの精神も残らないほどに洗脳されて、本当の動く人形にされるだろう。
あの狂った家で、自分が何者であったかを忘れたまま生きる。そうなったら、シルバーという少年がどんな人間であったかを覚えている人間はこの世に存在しなくなるだろう。なぜなら彼はひとりぼっちで、これからは世界で一番孤独な場所から決して出ることなく一生を終えるのだから。
自分の本当の夢も分からずじまいの、虚しいだけの人生だった。

木々が開けてしまった頭上から、夜空が朝焼けの色に染まっていくのが見える。あれが最後に見る空だと思うと、この世の物とは思えないほど美しく感じられて、涙が流れるのを止められなかった。
そんな視界も、宙を滑り接近する影に遮られた。もう、こんなに近くまで来てしまったのか。
少し離れた場所から声がしたが、もうそれを聞いて理解するほどの気力もない。シルバーは目を閉じて、このまま意識が遠ざかるのを受け入れようとした。

小さな爪が、優しくシルバーの手を握った。
疲弊しきってほとんど無に等しい彼の思考の中に、その声は穏やかに染み渡った。
「まだ、眠らないでシルバー。ほんとに、本当にこれで最後にするから。だから、これだけ言わせて。
僕も頑張って、君のトモダチの気配を探してみたんだ。外を探すなんて初めてだったから、本当にちゃんと探せたかは分からない。でも、多分ううん、やっぱり本当はもうどこかに行っちゃったのかもしれない。君の知っている場所とかにきっとね。
でも、どっちでも君はだいじょうぶだよ。僕には分かる。君には居場所があったんだよ。心を許し合った仲間達が。
こんな姿でも僕たちの居場所はここにある。君は自分で、自分の居場所を探すんだよ。
さあ、君の行きたい場所を思い浮かべて。自分がそこにいる姿を想像するんだ。
地面の感覚、空気の匂い君はどこにだって行ける。想像を膨らませて、感じるんだ。
この森であったことは全部夢。もう、君は二度とここに来ることはないんだ。
だから安心して。
もう、目を開けていいよ。」
何も考えずとも不思議と自然に瞼が動いていた。ぼやけた視界に、あの小さな影が映る。
そしてその輪郭がはっきりと見える前に、眩しい光に全て埋め尽くされ、崩れていく。
「あ、!」
「バイバイ。」
全てが真っ白になる。さっきとは違う、熱くて眩しい太陽のような光だ。
意識までもが光に包まれる直前、最後に耳に入ったのはあの母親の悲鳴だった。
愛する者が異形に変わり果ててしまったことを嘆く、悲痛な声だった。


本物の太陽の熱と眩しさを顔に浴びて、意識が戻った。顔の左側にコンクリートのごつごつした感触がして、シルバーはいつの間にか自分が倒れていたことに気が付いた。
空は青く澄み渡っていて、太陽は高く昇っている。もうすっかり、世界に朝が訪れていた。
空の下ではギラギラと光を反射する波が絶え間なく揺らめき、ぶつかり合っている。あの悪夢の始まったクチバの港に、彼は戻ってきたのだ。

シルバーは身を起こし、堤防に腰を掛けて、潮風を浴びながらただ静かに波の音を聞いていた。寝ぼけて記憶を整理しきれない頭でも、あの出来事が紛れもない現実であるということは理解し始めていた。風が吹き抜ける薄手のシャツと首元をくすぐる短い髪の慣れない感触、そして未だ視界の半分を覆い尽くす闇が、それを証明している。

水平線の遥か遠くで汽笛が鳴った。きっと、人々を乗せて旅立った船が戻ってくる知らせだ。
あの船に乗る誰もが、家族に帰りを迎えられる、その瞬間を心待ちにしている。

晴れた空と爽やかな空気とは裏腹に、シルバーの頭の中は未だ濃い霧がかかったようで、あらゆる感情を見えなくしている。
それでも、これから先の不安がどす黒い影としてその奥に鎮座して、彼を待ち構えていた。
今はただ、腹が減った。
ただなんとなく、町の方は見たくなくて、背を向けてひたすら海を眺めるだけだった。

水面に映る影は波に揺られて、形を変え続けている。目を凝らせばその向かいにいる、腑抜けた顔がこちらを見つめていた。今やほとんど風になびくことのない、見慣れた赤色を揺らしながら。

シルバーは一瞬、その顔が得体の知れない化け物に変貌するのを見た。体は服を突き破り、全身が炎のような赤色に染まった、何者かに。

『そして、一度覚えた事というのは中々頭から離れてくれないの。忘れたいと思うほど、より強く意識してしまう。やがてその疑いを勝手に確信し始めて、それ以外考えられなくなるくらい追い詰められる。』

次の瞬間には、何事も無かったかのように、少し顔色を悪くしたあの顔がそこにいた。彼は自分の手をじっと見た後、形を確かめるようにその顔に何度も触れた。心臓がまた暴れだして、震える指はその感覚を鈍くする。呼吸が荒くなるにつれ晴れていった霧の中の影はいつの間にか、その怪物の姿に形を変えていた。

シルバーの胃は煮えたぎるように熱く、胸は締め付けられるように苦しかった。
そして潮の香りに混ざってツンと来る酸っぱさを感じ、全身が大きく震えた。

水面の影は見えなくなっていた。化け物の姿も霧と共に消え去り、全てが空っぽになった。
シルバーは顔にかかった前髪を払い、立ち上がった。その足は街の方へ、よろめきながら進んでいく。
街は家々の窓が朝日を反射して、光り輝いて見える。無機質な暖かさが彼を迎えた。

ああ、あの匂いが忘れられない。
あの家のチャウダーは、今まで食べたどんな料理よりおいしかったな。