クドリャフカ
2026-05-27 22:56:36
5011文字
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寺川がトガシくんのマネージャーになる話③



 というわけで、その翌日は鰯弐高校陸上部の集まりだった。

 今や一躍時の人となってしまったトガシへの配慮と、小さな子どもを抱える椎名の都合もあり、集まりは彼女の自宅で行われることになった。

テーブルにはそれぞれが持ち寄った色とりどりのデリやサラダが並び、中央のメインに鎮座するは椎名特製の巨大なイワコロ風スターゲイジーパイだ。オーブンでこんがりと焼き上げられたパイの隙間から、鰯の頭や尻尾がぴょこぴょこ飛び出しているのがご愛嬌。「わぁ〜〜!!」と、子どもと一緒になって目をピカピカ輝かせるトガシに、椎名も満足そうに笑った。

トガシは椎名の子どもに異様なほど懐かれていた。仁神はちょっぴり怖くて、浅草はちょっぴり恥ずかしくてモジモジしてしまうので、トガシくらいが一番ちょうどよかったのかもしれない。そうしてすっかり懐かれてしまった結果、子どもはサンタさんに貰ったというイタリアンブレインロットの図鑑を抱えてきて、謎のキャラクターたちを小さな指で差しながら一生懸命教えてくれた。トガシはカプチーノアサシーノだけかろうじで覚えた。

 食事のあとには、トガシが声優として出演した例の国民的アニメを皆でやいのやいの言いながら鑑賞した。画面の中でトガシのキャラクターが喋る度、隣でデザートのプリンをむちゃむちゃ頬張っているトガシが同一人物だという事実にいちいち笑いが起きる。

「すごいね!トガシくん、演技も上手なんだね」
「ね。思ったよりちゃんとしてるよね」
「思ったよりってなんすか」

本人を前に、遠慮のない軽口が飛び交う。トガシも口では抗議しつつ、まんざらでもない顔である。実際、トガシは妙にアフレコが上手かった。耳がいいせいかリズム感もよく、声もよく通るし、変な癖ない。あまりにも演技が完璧だったので、アニメ界隈ではかなり絶賛されていたのは本人も知らぬところである。

やがて、はしゃぎ疲れた子どもが眠りにつくと、自然と酒のペースが上がる。それぞれの近況報告に、陸上部の思い出話。話題は尽きず、楽しい時間だけが賑やかに過ぎていく。なかでも話題の中心は、やはりトガシである。昨年の日陸での活躍。日本記録の更新。そして怪我からの復帰。先輩たちは可愛い後輩の活躍を口々に褒めちぎり、トガシはそれを面映ゆく思いながら受け止めるのだった。

 そうやって、ほどよく酒が回った頃だった。

「──正直、これからどうしようか迷ってて……

気が緩んだのか、トガシはそんなことをぽつりと溢していた。一瞬だけ、場が静まる。誰もすぐに口は挟まず、彼の言葉の続きを優しく待った。

「競技はまだ続けるつもりですけど、引退した後のこととか……実は、今はまだあんまり考えられなくて……

走る未来はそれなりに具体的だ。
これまでもずっと走り続けてきたから。

でも、走らなくなったあとの未来の自分は、急に解像度が落ちたみたいに輪郭がぼやけてしまう。それはまるでノイズのようだった。テレビ放送が終わった深夜の砂嵐みたいなザーッとした不安だけが漠然と広がっている。

走れなくなったら、
自分は一体何者になるのだろうか……

そんな不安を、トガシは初めて人前にさらけ出していた。

「大丈夫!トガシ君なら、この先なんだってなれるよ!」

すぐさま浅草が身を乗り出して声を上げた。明るく言い切る声に、場の空気が少しだけ軽くなる。

「いやいや、さすがになんでもは無理ですよ」
「そんなことないって!だってあんなに声優も上手なんだもん。知ってる?声優さんってね、今小さい子に人気の職業なんだよ!」
「あー、確かに。トガシくんなら声優もいけるんじゃない?」
「そんな、適当な……
「そうだ!ねえトガシ君、小さい頃の夢って何だったの?」
……えっ?夢、ですか? ええっと、普通に陸上選手とかですかね」
「あぁ、俺もそうだったな」

隣で仁神が頷く。彼の場合は、父親が日本代表だった影響が大きいのだろう。

「じゃあ、もっともっと小さい頃は? 足が速いって自覚する前とか」
「うーん……それだと、宇宙飛行士とかお医者さん……あとはサッカー選手とかですかね」

宇宙飛行士は祖父の影響だったと思う。医者は、両親が医療従事者だからだ。サッカー選手に関しては、完全になんとなく。たいして好きでもなかったが、当時サッカーがクラスで流行っていたのだ。確か。

「なんというか、普通ね」

そう言って、椎名があっさり切り捨てた。

「む。じゃあ椎名さんは、どんな夢だったんですか?」
「可愛いお嫁さん」
「うっ……すごい、ちゃんと叶えてらっしゃる……
「でしょ。ちなみに葵は?」
「私はねー、キャベツ!」

浅草の即答に、トガシは度肝を抜かれた。

「えっと……将来の夢、ですよね? 好きな野菜とかじゃなく?」
「うん。キャベツ」
「キャベツ……
「ね。子どもって、だいたいこういうもんなのよ」
「なるほど……?」

確かに、医者も宇宙飛行士もサッカー選手も、今思えばそれらしい答えを並べただけだったような気がする。椎名の言う通り、“普通”という言葉がよく似合う。子どもらしく、周りから外れず、それでいて大人に褒められそうなものを無意識に選んでいたのは自分でもよくわかっている。少なくとも、浅草のようにキャベツを選ぶ勇気はトガシにはなかっただろう。いや、勇気なのかどうかは知らないけれども……

思えば、陸上部の時だってそうだ。
理由なんてなくても、ただそれがいいと言い切れる強さが彼女にはあるのだ。浅草さんってやっぱり凄い人だなぁと、トガシは改めて感動した。


「いや!なれる!トガシ君ならなれる!今からでもサッカー選手目指そうよ!」
……浅草さんだいぶ酔ってます? 無理ですからね?」
「というかトガシ君、そもそも球技全般はからきしよね。勉強もそんな得意じゃないでしょ。となると、目指すならキャベツかワンチャン宇宙飛行士じゃない?」
「いやいや椎名さん、宇宙飛行士も普通に無理ですから。あとキャベツは浅草さんです」
「応援するよ、キャベシくん」
「やめてくださいよ、仁神さんまで」

もうめちゃくちゃだった。
全員したたかに酔っていたのである。

まぁそんな感じで、楽しい夜だったのだ……




 駅へ向かう道はやけに静かだった。
仁神や浅草とは先ほど別れ、トガシは一人帰路を歩いていた。冬の夜風が頬に触れ、体に残った酔いをゆっくり冷ましていく。

……楽しかったな」

誰に向けるでもなく、一人呟く。
白い吐息が、暗がりに溶けて消える。

ふいにスマホが震えた。
コートのポケットから取り出して見てみると、椎名からのメッセージだった。

『今日はありがと。気をつけて帰ってね』

そんな短いメッセージのあとに今日の写真と、それからリンクがふたつ添えられている。ひとつはJAXAの宇宙飛行士募集ページ。もうひとつは、キャベツ農家の求人。相変わらずだなと思いながら、トガシは小さく笑みを落とす。彼女のこういう優しさに、トガシはいつも救われている気がした。

スタンプで返信し、アプリを閉じかけたところで、ふともう一件通知が届いていたことに気付く。

『終わった?』

寺川だった。
トガシは小さく息を吐き、指先で返す。

『今から帰ります』
『りょ 帰りついでにガリガリ君買ってきてね』
『嫌です』

送信して画面を閉じる。
途端、静かな夜に戻った気がして、ほんの少し寂しい。トガシはポケットに手を突っ込み、駅へ向かって早足で歩き続けた。




「戻りました……

 いまだにちょっと慣れないカードキーで玄関のドアを開けると、古着屋のお香みたいな香りが鼻先を掠める。不思議と嫌いじゃない。もうすっかり慣れた寺川の部屋の匂いだった。

部屋の灯りは落ちていて、代わりにプロジェクターの光がリビングをゆらゆら照らしていた。流れているのはゾンビ映画だ。いかにもな低予算の趣で、スクリーンの中で血飛沫やら肉片やらが派手に飛び散っている。寺川はこの手のB級クソ映画が好物なのである。部屋が暗いぶん、リビング正面の大きな窓の向こうでは大都会のネオンが瞬いて見えた。東京の夜に星はないけれど、夜景は美しい。

「おかえり〜」

大きなソファにのんべんだらりと寝そべった寺川が、ゆるく声をかける。その手には飲みかけのハイボール。洒落たインテリアのわりに、室内はどこか雑然としていて、ソファの下には使いかけのガジェット類なんかが無造作に転がっている。クリスマスに仕事なんてダルいと言いつつ、結局なにかしら作業をしていたのだろう。

スクリーンに目をやると、ちょうどゾンビが派手に人を襲っている場面だった。トガシはあからさまに顔を顰めた。

…………これ、やめてもらっていいですか」
「ハハッ、トガシくんこういうの無理なやつ?」

寺川は揶揄うように言いつつも、映像はあっさり切り替わってスポンジボブを流し始めた。

「ほら、これならトガシくんも怖くないでしょ」
……別に怖かったわけじゃないです。ていうか、子ども向けじゃないですか」
「いいじゃん、懐かしいよねスポンジボブ。ガキの頃見てなかった? 俺ね、プランクトン好きだったんだよね」
「あー、あの小物感は確かに寺川さんらしいですね」
「喧嘩売ってんのかこのクソガキ。てか、そういうトガシくんの推しキャラは?」
……しいて言うなら、サンディちゃんですかね」
「え〜意外〜、スポンジボブじゃないんだ? あのクソバカ具合、トガシくんぽいのに〜〜」
「喧嘩売ってます?」

寺川がヘラヘラ笑いながらハイボールを傾けドリトスをバリバリ貪る。トガシは黙ってガリガリ君をコンビニ袋ごと放り投げた。思いのほか変な方向へ飛んでしまったけれど、寺川はそれを難なく片手でキャッチする。そんな様子に、そういえばこの人はアメフト部だったっけな、と思い出す。やっぱり球技全般は得意なのだろうか。そんなどうでもいいことをぼんやり考える。

……でェ? 陸上部の飲み会どうだったの?」
「楽しかったですよ。先輩たちと久々に会えて」
「ふぅん」

寺川はグラスを置いてやおら体を起こすと、ガリガリ君の袋を破りながらチラリとトガシを見た。

「楽しすぎて、ちょっと寂しくなっちゃった顔だね」
「なってません」
「なってるよ。飲み会のあとって、なんかくるよね。空っぽになる感じの」
「うるさいな」

言いながら、トガシもソファにどかりと体を沈める。それから寺川の手首を引っ掴み、半ばやけくそみたいにガリガリ君にかじりついた。甘くて冷たい。口に入りきらなかったソーダ味の小さな氷粒が、端からぽろっと落ちる。

…………、帰ったとき」

ふいに、言葉まで同じようにぽろっと溢れ落ちた。

「うん?」
「部屋に誰かいると、ちょっと安心します」
「それって、俺のこと?」
……そうなりますかね」

自分で言っておきながら、トガシはちょっと不服そうな顔をしていた。寺川は一瞬だけ目を瞬かせ、それからすぐにいつもの胡散臭い笑みに戻る。

「へぇ可愛いとこあんだね、トガシくん」

そんな言葉と共に、寺川の大きな手が伸びてくる。頭に触れて、それからわしゃわしゃと撫で回される。まるで猫でも可愛がるみたいに。整えていた前髪が無遠慮に乱れて、視界が少しだけ曖昧になる。いつもなら、トガシはそれを鬱陶しいと思うはずなのに。不思議と、振り払う理由が今はなんだか見つからない。やがて酔いの眠気までやってきて、だんだん瞼が緩くなる。だから。その手もそのまま好きにさせておいた。スクリーンの中では、愉快な海底のアニメーションが続いている。水色の揺らめきが部屋の壁や天井にまで反射して、ゆらゆら揺蕩っていた。

しばらくして、ひとしきり構い倒して満足したのか、それとも飽きたのか、寺川の手が離れた。そして何事もなかったような顔で、溶けかけのガリガリ君をハイボールに突っ込み、シャクシャク食べていた。普通にすげー美味そうだったので、トガシが思わず「あ」と口を開けると、そのまま食べさせてくれた。

寺川という男は、妙なところで優しかった。