よるうみはる。
2026-05-28 01:04:53
4309文字
Public 原作軸
 

朝食の話


 叶黎明は、朝起きて来ない。
 付き合いだしてひと月経つ頃、獅子神敬一が彼のことについて覚えたことだった。
 単純に朝が弱い、ということもあるのだろう。そのうえ、生来の夜型に低血圧が重なっているせいか、声をかけても二度寝を決め込むことが多く、出かける約束がある日なら何とか身体を起こしてくれるものの、基本的にはぼんやりとしたままに、獅子神の運転する横で、すよ……と寝息をたてることも珍しくは無かった。
 昼前にようやく覚醒すれば、場を回したり気の利いたエスコートをしてくれたりと、非常に頼りがいのある男なのだが。
 いかんせん、朝に弱かった。それが別に悪いということでもないが、獅子神は至って普通の感性を持ち合わせているので(あくまで獅子神の自認だが)翌日の朝を共にしてみたいと思っていたりするのだ。
 それに対して獅子神は、前夜どれほど遅くに寝付いても、染みついた体内時計が正確に働き、遅くとも七時前には目を覚ましてしまう。普段は五時起きではあるが、なぜ二時間近くも寝坊してしまうのか……などと言うのは野暮だ。つまるところ、前夜に叶と色々あって体力を削られているわけなのだが、そのあたりは余り聞かないで欲しい。
 閑話休題。
 そんな正反対の朝を迎える日々の中で、叶が珍しく起きてきた際には、当然だが朝食の用意が必要なのだ。
 自分だけの朝食であれば、カットフルーツにささみを散らしたサラダで済むが、叶が同席するとなれば事情が変わってくる。そもそも朝食を摂る習慣のない叶が、寝起き一番に向かう先は決まって冷蔵庫であり、そこから取り出すのは毒々しくサイケデリックな色味をしたエナジードリンクなのだ。それを飲むのが一番目覚ましに良いらしい。どう考えても、ただのカフェイン中毒者じゃないかと獅子神は飽きれるばかりだ。
 閑静な住宅街に建つこの一軒家は、日当たりも良く、朝になればダイニングには心地よい陽光がたっぷりと降り注ぐというのに、その爽やかな空間の中心で、寝癖をつけたままの叶が毒々しいネオンカラーの液体を喉に流し込んでいる光景は、控えめに言っても異様である。いくら彼が自分よりも背が高く、普段はスマートに振る舞っているとはいえ、こんな不健康極まりない生活習慣を放置しておくのは、恋人として見過ごせるものではなかった。
 しかし、いきなり真っ当な食事を突きつけたところで、あの寝起きの胃袋が受け付けるとは到底思えない。エナジードリンクを好むということは、つまり「冷たくて」「甘くて」「噛まなくていい流動食」であれば、彼の身体は抵抗なく受け入れるということだ。
 ならば、まずはその条件を満たしつつ、化学調味料の塊ではない自然なものから慣らしていくのが筋だろうと、世話焼きな思考回路を働かせた獅子神は、次に叶が泊まる際に、ひとつの実験を試みることにした。
 その日の朝、何度目かの声かけでようやくリビングへと這い出てきた叶の前に差し出されたのは、色鮮やかなフルーツが乗ったボウルだった。
 無糖のギリシャヨーグルトに少しの牛乳を混ぜて滑らかさを出し、そこに細かく刻んだ苺とバナナを乗せ、最後に上質な蜂蜜をとろりと回しかけた、冷たくて甘いヨーグルトボウルである。
……敬一くん、これ」
「朝ごはん。今日は、エナドリ禁止な。これくらいなら食えるんじゃねーの?」
 まだ焦点の定まりきっていない目を瞬かせながら、叶は促されるままにスプーンを手に取った。一口すくい、ゆっくりと口に運ぶ。
 途端に、ぼんやりとしていた叶の目が、少しだけ見開かれた。
「あ、美味しい……冷たくて、すごく食べやすいかも」
「だろ。ほとんど噛まなくていいようにフルーツも小さく切ってある。お前のそのポンコツな胃袋でも、これなら消化できるはずだろ」
 獅子神が鼻を鳴らすと、叶は嬉しそうに目を細め、するするとヨーグルトを胃に流し込んでいった。見事に完食したその様子に、獅子神は密かなガッツポーズを心の中で決めたのだった。
 ――まずは第一段階、クリアである。
 それから数日後の週末。冷たいものばかりでは内臓が冷えてしまうと考えた獅子神は、次のステップとして「温かくて栄養のある流動食」を用意することにした。これだけを並べると老人の域かも知れないが、獅子神としては年上の恋人の食生活を改善させるためのメニューでしかなかった。
 午前五時に目を覚まし、キッチンに立った獅子神が時間をかけて作り上げたのは、かぼちゃのポタージュスープである。玉ねぎをバターで飴色になるまでじっくりと炒め、蒸したかぼちゃとコンソメを合わせてミキサーにかけ、生クリームで濃厚に仕上げた本格派だ。クルトンも足せば、食感も楽しめるスープの完成だった。
「おはよう、敬一くん……わ、すごくいい匂いがする」
「起きたか。ほら、今日は温かいやつだ。座れ」
 寝ぼけ眼をこすりながら席についた叶の前に、湯気を立てる鮮やかな黄色のスープを置く。叶はスプーンですくい、ふーふーと少し冷ましてから口に含んだ。こういう仕草が女受けするんだろうなと、寝起きでも実に顔の良い男の輪郭をなぞる。少し跳ねた髪の一部さえ愛しいのだから、獅子神はお手上げだ。本当に、惚れた弱みかも知れない。
「ん……! これ、すごく美味しい! かぼちゃの甘みが優しくて、身体の芯からあったまる感じがする」
「冷たいもんばっか胃に入れてたら調子悪くなるからな。温かいスープなら、寝起きの身体にも負担がかからねえと思ってよ」
「うん、本当に美味しい。敬一くんって、やっぱり料理上手だな」
 褒め言葉を並べながら、叶はあっという間にポタージュを平らげた。温かいものを摂取したおかげか、普段は起き抜けに蒼白になりがちな彼の顔色に、ほんのりと赤みが差しているのを見て、獅子神は口元が緩みそうになるのを必死に堪えた。
 これで第二段階もクリア。温かいものを消化する準備は整ったと見ていいだろう。
 そして、さらに一週間後の休日。いよいよ獅子神は、固形物をメインとした朝食に挑むことにした。
 とはいえ、いきなり重たいものを出すのは得策ではない。胃への負担が少なく、それでいて満足感のあるメニュー。獅子神が選んだのは、ふんわりと焼き上げたフレンチトーストと、牛乳を多めに入れてとろとろの半熟に仕上げたスクランブルエッグのプレートだった。
 卵液に一晩じっくりと漬け込んだ厚切りのパンを、バターを敷いたフライパンで弱火で丁寧に焼き上げる。表面はカリッと、中はプリンのようにとろける食感に仕上がったフレンチトーストに、メープルシロップを軽く垂らして完成だ。
……敬一くん、今日、すっごい気合い入ってない? なんかお祝いとか?」
「ちげーよ。少しは固形物も食えるようになっただろ? お前でも食べやすいように、柔らかく作ってあるからどうかと思ってよ」
 テーブルに並べられたカフェのような見栄えのプレートに、叶は驚いたように目を丸くしてから、フォークを手に取った。
 フレンチトーストを切り分け、一口食べる。その瞬間、叶の顔がパァッと明るく輝いた。
「こんなの作るなら言ってよ~。動画回して、敬一くんの朝ごはんって紹介したのに」
「ばぁか。てめぇだけのもんにしとけよ。ちゃんと見ろ」
 その言葉に叶は、目を見開きすぐに、うっそりと細めた。「そうだな、オレだけのものだな」と笑みを浮かべる。叶は順調にフォークを進めていき、トーストを噛みしめ、卵を味わい、添えられた温かい紅茶で喉を潤す。その一連の動作には、数週間前の「エナジードリンクを流し込むだけ」の不健康な姿は微塵も残っていなかった。
 綺麗に空になった皿を見て、獅子神はついに完全勝利を手にしたのだと、深い達成感とともに息を吐き出した。
「ごちそうさまでした。敬一くんのおかげで、朝起きるのが少し楽しみになってきたよ」
……そうかよ。ま、お前がこれ以上不健康になるのは見てて気分が悪いからな。せいぜい感謝しろ」
「うん、すっごく感謝してる」
 満足げに紅茶のカップを傾けながら、叶はふにゃりと人の良さそうな笑顔を浮かべた。その表情には、年上の恋人らしい余裕よりも、美味しいものを食べて素直に喜ぶ子供のような無防備さがあり、獅子神はどうにも気恥ずかしくなって視線を逸らした。
 これでもう、朝食のメニューで悩む必要はなくなった。パンでも卵でも、ある程度は普通に出せるようになったのだから、オレの苦労もこれで終わりだ。そう思って安堵の息を漏らした獅子神の耳に、叶ののんびりとした、しかしどこか甘えるような声が届いた。
「ねえ、敬一くん」
「あ?」
「洋食もすごく美味しかったんだけどさ……次は、和食がいいな」
「は……?」
 予想外の言葉に、獅子神は思わず間の抜けた声を出して振り返った。叶はカップを両手で包み込みながら、嬉しそうに目を細めて言葉を続ける。
「ほら、旅館の朝ごはんみたいなやつ。炊きたてのご飯に、お味噌汁と、焼き魚と、だし巻き卵とか……そういうの、敬一くんが作ってくれたら、最高に美味しいだろうなって思って」
 悪びれる様子もなく、むしろ純粋な期待に満ちた目でこちらを見つめてくる叶に、獅子神は目を丸くする。
 流動食から始めて、ようやく柔らかいパンを食べられるようになったばかりだというのに、いきなりハードルを上げすぎではないか。そもそも、休日の朝から焼き魚だのだし巻き卵だのと、どれだけ手間がかかると思っているのか。
「お前な……いい身分だな、おい。誰が休みの日に朝から魚なんか焼くかよ」
「えー、ダメ? 敬一くんの作る和食、絶対に美味しいと思うんだけどな」
「ダメに決まってるだろ。調子に乗るな。……てか、もしそういうの望むなら、前日の行為は無しだぞ……
「えー! やだ! それは絶対やだ~~! でも和食も食べてみたい~」
 叶が駄々をこねて見せるので、にべもなく切り捨てながらも、獅子神の脳内ではすでに、献立が猛スピードで組み上げられ始めていた。
 米は土鍋で炊くとして、味噌汁の具は豆腐とワカメが無難か。魚は塩鮭の切り身がいいだろう。だし巻き卵は少し甘さを控えて、出汁をたっぷりと効かせたやつがいいかもしれない。
 文句を言いながらも、結局のところ自分は、この男の喜ぶ顔を見るためにキッチンに立つことをやめられないのだと、獅子神は内心で深くため息をついた。
 次に一緒に朝ごはんを食べるのはいつだろうと、獅子神は心待ちにしながら口角を薄く持ち上げたのだった。