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千代里
2026-05-26 08:17:08
13726文字
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君ふれ短編
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君ふれ・クガネ編・22話
「おかえりなさい、ギンチョウ。それにユキハネも」
玄関口を開けてすぐに二人を出迎えたのは、暖かな土間の灯りと叔母の声だった。
「二人とも、冷えなかった? 今日は昼から雨になりそうだって言ったでしょう、ギンチョウ。あなたったら傘なんていらないなんて言って、オロシくんが持っていってくれなかったら、ずぶ濡れになるところだったでしょう」
「はいはい、分かったってば。それに、そんなに大雨ってほどじゃないでしょう。これぐらいの小雨なら、ぱっと走って帰るわよ」
「ギンチョウ、年頃の女の子が体を冷やすものじゃないわよ。それに、雨の中を走って帰るなんて、そんな男の子みたいなことしたら、はしたない娘だと思われるわよ」
従姉妹に向けられる小言の数々を聞きながら、ユキハネはこっそりと土間の端に傘を戻す。
道場を出たあと、ギンチョウの迎えに行くオロシと共に、ユキハネは潮風亭へと向かった。ヒョウセツも途中までは共にいたが、潮風亭に到着したときに乾物を店に卸しにきていた父親と偶然出会い、そのまま彼の手伝いをするため、そこで別れることとなった。
オロシだけでなくユキハネまで姿を見せたことに、ギンチョウは最初こそ面食らっていた。
しかし、すぐに場の状況に馴染み、ユキハネのことを気にせずに、オロシと話しながら帰路についていた。
二人とも、ことさらにユキハネを除け者にしようとしたのではないだろう。ただ、いつもの帰り道に混ざり込んだ異分子にどう接すればいいかわからず、結局は普段通りを選んでいた。何も話さずについていったユキハネも、二人の間に割って入るほど図々しくはなれなかった。
(オロシさんとギンチョウさん、とても仲良さそうだったな)
歯に衣着せぬ物言いをするギンチョウであったが、オロシに対してもその態度は変わらないようだった。
だが、その遠慮のない物言いをオロシは気に入っているようで、ヒョウセツと話しているときよりも肩の力を抜いて言葉を交わしていた。
オロシは、今日一日がどんな様子だったかを話していた。
父親から聞いた商売の話、道場の様子、ごくありふれた日常の断片だったが、ギンチョウは一つ一つに言葉を返していた。
一方、ギンチョウも潮風亭で出会した迷惑な客の愚痴や、どんな料理がよく頼まれたかや、仕事で新しく覚えたことなど、取り止めもないことを話していた。
道場での手合わせの話や、そこで聞いた織物のお伽話の話が出た時は、気を遣ってオロシがユキハネに話を振ってくれもしたが、どう見てもユキハネの存在は二人の団欒の異物にしかなりえなかった。
(
……
いいなあ。ギンチョウさんは、好きな人と一緒にいられて)
考えても仕方がないと分かっていても、今の自分の境遇と従姉妹の様子を比べてしまう。
師に置いてかれた自分と、思いを寄せる相手が迎えにきてくれるギンチョウ。立場も成り行きも全く違うと承知の上で、小さな羨望の火は燻り続けている。
「ユキハネ、そんなところにずっといると風邪をひいてしまうわよ。ご飯、用意しておいたから、早くこちらにいらっしゃい」
「は、はい」
叔母から向けられる言葉も声音もとても和やかで、ごく自然なものだ。
家族にむけられたものと思えば、それも当然なのだけれど、ユキハネにはまだ違和感が拭えずにいた。
何せ、自分の親戚に再会したのは昨晩のこと。十年来の再会であっても、心が広い叔母はユキハネを娘のようにすぐ受け入れてくれたが、肝心のユキハネはいまだに二の足を踏み続けている。
(ごめんなさい、叔母さん。あなたの優しさに上手く応えられなくて)
自分でもぎこちなさが残ると承知の笑顔を向けながら、奥の間に向かう。
居間として使っている六畳ほどの部屋にはちょこんとちゃぶ台が置かれ、焼き魚や味噌汁といったひんがし風の料理が並んでいた。
「さあさあ、二人とも。雨の中を歩いて帰ってきて、疲れたでしょう。しっかり食べるのよ」
叔母に促され、ユキハネも勧められた座布団に腰を下ろす。自分の分として渡された茶碗には、白米が白い山を築いていた。微かな湯気から漂う芳香は、昼食を食べて以来何も口にしていなかったユキハネの空腹をちくちくと刺激した。
「何もたもたしてんの。あんたもさっさと食べたら」
「こら、ギンチョウ。ユキハネにそんな風に焦らせるものではないわよ。ユキハネ、遠慮せずに食べていいのよ」
ユキハネの隣に腰をおろしたギンチョウが、慣れない食卓の団欒に戸惑っているユキハネを横目に、さっさと茶碗に箸をつけている。叔母も、焼き魚に添えられた漬物に箸を伸ばしていた。
「そういえば、母さん。父さんは? いないの?」
ギンチョウが食卓を眺めて、もう一人の家族について尋ねる。
「お父さんは先に食べ終えて、今は仕事場にいるわ。ようやく糸を準備できたから、早速織っていかないとってね。ハチベエさんをあまりお待たせしても悪いから」
「
……
何よそれ。詐欺師を待たせて何が悪いっていうのよ」
ギンチョウの言う通り、現在ハタオリ家に降りかかっている借金という災難は、元はと言えばハチベエが用意した詐欺紛いの証文によるものだ。
叔母と叔父はそれは正当な請求であり、多額の借金は自分たちの見落としが招いたものだと受け止めているようだが、ギンチョウはユキハネと同じく、不当な請求と受け取っているようだ。
「ギンチョウ。他人のことをそんな風に悪く言うものじゃないわ。人の悪口を言う人は、心まで悪くなってしまうものよ」
「ただの赤の他人だったなら、悪口なんて言わないよ。でもね、うちの家に借金おっかぶせたようなやつに、気を遣う必要なんてないでしょ」
「そうやって、人聞きの悪いことを言うものじゃありません。まったく、あなたときたら潮風亭にいくようになってから、悪い言葉ばかり覚えてきてしまって。昔はあんなに優しい子だったのに」
「何よ。潮風亭に来るお客さんの方が、お母さんの百倍ものが見えてるわよ!」
だん、とギンチョウが茶碗をちゃぶ台に叩きつけるように置く。はずみで食器がカタカタ音を立てて、ユキハネは思わず竦んでしまった。
荒っぽいやり取りには慣れていたはずだが、食卓という団欒の場で持ち込まれる、家族の間で飛び交う口論を前にしてはユキハネも流石に平然と受け流せず、心に動揺が走ってしまう。
「ギンチョウ。食事中にそんな風に大きな音をたててはいけないわ。ユキハネがびっくりしているでしょう」
「音をたてさせているのは、母さんの方でしょう。なんでそんなに能天気でいられるのよ! それと母さん、オロシにうちと取引しないか頼んだんだって? あたしがそれを聞いて、どれだけ恥ずかしかったか!」
ギンチョウの大声の非難の裏に、ユキハネは彼女の羞恥と落胆の悲鳴が隠れているように聞こえた。
ギンチョウは、母親を心底から嫌っているわけではないのだろう。ただ、もっと自分と同じ目線で今の苦境を見てほしいと思っているだけだ。
(でも、叔母さんにはギンチョウさんの考えがわからないのですね。きっと叔母さんは、ギンチョウさんとは違う物の見方をしているから
……
)
ユキハネの推測を裏付けるように、狼狽えてはいるものの、叔母は戸惑いを顔に浮かべている。
「オロシくんは、あなたの友達でしょう。お友達のお家の人と仲良くすることを、どうしてあなたが恥ずかしがるの?」
心底不思議そうにする叔母には、自分と大店の息子との間にある経済的な格差など、全く気にしていないようだった。
彼女は平等に相手を見て、自分を見ているのだ。だが、その平等すぎる姿勢は、ギンチョウには世間知らずの醜態のように見えてしまっているのだろう。
「それに、借金のことは大人同士の問題よ。子供のあなたが気にする必要はないわ」
「だったら、オロシを巻き込まないでよ! あたしが潮風亭で稼いだお金も、すぐにあのハチベエに渡すし、どうして母さんはいつもそうなの!!」
再び言葉の応酬が続きそうだった、そのとき。
「あの、二人とも。今は
……
その、少し落ち着いた方がいいのではありませんか」
叔母が、というよりは、ギンチョウが、とユキハネは内心で付け足した。
ユキハネとしては叔母にもギンチョウの焦りと苛立ちの一割でも伝わってくれればと思うが、どうやら今それを望むのは難しそうだ。
「ほら、叔母さんが美味しいご飯を作って、待っていてくれたんですから。食べないと、勿体無いです」
自分でも苦しい言い訳だと思ったが、せっかくの料理が冷めるという意見は伝わったらしい。
ギンチョウは、不意に床の上に置きっぱなしになっていたお盆
――
叔母が食事を運ぶときに使ったのだろう
――
に、自分の料理を手早く載せてしまうと、
「部屋で食べる。
……
あとで食器は洗っておくから」
それだけ言い残すと、足早に部屋を出ていってしまった。
襖を閉める際、タン、と響いた音がいつもより強く感じられたのは気のせいではないだろう。
数秒の沈黙。その後に、小さなため息が響く。
「ごめんなさいね、ユキハネ。昔は、もう少し穏やかな子だったのだけれどねえ。急に大きな声を出されて、驚いたわよね」
「いえ
……
そういうことは、ないのですけれど」
むしろ、ユキハネはギンチョウが苛立ちに同情すらしていた。
もし、叔母たちが借金を負ってから今のようなやり取りをずっと続けていたのだとしたら、そして帰る家がここである以上どこかに逃げることもできずにいるとしたら、彼女の抱える苛立ちは今見たもの以上だと容易に想像できた。
対して、叔母はユキハネの湯呑みに、急須からお茶を注いでいる。ゆっくりと上がる水面には混乱の気配も微塵もない。あれほどのやり取りすら、叔母の心にさざなみ一つ立てなかったのだと分かる。
「ギンチョウったら、背伸びをして大人の仲間入りをしたいみたいなの。自分はもう大人だって、言い張ってねえ」
自分は大人だと言い張る者ほど子供じみている、という一般論はユキハネも知っている。だが、今の叔母に言われるのは、何かチグハグな印象を受ける。
「ユキハネよりも年下なのに、潮風亭で働きたいなんて言い出したのよ。あの子、まだ十四になったばかりなのに」
叔母はまるで十にも満たない子供が駄々をこねているかのような物言いで、頬に手を当てて、のんびりと話している。
「きっと、布を織る勉強をするのが嫌になったのでしょうね。飽きっぽいあの子のことだから、すぐに辞めるかと思ったのだけれど、意外と長続きしているのだから不思議なものね」
(
……
本当に、ただ織り物の仕事をするのが嫌で、外の仕事を選んだのでしょうか)
ケイから聞いた話では、織物の値は現在下がる傾向にあると言う。ギンチョウはそれを察して、市場に影響を受けない場で収入を得ようとしているのでは、とユキハネは思っていた。
「叔母さんは、ギンチョウさんが働くのは反対なのですか」
「いずれは、あの子も機織りの仕事をしてもらわないといけないとは思っているわ。でも、まだあの子は子供でしょう? 西方ではどうだったかは分からないけれど、クガネではまだギンチョウぐらいの年頃なら十分子供なのよ。仕事だなんだと考えるのは、もっと後でいいのよ」
ユキハネに説明するその口調も、小さな子供に道理を教えるような気配があった。
殊更にユキハネを嘲っているからわけでもなく、叔母は心底から親切心で教えているのだ。
「潮風亭では料理もするのでしょう。あの子、台所に立ったこともないのに、火傷をして怪我をするかもしれないって心配で心配で。それに、潮風亭から家まで遠いし、夜道で何かあると危ないから、毎日私が送り迎えに行っていたのよ」
今はオロシくんがやってくれているけれど、と叔母は付け足す。
「オロシさんとは、もう長い付き合いになるのですか」
「半年ぐらい前からの付き合いかしらねえ。親切で礼儀正しい男の子なのよ。ヒョウセツさんともお友達だったなんて、あの時は驚いたわね」
ユキハネの目から見ても、オロシはヒョウセツをライバルとして敵対視しているように見えたが、叔母の目から見ると彼らは良き親友という扱いになるらしい。
「だから、オロシくんのお父さんともお話しできたらってお願いしたのだけれどねえ。ギンチョウったら、オロシくんに私が話しかけるだけでいつもすぐ怒るのよ」
不思議そうにしている叔母の傍らで、ユキハネは味のしない米をひたすら咀嚼していた。
叔母に言ってしまおうかと思ったことは、この短い会話の中でもたくさんあった。
ギンチョウは、きっと仕事が嫌になったのではなく、家計を少しでもよくしようと頑張っているのだ、とか。
一人前になりたくて働きに出たのに、母親が仕事場に顔を出すのはギンチョウのプライドを傷つける行いだったのではないか、とか。
裕福な大店の息子であるオロシに対して、いくら恋人の母親といえども、借金返済の手伝いをしてくれなどと頼むのは、礼儀にもとる行為なのではないか、とか。
だが、そのどれもがユキハネが迂闊に口に出していいことではないように思えた。
それらの問題は直接ユキハネが関わっているものではない。少なくとも、今はまだ。
(でも、私がこの家に残るのなら
……
叔母さんとの関わりも、私の日常の一部になるのですよね)
十年以上ぶりに戻ってきた姪を娘のように迎え入れ、こうして食事も用意してくれる。まだ子供なのだから、何も考えずに気楽に過ごしていていいと言う。
それは、きっと世間的には優しい気遣いなのだろう。
ユキハネが暮らしていたウルダハでは、子供を娼館に売り飛ばす親や、奴隷のようにこき使う親もいた。そんな苦境に比べれば、今のユキハネは恵まれていると言ってもいい。
「そういえば、ユキハネ。あなた、今日道場に行って、男の子と手合わせをしたそうね。ギンチョウが話していたわよ」
「は、はい。ヒョウセツさんと一緒に」
いきなり自分に話が向けられて、ユキハネは声を上擦らせる。叔母は心配そうに眉を寄せ、ユキハネの手をとった。
「どこか打たれたりはしていない? あざや打ち身はできなかった?」
「いえ、そういうことはなかったです。ちゃんと受け身もとれましたから」
「受け身って
……
まさか、試合中に転ばされたの? そんな乱暴な試合に参加するのは、やめた方がいいわ。女の子の顔に傷でもついたら、大変よ。あなたが怪我でもしたら、姉さんに顔むけできないわ」
亡くなった母親のことを出されると、ユキハネは俯くしかなかった。
今日の手合わせは、これまで冒険者として活動していた日々に比べれば、児戯に等しい戯れだと言っても、叔母は聞いてくれないだろう。
叔母と叔父は、ユキハネは家で仕事を覚え、ゆくゆくは花嫁として送り出すことがユキハネの最善の幸せと考えている。彼女に冒険者としての考えや生き方を今すぐ理解してもらうのは難しいと、ユキハネも思っていた。
「叔母さんは、その
……
」
だが、せめて彼女の娘であるギンチョウのことは分かってやってほしいと思う。
同時に、できるならば叔母
――
シラギクという女性の考え方も、ユキハネは少しでも理解したかった。
「叔母さんやお母さんが私ぐらいの年の頃は、どのように過ごしていたのですか」
「あら、昔話を聞きたいの? そういえば、ユキハネにはその頃の話をしていなかったものね」
小さい頃にひんがしの国から離れたユキハネが家族のことを知ろうとしていると思ったのか。叔母は特に疑問も抱かず、すんなりと答えてくれた。
「私も姉さんも、母さんたちの機織りの仕事を手伝っていたわねえ。村には、ここみたいにお店もなかったから
……
」
「村? お母さんたちが私たちぐらいの年のときは、まだクガネにいなかったのですか」
意外に思って尋ねると、叔母は「そうよ」とあっさりと頷いた。
だが、考えてもみれば当然だ。クガネという外界に繋がる港町ができた経緯には、ガレマール帝国が関わっている。
彼の国が東方侵略に着手し始め、対外的にひんがしの国が中立を宣言するためにクガネが生まれたのだから、その歴史はどれだけ大きく見積もってもここ五十年ほどだ。
港町が生まれてすぐに拠点を移したわけではないのなら、クガネで過ごした時間は彼女たちが娘時代を過ごした期間とそんなに変わらないのだろう。
「父さんは、たまに出稼ぎでクガネに出ていたけれどね。こちらに来たのは、姉さんと私の縁談がまとまった頃だったかしらねえ。でも、村の皆と一緒に引っ越したから、あまり寂しいとは感じなかったわね。今は、皆も引っ越したり村に戻ったりして、殆どいなくなってしまったけれど」
「だから、近所の方は小さい私にも親切だったのですね」
幼い頃の記憶を辿っても、近隣の住民に可愛がられた記憶しかなかったが、あれは古馴染みの娘だったからだ。
「それそう、私があなたぐらいの年頃の話だったわね。さっきも言ったように、村には遊べるような場所もなかったから大体は家の手伝いをしていたわねえ。他にも、近所で手が足りないときは、糸を紡ぐのを手伝ったり、誰が早く織れるか競争をしたりね。でも、もっと小さかったときは近所の子と一緒に、山で野草や食べられる実を摘んできたり、川で遊んだりして、楽しく過ごしていたわ」
叔母が語ったのは、ユキハネが想像もしたことがないぐらい、平和で牧歌的な光景だった。
ユキハネはクガネとウルダハ、そしてリムサ・ロミンサの街並みしか知らない。そのどれもが大きな都市であり、誰もが忙しくなく生きていた。自らの取り分を守るために必死に生きていた。商人であろうと、民間人であろうと、冒険者であろうと、皆等しくぎらついた光を双眸に宿していた。
「ああ、そうそう。ハタオリの家はね、昔から村にいたわけではなかったのですって」
「そうだったのですか?」
「ええ。私の祖母から聞いた話だから
……
そうね。ユキハネにとってはひいおばあちゃんとなるのかしら。でも、祖母もそのまた祖母から聞いたと言っていたから、もう随分と昔の話のことね。ともかく、外からきた私たちの祖先を受け入れてくれたのだから、村の人には親切にするのよと、よく言われたものだわ」
昔を懐かしむ視線とは裏腹に、ユキハネはどうして叔母がここまで善良で慈悲深く、同時に借金という現実的な問題に対して能天気に構えているのか、その原因の一端を知った気がした。
(住んでいる世界が、私と叔母さんでは違ったのですね。きっと、叔父さんも)
幼い頃だけでなく、一端の大人として成長するまで、彼らはクガネから外れた村落で静かに過ごしていた。そのため、クガネの人々が数十年をかけて生み出した都会の荒波を認識できないのだろう。
村の者と共に越してきたという経緯も、それに拍車をかけたに違いない。彼らはクガネに引っ越してきてもなお、村が作り上げた平和の輪の中に居続けたのだ。
時が経つにつれ、村の者たちが減り、かつての共同体という輪が崩壊して、彼らは初めてクガネが持つ闇の一端に触れた。だが、それに触れてもなお、彼らは依然として人々が向ける悪意を認識できないままでいる。
ギンチョウは、叔父と叔母の娘であると同時に、クガネの人々の言葉や振る舞いを見て育ったのだろう。だから、自分の両親とはまた異なる視野を持ち、今こうして摩擦が生じてしまっている。
「叔母さん、昔の話を聞かせてくれてありがとうございます。ご飯、美味しかったです。食器、流しに持っていきますね」
「そうね、お願いしていいかしら。水につけておいてくれるだけでいいから。私は、お父さんの夜食の準備をするわ」
食器を手早く積み重ね、ユキハネは叔母の元を立ち去った。
廊下に吊るされた灯りを見つめ、思わずため息が漏れる。
冒険者として生きてきたユキハネにとって、叔母の考えはあまりに相容れないものだ。だからといって、彼女を全面的に否定することもできない。
食器を流し場に持っていき、ついでに従姉妹の様子を見に行こうとユキハネはギンチョウの部屋を探す。
昨晩、風呂場に向かう途中で「部屋に向かうのに邪魔」と言われたことを思い出し、そちらに足を向けると、程なくして廊下の突き当たりに漏れた灯りを見つけた。
襖の柱をノックすると、すぐにギンチョウは顔を出した。ユキハネが立ち往生する暇もなく、「突っ立ってないで入ったら」と言われ、中へと足を踏み入れる。
ユキハネの部屋よりも小ぢんまりとした大きさではあったが、叔母が用意した部屋は少々広すぎると感じていたユキハネには、むしろこのくらいが丁度いいと思えた。
箪笥はないので、押し入れに衣装箱を入れているのだろう。床に置かれた風呂敷からは、潮風亭の制服なのか、潮風の屋号が入った前掛けがのぞいていた。
他にも、文机と座椅子、そして床に雑多に積まれた本が目に留まる。文机の端には文箱と本が置かれていて、傍らには開かれた帳面も置かれている。ちらと見えた内容から察するに、何か計算をしているようだ。もしかしたら、潮風亭で得た収入を記録しているのかもしれない。
「人の部屋を、そんなにまじまじ見るようなもんじゃないでしょ。それで、何の用? わざわざきた理由が、単に食器を片しにきたってことはないでしょ」
押し入れから座布団を引っ張り出してきて、ギンチョウはユキハネへと放る。
腰を下ろして、改めてユキハネは家に帰って初めて息がつけたような気がした。ギンチョウの部屋の雑多な様子が、冒険者として生活している自分の宿の様子に似ていたからかもしれない。
「えっと
……
その、叔母さんと言い合いになっていたようですから、ギンチョウさんの様子が気になって」
「慰めに来たってわけ? あんたも大概お人よしね。別に、あんなのいつものことだっていうのに」
「でも、あのやりとりがいつものことなら、余計ギンチョウさんは誰かに話を聞いてほしいんじゃないかって思ったんです。だって、私はギンチョウさんの言ってること、間違いだとは思わなかったので」
自分でもなぜ従姉妹の様子が気になったのか不思議だったが、自ら口を突いて出た言葉がその理由を教えてくれたような気がした。
聞いてほしい相手にいくら言っても伝わらないのは、悲しいことだ。しかも相手が自分の親しい人なら、なおのこと。
ユキハネはその悲しみを知っている。
もっとも、ユキハネは師であるフェリキシーに、面と向かって自分の言葉で己の気持ちを伝えたわけではないのだけれども。
ユキハネの返事に面食らったのか、ギンチョウは目を丸くしていた、
「
……
あんたは、母さんよりはもうちょっとマシな考え方してるみたいね。おとなしいし、何にも言わないから何考えてんのかさっぱりだったよ」
ギンチョウのもっともな意見に、ユキハネは胸の奥に針で突かれたような痛みを感じた。
それもまたフェリキシーとのすれ違いにまつわる痛みだったが、今はグッと堪えて、目の前の従姉妹に向き合う。
「さっきも聞いたでしょ。母さんは、ハチベエが詐欺を働いて、自分たちを騙して借金をおっかぶせたなんて考えてもいないのよ。今でも、親切な仲介業者だと思ってる」
「あの、それなんですが
……
叔母さんから、昔の話を聞いたんです。叔母さんたちは、少し前までクガネには住んでなかったんですよね」
「そうよ。でもね、ここはもう母さんの故郷の村じゃないの。クガネには、他人を騙して金儲けしても構わないって奴がいくらでもいる。なのに、今でも呑気な村娘気分なのよ、あの人は」
吐き捨てるような物言いは、それだけギンチョウが積み重ねてきたやるせなさの表れだ。ユキハネは相槌を打って、続きを促した。
「母さんが言うみたいに遊び呆けていられるほど、あたしは呑気に子供をやっている余裕がないの。だっていうのに、母さんは潮風亭に働きに行くのも反対するわ、まるで十にもならない子供の習い事みたいに送り迎えをするわ
……
ほんと、信じられない」
そう言いながらも、ギンチョウは母親を大嫌いとまでは言わない。それが、辛辣な物言いを続ける彼女のなかに潜んだ一線なのだろうと、ユキハネは感じていた。
「今日だって、オロシに言われてびっくりしたんだから。うちみたいな小さな工房の織物を、ツムジ屋さんに買い取ってもらえないかなんて! あたし、そんなことのためにオロシと、その
……
仲良くしているわけじゃないのに」
ギンチョウが言葉に迷った一瞬、彼女の白い頬に微かに赤いものがさした。そこに宿る好意は、オロシがヒョウセツに揶揄われたときに見せたものと同じものに違いない。
「
……
母さんのせいで、オロシに嫌われたらどうしよう」
彼女の頬にのぼった赤の意味がわかってしまったから、ギンチョウの消え入りそうな一言に、お節介とわかってもユキハネは言わずにはいられなかった。
「オロシさんは、ギンチョウさんのことをとても大事に思っているみたいでしたよ」
道場でオロシがヒョウセツとの間に交わしたやり取りには、ギンチョウを嫌っている気配は全くなかった。そのことを当たり障りのない範囲で伝えると、ギンチョウは明らかにホッとした顔を見せた。
「
……
そっか。オロシ、あたし以外の人の前でそんな風なんだ」
「それに、ギンチョウさんは嫌かもしれませんが、借金のこともどうにかしたいと思ってくださっているみたいでした」
「あいつはそういうところ、いつも変に気を遣うのよ。初めて会ったときのこと、あんたにも話したんだっけ?」
オロシのことを話題にしたからか、ギンチョウの声音は先ほどよりは幾分か明るかった。
「あたしが何回か往復して道場に出前を運んできたのを見て、器を持って帰るのを手伝うなんて言ったのよ。お客さんだからそんなことはしなくていいって言ったのに、あいつったら強情でさ」
からからと笑いながら、その時の様子を話すギンチョウ。
大袈裟な身振り手振りは照れもあるのかもしれないが、彼女の楽しそうな様子に、ユキハネもつられて口の端を持ち上げる。
「そういえば、あんた。今日、あいつが通ってる道場で手合わせしたんでしょ?」
ひとしきりオロシについて話したと思いきや、今度はユキハネに話が投げかけられる。試合の様子を簡単に話して聞かせると、ギンチョウは何やら興味深げに頷いてから、
「いいなあ。あたしも、あんたみたいにあいつがいる所に立ってみたい」
ばたんと仰向けになって、畳に寝転がるギンチョウ。母親とのやり取りから生じていた緊張がようやく抜けたのか、それはユキハネが初めて見たギンチョウの気の抜いた姿だった。
「そんなに羨ましがってもらうようなことではありませんよ」
「でも、あたしはあいつの試合相手にはなれない。やってみたいって言っても、母さんもオロシも反対するに決まってる」
は、とギンチョウが漏らした息が響く。
「あたしも、あんたみたいに、そっち側にいきたいのにさ」
ユキハネには、月並みな励ましの言葉も、母親やオロシの言うことを聞くべきだという忠告も口にできなかった。
「あんたみたいに戦えたら、もっとどこにだって行けるんだろうなあ」
他意なくかけられた言葉が、思いがけなくユキハネの心をえぐってしまったから。
ユキハネの喉は一瞬息をすることすら忘れてしまった。
「
……
どれだけ戦えても、行けない場所もあるんです」
従姉妹に泣き言をぶつけても仕方ないと分かっていたのに。言葉を発した唇が震え、目の奥が熱くなる。
震えた声に気が付いたのか、飛び起きたギンチョウはぎょっとした顔をしたが、すぐにただならぬ様子を察したのだろう。ユキハネの背中に手を当て、恐る恐る撫でさすってくれた。
「あんた、急にどうしたのよ。具合でも悪いの?」
「違うんです。
……
ただ、私は、行きたいのに、行けなくて。聞きたいのに、聞く勇気もなくて」
取り止めもない言葉だというのに、ギンチョウは黙ってユキハネの言葉の続きを待ってくれた。
その心遣いに感謝すると同時に、オロシがギンチョウを自分が想う相手として定めた理由が分かった気がした。彼もまた、彼女の裏表のない物言いと、その裏に隠れた優しさに気がついたのだろう。
しばらく、喉の奥から引き攣った音しか出せなかったが、
「
……
あんたが行きたかった場所は、ここじゃないの?」
ギンチョウの質問に、首を横に振る。それが契機となって、ユキハネは堰を切ったように話し始めた。
とはいえ、語った内容はそこまで込み入ったものではない。
自分が世話になっていた師匠
――
フェリキシーが、ユキハネをこの家に残して一人行ってしまったこと。言葉にすれば、ただそれだけのことなのだから。
「
……
ふうん、そっか。あたしはてっきり、あんたが食うに困って今更実家に泣きついてきたんじゃないかって思ってたんだけど」
精一杯の告白で続く言葉が出なくなった代わりに、ギンチョウが隙間を埋めるように憎まれ口を叩く。その間に、ユキハネは心の動揺を鎮めることができた。
「それで、あんたはいいの? その師匠って人と一緒にいたいなら、うちの母さんへの義理とか気にする必要ないんだよ。
借金のことは、あんたの問題じゃなくてうちの問題なんだから」
ギンチョウに言われるまでもなく、ユキハネもどこかでそのようなドライな考え方を持つ自分に気が付いてはいた。
しかし、さっさと家を出ていけない理由はそこではないのだ。
「
……
お師様が、私にここにいてほしいと思っているなら、私にはそうするしかないんです」
絞り出した答えは、堂々巡りのユキハネの思考がいつも行き着く袋小路の答えだった。
「まあ、無理に出ていけと、あたしが言える立場じゃないけどさ。あんたと師匠のことは、あんただけの問題なんだろうし」
ギンチョウはさらに何か言いかけたものの、ぐっと言葉を飲み込んだ。
代わりに、ユキハネを覗き込むようにすると、
「あんた、一度自分の顔見てきたら? 酷い顔してるよ。そんな顔で母さんに会ったら、またあの人大騒ぎするから、顔洗ってきなよ」
ギンチョウは、知らぬ間に熱を帯びていたユキハネの頬に手を添え、軽くぴしゃぴしゃと叩く。
従姉妹が師匠との関係に何も触れずにいてくれたのは、今のユキハネにとっては何よりありがたかった。
***
家の中をどう歩いて戻ったのか、記憶にない。気がつけば、ユキハネは自室としてあてがわれた部屋の隅に膝を抱えて座っていた。
ギンチョウに言われて、顔を洗ってきたのだろうか。前髪が水気を帯びていたものの、それを拭いた気配もなく、ただぼんやりとした空虚な時間に身を晒していた。
――
それで、あんたはいいの?
ギンチョウの問いに答えるなら、きっと「いいえ」となるのだろう。なのに、ユキハネは二の足を踏んでいる。
できることなら、今すぐフェリキシーの元に向かい、自分はどうすることが彼にとっての最善になるのかを教えてほしかった。
「
……
だめですね。私、またお師様に頼っている。誰かに助けてもらいたがっている」
他人に理由を求め、自分の望みを封殺していたユキハネを見つけ出してくれたのはフェリキシーだ。彼は、「お前は何がしたいのか」と問うてくれた。
あの時に一歩を踏み出したはずなのに、またユキハネは足を止めてしまっている。自分自身のことなのに、他人に言葉を求めている自分を自覚して、ユキハネは自嘲を隠せなかった。
「
……
お師様はが私をここに残していったのは、この家の娘になるべきだと思ったからなのですか」
答えなどあるわけのない問いだが、フェリキシーの返答は薄々察していた。
――
てめえの目的は、親戚の所に帰ることだっただろうが。
――
これ以上、どこに行くっていうんだよ。
別れ際、そう言われたときに、もはや答えは出ているようなものなのだ。
あの言葉をぶつけられた瞬間がどんな顔をしていたのか、今はそれすら思い出せない。ただ、遠ざかるばかりの背中に手を伸ばすべきか躊躇い、躊躇っているうちに見えていた背中も見えなくなってしまった。
「お師様にとって、叔母さんの言うように、私はただの子供だったのですか。だから、もう、お師様の隣に立つ冒険者にはなれないのですか」
今ここに師はいない。だから、ユキハネは口にしたくてもできなかった問いを言葉にしている。
本人に言わなければ意味はないと、分かっているのに。
「お師様にとって最初から今までずっと、私はあなたの後ろをついて回るだけの子供にすぎなかったのですか」
叔母がそう言ったように。子供を守らねばという義務感からそばにいただけなのか。
小さな独り言は、膝のうちに抱えた闇の中に消えていく。
彼へと連絡を取る手段であるリンクパールは、今も角にぶら下がっている。指をかけて呼び出せば、すぐにでも連絡は取れるのに。
(私は怖い。あの人の答えを聞くのが
……
怖い)
冒険者としての自分も、彼の傍に立つ女としての自分も、ただの独りよがりだったと明らかになる瞬間が怖い。
だから、今にも胸が潰れそうなほどに苦しいのに、ユキハネはフェリキシーを呼び出すことができない。
今日一日中出歩いていたせいか、体が休息を求めている。気がつけば、ユキハネは膝を枕にうたた寝をしていた。
角の奥で響くのは、何かを断つような鋭い音。
それは、オロシから聞いた昔話に出てくる女
――
破れた恋心を断ち切ったという鋏の音に似ている。なぜだか、そう思えた。
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