やまだ
2026-05-27 15:54:12
4019文字
Public 無双オリジンズ
 

No title

宴会の話 たぶん惇紫

 宴もたけなわである。磨きあげられた室内は燭火に照らされて輝くようだし、庭先にも炬火が灯り、隙なく整えられた様子を深夜だというのに楽しむことができる。膳に並ぶ料理も酒も、使う食器から徹底的に選び抜かれているのがよくわかる。
 盃の酒を呷り、夏侯惇は横目で右手中央の席を確かめた。もう何度目か数えるのも我ながら阿呆らしくなる視線の先、何度目であっても変わらず曹操が笑みさえ浮かべて周囲の者と歓談しているようだった。
 尚書僕射のひとりが自邸にあつらえた宴席だ。どうも曹操の作る詩を崇拝しているらしく、膳が運びこまれる前から彼の横に張りついて夢中で語りつづけている。ほかにも許都で名の知れた文士が数名招かれており、尚書台の行政相談というよりも、もう少し気楽な文学の集いのような空気だ。
 夏侯惇もそれなりに書を読むが、繊細で優雅な詩集よりもやはり軍記や史書のほうに食指が動く。つまりは美膳と酒を楽しむしかすることがない。
 これであれば許褚とともに外殿の護衛をしていたほうがよほどよかった。政務の話が出るやもしれぬと言われて曹操に連れて来られたものの、退屈極まりない。周囲の者と当たり障りのない世間話など続けながら、曹操が一刻も早く腰を上げぬかと祈り続けている。
……歓談中に申し訳ない。元譲殿」
 と、後ろから静かに袖を引かれた。ぐるりと右肩越しに振り返ると、相も変わらず黒一色の袍に赤い帯を結んだ男が俯きがちに控えている。一瞬上がった瞳がするどく光るさまを見て、夏侯惇はさりげなく話題の焦点を周囲へ散らした。
 左右の話題が盛り上がったことを確かめてから、改めて右肩の後ろに男を呼ぶ。
「紫鸞、外の見張りはどうしたのだ」
 今夜の曹操の随行は、夏侯惇と許褚と紫鸞の三名だ。政治も文学もわからぬとけろりと言い放つ紫鸞を許褚の補佐につけて置いてきたはずが、今はさも賢そうな涼しげな面をして夏侯惇の影に沈んでいる。
「仲康が、胸騒ぎがすると。自分が今から参加すると目立つので、代わりに殿の傍に控えていてほしいと頼まれた。……あなたの部下に役目を代わっていただいた」
 夏侯惇は盃を置き、ゆっくりと腕を組んだ。紫鸞は夏侯惇の肩に頬が触れるほど顔を寄せ、低くすばやく言葉を続ける。
「これまで何か変わったことはあったか」
「いや。逆に何もなくて退屈しておったほどよ。孟徳もあのように楽しんでいる」
 そうか、と囁いて紫鸞が少し離れた。曹操の様子が常に視界に入る位置に身を置き、夏侯惇の盃に酒を足すと勝手に飲もうとする。
「行儀よくせぬか。おまえが笑われるは孟徳が嗤笑されると同義なのだぞ」
「毒でも入っているのではないかと思った」
「であれば今頃、宴席の全員が骸になっておるわ」
「それもそうだ」
 微かに笑う紫鸞も、彼から取り返した盃を傾ける夏侯惇も、許褚の不安を杞憂だと笑う気はない。彼は曹操に心酔している。よほどのことがなければ、華やかな宴に水を差し、曹操の評価を下げるような不粋をする男ではなかった。このまま無事に宴が閉じればよし、でなくば夏侯惇と紫鸞が許褚に代わり身命を賭して曹操を守るだけだ。
 退屈でしかなかった宴がにわかに緊張を孕みだした。武器のないことが心許ない。
「殿はずっとああして詩を読んでいるのか」
 離席した部下の残していった膳の上を踊る、紫鸞の箸捌きはあざやかだ。本当の目的はこちらだったのではないかと疑いたくなる。
「そうだな。上座の者らには美膳よりも書のほうがよほど美味であるらしい。ろくに箸をつけてもおらぬ」
「おや? 将軍はご存知なかったのですね」
 たまたま会話が漏れ聞こえたらしい。夏侯惇の左隣を通りがかった若い文官がほろ酔いで嘴を挟んできた。
「今宵は温故知新の集いということで、我々には最新流行の膳を、主賓の方々には大変貴重な珍味を召し上がっていただくそうですよ。丞相もお楽しみくださるに違いないと、上司がそう申しておりました」
「ほう、そうなのか。心遣い痛み入る」
「とんでもないことでございます」
 にこりと笑って文官は席へ戻っていく。夏侯惇の背後で炙った羊肉を噛みながら、紫鸞もそれを見送った。
「まだもてなしの用意があるのか。明日からこの家は生活できるのか?」
「これから孟徳たちに何が供されるかによるな」
 見れば、曹操の周囲に広がっていた竹簡がすばやく纏められている。最後のもてなしが始まるようで、主宰の尚書僕射が二度大きく手を打った。廊下から現れた厨人が注意深く部屋を渡るあいだ、盆からただよう芳香は夏侯惇を含め室内すべての人間の動きを止めた。紫鸞でさえ箸を止め、鼻をひくつかせる。
「なんと、これは見事よな」
 思わずといったふうに曹操の声が上がったのは、今時珍しい青銅器で運ばれたその羹が彼の前に到着したときだ。
「まさか熊掌でもてなされようとは。器にも、この手間のかかる珍味にも、周王朝の古雅ありというもの」
「丞相ならば必ずお喜びくださると思っておりました」
 尚書僕射は頬を染めてにこにこしている。曹操に仕える者としても彼の詩作を好む者としても、歓待できることが嬉しくてたまらないという様子だ。
「元譲殿。肩を貸してくれ」
「なに……
 ろくな返事をしないうちに紫鸞の履き物が夏侯惇の肩にある。
 中途半端に振り向きかけていた夏侯惇の肩を踏み台に、紫鸞は一息で曹操の眼前まで跳躍した。腰の帯がゆらりと赤く、尾羽のようにたなびく。
 曹操の瑞鳥はそのまま彼の手から青銅器を奪い取り、素手で熊掌をつまむと躊躇も遠慮もなく頬張った。
 一気に真冬のような空気になった室内で紫鸞だけが立ち、軽く咀嚼した熊肉を床板に吐き捨てる。
「殿。毒だ。この羹、断腸草の香りと味がする」
 袖で口元をぬぐいながら淡々と呟く紫鸞の声は、凍える室内によく響いた。夏侯惇が膳を蹴倒し立ち上がる音など、しばらく反響したほどだ。
 主宰はもはや気を失う寸前のようだった。それでもぶるぶると震える体を動かして無言の曹操へ叩頭し、引き攣った声を放つ。
「知らなかったでは済まされぬことです。臣はその器の中身を賜りたく存じます」
 羹の湯気すら凍ったような室内で、座したままの曹操はまず尚書僕射の後頭部をじっと見下ろした。ついで青銅器を掲げる紫鸞を仰ぎ、そして夏侯惇を見る。
 衣を払い立ち上がる。
「心楽しい宴であった。所用が生じたため中座を許されたい。紫鸞、夏侯惇、供をせよ」
 紫鸞は器を抱えたままもたもたと、夏侯惇は両手で供手する。
 一歩を踏み出す前、曹操は足下で震える尚書僕射へ視線は向けないまま言葉をかけた。
「自裁は許さぬ。沙汰が下るまで邸で蟄居せよ。これは命令である」
 
 
 曹操が許褚とともに馬車へ乗りこんだのを見送り、熊掌の羹を紫鸞の伝手を使って知遇を得た優秀な医者に預けるよう手配する。そこまでしてからようやく夏侯惇も帰途につく馬車の用意を言いつけることができた。主宰の邸は今や大した騒ぎになっていたが、それはもはや知ったことではない。本人の意志がどうあれ、曹操の命が奪われかけた時点でここはすでに敵地だった。
「おい。死ぬなよ」
「死にはしない……
 毒に慣れているとは、紫鸞本人から聞いてはいた。曹操も把握している。だが紫鸞を曹操麾下へ招いたのは毒見をさせるためではなく、戦場を思うままに駆けさせ勝利を引き寄せるためだ。曹操を見送るまではしらっとした顔をしていた紫鸞が、今は脂汗にまみれて地べたに転がっている。頬や額に土をつけ青ざめる男は、暗さも相まって屍のようだった。
 あまり気分のいい眺めでもなく、夏侯惇は溜め息をついて腕を組む。
「おまえも羹とともに帰宅すればよかったではないか」
……元化に叱られるから、嫌だ。本気で怒った……元化は、怖い」
 どうせこれを毒と看破したのは誰々でという話はされるはずだから、遅かれ早かれ紫鸞は叱りつけられるはずである。そう思いはしたが、猛毒ごと美膳をすっかり吐き出してなお調子の悪そうな様子を見せられるとその気も失せる。
「逃げた厨人は追わせている。尚書台の連中にも今回の件は知れ渡ろう。……ここから先は俺の領分だ」
 地面に頬擦りするようにして紫鸞が頷いた。
「元譲殿……
「どうした」
「今夜の功の第一は、仲康だ。殿にもそう伝えてくれ」
「おまえという奴は……
 腹から呆れた声が出た。
 こんなときぐらいは素直に誉められておけばよいものを、いっそ本能に近い熱心さで紫鸞は褒賞を避けたがる。
「おい、紫鸞」
 膝を折って顔を近づける。澄んだ瞳が今この場でもっとも明るかったが、夏侯惇はそれを見て悔しくなってしまう。後世に曹操の名が残るほど、夏侯惇の名が残るほどには、紫鸞が語られることはないのだろう。今夜曹操の命を救ったこの男は、遠からず歴史に埋没する。
「孟徳にはおまえの言う通り伝えよう」
 ほっと表情を緩める紫鸞にむしゃくしゃして、夏侯惇はぐったり地に伏せる体を抱え起こした。背に負い、ゆすり上げながら膝を伸ばす。
「元譲殿……惇兄」
 困惑しきりの声を背中に聞く。ふん、と鼻を鳴らした夏侯惇は、馬車が来るまで決して振り返るまいと決めていた。
「だがな紫鸞。俺はよくやってくれたと言うぞ。よくぞ孟徳を守ってくれた。今宵孟徳を守ったのは俺でも許褚でもなくおまえなのだと、俺だけは言う」
 紫鸞はしばらく黙っていた。表情は知らない。
 だがやがて微かに聞こえた笑声が随分くつろいでいたので、悪いものではなかったはずだ。
「惇兄は頑固だな……
「おまえに言われたくはないわ」
「はは」
 本調子ではないものの、紫鸞が屈託なく笑う。
 それを聞いた夏侯惇は、宴席から今まで張り詰めさせていた緊張の糸を、ようやく緩めた。