タイムキーパーのスーツケースの中は、たいそうな空間が広がっている。それは何もイゴールたちが過ごしている各人の部屋だけにとどまらない。俺がイゴールのもとを訪問したときに、釣りにでも行くかと誘われて、どこにそんな場所があるんだと返したことからもわかるだろう。
イゴールの声は妙に弾んでいた。こっちだ、と案内されながらついていくと、そこには森も川も湖も海もビルも砂漠も道路もあった。しかし、踏みしめた足跡はしばらくすると、すうっと消えていく。不思議な場所だ。
擬似的に故郷を再現している場所もあった。麦畑と、点在する建物と、絶えず流れる川。民家には人がいないし馬もいない。むしろ無害そうな魔精ならいる。だが、見た目だけは故郷に近かった。
辺りを見渡しながらイゴールについて行く。大きな丘の、その上にある"王冠"に向かう。いや、この場だと隠れ処と言ったほうが正しいか。地面に埋まる瓦礫は戦場と化した故郷とやはり似ている。
突然、イゴールの足が止まった。
「……釣りではなく、観光でもしていくか?」
ふ、と柔らかく口角を上げたイゴールが顎をしゃくった先の、馬小屋の更に向こう側に、全く違う景色があることがわかる。あれは中東……いや、インド辺りの街並みだろうか。何かが浮遊していて、向こうで流れている別の川の上にはカヌーのような船が無人で流れていた。見たことのない建物があって、しかしどれも壁の色が暗く、それを飾るように明るい電球か何かの装飾が施されている。
「それはデートの誘いか?」
イルミネーション、なんて俺たちらしくないデート先の候補だ。
イゴールは視線をそらし、伏せた目線は気まずそうにした。まさか当たりなのか?
一歩近付き、そっと触れようとした手を制止されてしまった。
「もとより俺を抱きに来ただろう。少しは付き合え、と、思っていたんだが」
止められた手をそのまま握られて、俺はイゴールのその殊勝な態度に苦笑した。
「あそこはどこの景色なんだ? 北インドか? 妙な賑やかさだ」
釣りはやめだ。かつて憧れたヌシもここにはいない。のんびりと二人で過ごす時間の使い方は他にいくらでもある。
握られていた手を一度離して握り返すと、イゴールは何かが可笑しいように笑い、ああそうだ、と返事をした。そのまま俺たちは隠れ処をあとにする。
「星を見ることもできるらしい。占星術が得意な神秘術家が言っていた」
「お前がそういうものに興味があるなんて初耳だ」
「というよりはその応用方法だな。そもそも星の研究をしている学者だ」
「ああ……で、占ってもらったのか」
「話を聞かないのはお前らしいな」
パッと手を離されてしまい、悪かった、と謝ってまた手を取る。振り払われなくて少しホッとした。
隠れ処から馬小屋へ、更に少し開けた小さな野原を抜ければ目当ての異国の土地へと辿り着く。
今のところ誰にも会うことはなかったが、それにしてもこの握った手が振り払われず、大事に繋がったままであることのほうが気になった。やはりこいつにとってこれはデートなのか、と、俺は妙にソワソワとした気持ちになってきた。
「やはり占ってもらったな?」
手を振り払われる前に強く握る。案の定逃げようとしたイゴールの手をぐっと捕らえて離さなかったら、少しばかり狼狽したようだった。
「……偶然会ったときに、少し耳打ちされただけだ」
口角をあげ、開き直る態度はいつも通りだ。はは、と俺は盛大に笑ってやった。
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