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燈 ともしび
2026-05-26 21:32:54
2654文字
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ぎゆさね【涯の先】
キ学軸。甘め
「海が見たい」
二人揃って完全な休みが重なった日。
いつもは俺を甘やかしてくれる不死川が珍しくそんな願いを言ってきたから、これはと急いで出かける支度をした。
車で行くか電車で行くか。まだ早い時間だからどちらでも大丈夫そうだったけれど、これもまた不死川からの「のんびりと電車で行きたい」という願いを叶えて駅まで向かう。
いま住んでいる家の最寄駅から出る路線は反対方向に行くと大きめの街に向かうのだが、反対方向に乗ると海沿いへと連れて行ってくれる。普段は通勤も買い物も用事も街方面にしか乗らないのでなかなか新鮮で楽しい。
駅構内のコンビニでおにぎりとお茶を買い、あえてゆっくりの各駅停車に乗る。ロングシートではなく向かい合う形の四人がけシートも新鮮だった。
「旅行感出るなァ」
不死川が窓の外を眺めながらふふ、と笑う。その顔がとても綺麗で思わず見惚れていると頬を軽くつねられてしまった。照れ隠しだろうか。そんなところはとても可愛いと思う。綺麗で可愛い。
やがて車窓は高いビルだらけの視界から徐々に緑が多くなっていき、これから向かうのが街ではないことを伝えてくる。乗り降りする乗客の数も普段とは違って少なく、のんびりとしていた。
長いトンネルを抜けると一気に視界が開けて、やがて遠くに海が見えてくる。
「海だ」
窓にへばりついて感嘆の声を上げていたらまた不死川がふふ、と笑った。今度もまた綺麗で可愛かったけれど、素に戻ったら急に恥ずかしくなってしまい、ズルズルと座り直しておにぎりを頬張る。
鮭味のおにぎり。いつも買ってるやつ。食べ慣れた味なのに綺麗な景色を見ながら食べると何故かいつもより美味しく感じた。
ちらっと視線を向けると不死川はおにぎりも食べず、お茶も飲まず、窓に肘を乗せて海へと続く景色を眺めている。
そう言えは何故不死川は海が見たいなんて突然言い出したのだろうか。二人共に生まれも育ちも海沿いではないし、海に縁がある訳でもない。夏に二人でプールへ行ったことはあるが、海に行きたいと言われたのはこれが初めてだった。
聞いても良いのだろうか。どうしてかそんなことに迷いが生じる。別におかしなことでもないし、気軽に聞けば良いのに聞けない。
車窓を眺める不死川があまりにも綺麗だから。綺麗で、綺麗過ぎてなんだかそのまま溶けて消えてしまいそうに感じて怖くなった。
咄嗟に目の前にあった不死川の手を握る。
「? どうしたァ?」
不死川は俺に目線を戻して不思議そうな顔をする。それはいつもと変わらない顔に見えたからほっとした。
「いや、なんでも」
握ってしまった手を離して言えば
「変な奴ゥ」
とクスクス笑う。
「人が居なかったら後で手ぐらい繋いで海を歩いてやるよォ」
先ほど感じた不安なんて吹き飛ばすような明るい笑い顔。俺もつられて笑う。
違うんだ。不死川が消えそうで怖かったから手を握ったんだ。
本当のところは結局言えなかった。
最寄駅から電車に揺られて一時間と少し。旅行とするには近くて、でも用事で行くには遠い。そんな距離に海があった。
駅を出ると潮の匂いがする。あと、海産物屋からなのか魚介類の焼ける良い匂いも。多分おにぎりを食べていなかったら海よりも食欲をとっていたかもしれない。
匂いに少しだけ後ろ髪を引かれながらも二人並んで海岸方向へと歩く。休日だというのに驚くほど観光客がいない。海沿いの道をのんびり歩いているのは地元民らしき人たちばかりだった。今がまだ冬の気配が抜けきらない春の初めだからだろうか。泳げもしない海に来るのは物好きなのか。なら俺たちは物好きな観光客に見られているのか。
そんなことを考えていたらなんだか面白くなってきた。普段は見えない海が目の前にどーんと見えるからだろうか。非日常感はなんだか心を軽くする。
道沿いから小さなトンネルを潜り、階段を降りるとすぐに砂浜に出られた。
離れたところでヨットが一隻だけ動いているが、それ以外はなにもない。トンビだろうか。大きな鳥が頭の上を旋回している。食べ物を持ってこなくて良かったと思う。あの鳥が急降下して人の食べ物を奪っていくことを知っている。
「おにぎり、電車内で食べ終わってて良かったなァ」
不死川も同じことを思っていたのかニヤニヤと笑う。電車で見せた笑顔とは違う。でもこっちの方がいつもの不死川で安心する。好きだ。
ひとけが無いので約束通り不死川は手を繋いでくれた。指と指を絡めるやつ。普段は絶対許してくれない繋ぎ方だ。
「特別なァ」
ふふ、と笑う。俺も笑い返す。楽しい。何もしていない。単に二人で手を繋いで砂浜を歩いているだけ。それなのに、日常のモヤモヤとか疲れが消えてゆく。
砂浜をだいぶ歩いて、やがて不死川は足を止めた。海のほうへ身体を向ける。
静かな横顔。俺は黙ってその顔を見つめる。
「冨岡ァ」
「うん」
ぎゅっと握っている手に力が込められる。
「ここは涯だ。でも、なんか広いなァ」
それは自虐のようでもあり、自戒のようでもあり。そして、どこか祈りのようでもあった。
不死川にはひっそりと心に溜め込んでいた何かがあったのかもしれない。普段は人に弱みを見せないタイプだから。それは恋人である俺に対してもだ。
でも、珍しく弱みのカケラを見せてくれた。
「海が見たい」
これは不死川なりの俺へのSOSだったのか。今になってそう思う。行きの電車内で見せた消えそうな笑顔も、今はちゃんといつも通りの愛おしい笑顔に戻っている。
非日常と、ただ目の前にある大きな海。それらが不死川の心の中の何かを消し飛ばしてくれた。
ぎゅっと、俺からも繋いでいる手に力を込める。良かった。不死川を失わなくて。大袈裟かもしれないが、それがこの世で一番怖いことだから。
「駅まで戻ったらさっきの海鮮屋でなんか食うか」
「美味しそうな匂いがしていたからな」
「髪の毛に染みつくくらい食べて帰ろうぜ」
「良いな」
ニィーっと笑う顔。とても可愛い。
ひとけが無いから大丈夫か。引き寄せてその唇にキスをした。
不死川はびっくりした顔をして、でもすぐにいつもの顔で笑ってキスを返してくれた。
「また来ようなァ」
「うん。次は暑い夏とかに」
「その時は花火とかしようぜ」
「良いな」
二人、顔を見合わせて笑った。
海は春の太陽を反射させてキラキラと輝いていた。
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