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彼方理路
1221文字
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#BL_華組
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〈無彩色の境界線〉
SS/灯芽に出会う前の幼少期伊弦の独白
(空とは、こんな色だっただろうか)
初夏の生ぬるい風に、鯨幕がはためいたあの日。世界の
色彩
いろ
は、音もなく剥がれ落ちていった。
見上げる空は確かに青く澄んでいたはずなのに、どこか薄く、輪郭を失って見えた。親族たちのくぐもった泣き声も、読経の響きも、深い水の底から聞いているかのようで意味を結ばない。
ただ、立ち上る線香の、喉を燻すような匂いだけが、やけに鮮明だった。
祭壇の向こうへ逝ってしまったのは、完璧だった兄──そして、「兄のいる世界」でしか存在できなかった僕自身でもあった。
✕✕✕
あの人がいなくなった瞬間、僕は唐突に名前を失った。
「弟」「次男」「遺されたほう」
宙に浮いた記号だけが与えられ、僕という個人を示す言葉は、どこを探しても見当たらなくなった。
やがて、体温を失くした家の中に居座るようになったのは、淀んだ沈黙。
誰も直接責めはしない。けれど、両親がふと伏せた視線の端や、こぼれ落ちる溜息の重さに、僕は明確な問いの形を読み取っていた。
──どうして、残ったのがお前なのだろう。
両親の瞳はいつも僕をすり抜け、遥か虚空に揺れる兄の幻影を追っていた。
必死に背伸びをして結果を並べても、それは永遠に追いつけない「不出来な贋作」でしかない。
気づけば、期待されることも、厳しく叱咤されることもなくなっていた。
それが優しさではなく、ただの諦めなのだと気づくまで、さほど時間はかからなかった。
『どれほど足掻こうと、お前は兄にはなれない』
誰が最初に言ったのかはもう思い出せない。父だったか、母だったか、あるいは僕自身の内なる声だったか。
ただ、その言葉は骨の内側にまで染み込み、今も僕の暗い思考の底に、鉛のように沈んでいる。
……
その頃からだと思う。
人の心に、重さを感じなくなったのは。
喜びも、悲しみも、怒りさえも。どれもがひび割れた画面の向こう側の出来事のようで、現実味を持たなかった。誰かが目の前で涙を流していても、僕の胸が痛むことはない。理不尽に傷つけられても、「そういうものだ」と、冷めた頭で受け流すだけ。
人間など、皮を剥けば皆、等しく空っぽなのだ。
だったら最初から、誰にも期待しなければいい。信じなければいい。世界を価値のない模造品として眺めていれば、失望して傷つくこともないのだから。
それからは、感情を持たない精巧な人形のように、礼儀正しく、そつなく、無難に振る舞う術を身につけた。誰にも踏み込まれないように、口元には穏やかな微笑を貼り付けて。
そうやって世界から一歩引いた場所に立つことで、ようやく肺の奥深くまで息が吸えたような気がした。
色彩のない、灰色に塗りつぶされた平穏。
それでも、生きてはいけた。それでよかった。
生涯、この凪いだ水底のような世界で、静かに朽ちていくのだと信じていた。
──あの、眩むような光に灼かれるまでは。
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