退屈な歌劇だが、と前置いた誘いに応えて、フレモントはオットーと共に劇場まで足を運んでいた。舞台だけでなく、階下の客席がよく見渡せる席である。既に第三幕の終盤、舞台上では恋人へのアリアが情感たっぷりに歌われており、聴衆は彼らの恋の行方に耳を傾けている。隣のオットーといえば、なんとも微妙そうな表情で、それでも酒を飲むでもなく、ただ音楽を聴いている。この自分から誘っておいてこんな顔の男の目的はだいたい予想がついている。オケの中にひときわ良い演奏をするチェリストが混ざっており、その演奏を聴きに来た、といったところだろう。席もぎりぎりオーケストラピットが確認できる位置であった。どうやらその奏者はこの国ではめずらしくもザラックで、客演なのかもしれなかった。残念なことに、チェロが主旋律を担当する曲は一曲だけであり、それももう中盤で奏でられてしまったために、あとはもう、凡庸な舞台を眺めるだけ、ということになる。
アリアが終わって、感極まった風の相手役がヒロインに口付ける。押しも押されもせぬ大団円、ハッピーエンドである。内容はといえば、家同士の仲が悪いために結婚ができない二人が結ばれる、というありきたりな筋書きだった。いいな、ハッピーエンドが約束されていて、などと、思っても口に出すことはないフレモントは、隣の、そう、自分の「恋人」を見て、悲劇しか望めない現実を思い出し、内心ため息をついた。舞台で言えばそう、二人目の男……当て馬のようなポジションに自分は立っているのだ。いつかこの男の真の相手が現れて、そうなればつかの間「恋人」であったことなど忘れ去られるような運命である。そうなれば、なにごともなかったかのごとく、存在するのは「友人」の私だけになるだろう。この男はなんとも思わない気もするが、自分は悲しく思わないはずがない。既に想像するだけででも悲しいのである。いかにもなエンディングの曲が流れ、余韻もなく拍手がわき起こる。そんなにいい舞台だったか、と客席を見下ろせば、感極まって泣いている婦女子がちらほらと。隣を見れば、普段通りの顔である。機嫌は悪くないようではあるが。
鳴りやまぬ拍手に応える出演者たちを眺めつつ、フレモントは席を立たずにいる隣の男に声をかけた。
「おい、楽屋に行くならさっさと行った方がいいんじゃないか」
「何の話だ」
「チェリストをスカウトしに来たのではないのか」
「ああ、期待していなかったが、なかなか悪くない演奏だった」
「彼の演奏が目的かと思ったが」
「……それが目的で来たわけではなかった」
「そうなのか。なんでまたこんな舞台に」
「……」
オットーは瞬きをひとつし、フレモントの問いの意味を珍しく考えているようだった。わずか数秒の沈黙が、普段の研究室での二人の間にあるものとは決定的に違っていて、フレモントは知らず息をつめた。次に何をいうのか、まったく想像ができなかった。このようなことは、オットーと度々、研究以外でも外出や、食事を共にするようになってから、何度かあった。その何度目かで、はっきりと口にしないまでも、この友人である男とは〝友人を越えた間柄〟にも踏み込んでいる、という認識が、フレモントの中に生じた。所謂恋人としてのオットーは想像ができなかったが、そこに確かに存在していそうなことがあり、時折垣間見えるそれは嵐のようにフレモントの心を乱した。しかし、瞬きした次の瞬間にはもう去ってしまっている、ということがほとんどなので、何の反応もせぬまま――返せぬままに、いるのである。ただ、珍しいことに、今のオットーは、時を止めたかのように、恋人のままで沈黙を保っているようだった。何かを待っているようでもあり、ただそこにそうしているだけで、何も待っていないようでもある。すこしだけ、オットーの耳が震え、やわらかそうなそれがひたすらに気になった。隣に座った近しい距離で見つめられたまま、フレモントはやわらかな耳に手を伸ばした。避けようともせずに、オットーはすこしだけ手の方に顔を傾けさえして、目を伏せた。歓声や拍手で満ちているはずの劇場内にいるはずが、何の音もしないくらいに、静かに感じられ、呼吸すら聞き取れそうであった。耳の良さについては一般的なはずのフレモントにも。すこしなぞれば、震える耳に、どうしようもない愛しさを、こらえることができなかった。
「オットー」
普段からは考えられないほど、ほんとうに小さな呼びかけを拾って、目をあけたオットーは、フレモントを見て、かすかに笑って、再び目を閉じた。もう一度フレモントが呼んでも、今度は目を開けずに、そのまま。触っていない方の耳が、ぱたり、と何かを主張するかのように、動いた。わからないのではない。わからないようにしていただけなのだ。フレモントは自らの心にするべき蓋がもう壊れていることを自覚した。すこしだけ元気のよいもう片方の耳を、やわらかくつまんでやれば、おとなしくなった。そのまま、黙したままのオットーに、フレモントは、はじめて自分から、口付けた。触れた唇は冷たくも、熱くもなく、しかし想像よりすこし乾いていて、何か飲み物を頼んでおけばよかったと、努めて冷静に考えているフレモントは、こうしたことについての衝動的ではない理由を探していた。続ける理由はついに見つけられずに、途方に暮れて。
そのまま結局ただ一度のささやかな触れ合いで離れようとしたフレモントの背を、しかし、オットーは腕を回して引き留め、口づけを返した。離れようとしてかなわず、そのまま呼吸も奪われたフレモントは、本心では抵抗しようとは微塵も思っていないことに却って動転し、強くオットーの上着を掴んだ。オットーはそれを拒否と取ったか、ほとんど覆いかぶさるようにしていた身を起こして、呆然とした様子のフレモントと目を合わせた。
「嫌か」
ただ一言、その声色に、かすかな焦りのようなものを感じて、フレモントは、そのように思うはずがない、と伝えようとした。嫌なわけがない。ずっとこうしていたいとさえ、思っていた。それも、ずいぶん前から。そう言ってやれたら。しかし、そんなことは、自分からどうやって伝えたらいい。そもそも、ここで、そんなことを言って何になる? ただ、もう一度抱きしめることくらいは、そう思考を巡らせて、フレモントは黙って身を寄せた。
しばらくそのまま、ずいぶんと長い間そうしていたような気がしたが、舞台の幕が下りるのが視界の端に入り、ほんの数分の出来事だと気付いたフレモントは、呆然と、帰らねば、と無意識に口にした。舞台が終わったのだから、帰らねばならない。この時間を終わりにして。いつまでもここにいて、いつまでも、を願ってしまう前に。どうにかなってしまいそうだった。
「そうだな」
そう、オットーが応じ、席を立つ。それをフレモントは、舞台に取り残された演者のように、座ったまま見上げた。さながら、ボックス席の遠い観客を見るかの如くに。いつまでも席を立たないフレモントを、オットーは待っている。いつも通り、生真面目に待っている様子をみて、今夜はこのまま一人で帰ってしまってもいいんだぞと、心の中で伝えて、フレモントは知らず微笑んだ。暗い劇場のボックス席のなかにあって、なんときらびやかで、美しい男だろう。外見の美しさなんてこの男の魅力のほんのわずか、一部でしかないが、目を奪われぬ者はいないだろう。いつまでも見ていられるのならば、どんなにいいか。それがどのような位置であっても、本来は構わないはずなのだ。この男が一人でボックス席を出て、帰るところを遠目から見守ろう。そうすれば、本当にこの恐ろしく離れがたい夢から覚め、未来を思って悲しむことなく、心穏やかに明日を迎えられるかもしれない。
「……まさかとは思うが、今夜はここに泊まるつもりなのか」
その問いの方が〝まさか〟である。本気でそう危惧していそうなキャプリニーに、フレモントは呆れた。本気で聞いているのか? 私が席を立たないから、今夜の宿をここにすると言い出すとでも? 本気なのか冗談なのかわからない問いに、フレモントはひとまず冗談として返すことにした。
「それもいいかもしれんな。あのアリアを思い返しつつ、良い夢が見られるのであれば」
「いい夢を?」
「誰しもそうだろう。よい夢を見たくなることだって、私にもあるさ」
「貴様は、あの歌劇のような夢を、見たいと思うのか」
思わないと言えば、嘘になってしまうな。男が本気で質問をしている様子であることに、フレモントは答えようとしつつも、不思議な心境だった。退屈な歌劇も、この男とならば楽しめるのだ。別にこの歌劇でなくたってよかった。くだらない喜劇でも、たとえ悲劇であっても、この男が共にあるのならば。考えたままに沈黙していると、どうやら機嫌を損ねたらしい。オットーはフレモントの腕をぐいと引っ張って立たせると、帰るぞ、とこれまた不機嫌そうな声で宣った。
オットーがこのように承諾を得ることもなくフレモントを動かそうとしたことは一度もなかった。それゆえに、フレモントは驚き、しかし、咎めだてする気にもならず、ただただ受け入れたが、それすらも男の気に障ったらしかった。
「私と帰らずに、ここに居たいと言うのか」
「は?」
気の抜けた返事に、さらに顔をしかめたオットーはさらに強く腕をつかんだために、フレモントはほんのすこし痛みを感じるほどだったが、それ以上に、なにやら深刻そうなこの男は、なにがそんなに気に入らないのか、そればかりが気になった。
「あの歌手か」
「オットー?」
あの歌手、はあのソプラノの、キャプリニーの女性のことを指しているのだろうが。歌はなんとも普通だった。長年リターニアに、この男の傍にいれば自然と洗練された音楽に慣れてしまう。そして、この男以上の美人となると、存在するかどうかも怪しい。目移りしろと言われても無理である。
「今夜は、全く予定がなかったため、貴様を誘ったのだ」
かなり前の問いの答えが、今になって返ってきた。理由なく歌劇なんて聴きに行くものか、と思ったが違うらしい。長年傍にいても知らないことは多い。フレモントはそのめったにないであろう試みがどういうものなのか気になり、身を乗り出した。
「わざわざ私を?」
「……デートだからな」
「…………」
デート。逢引。お互いを好いた間柄では行われても不思議ではない儀式である。親しい恋人同士が、美しい恋愛の歌劇を寄り添って観る、デートではよくあるパターンだ。よくある。一般的な。思い返してみれば、いままでのあれやそれやも、もしかして。
「ずっと逢引のつもりだったのか」
「……」
「私はてっきり、お前が興味を持ったものに付き合わされていたのかと」
言ってから酷い言い草だなと思いつつ、フレモントはしかし、実際そう思っていたんだから仕方のない話だと開き直る。なにせ、甘い言葉の一つも……なかったとは言い難いかもしれない部分は、思い返せばあるけれど、とにかく、まぁ、普段の延長線上にそれらはあると認識していた。それに、付き合わされることに何の文句もない(一言も文句を言わなかったわけではない)ので、嫌々というよりはむしろ、楽しんでついて行っていた。それにこちらから誘うこともあった。あったが、こちらは完全に友人として誘って、いたな。そういえば。これはあまりにも、もしかして自分の方が、薄情なのだろうか。思い返せば思い返すほど、もしかして、と思う部分が多すぎて、フレモントはずっと袖にしていた可能性すらあると、気付きたくない事実に気付きそうで、これは不可抗力だと今すぐにでも弁明するべきだと、急ぎ口を開く。
「どうにも、勘違いしていたようだ」
そう切り出せば、オットーは、意外なほど、硬い表情になり、そして、掴んだままの腕を、今思い出したかのように、ゆっくりと放した。初手から酷いミスである。言葉は難しい。どれほど気を付けていても、口が滑ることはある。
「お前は本当に私を、恋人だと?」
「誰かに聞かれて、そう答えてもよいのであれば」
「ははは、それは無理かもしれないな」
「愛している」
「……」
「誰にも言えなくとも」
こんなに悄然とした、愛の言葉があるとは。ままならないことと戦い続けてきたこの男も、こんな声を出すことがあるのかと、フレモントはその静かな愛を受け止めた。幸いなことに、愛しく思っているのは、お前だけじゃないのだと、真摯な目を見つめ返して。
「私も」
この思いは、おそらく、この男が想像するよりもはるかに長い間、これから先、私と共にあるだろう。そう、フレモントは思いつつ、やはりどうしてもそのまま口にはできずに、しかし、別な言葉で言い換えることくらいは許されてもいいだろうと、思い、少し距離を置いたオットーに今度は自分から近づいた。
「お前とでなければ、今夜の歌劇は楽しめなかったよ。他の誰ともデートなんてする気はないし、今後もないだろう、お前がいる限りは」
「私が死んだあとは」
「お前の頑張り次第だろうな」
「今夜はフレモント教授のご自宅に伺っても」
「許可しよう」
深く考えずに応えてから、これは〝もしや〟、と思いつつ、そうなったとしても何ら問題はないなと思い直し、フレモントは、酒となにか摘まむものはあったかなどと、未だに悠長なことを考えていた。事態は切迫しているというのに。酒なんてゆっくり飲めるとでも? そう思っても口にはしないオットーは、この長命すぎるがゆえに極端に鈍い可能性がある男をどのように篭絡するかに頭を悩ませるのだった。とにかく真正面から説き伏せるのが一番早い気がしてきていた。なんとか敬愛する男が差し出してもいいと思っているすべてをもらい受けるまで粘るしかない、と決意する。長い夜になることだろう。
お互いに色々考えつつも、やっと席を立ち、未だ余韻に浸る人々が歓談する場を通り抜けて、二人は劇場を後にする。
「それで、お前はこんな時間にうちに来てどうするつもりだ」
「白山羊を手に入れるまで頑張るつもりだ」
「しろやぎ」
「私の白山羊」
「……」
フレモントは思わぬ愛称に、上等な服にも構わず恋人の足を蹴った。びくともしない。しびれを切らした可愛い黒山羊がアリアを歌い始める前に、キスをお見舞いしてやることにした。
(歌うのは貴様の方では)
(お前も可愛い黒山羊だからな。そもそも私がこの時間に大声で歌ったらどうなると思う?)
(………私は構わない)
(お前にしちゃありえないくらいの譲歩だが)
(無理はしていない。貴様からの歌であるならば評価など無意味だ)
(……正論だろうが、お前が言うとどうにも……)
(私が大声で歌ったとしても、この時間帯だ、結果は同じだろう)
(リターニアでもか)
(ほかの国がどうかは知らないが、リターニアでもだ)
(お前が歌うのに?)
(………)
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