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鴇羽
2026-05-28 00:31:56
29758文字
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ツイステ
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きっと最後の恋になる 改訂版
6月末のイベントに向けて同名の過去作(
https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=17094734
)を書き直し中です。
誤字脱字チェック等はこれからです。だいぶ加筆してます。たぶんハッピーエンドになるけど万人受けではないです。
「小エビちゃん、別れよ」
そうやって口にするのは自由気ままな彼の性格を考えれば、見ようによっては誠実なのかもしれない。けれどそれを突然決定事項のように告げられたユウにとっては思考が停止してしまうくらいの不意打ちでしかない。
一瞬にして呼吸の仕方を忘れてしまったかのように息が詰まるのに、耳の奥の方から血管が脈を打つ音だけは聞こえて夢ではなく現実なのだと頭に理解させようとしてくる。
「な、なんで、」
どうにかこうにか言葉にできたのはそれだけ。それだけだけれど十分に意味を持って彼
――
フロイドに届き「だってさァ、」と聞きたくもない言葉の続きが紡がれる。
「小エビちゃん最近うざってぇなって。朝のオハヨウメッセージやらオヤスミ電話やら毎日毎日、今日はアレしてコレして昼飯はいつも一緒にとってそのうえモストロまで来てさァ、コイビトだからってそんなに四六時中行動を一緒にするみたいなの、オレ、嫌なんだよね」
「ご、ごめんなさい。
……
あの、これから気を付けますから
……
」
「でも小エビちゃんにとっての〝コイビト〟はそうだったわけでしょ」
じゃあさ、分かり合えねぇんだよ。
フロイドの言葉がユウに突き刺さる。
「小エビちゃんと一緒にいたいって思ったのは、そういうことじゃなかったし」
そう言ってフロイドはユウの返事を待たずにその場から立ち去っていく。
じゃあねも、バイバイもなく、こんな呆気なく、簡単にユウとフロイドの半年が終わってしまう。終わってしまったのだ。
フロイドはいくら気分屋だといってもこんな冗談を言う人ではない。それくらいのことはユウにだってわかっている。むしろ気分屋のあのフロイドだからこそ、半年も続いてきた仲をこんな言葉にしてまで無に帰すなんていうのは意志が固いことの表れであるはずだ。
――
こんなつもりじゃなかった。
ユウだってフロイドと付き合い始めたときは、そんな四六時中連絡を取るみたいな、そんな行動をするつもりはなかったし自分がそうなるとなんて思ってもいなかった。そもそもフロイドと恋人になったのだって、そんなに強い感情があってのことではなかった。
けれどこの半年の間にフロイドはユウにとってとてつもなく大きい存在になっていて、それが突然欠けてしまった今、感情の整理が追い付かず立ち尽くしてしまった。
まるで地面に足がついていないみたいに、この世界から一人突き放されたみたいに、息の仕方すらわからず。ただ強く握りこんだ手の中で、親指の爪がガリと皮膚に傷をつけた。
**
フロイドとユウが恋人になったのは特にこれといったきっかけがあったわけじゃない。
ユウがこのツイステッドワンダーランドに落ちてきてから連続して発生したオーバーブロット事件。詳細は省くがそのうちの一人であるアズールと対峙したときにフロイド・リーチという人をユウは初めてちゃんと認識した。
その時は好意なんて何にもない。むしろ恐怖の方が勝っていた。陸でだって自分より頭一つ分以上背が高く、人魚の姿だと身体二つ分以上向こうの方が長いのだ。その両方の姿で追い掛け回された経験があれば恐怖だろう。こっちは魔力どころか筋力だって大してないただの人間なのだ。圧倒的強者。それがフロイド・リーチだった。
けれどそのアズールのオーバーブロットに関する事件が終息を迎えてからフロイドはユウを追いかけまわすようなことはしなかった。廊下で会えば普通に会釈をしたり挨拶したり、時には話したり。ユウといつも一緒にいることの多いエースがバスケ部でフロイドと一緒だから部活でのフロイドの様子を雑談の中で又聞きしていたことも影響したのか、あまり接することのない同級生達よりかは少し親近感があった。
フロイドは自由気ままで気分屋。けれど意外とフロイドは人の話を聞いてたりする。そのうえで自分がその話や意見に従うかどうかは別問題、というだけ。悪く言えば自分勝手で自己中。良く言えば自分の芯が強い。誰にも屈しない精神を持つ人だ。授業態度は褒められたものじゃないが、成績が悪いわけじゃない。真面目にテストを受ける気がないだけで彼は天才というやつなのだろう。
このナイトレイブンカレッジという学園においてどうやったってユウは異質だ。
異世界人。
魔法士養成学校なのに魔力なし。
七寮のどこにも属さない、廃墟のような建物暮らし。
魔獣とひとセット。
女子。
普通の高校生の距離感とは少し違う、遠巻きにされる感じはしょうがない。下卑た視線があるのも気づいてはいるがそれをわざわざ指摘をしたり目くじらを立てるようなこともできない。時たまわざとこちらが気付くような声で猥談紛いな言葉を交わしたりしているがそれも気づかないふりだ。それが一番、自分にとってはやり過ごしやすい方法だった。ユウ自身がこの学園において異質で異物であることは間違いないことなのだから。
「ユウ、そのクセやめろって」
「え。あ、」
昼食時の大食堂。少食の自分に比べてグリムの方が食べる量が多く、その食事が終わるのを眺めていた時のことだった。
エースに言われてその視線の先を見ると、自分の指先の皮が捲れあがっていることに気づいた。ささくれだっていた部分を無意識に爪でいじり、ピンク色の肉が見えてしまうくらいに痛々しいそれにエースが顔をしかめていた。認識してしまうと自分でも痛みを感じ始めて、じくじくとそこが余計に気になり指の腹でさすってしまう。悪循環だ。やめなくちゃいけない癖だとは思っていても無意識下でのものだからなかなかやめられない。
「ハンドクリーム塗った方がいいんじゃないか? あ、でも傷口にはだめか」
「一応ハンドクリームは塗ってるけどね」
「塗ってるっていうけど、たまにじゃねぇか」
「つい忘れちゃうんだよね」
デュースの言葉にちゃんとケアしてると返すものの、即座にグリムによって否定されてしまう。忘れてしまうというのは半分本当で半分嘘だ。就寝前に自室の机に置いてあるハンドクリームを目にするものの「今日はまだそこまで荒れてないからいいか」とか「指先だけほんのちょっと塗ろう」とかそんなことを言い訳に使う量を制限しているのだ。そしてまた手荒れが悪化してからいつもより多めに使う、そんな感じだ。そもそもこの手荒れは購買で売っている最安値の品質のものでは治らないだろうなということはわかっている。生活費は学園長から渡されているものの、それをすべて使うことなど恐ろしくてできなくてハンドクリームに限らずユウの生活は本当に最低限の品質のもので成り立っている。グリムは食事さえあればほとんど気にしない性格をしているので食費に重きを置いているというのもある。ユウだってひもじい思いをするくらいなら手が荒れているくらい大した問題じゃない。
「食堂でバイトでもしてお金貯めようかなぁ」
「食堂なんて水仕事なんだからもっと手が荒れるだろ」
「じゃあやっぱり学園長の小間使いで小遣い貯めようかなぁ」
「ハリネズミの指先みたいな額の小遣いになりそうじゃないか?」
「学園長がちゃんとしたバイト代くれるわけがねぇんだゾ」
それはそうだと納得する。別に学園長が悪い人な訳ではないんだが、たぶん生活費というものにあまり頭が回らないのだろうとは思う。学園長にしたってユウに生活費を渡すことは事故のようなものだしユウから必要以上に催促するのも憚られて今の状態になっている。
どうしたものかな、とユウは内心ため息をつく。
別に手荒れくらいで死ぬわけじゃあるまいしとは思うのだけれど、この学園では自己ケアする人間が多いのか、きっとユウみたいな感覚の人間は悪目立ちするのだろう。それを開き直れるぐらいの胆力があればいいが、そういうわけでもない。そんな時だった。
「なァに。小エビちゃんバイトすんの? モストロでやる?」
背後から現れた長身。立って並んでいても見下ろされるのにこちらが座っている状態では余計にその影の中に入ってしまう。
「フロイド先輩」
「小エビちゃんならいいよぉ。皿洗いぐらいできるでしょ? アザラシちゃんはダメだけど」
「ふなっ! オレ様だって二度とゴメンなんだゾ!」
以前、頭に契約違反によってイソギンチャクを生やされスポンジになったことを思い出したのか、グリムはフロイドの言葉に縮こまって頭を抑えながらも強気に反抗した。声が少し震えて強がってるように見えるのは気のせいじゃないだろう。
「皿洗いバイトはちょっと
……
、手荒れ悪化しそうなので」
「手荒れぇ? うっわなにこの砂漠みたいな手。ガサガサじゃん。小エビのくせに潤いねぇじゃん」
ユウの手を見るやいなや少し引き気味に顔を顰めるフロイド。そりゃあ人魚に比べれば潤いは少ない方だろうが、そんなに顔を顰めるほどだろうか。
みすぼらしいユウの手には一瞬にして興味を失ったようにしてフロイドは「そんなことよりさ、」と話を切り替えた。
「小エビちゃん、家具作ってるんだって?」
「えぇ、学園長から貰ったマジックアイテムで
……
」
先日、オンボロ寮の整理をしている時に見つけたマジックアイテム。それを使うと材料さえ揃っていれば自分が思い描いた通りの家具や雑貨が出来上がる。魔力のないユウにでも使える画期的なアイテムだ。それを奮って最近はせっせとゲストルームや自室の手入れをするのが趣味になりつつある。
フロイドの問いかけに肯定すれば、彼は口角をくいっと釣り上げて歯を覗かせる。
「どんな家具作ってんの? オレ、気になってんだよねぇ。見せてよ」
どこでそれを知ったのかは知らないが、きっとアズールがモストロ・ラウンジに使えそうだとかそんな商機を感じ取ってフロイドを遣わせたのかもしれない。だとすれば人選は正しい。有無を言わさぬ雰囲気にユウは頷いてそれを受け入れたのだった。
放課後、今まで足を踏み入れたことのない廊下をユウは歩いていた。フロイドと約束してしまった手前、迎えに行かないといけないと思ったからだ。同級生にさえあまり馴染んでいないユウにとって上級生の教室エリアなど余計に歩きたくない。すれ違っては二度見する人や、「あれ、オンボロ寮の監督生じゃ?」みたいに珍獣のようにヒソヒソしている人もいる。物陰に隠れてヒソヒソしてくるのはたいていイグニハイド寮生で、真正面から「上級生の教室になんか用なんでちゅかァ?」と煽ってくるのはサバナクロー寮生だ。どうしてナイトレイブンカレッジ生っていつも喧嘩腰なのだろうか。ただ歩いているだけなのにどうにも雑音が多くてメンタル弱い人間はこの学園ではやっていけない気がする。
周りの視線を気にすることなく歩き続けるが、一つ問題があった。フロイドのクラスがわからないのだ。普段よく話す友人ならともかく、フロイドとの距離感はそれよりも遠い。二年の教室の前を歩きつつもきょろきょろとする様子はユウをさらに異質なものにさせているだろう。
若干めんどくさくなりつつあるのだけれど、一度交わした約束
――
たとえそれがユウにとっては不本意なものであっても
――
を破った時の方がめんどくさくなる気がした。
あんな長身、少し探せば見つかりそうなものだが、どうもうまくいかない。せめて誰か知り合いがいないものか。そう思った矢先、視線の先に見知った人間がいて目が合った。向こうもユウに気づいてニコリと太陽のような笑顔を見せてきた。
「ユウじゃないか。珍しいな、どうしたんだこんなところで。迷子か?」
そう手をあげて話しかけてきてくれたのはカリムだ。すぐ隣にはジャミルもいて「迷子じゃないだろう」と呆れたような声を出す。
「誰かを探している風に見えたが、一体誰を探しているんだ?」
「フロイド先輩です」
「
……
フロイド? 何でフロイドを?」
「ちょっと約束をしていて
……
」
「遊ぶ約束か?」
「そういうんだったらよかったんですけど」
「大方、一方的に取り付けられた約束だろう。悪いが関わりあいたくないからフロイド探しは手伝えないが、あいつはD組だぞ」
約束相手がフロイドだと聞いた瞬間に、ひくりと右頬が痙攣したように引きつり、半歩後ろに下がったジャミルの様子があまりにもあからさますぎて笑ってしまいそうになる。そんな態度をしているけれど確かジャミルはフロイドと同じ部活じゃなかっただろうか。一体普段はどんな距離感で接しているのだろう。きっと問いかけたところでジャミルは苦虫を噛み潰したような顔をするだけだろうし、フロイドはフロイドで鋭利な歯を覗かせて笑って「仲良くしてるよねェ?」などと言ってのけるところが容易に想像できた。
「D組ですね、ありがとうございます」
「おう。気をつけてな!」
「ありがとうございます」
一体校舎内で何に気を付けるんだかわからないが、とりあえず二人に頭を下げて別れる。教室の扉に掲げてあるクラス表示に目を向ける。A、Bを通り過ぎて、すぐ隣にある扉にはCと書いてある。ということは次の教室がDのはずだ。まだ少し雑音が聞こえる廊下を、先ほどよりも少し大股に歩き、少しでも早く前へと足を運ぶ。
今はもう慣れたことだが、この教室の扉には最初は戸惑った。ユウの常識では学校の教室の扉なんてものは簡素なスライド式のものだったのだ。しかしこのナイトレイブンカレッジでは違う。そもそも学園としての造りも違うのだから当たり前なのかもしれないが、そんな簡素な造りのドアなんかじゃない。本当に〝扉〟という感じのものなのだ。両手を添えるような立派な手すりが備え付けられた重厚な扉。まるで美術館だとかそういうのに似合いそうな雰囲気なのだからもう自分が生まれ育ってきた文化と違うと最初から打ちのめされたものだ。
そんなこの世界での常識である教室の扉を開く。重厚すぎてユウにはやや重たいが少し嫌だ。
薄く開いた扉に身体を滑り込ませる前に視線で探る。そして目当ての人間をすぐに見つけた。こういうとき身長が高い人は探しやすくていい。たとえ背もたれに体重をかけて机に脚を投げ出した体勢で眠っていたとしても存在感がある。青とも緑ともいえるような色合いの髪がさらりと流れて、こんなに教室での昼寝が似合う人なんて漫画の中のイケメンキャラだけかと思っていた。まぁ実際フロイドは顔がいい人なんだろうけども。
身体を教室の中に滑り込ませて扉を閉めた瞬間に、まだ教室に残っていた生徒たちの視線が一つ二つ三つと徐々に増えてユウに向けられたことにきゅっと唇を引き結んだ。足早に、もうほとんど走っているみたいなスピードでフロイドのところまで駆け寄る。
「フロイド先輩、」
フロイドに話しかけた瞬間に教室内の空気が少しざわついた。なんで寝てるフロイドに声をかけるんだよ、馬鹿か。言葉にされずともそういう意味合いのざわつきなのだというのが肌で分かる。もしかしたら寝起きのフロイドは不機嫌なのかもしれない。起こしても危険、起こさなくても約束を破ることになって危険。最悪の二択。それでもユウは前者を選ぶ。
「フロイド先輩、起きてください」
「
……
あァ?」
睨まれた。
その声色だけで不機嫌ですとわかるような低さで、ざらついた声がユウの喉元に突き付けられる。眼光は鋭く、気道が締められてしまうような心地がした。それでもどうにか勇気を引き絞って口を開く。
「お、はようございます。フロイド先輩」
「
…………
小エビちゃんじゃん」
「はい。小エビです」
「なんでここにいんの?」
数拍おいて視線がゆるゆると柔らかいものに変わっていき、声色もいつものフロイドの調子のものになったことで肩の力が抜ける。一勝負終わった気分だ。本題はここからなのだけれど。
「フロイド先輩が家具見せてって言ったじゃないですか」
まだ寝起きで頭が回ってないのだろうか。ユウの言葉をゆっくりと噛み砕くように聞きとって、視線を左上の方へ漂わせてから「あぁ~」と納得したように声を出した。
「そういえばそんなこと言ったね」
「思い出しました?」
「思い出した思い出した。なァに。それでわざわざ迎えに来てくれたわけ?」
小エビちゃんは小エビだねぇ、なんてよくわからないことを言っているのだがどうやら機嫌は上向きの様子で、机に投げ出された長い脚がリズミカルに床に着地し、立ち上がる。
「じゃ、行こ」
あっという間にいつものように見下ろされ、目を細められる。ついさっきまで恐怖感があったのに今はそんな印象はない。対応が目まぐるしく変わるなか、フロイドはユウのことなど気にもせず歩き始める。フロイドの一歩はその更新帳に見合うくらいに大きい。ユウなど簡単に取り残されてしまう。遅れないように慌ててその後を追うと、あの重厚な扉をフロイドは軽々と開けて、ユウがそこを通るのを待っていてくれた。追いかけるようにその扉をくぐりフロイドの横を必死に歩いていると、雑音が聞こえなくなったような、そんな気がした。
オンボロ寮までは結構遠い。
校舎からメインストリートへ出て、脇道に逸れて購買であるミステリーショップの前を通り、ユウとグリム以外の生徒全員がそれぞれの寮に戻るために使う鏡舎を横目に崖のようになっている地面にかかった石造りの橋を渡り、右手に魔法薬学室、左手に植物園のある道を通り過ぎて、さらに奥に進んだ先にある。
「小エビちゃん、毎日こんな道通ってるとか、マジで無理」
「でも、こんな立地にあるオンボロ寮をモストロ二号店にしようとしていたんですよね?」
「そんときはさァ、道繋げる予定だったんだよ」
そう言ってフロイドはオンボロ寮と校舎を指の先でつなぐ。
実はオンボロ寮のすぐ横に校舎があるのだが、その間にはそびえたつ崖とうっそうと生い茂る森があり、どう考えても直接通れるような状態ではない。飛行術が得意な人間ならばそれらを飛び越えていけるかもしれないけれどユウには無理な話であった。もちろんいくらモストロ・ラウンジが学園内で人気のカフェだとしてもわざわざ放課後に飛行術を使ったり、ましてやこんな長い道のりを歩いてまでやってくる生徒は少ないだろう。そう考えると、あの手この手で学園長と交渉して校舎から直通の道を作り上げてしまう方が簡単に思えた。
「
……
ってことはオンボロ寮をあのままアズール先輩に明け渡していれば私はもっと楽に通学できたってことですか?」
「その代わり小エビちゃんとアザラシちゃんはボロ雑巾になるまで働かされてただろーね」
「でも慣れればなんとかなるのでは?」
とそこまで考えて、いやあのアズールならば無給で働かせられるかもしれないと考えを改めた。やはりちょっと遠くても今の状態がいいのかも。もしもの未来を考えてみてうーんと唸る。そんな様子をフロイドがパタパタと瞬きをしたのち面白いものを見たとでもいうように口角を上げた。
「小エビちゃん、やっぱ図太くておもしれーね」
「図太い、ですかね?」
「普通はさァ、寝床を追われた魔力のねぇ奴がいろんな奴をけしかけてそれを取り返しに行くなんて考えもしねぇし。ましてやそれを思い返してみて〝やっぱりあのままでもよかったかも〟なんて言わねぇよ。だって寝床追われてんのは事実なんだよ?」
「いや、それやったのフロイド先輩側なんですが」
「だからそういう話をオレに言うところも含めて」
カラカラとフロイドは面白いものを見たかのように笑う。そんなに面白いことを言ったつもりはないのだけれどどうやらフロイド的にはユウの言動がお気に召したらしい。オンボロ寮までのそれなりに長い道のりだ。フロイドの機嫌が良いことに越したことはない。そんな風にしていつもよりも長く会話していたからかもしれない。なぜだか自然とユウの口が開いた。
「でも、結局はあの時やけくそだったのかも」
「なにが?」
「オンボロ寮を追われたとき
……
っていうか、たぶん、今もずっと、どうにでもなればいいやって思ってるのかもしれません」
ユウの視線の先にはオンボロ寮がもうすぐ間近にある。今はもういろいろな手が加わって綺麗に改装された建物となっているが、それこそここに住み始めたときはただの廃墟だった。そこにグリムと二人で住み始めたあの時から、ずっと、ユウはその所在を追われ続けている気がする。居場所がない。ただ唯一の居場所がオンボロ寮で、ここだけはユウの安全地帯だった。
「人間って、たぶん、どうにでもなれって思ったら何でもできる気がするんですよ。それこそボロ雑巾みたいに働き続けるとか」
「つまんねぇの」
その答えにユウはどう答えればいいかわからなくて無理やり笑うことで会話を終わらせた。〝つまんない〟と思える人はどうにでもなれって思える前に現状から抜け出す力も環境もある人だ。ユウにはその両方がない。
オンボロ寮の敷地の始まりは重厚な門から始まる。
両手で持って身体のすべてを使ってようやく開くぐらいに重い鉄製の門扉。それを開くとアプローチがあって、ちょっとした庭があって、そして寮の建物だ。
長い脚をもっているため、ユウよりも数歩先を行くフロイドが「やっと着いた」なんて言いながらその重厚な門扉に手をかけようとした。その時だった。
「先輩、待って!」
「ハ?
……
ッッテェ⁉」
慌てて止めたのだけれど間に合わなかった。
バチンッ、と大きな音を立ててフロイドの手が門扉にはじかれる。その勢いはすさまじく、ユウはその音と光景を久しぶりに見たものだから思わず肩を竦めてしまった。
「ごめんなさい、言うの遅れました」
「ハ? なにこれ? 今オレ雷に打たれた?」
「防犯システムです」
「防犯システムぅ?」
はじかれた左手をぷらぷらと見せつけながらフロイドが怪訝そうな顔をした。防犯システムというか撃退システムだ。それでも自分をはじいた魔法が気になるのか門をじっと睨むように見ている。かけられている魔法を解析しようとしているのかもしれない。寮長クラスの人たちや好奇心が強い人たちはこの門扉を見るたびにそれを解析しようとしている姿がよく見られる。
「その門、防犯魔法がかかっていて、私かグリムの許可がない人は入れないんです」
「だいぶ強い魔法じゃん。全然解析できる気がしねぇもん。マンタ先生がかけたの?」
「マン
……
主に学園長です。あとは、ツノ太郎もちょっと」
「ツノ太郎? ってなに、誰?」
「マレウス・ドラコニア先輩です」
「あぁウミウシ先輩ね」
ツノ太郎もたいがいだがウミウシ先輩も似た通ったかのあだ名である。
そのツノ太郎ことマレウスが少し前に唐突に「この量の防犯はどうなってるんだ」と問いかけてきたのがきっかけだった。
曰く、マレウスはそれなりにユウのことを気に入ってくれているらしく、来年度のインターンシップ先も決まりいよいよ学園から離れて生活するのが迫ってきたことで、ふとこのオンボロ寮の防犯とユウの身の安全が気がかりになったらしい。今まではマレウス自身がたまに寮の敷地を訪れていたことでそれなりの防犯になっていたのだろうがと口にしたことで、ユウもそういえばどうなっているのだろうと首を傾げた。まぁ今まで廃墟だったわけだしそんなたいそうな防犯魔法などかかってないだろう。今更と思いつつも学園長にそのことを話したら「あ、あーっそうですね、いえね。忘れてたわけじゃないんですけどね!」と言い出したのでこの急遽オンボロ寮に防犯魔法が施されることになり、それならばさらに強化してやろうとマレウスが重ねがけをしたのがこの雷に打たれるような門扉である。
オンボロ寮の住人であるユウとグリム、防犯魔法をかけた学園長とマレウス以外は誰も触れることすらできない恐怖の門扉だ。例外は合鍵を渡されたエースとデュースだろう。この合鍵を持っていれば門扉の防犯システムと連動して雷に打たれることはない。そして恐ろしいのは子の防犯システムは寮内でも有効であるということだ。門扉をくぐった後でもマスターキーを持った状態のユウが「この人間を排除しろ」と念じればシステムが作動して強制転移で寮外に叩き出される。おかげでユウは自身の持つマスターキーがとんでもないものになってしまったので肌身離さず持つことにしている。
「フロイド先輩、どうぞ」
門扉に手をかけながらマスターキーを持つユウがそう許可を出したことでフロイドに対する防犯システムが解除される。そのユウの言葉にフロイドは再び門扉に手を伸ばす。先ほどの雷がよほど痛かっただろうに迷いのないその行動に少し驚く。この人には恐怖心というものがないのだろうか。
「へーほんとだ。すげーね」
面白いおもちゃを見つけた子供のように、きらきらとした瞳で門扉に触り続ける。「全然解析できねぇ~、わかんねぇ~」と全くひとかけらもその魔法解析がうまくいかないことにすら面白さを見出しているようだ。
「オンボロ寮って面白れぇね」
「この場合、寮っていうより魔法が面白いんじゃないですか?」
「あ? そうかも? この面白さがわかんねーなんて小エビちゃん勿体ねぇ~」
それは言葉としてはユウが良く投げつけられる言葉に似ていた。〝魔法が使えないのに魔法士の勉強してるなんて意味がないのにねぇ〟と嘲るような内容のそれだ。しかしフロイドの言葉はただ純粋に〝魔法を理解できればもっと楽しいのにね〟というような響きのような気がした。ユウの勘違いなのかもしれないけれど、なんとなく、そうであってほしいなと胸がぽっと温まった心地がした。
「ゲストルームにね、とりあえず作った家具を置いてあるんです」
門扉からアプローチを通り、錆びついたドアノッカーのついたドアの鍵を開ける。ガチャリと音を立てて施錠が解除されたドアは昔ながらの造りなのかこれも少しユウには重い。それをユウの頭の上で手をドアに添えたフロイドが大きく開いた。片手一つで行えるその動作に体格差を感じる。
「お。結構綺麗じゃん」
「改装
……
というか改築しましたからね」
VDCの賞金を使って改装されたのはもう一か月以上前のことだが、フロイドには見慣れない光景のようで物珍しそうに中を見渡す。きっとフロイドの記憶ではあの住居差し押さえの時の名前の通りオンボロだった姿を思い描いていたのだろう。
玄関から一番近いゲストルームに案内すると、自身が作った家具たちがテーマ性を持って並んでいる。今のテーマはベーシックでシンプルな家具だ。オンボロ寮の色調に合わせた木目調と深緑の布地の組み合わせの家具。落ち着いた色合いで裕は好きなのだがエースは地味だと言っていた。そりゃああのハーツラビュル寮の内装に慣れた人間にとっては原色がないだけでだいぶ地味だろう。
恐る恐るフロイドを見ると品定めをするように「ふーん」と視線を動かしている。
「いいじゃん」
「そうですか?」
「部屋全体のトータルコーディネートができてる感じ。カーテンも変えてあんの?」
「はい。カーテンレールも植物っぽいデザインにしてみました」
ついでにカーテンをまとめるタッセルも植物デザインのレースを取り入れてあるのだが、それもフロイドは気付いて頷く。
「小エビちゃんセンスいいね。そのアザラシちゃんのぬいぐるみはいらねぇ
―
けど」
「えっ、グリムのぬいぐるみですよ? 可愛くないですか?」
「いらねー」
からからとフロイドが笑う。けれどやはりそれは馬鹿にしているとかそういう笑い方じゃなくて、会話を楽しんでいる笑い方だった。
「なんかインテリア参考にしたの?」
「学園内にある可愛いなって思った家具を写真にとって、それを見ながら作ったんです。だから私がセンスがいいわけじゃなくてもともとあるものを組み合わせただけなんです」
ゼロから自分が考えて作ったのならすごいのかもしれないがそうでもない。結局は既製品の寄せ集めだ。だからここまで足を運んでくれたフロイドには悪いがそう大したことではないのだ。色を変えたり形を作ったりという魔法を使える人たちならきっと誰でもできることだろう。自然と指に力が入ってまたささくれが捲れた。じくり、と指先を見なくてもきっと皮が捲れ過ぎて血が滲んでいるだろう感覚を無視しつつフロイドを見るとなぜか眉根を寄せて怪訝そうな顔をしていた。
「なんでそんなこと言うの?」
「え?」
「オレがセンスいいじゃんって言ってるんだから素直に言葉を受け取れよ」
若干ざらついた響きのそれに肩が揺れる。
「材料だってさ、限りあるわけじゃん。色変え魔法とかみたいにもともとの物から作るわけじゃねぇんだから」
「え、あ、はい」
材料になる木材やら布やらは学園内の雑用をしていて余ったのをもらったりしたものがほとんどだ。校舎やコロシアムなどからわざわざこの遠い道のりを運んできたものも多くある。
「何とどれを組み合わせて、どんなの作ってっていうその取捨選択のセンスがいいって言ってんの。それは魔法士だからだれでも使えるもんじゃねぇーし、むしろ想像力が足りてなくてうまく魔法が発動しねぇ雑魚よりよっぽど小エビちゃんの方が力があるって思ったわけ」
「は、はい」
二メートル近い身長の男に見下ろされるのはやはり圧がある。それでもそのフロイドの言葉はユウ自身を馬鹿にするものじゃなくて、思考回路に腹を立てているようだった。まるでユウはすごいと、能力があるとそう言ってくれているような、そんな言葉にじわじわと握りこんだ指の力が抜ける。
「聞いてんの?」
「は、はい!」
「じゃあ、オレ専用の椅子作ってよ。丸くて、でもシャープで存在感あってさりげないやつ」
「はい!
……
えっ?」
フロイドの勢いに押されてはいと言ってしまったけれど、すぐにこれは絶対に頷いてはいけないやつだと気づいた。フロイドの表情を見ればさっきとは打って変わって口角を上げてニヤついている。
「言質取ったかんな。あと、オクタヴィネル来て同じ系統の家具作ってもらおっと」
「え? え?」
「大丈夫大丈夫。材料はオレが話付けて集めてあげるからさ」
それはきっと温厚なお話合いなどではなく、きっともっとほの暗い交渉の末に手に入れるものだと容易に想像ができた。そしてその一連の流れに自分があっという間に組み込まれたことにも気づく。気づいてからでは後の祭り。きっともう逃げられないだろう。けれど。
「小エビちゃん、頼りにしてんね」
その言葉がなんだかとても嬉しかったから、ユウはその計画に組み込まれることを良しとしたのだった。
「なんか最近、調子いいじゃん」
ぐつぐつと魔法薬学の鍋に材料となるドライニードルの葉を入れながらエースがそう口にした。たしかに最近魔法薬学は失敗が少なくなった。まだ大鍋を撹拌するという作業に慣れない時はそれこそよく爆発させたりしていたものだ。
「オレ様がすげーからだな」
ふふん、と火力の調節をしながらグリムが得意げに鼻を鳴らす。本当にグリムも最初に比べればだいぶ魔法士らしくなった。嫌いな授業は逃げないし、器具を壊さずに洗うこともできる。授業だってユウの要約を必要としなくなってきた。
「さすが親分」
「当たり前なんだゾ」
言葉ではそう口にしつつも面と向かって褒められると嬉しいようで三又の尻尾がゆらゆらと揺れている。
だというのにエースは「違ぇよ」と呆れた声でそれを否定する。
「ユウが最近機嫌良さそうだなっての」
「
……
そう? というか前は機嫌悪そうな感じだったの?」
「機嫌悪いっつーか、なんつーの? 楽しくなさそうな顔すること多かったじゃん」
「
…………
そうだった?」
自分では全く意識していなかった表情を指摘され思わず眉根を寄せてしまう。
「マジ? 無意識?」
「子分って、基本的にいつもムスッとしてんだぞ」
「そんなつもりなかったんだけど
……
」
もしかすると知り合いでもない人間たちから揶揄されることに反応しないよう聞こえないふりなどをしていた時にそういう表情をしていたのだろうか。そう考えてふと気づく。最近、そういうふうに揶揄されることが少なくなった気がするのだ。魔法薬を撹拌するへらを持つ指先を見ればずいぶんとひび割れもささくれもなくなった。それをユウはただ単に気候が冬から遠ざかって乾燥由来の肌荒れがなくなったからかと思ったが、もしかしたらクセとなっていた指先いじりをしなくなっていたかもしれない。
雑音に対して無の感情でいたことも指先をいじるクセも無意識下のことだったのでよくわからないけれど。
「なんか理由、思い当たるんじゃねぇの?」
そんなもの、思い当たる節などないというのに、エースはどこかニヤニヤした表情で問いかけてくる。まるで「全部お見通しだぜ」とでもいうような様子にユウは首を傾げた。
「フロイド先輩、付き合ってんじゃねぇの?」
「
……
誰が?」
「ユウが」
「またなんかそういう噂が立ってるの?」
時たまユウには誰それと恋人になっている、という噂が立つ。基本的にそれはエースだったリデュースだったり。たまにはジャックだったり、稀にクルーウェルと爛れた関係になっているなどという噂も流れた。いくらユウがこの学園においての〝異物〟であるにしても随分とゴシップ好きの人間ばかりいるものだと呆れたが。今回はフロイドが相手になってしまったらしい。
「噂っつーか、今回は事実じゃねぇの?」
「どうして?」
「だって、フロイド先輩と一緒にいること、やたら増えたじゃん」
「あー、それは、そうかも」
ここ最近の自分の行動を思い返してみて肯定する。
先日、フロイドをオンボロ寮に招いて家具を見せてからというもの、フロイドの面白いポイントを何か踏んでしまったらしく、ことあるごとにオンボロ寮までやってきてはユウが家具を作るのを見ていくようになった。時にはポップコーンバケツを持ち込んだり、焼き立てのピザを持ってきたりしてそのまま一緒に早めの夕食を取ってしまうこともある。フロイドの求める〝丸くてシャープで存在感あってさりげない椅子〟はまだできる気配すらないが、モストロ・ラウンジにあう雰囲気の高級感あるが主張しすぎないカーペットなどはいくつか完成させた。それはフロイドを通して納品されたし、その対価としてグリムと一緒に夕食をモストロ・ラウンジに食べさせてもらったりしていた。
「フロイドとコイビトなんじゃなくて、ただ家具を作って売ってるだけなんだゾ」
「ね。窓口がフロイド先輩ってだけで」
「なぁんだ。今回はマジかなーって思ったのに」
今までの恋人のうわさはゲラゲラ笑って本気にもしていなかったエースがそんなことを言うのは珍しい。いったい何がエースにとって決定打になったのだろう。疑問に思って問いかければエースは少し目を丸くした後で「だってさぁ」と再び口を開く。
「さっきも言ったけど、ユウ、明るくなったんだよ」
「そんなに?」
「そんなに」
からかうそぶりもなくエースが至極真面目にそう言うものだから、それにつられてユウも心のうちの声が零れる。
「でも、恋人なんて、フロイド先輩じゃなくても無理だよ」
「なんで?」
「私、元の世界に帰るもん」
それはユウの心の中に常にある本音だ。
いつかは元の世界に帰る。ユウは家族仲が良かった方だと自分でもそう思っている。この年になるとありがちな父親を嫌煙するような気持ちなんて想像もできないし、両親と、兄と、そして少し年老いて腰の悪いダックスフンド。そのうちの誰かが欠けることを考えるだけで寂しかった。現実は欠けたのは自分だったわけだけど。とにかく帰れるタイミングがこの先できるなら、ユウは迷わずその切符を使うだろう。そんな心境で恋人だの作っていいのかという気持ちがある。
「重く考えすぎじゃねぇ?」
「でもさ、」
「学生時代の彼氏彼女なんて一緒にいて楽しいかもの気持ちでいいんじゃねぇの?」
「エースは元カノとそういう感じだったってこと?」
「うるせ」
途中で茶化してみればふいとそっぽを向く。こういうやり取りをできるところがエースと話していて楽しいところだけれど、でも、エースと恋人関係になりたいかと問われれば違う。あくまでエースは友人なのだ。
――
じゃあフロイドは?
浮かび上がってきた疑問に思わず大鍋を撹拌する手を止めてしまった。「あっ、馬鹿!」と慌ててエースがそう口にした時にはもう遅く、大鍋の中の魔法薬からぼこぼこと泡が立ったかと思えば、ボフンッと小さな爆発を起こした。
放課後の麓町。賢者の島は黎明の国本島から離れた小さな島なのでどこにいても潮風が吹いている。島の南端にあるロイヤルソードアカデミーから北端にあるナイトレイブンカレッジまで風が通り抜ける。沿岸に防風林が植えられているわけでもないのでその勢いは結構なものだ。
そんな風にユウの黒い髪は無造作にかき混ぜられて、顔面に貼りつく。視界を遮られたことと髪がまとわりつく不快感に「うわ」と声が出てしまった。今日の風はだいぶ強くて、いくら手櫛で整えてもすぐにまたぐちゃぐちゃになってしまう。そんなかないっこない自然と格闘する姿が面白かったのか、隣にいるその人は大口を開けて笑い始めた。
「小エビちゃん遊ばれてやんの!」
「うぅ~、笑い事じゃないです」
「キリねぇんだから髪結べばいいんだよ」
そう言ってその人、フロイドは胸ポケットに入っていたマジカルペンをつまみ上げて取り出し、まるで宙に絵を描くようにくるりと振る。すると途端にユウの髪の毛がきゅっと後ろでひとまとまりになった。
「えっ、髪ゴムとか持ってなかったんですけど」
「髪の毛で髪の毛まとめただけだし」
「ど、どういうこと?」
ユウは不器用なので自分にできる髪の毛のまとめ方など、ゴムで結ぶ方法しか知らない。髪の毛で髪の毛をまとめるなど、こんがらがったりしないのだろうか。風呂に入るとき一人でちゃんと解けるのだろうか。そもそも今自分には見えない高等部で髪がどんなことになっているのか知ることもできない。
そう不安に思っていると、それが顔に出ていたのかフロイドは楽しそうににやにやと笑った。
「そんなに心配しなくても黒と黄色のまだら模様みたいな髪にはなってねぇって」
「う
……
、」
フロイドの言うそれは先日の魔法薬学の授業でユウが起こした失敗ゆえの被害だった。
完成するまで撹拌し続けなければいけない魔法薬の、その撹拌する手を止めてしまったのだ。途端に魔法薬は穏やかな状態から小爆発を起こし、その飛沫がユウの髪についた。その部分だけに色替え魔法が発動してしまい、効力が無くなるまで黒一色から黒と黄色のまだら模様になってしまったのだ。不名誉なその色をクルーウェルはきちんと授業に取り組んでなかった罰だといって処置をしてくれなかった。翌日には元に戻るから大したことないと。しかしその間にも多くの生徒に見られ、いつも以上に視線が刺さる感じがして逃げたくて仕方なかったのだ。
「すぐにオレのとこに来れば治してあげたのにねぇ」
「でも、それ、タダじゃないでしょう?」
「当たり前じゃん。今度そういうのあったらオレのとこにおいでね」
見返りを求めるぞと言ってる相手に誰が一番に助けを求めるというのか。
「嫌ですよ。フロイド先輩、優しくないから」
「そ? オレ、小エビちゃんにはこれでもかってほど優しくしてっけどね」
そう言ってフロイドは風で暴れるユウの前髪を払うようによける。その自然な仕草にユウは思わず固まってフロイドを見上げた。機嫌の良い、口角を上げた笑みがこちらに向けられている。
今日はフロイドと二人きりで麓町に来ている。
家具の参考になるような雑貨屋に行って、その近くにあるテイクアウト専門の総菜屋さんでおかずを買って今日の夕食にするつもりなのだ。そんな外出プランをフロイドから提案されて、ユウはそれに頷いた。いつかの家具を見せてくれとオンボロ寮に招くのを迫ってきたのとは違う、断っても断らなくてもよい穏やかな調子で誘われたから、ユウもそれに怯えることなどなかった。
「どしたの? 口に砂でも入った?」
だから。
だからきっとこうやってフロイドが覗き込むようにユウの顔を見てくる姿は、きっとはたから見ればデートそのものなのだろう。それくらいの客観視はユウにだってできる。エースやデュース、グリムと出かける時とは違う、楽しいと思うその感覚が微妙に違う。
フロイドが小首を傾げながら「小エビちゃん?」と問いかけてくるそれに、ユウはゆっくりと、言葉を探すように口をどうにか動かす。
「フロイド先輩」
「なァに?」
前髪に触れていたフロイドの指先が外されたかと思えば、腕が下りてきて手を握られる。ユウのものとはまるで違う、大きくて少し硬い手だ。それなのにさらりとした潤いのある感触も感じて、ユウのがさついた手とは大違いだ。
「あの、最近、私とフロイド先輩が付き合ってるっていう噂があるらしくて、」
「うん。知ってる」
「え、知ってるんですか?」
そういう人の噂話なんか気にもしない人だと思っていたので意外に感じて見つめれば、「噂話を知っていることと興味のあるなしは関係ないでしょ」と言われた。確かに、フロイドは人の噂話よりも自分の心情を通す人だ。それを通しても平気な力を持っている。
「あの、恋人って周りから思われて嫌じゃないんですか?」
「別に? オレは小エビちゃんのコト気に入ってるし、そう思われてもいっかなって」
何でもないことのようにそう言って、そして繋がれた手は指が絡む。触れられたところがやけに感覚が敏感になってしまったような、逆にぼうっとするような、よくわからない感覚に熱くなる。
「私、いつか、元の世界に帰るんです。そんな人間と恋人でいいんですか? 重くないですか?」
「重い~? そんなん考えたことねぇよ」
軽い口調で、でも馬鹿にしているわけじゃなく、視線をそらさずにその言葉たちがユウの心に届いてく。
「小エビちゃんは家に帰りたい。いいじゃんそれで。帰るその時までオレと楽しく遊べばいいじゃん」
「そんな軽いことでいいんですか?」
「異世界云々置いといて、今一生を決めるなんて誰にもできないでしょ。恋人作らなければすんなり帰れる、作れば帰れない、そんな単純な話でもないじゃん」
ユウにとっては重い問題をフロイドは軽く答える。一見、無責任な発言にも見えるが、ユウにとっては新しい視点だった。同時にエースに言われた言葉が脳裏によみがえる。
――
学生時代の彼氏彼女なんて一緒にいて楽しいかもの気持ちでいい。
そうなのかな。そんなものなのかな。恋愛関連の話なんて自分からほど遠い世界のもので身近じゃないから知らなかったけれど、そんなものなのかもしれない。
「小エビちゃんは難しく考えてっけど、オレだって明日にはコイビトに飽きて小エビちゃん振るかもだし」
「
……
ふふふ、それ、それはさすがにひどくないですか? 自分からこんな風に言ってきて」
「だって、明日の自分の気持ちなんてわかんねぇもん」
悪びれる様子もなく別れる予防線を張るフロイドにひどいというよりも笑いがこみあげてくる。恋人になるということを〝楽しい〟だけで選ぶんだったらフロイドといるのは楽しい、かもしれない。
「でもさ」
「はい?」
「オレは、小エビちゃんのコト、可愛がってやりたいなぁって思ってるよ」
絡んでいた指先が、ぎゅっとユウを掴む。その熱にユウはなんだか胸が詰まってしまって、少しつっかえながら「ねぇ、先輩」とフロイドに乞う。ユウからフロイドへの、初めてのおねがいだ。
「ぎゅっと、抱きしめてもらっていいですか」
「ここで?」
「だめ?」
「いいよぉ。可愛いおねがいじゃん」
上機嫌にそれに応えてくれたフロイドが、繋がれた指先を引いてユウの身体を傾かせる。それを間違えることなく抱き留めて、背中の後ろに手をまわし、包み込む。
誰かに抱きしめられたのはいつぶりだろうか。
仲がいいとはいえ異世界にいる自分の家族とだって中学生になってからは気恥ずかしさから抱きしめるなんてことをした記憶はなかった、もう何年も前に遡らないと思い出せないその温かさと今自分を包み込んでくれているフロイドの温かさに、ツンと目頭に込み上げるものを感じて、ユウもまたその広い背中に手をまわした。
「私も、フロイド先輩に可愛がられたいかも」
「コイビト楽しもうね、小エビちゃん」
そうしてユウはフロイドと恋人になったのだ。これがいつか苦しみになるとも知らないで。
***
フロイドとユウが恋人になったのは三月の終わり。
冬の寒さもなくなり気候が穏やかになって、それこそデート日和というような日も多くなった頃だった。しかしだからといって世間一般でいうようなデートをするようなことはほぼない。お互いが〝今、楽しければそれでいい〟という軽い気持ちで付き合い始めたこともあって、なんとなく気持ちが向いた時にフロイドが外出やモストロ・ラウンジに誘ったり、ユウがゲストルームに呼んだりとそんなレベルの付き合いだった。
だからユウの交友関係が男子ばかりだからとフロイドが嫉妬することも、フロイドがモストロ・ラウンジの一般開放で外部の女の子たちに連絡先を渡されて執着を見せることもない。それどころか後者について「やっぱフロイド先輩って見てくれ良いからモテるんだなぁ」などとその光景を眺めたりしていたぐらいだ。
けれど他人に二人は恋人かと問われて否定せず肯定することは絶大な効果があるらしい。
フロイド・リーチという人は寮長や副寮長という役職は持っていないというのにその名前は全校生徒が知っている。立てば暴力、座れば暴言、歩く姿は核弾頭。頭のネジを自ら吹っ飛ばしたと称される男、それがフロイド・リーチである。なのでユウがそのフロイド・リーチと恋人になったという噂が広まるにつれ、ユウを取り巻く空気がガラッと変わった。一気に静かになったのである。恋人になる前の、フロイドと会う頻度が増えた頃からユウの周りの雑音が小さくなった気がしていたが、今はもうほとんど感じられない。どういう付き合い方をしているんだろうかと野次馬のように様子をうかがってくる人間はいるが、大して気にならない程度だ。この学園で大多数にとっての強者の立場にいるフロイドに目を付けられたくない、そんな意図が透けて見える。さながらユウは虎の威を借る狐だが、その虎であるフロイドの方が何も気にしていないふうなのでありがたく威を借ることにしたのだった。
「フロイド先輩、デートしませんか?」
「デート? オレが楽しめる感じのやつ?」
「おうちデートってやつです」
そう言ってユウはスマホでとある映画のパッケージを表示して見せた。最近入会した映画見放題のサブスクで気になったタイトルだ。
「なにこれ
……
〝メガシャーク対クラーケン対メカシャーク〟
……
?」
「サメ映画です」
「サメ映画」
パッケージには巨大な鮫、蛸とイカの中間のような生物、そして機械でできた鮫が水飛沫を上げてナイスバディの水着の女性を襲っているという謎の構図が描かれている。煽り文には『今世紀最大のスペクタクル‼』『メガシャークとクラーケンの因縁
……
メカシャークの悲しき過去‼』などと書いており、全くストーリーも何も想像できない。情報過多すぎる。
「クソ映画でしょ、これ」
「絶対クソ映画だなって思ったら逆に興味出ちゃって」
「わかっててオレ誘うんだぁ? いい度胸してんね」
言葉尻は怖いもののフロイドの表情は決して不機嫌なものではなく、むしろ面白いものを見つけたとでもいうようにニヤリと口角を上げた。ユウだってこんな見るからにB級の、頭がおかしくなりそうな映画に普段だったら興味も持たないだろう。一瞬だけ「どんな映画だよ」って笑いはするものの一生見ないみたいなそんな映画の雰囲気がした。けれどユウの脳みそはこういう馬鹿を求めていた。
「最近、勉強ばかりで疲れちゃって」
「勉強~? そんな頑張るようなテストの予定あったっけ?」
「今、魔法薬剤師資格の勉強してるんです」
この資格試験に合格すれば魔法薬を作って売ることができる。もともとはグリムが受験しようと言い出したもので、ユウはその勉強に付き合うくらいなら自分も受験しようと思ったのだ。魔法薬剤師の資格は魔法士じゃなくても取れるもの、かつ、魔法士として名を馳せる者なら誰しも取得しているものだ。ユウとグリム、両方に勉強して習得する価値がある。
「小エビちゃん、薬剤師になるの? 別に元の世界に帰るんじゃ必要ねぇじゃん」
「そうなんですけどお小遣いはいっぱい欲しいじゃないですか」
決して学園長から支給してもらっている生活費が少ないわけではないが、それでも必要最低限に出費を抑えてしまう癖がユウにはある。そう言えばフロイドは「オレも働かねーと欲しい靴買えねぇしなぁ」と同意してくれた。フロイドの〝欲しい靴〟はユウの想像するお小遣いとはだいぶ桁が違う気がするが、先立つものがなければ欲しいものは手に入らないという点では一緒だ。
「試験はサマーホリデー中にあるからまだ勉強するにも余裕あるし、うまくいけば二年生になるときに資格持てるかなぁって」
そうすれば授業で精製したものだってちょっと売れるようになるかもしれない。ちょっとした小遣い稼ぎには最適だ。だからこそツナ缶を今より多く買えるようになれるかもしれないとグリムが奮起しているわけだし、実はエースやデュースも便乗して一緒に試験を受けようとしている。いや、もともとこの情報は彼らの先輩であるケイトから入手したものなので、どっちかというとグリムとユウが便乗した側なのかもしれないが。
どちらにせよ、魔法士養成学校に通う生徒にとってはありふれた資格試験であるものの、この世界への馴染みが薄いユウとグリムにとっては結構な
壁であった。試験までは数か月あるが、筆記も実技も習得が間に合うかどうか微妙なラインである。なので勉学のたまの息抜きには頭を使わないものを求めていた。
「ま、資格持ってればアズールみたいに取引できるしねぇ」
「そっか。アズール先輩は持ってるんですね」
「NRCに入学する前に取ってたよ。
……
あ、思い出した」
唐突にフロイドが何かを思い出し、ブレザーのポケットをひっくり返すような勢いで漁り始めた。左のポケットからは飴の包み紙やボールペン、レシートの切れ端。そして右のポケットからはプラスチック製の小さな容器が出てきた。握り拳の中に納まってしまいそうな小ささのそれの蓋をまわして開けた。白いとろりとした液体のようなものが中に詰まっている。
「なんですかそれ」
「ハンドクリーム。オレ特製~」
「えっ、作ったんですか?」
「だって小エビちゃんの手ガサガサじゃん」
そう言ってフロイドは容器から指でハンドクリームを掬うと、ユウの手にべちょりとつけた。そしてそのままユウの手全体を両手で包んで擦りこむように撫でる。手を繋いだことはあった。ハグだってしたこともある。それでも、こうして面と向かって肌の質感を確かめるように密にされると気恥ずかしさがあって少し体がこわばってしまう。
「肌、ピリピリしない?」
「全然しないです」
「そ? じゃあこのレシピで作っても大丈夫かな」
「試作品ってことなんですか?」
わざわざ肌に合うかどうか確かめてくれるなんて結構きめ細かい配慮をするんだな。もしかしてそれこそアズールの手伝いか何かで作った品なのだろうかと思っているとそれを読んだかのようにフロイドが口を開く。
「言っとくけど、これ、小エビちゃん専用だかんね」
「え。そうなんですか?」
「小エビちゃん、肌荒れすげぇから市販のクリームが合わないかと思ったんだよ」
「それは、その
……
」
「もしかしてめんどくせぇから塗ってなかったの?」
「
……
スミマセン」
決してめんどくさいからというからだけではなく、金銭的な問題で優先するべきものが他にもあるからなのだがそこまでは口にせず目を背けた。
「明日、このレシピで大容量のボトルにいっぱい作って渡すから」
「ハイ」
「ぜってぇ塗れよ」
「ハ、ハイ」
片言のように返事をするユウに疑わしげな視線を送ってくる。けれどこんなふうに言われてしまえばめんどくさいなんてことは言ってられない。次、手が荒れたらどんな言葉を投げられるかわかったもんじゃない。きゅっと唇を引き結んでいまだクリームを擦りこみ続けてくるその手を見ていると、ハァ、と上からため息が聞こえた。
「オレはさぁ、オレのお気に入りの子の手が痛そうになってたら嫌なわけ」
「お気に入りの子」
「今んとこ、小エビちゃんしかそんなのいないんだけどさ」
ようやくクリームが肌に馴染んで、フロイドの手が止まる。しかしその指はユウの指に絡みつき離れなかった。それどころか深く繋がれていく。
「小エビちゃん、チューしていい?」
「ちゅっ
……
⁉」
思わず顔を上げてフロイドを見ると、すでにその顔はいつもよりも接近してきていた。
「かわい」
その言葉が先だったのか、後だったのかわからないくらいに素早く、かがむようにして顔を近づけてきたフロイドの唇がユウの唇に触れて、すぐに離れた。あまりの素早さにぽかんと呆気に取られて固まってしまったままのユウに、今度は額に唇を落としてきた。
「小エビちゃんがオレ好みに作り替わっていくの、結構いいかも」
それはどういう意味だろうか。その意味を問いかけることは許されるのだろうか。それとも踏み込みすぎなのだろうか。いろんなことが頭の中をよぎったが、ユウにとってはこれが人生で初めての恋人とのキスなわけで、そういういかにも恋人らしい行為をしたということを理解した瞬間に、心臓がどきどきとうるさく鳴り響いてなにも声が出なくなってしまった。
それからというものフロイドはユウに触れることが今まで以上に増えた。会う頻度や一緒に過ごしているときの雰囲気は変わらないというのに、時折、特に別れ際などに突然そういう触れ合いが増えた。別に長く触れてくるわけでも深く口づけてくるわけでもない、ただの挨拶と取られてもおかしくないような軽いそれにユウも最初は戸惑ったものの、だんだんと慣れが出てくる。今では普通の顔をしてフロイドのキスを受け入れ、当たり前のこととしてフロイドに屈んでほしいと訴えてキスをした。
後々になって考えてみれば、あれは子猫同士のじゃれあいみたいなものだったのだと思う。気に入っている相手同士で触れ合って気を許しあっていることを確かめて、けれどお互いに気まぐれな猫だから気の合うときにしかそういうことをしない。気が乗らなければ距離を取る。恋人、という便宜上の肩書は持っていても、現実は友人よりも距離が近くて恋人よりも遠い。それが一番均衡が保たれて心地よかったのだ。
――
だから、半年も続いたのだ。
転機が訪れたのはサマーホリデーが終わる頃だった。
冬や春の短期休暇期間とは違い、進級を伴う夏の長期休暇であるサマーホリデーは全生徒が帰省の対象になる。学園中が静まり返るこの時期に数多くの掃除妖精やら、大規模な清掃魔法をかけて一年に一度の大掃除をする。開校期間中には個々の裁量に任せられていた個人の部屋についてもすべての荷物が持ち帰りとなっているために一斉にリセットするいい機会となっている。そして進級・新入学を迎えるのだ。
ただ例外としてオンボロ寮のユウとグリムは学園に残っている。単純にホリデーの間に滞在する場所がないのだ。ユウがこの一年で交友を重ねてきた人々の中には数週間の宿を貸すことなど何の問題もない、と言ってくれる者もいたのだが、そもそも異世界人と魔獣という身分も存在も一般人とは違うあやふやな存在を期間限定とはいえ世間の目にさらすことも危険だとされそのままオンボロ寮に居座ることにした。
サマーホリデーの期間中に以前から勉強していた魔法薬剤師の試験もあったし、その追い込みで勉強もした理、この機会に今更ながら学園長の息のかかった総合病院で健康診断を受けたりもした。
『なんでそんな健康診断なんか今更したの?』
電話の向こうでフロイドが心底わからないとでもいうように声を上げた。ホリデー期間中もユウはフロイドと連絡を取り合っていた。時にはメッセージアプリだけだったり、通話だったり。はたまた何日も連絡を取り合わなかったり。今まで通りの変わらない距離感だった。ただ通話の時はいつもよりも多く言葉を交わした。
「私も今更って思ったんですけど、たぶん、学園長、やろうやろうって思ってたけど忘れてたんじゃないですか? ほら、一応入学前の健康診断があるらしいじゃないですか」
本来、ナイトレイブンカレッジに入学する前に、事前に最低限の健康診断を行わなくてはいけないらしい。ツイステッドワンダーランド中から様々な地域、種族の生徒が集まる以上、その体質も様々。全寮制の学園であるナイトレイブンカレッジではその生徒たちの心身ともに健康で豊かな暮らしを維持させるために入学してくる生徒がどんな健康状態であるのか把握しなくてはいけない。
だというのにユウはそれを受けていない。理由はもちろん、ユウは入学式に突然やってきた招かれざる新入生だからだ。それを今、新たに新入生を迎える段階になって「アッ、そういえば監督生くん健康診断やってませんね⁉」と気づいて慌て始めた。そんなところだろうと推測している。健康診断の話をユウに持ち掛けてきた時もやけにしどろもどろしていたし。
『相変わらずテキトーすぎるわ』
「学園長っぽいですよね」
『小エビちゃん、あんな奴に生活費もらってんの大丈夫?』
「うーん、そう言われてみれば心配かも?」
『信用ねー』
ケラケラと笑う声にユウもおかしくなって笑みがこぼれる。最近、話し相手がグリムとゴーストたちしかいなかったから少し人の声というものに飢えていた部分がある。きっと電話の向こうではアの鋭利な歯を覗かせて目を細めて笑っていることだろう。実家にいるから人魚の姿であることを考えると、もしかしたらユウの知っている表情とは少し違うかもしれない。そんなことを考えていると柄にもなく少し人肌が恋しくなった。
「フロイド先輩、いつ学園に戻るんですか?」
『んー、来週かなぁ。気が向いたら明後日ぐらい』
「気分屋なんだから」
『えぇ~だって気分のらねぇと移動ってめんどくせぇじゃん』
「もう
……
荷物はほとんどここに残していったんだから人より身軽なんですよ」
『逆だよ。身軽だからいつでもできるって気分になるの』
フロイドはこのサマーホリデーの始まる前に本来自分自身で持ち帰らなくてはいけない私物のほとんどすべてをオンボロ寮の空き部屋に移動させた。そうすれば別に荷物をひとまとめにする必要も、学園に戻ってくるときにまた荷造りする必要もない。必要な時に必要なものだけ、オンボロ寮から運び出せばいい。最初はその意見に呆れたユウだったが、まぁ空き部屋はいっぱいあるしとそれを了承した。そうすれば変に荷造りはもう終わってるんですかと何回もせっつかなくて済んだという理由もある。
「早く帰ってきてくださいね」
『なァに小エビちゃん、オレがいなくて寂しいの?』
電話越しでも表情がわかる。声色だけでフロイドの機嫌がわかるのだから、ずいぶんと親密になったものだ。だからちょっとぐらい素直になってもいいだろう。
「そうですよ。寂しいから早く帰ってきてくださいね」
そのユウの言葉をどう受け取ったのかはわからないけれど、電話越しに上機嫌な声のまま「気が向いたらね」と返してくれ、そして電話を切った。頭の中にフロイドの声の余韻が残っている。それを思い出しながらユウは机の上に置いてあった大きなボトルを手に取った。これだけありゃもったいないと思うこともないだろうとフロイドがくれた超大容量のハンドクリームだ。もらってからずいぶん経つのにまだまだ底をつくことを知らないハンドクリームを、フロイドがしてくれたようにたっぷりと手に塗る。もう数か月前からは考えられないくらいに指先までささくれもなくつるりとしていて、爪に縦線も入ってなければ歪んでもいない。間接にあかぎれだってなくて人魚の手だって言われてもおかしくないくらいに潤いがある。
この時が、一番幸せだった。
そのフロイドとの通話から三日後。新学期が始まるまであと十日という頃になってユウは学園長から呼び出しを受けた。大方この間行った健康診断の結果が出たのだろうと予想をしているのだけれど、それならば魔獣用の健康診断を受けたグリムも一緒に呼ばれないのが少し気がかりだった。
もしかしてなにか良くない兆候があるのか。それとも自分じゃなくてグリムの方に異常があるのか。考え始めると止まらないそれを頭の隅に追いやって無心でその重厚な扉を両手で押し開けた。
「学園長、ユウです」
そろりそろりとうかがうように小声で名乗ったのを、部屋の中にいたその人は聞き逃すことなく「お待ちしていましたよ」といつになく優しい声を出した。カラスの意匠が特徴的なその杖を少し持ち上げて掲げたかと思えば、ローテーブルにティーセットがどこからともなく現れる。踊るようにティーポットが宙に浮かび、カップに紅茶が注がれる。これぞ魔法とでもいうような美しい光景だが、こんなもてなしを学園長から受けるのは初めてなので感動するよりも急激に身体の芯まで冷えていく心地がした。
そんなユウのこわばった表情を読み取ったのだろう。学園長はソファを手で指し示し、ユウに座るように促した。前座はいらない、すぐに本題を話してほしい。そんな思いが伝わったのだろう。ユウがソファに座ると、学園長もまたローテーブルを挟んで正面のソファに腰を下ろした。
「健康診断の結果が出ましたよ」
「
……
なにか、あったんですか」
きっと何かあったんだろう。じゃなければこんな席を用意することはない。ただ単に診断結果の紙を持ってオンボロ寮のポストに入れればいいだけ。それだけだ。学園長が両手の指を絡めるように交じ合わせると、その指にはめられた金のネイルリングがかちゃりと擦れて音を立てる。そんな音さえも大きく聞こえた。
「異常はなにもありませんでした」
「なにもなかった?」
じゃあ何があってこの席を設けたというのか。もしかしてユウじゃなくてグリムに何か異常が見つかったのか。かちゃり、かちゃり。言葉を探すようにネイルリングが鳴る。
「正確には、何もなかったということが問題でした」
その言葉の意味が分からなくてじっと言葉を待つと顔を隠すそのマスクの奥で学園長がなにかに耐えるようにぎゅっと目を瞑り、そしてゆっくりと開いた。
「あなたは異世界で産まれた子供です」
「はい」
「つまり、どんなに見た目が似通っていて、価値観が似ていようと、生物の構造としてツイステッドワンダーランドの人間とは違う点がないとおかしいのです」
「どういう、」
「あなたが言うにはあなたの元いた世界に魔法はなかったはずですが、あなたの身体には魔力を溜めおく器官が備わっています。常在菌も、血液の組織も、病原菌に対する抗体も、調べられる限りではすべてがツイステッドワンダーランドに存在する人間と変わりありません」
鋭い爪先がティーカップの中の紅茶に浸り、その指が持ち上げられると一粒の雫を作る。
「一滴でも、あなたがこのツイステッドワンダーランドの人間と違う部分が見つかれば、それを足掛かりに元の世界というものを探せるだろうという予想でした」
雫がゆっくりと大きくなり、そして重力に従ってそのままカップに落ちた。紅茶は少しの波紋を作ったのちに何事も中田かのように一杯の紅茶に戻る。
「しかし、あなたには元の世界の痕跡が何も残されていない。魔導力学の発展のおかげで異世界というものの存在は確認されているものの、手掛かりがない以上、無数にある異世界の中からあなたの求めるそれをピンポイントで探し当てることはできません」
まるでユウという人間は最初からこの世界の人間だったとでもいうように、ユウはツイステッドワンダーランドというティーカップの中から外には戻れない。自分がどのティーポットにいた存在なのか、証明できるものをなにも持っていないというのだ。
そんな学園長の言葉にユウは思わず立ち上がる。そんな。そんな馬鹿な話があっていいわけがないのだ。
両親と、兄と、そして少し年老いて腰の悪いダックスフンド。
そこが自分のいた場所であり、戻るべき家だ。両手を広げて、抱きしめてもらって。そんな家族のもとに帰るとずっと疑っていなかった。なにも持っていないはずがないのだ。
「記憶は
……
? 私の中に、家族との記憶があります
……
! 思い出が! それは手掛かりにならないんですか⁉ それで、それで私は、」
「ユウくん」
「なにか、どうにかして
……
」
「ユウくん。記憶は物理的なものではないので、普遍的な手掛かりに成り得ません」
真っすぐと断言された答えに喉がひくついた。だって、そんなはずは。言葉にならない言葉が頭の中で彷徨って、音にならずに胃に鉛のような重さで落ちていく。身体中のすべてが重力に耐え切れなくなったみたいに、崩れ落ちるように跪いた。
「
……
私は、もう、元の世界に帰れないってことですか、」
「おそらく
……
。もしかしたら現在確認されている方法とは違うやり方が発見されるかもしれませんが、しかしいつになるか、生きているうちにそれが成されるかわかりません」
「帰れないってこと?」
他に言葉が出てこなくて、壊れたおもちゃのように指一つ動かせない。これは何か悪い夢だ。きっとなにか目覚める方法があって。夢から覚めたらきっと、きっと自分はオンボロ寮のベッドにいるはずで。
「ユウくん」
「学園長、」
「私が無力なばかりに申し訳ない」
そう言って学園長が頭を下げる。
その姿に、現実逃避しかかっていた頭が〝これは現実だ〟と認識する。だってこれが夢なら学園長は頭を下げない。いつものように「私、優しいので!」なんて言って元の世界に戻れるようにと簡単に口約束する。こんなに真摯に頭を下げない。自分の想像できないことは夢では起こらない。
唇が震えて言葉が出ない。そんなユウを気遣うように学園長は手を差し出してきてユウを立たせた。
「いろいろ話さなければならないことはたくさんあります。ただ、今日は混乱しているでしょうからまた改めてオンボロ寮に伺いますよ」
この一年の間に聞いてきた中で一番優しくて残酷な声に嗚咽が漏れる。吐き気にも似た何かが喉をせりあがってくるのに、感情がパンクしているようで涙は出てこなかった。もう何が何だかわからないけれど、指一本、脚を一本と、順番に動かし、どうにかこうにかオンボロ寮へ帰るために身体を動かし続けた。動かすことに集中しなければ歩みが止まってしまいそうだったし、一度止まってしまえば動けなくなってしまうような気がした。
校舎からオンボロ寮までは結構遠い。今日はその道のりがさらに遠く感じた。
校舎からメインストリートへ出て、脇道に逸れて購買であるミステリーショップの前を通り、ユウとグリム以外の生徒全員がそれぞれの寮に戻るために使う鏡舎を横目に崖のようになっている地面にかかった石造りの橋を渡り
……
その橋の手前で細長い影がユウを待っていた。
「小エビちゃん」
その声はユウにとって、どこか救いのような、神の恵みのような、美しい響きを持って届いた。
「学園長から呼び出されたんだって? 終わった?」
「フロイド先輩、なんで」
まだサマーホリデー中で、学園に戻ってくるのはあともう少し先だと思っていたのに。どうして今ここにいるのだろう。これも夢なのだろうか。どこからが夢でどこからが現実? 困惑に揺れるユウなどお構いなしにフロイドはユウに近づいてその頬に触れる。ユウの手よりも大きくて硬くて骨ばった、暖かい手だ。
「なんで? 小エビちゃんに会いたくなったからってこと以外に理由がいる?」
にんまりといつもの調子でフロイドは笑う。それは本当にいつも通りの表情だったのだけれど、ユウにとってはそのいつも通り受け入れてくれるというフロイドの態度がとてつもなく衝撃的で、求めていたものだった。「フロイド先輩」と呼んで両手を広げてみれば、その腕の中にすっぽりと覆われてしまうほどの大きさで包み込んでくれた。何の迷いもなく、受け止めてくれた。
どんな時でも普遍的に受け入れてくれる存在、それこそがユウにとって欠けていたもので、求めていたものだった。手を広げれば抱きしめてくれる存在。まるで家族のような。
そんな感情がじわじわと沸き起こってくると、ようやく涙腺が緩んできて、すん、と鼻が鳴る。
「小エビちゃん? どした?」
突然鼻をすすり、見てみれば目元が赤くなっているだろうユウの様子をおかしく思ったのか、覗き込むようにフロイドが問いかけてくるけれどユウはそれに明確に答えずにぎゅうとさらに強く抱き着いた。きっと無様になっているだろう顔を隠すようにして。
「フロイド先輩に会えたのが嬉しくて」
半分本当で半分嘘。
だって久し振りの再会早々に〝元の世界に帰れなくなっちゃいました〟なんて話、重すぎてできやしない。自分の中でだってまだうまく消化しきれていないのに、フロイドと恋人になったのだって元の世界に帰るまで気楽に好きなように付き合おうというものだった。そんな関係だったのに家族のような包容感を求めるみたいないきなりの方向転換なんてできやしない。
打算から始めた関係だった。
その時楽しければいいという軽い始まりだった。
けれど一緒に過ごしてみればフロイドとの日々は思っていた以上にユウの生活にしみついて、きっとフロイドが欠けてしまえばもっと苦しくなってしまう。ずっとそばにいてほしいと思ってしまう。
強く抱き着きながらユウは胸の中で一つの決心をする。もっと〝恋人らしく〟しよう。フロイドにもっと好きでいてもらえるように。ずっと離れないでいてもらえるように。〝恋人〟として努力をしよう。そう思ったのだ。
――
それがきっと間違いだったのだ。
「小エビちゃん、別れよ」
きっとその選択が間違いだったから、新学期が始まってしばらく経ったある日、唐突にフロイドからそんなことを言われてしまったのだ。
「な、なんで、」
「小エビちゃん最近うざってぇなって。朝のオハヨウメッセージやらオヤスミ電話やら毎日毎日、今日はアレしてコレして昼飯はいつも一緒にとってそのうえモストロまで来てさァ、コイビトだからってそんなに四六時中行動を一緒にするみたいなの、オレ、嫌なんだよね」
たしかにそういう行動をしていた。けれどユウにとってその行動はフロイドの好みをもっと詳しく知るための手段だった。一つでも多くフロイドのことを把握しておきたかった。そうすればいつかフロイド好みの人間になれると思った。しかしそれはフロイドの今の感情をおざなりにした行動だったのかもしれない。
「ご、ごめんなさい。
……
あの、これから気を付けますから
……
」
「でも小エビちゃんにとっての〝コイビト〟はそうだったわけでしょ。じゃあさ、分かり合えねぇんだよ」
フロイドの言葉がユウに突き刺さる。
待って。待って。話を聞いて。ごめんなさい。一方的に気に食わないことをしてしまってごめんなさい。だけど、ユウの行動を鬱陶しく感じるフロイドに〝元の世界に帰れなくなったから〟なんて言って重くないだろうか。余計にうざったく感じられないだろうか。そう思うと、言葉が何も出なかった。
「小エビちゃんと一緒にいたいって思ったのは、そういうことじゃなかったし」
そう言ってフロイドはユウの返事を待たずにその場から立ち去っていく。
じゃあねも、バイバイもなく、こんな呆気なく、簡単にユウとフロイドの半年が終わってしまう。終わってしまったのだ。
こんなつもりじゃなかった。
どこから間違えたのだろう。どこからやり直せばこんなことにならなかったのだろう。自分の世界に帰れなくなったんだともっと早くに打ち明ければよかった? けれどそもそもフロイドとはそういう長い付き合いをするつもりはなかったのに、それを告げることで拒絶されることが怖かったのだ。でもこういう結末を迎えたということは間違っていたのかも。そもそもちゃんとした恋愛感情もなく恋人になんてならない方が良かったのかも。
まるで地面に足がついていないみたいに、この世界から一人突き放されたみたいに、息の仕方すらわからず。ただ強く握りこんだ手の中で、親指の爪がガリと皮膚に傷をつけた。
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