史加
2026-05-25 17:01:33
4744文字
Public 原神(ルカキリ)
 

芳春に見る陽光であれ

ルカキリ/ファルカを庇って怪我をしたフリンズの話

※ワンドロお題「ハグ」お借りしました(+30min)





 めったにお目にかかることのないつむじを見つめながら、不思議なものだとフリンズはひそやかに息を吐いた。
 普段は獅子のたてがみのごとく光ってみえる金の髪が、今は温暖な国の田舎に広がる小麦畑に見える。視覚が認識する色の構成素そのものがころころと変化することはあまりないと分かっているのに、時と場合により見え方が変わるこの事象に、フリンズは胸の奥をくすぐるなにかを感じずにはいられない。
 フリンズの腹部に腕を回して抱き締め、胸に顔を埋めているファルカはなにも言わない。惚れ惚れするほどにがっしりと筋肉のついた腕はその見た目通りに力強く、わずかに身の軋むようなくるしさがあった。普段の彼らしくもない容赦のなさは、彼がフリンズの前で取り繕うことをやめた証左であり、素の姿を見せることをゆるされているという誉れでもある。身に余る光栄だとまでは言わないが、ちょっとくらい悦に浸るのはまあ、いいだろう。
「ファルカさん」
 普段通りの声で名前を呼び、静かにその頭を抱き寄せる。フリンズは呑気によろこびを噛み締めているが、ファルカの胸中は穏やかではないこともわかっている。こういうときはたしか、心音を聞かせてやるのがいいのだったか。人間が「人間」を抱き締めるとき、体温のほかにもいくつかの音や気配を感じ取って安堵を得るのだという知識を引っ張り出しながら、人間に限りなく寄せてつくった身体に宿る心臓の規則正しい音をファルカの耳へと届けてやる。体温もいつも通りだし、指先まで血を通わせているからあたたかい。うっかり作り損なっているところはないはずだ――たぶん。
 ファルカの前だとどうにも詰めの甘さというか、正体を知られているから普段通りの完璧さを追求しなくてもいいか、という雑さを見せてしまうことがあると自覚しているため、足りないところがあったらどうしようかとフリンズは少しだけ心配になった。名を呼んだというのにファルカが一切答える素振りを見せないのもあって、これは本当にやらかしているかもしれないと憂いが強くなっていく。いやまあ、もうすでにやらかしたあとなのだが。だからこそファルカがこれ以上苦しみや痛みを覚えることのないように大丈夫だと伝える必要があって、フリンズは無言の抱擁を受け入れているのに、どうにも上手くいっていないような気がしてきた。
 ファルカが不安なら、好きなだけ抱き締めていればいい。それで彼が安堵を得られるのなら、今はこの身の寄る辺をランプの中ではなく彼の腕の中にすることくらい造作もないことだ。消耗してしまった力を回復させることを優先するのならランプの中に入ったほうがいいのは確かだが、きっとそれでは冷え切ったファルカの心を温めてやることが出来ない。
 わかっている。わかってはいるのだ。身体が勝手に動いてしまったから、フリンズにだってどうすることも出来なかったのだけれど。
……、すまん」
 浅ましいよろこびと憂いと困惑が混じり合い、フリンズが途方に暮れる気配を感じ取ったのか、ぎゅうぎゅうと痛いくらいに痩躯を抱き締めていた腕の力が緩んだ。くぐもった声で一言詫びたファルカが、ようやくフリンズの胸に埋めていた顔を上げる。普段は精悍で凛々しい男の顔は今やすっかりと落ち込んでいて、春の空を思わせる蒼いひとみには少し困ったような、悲しんでいるような、情けないような、複雑な色を滲ませていた。
「逆の立場だったら、きっと同じことをした。あの場でお前が取った行動は間違いでもなかった。そうわかっちゃいるんだが……この歳になっても理性が追いつかないことはあるもんだな」
 はは、とファルカは自嘲めいた笑みをこぼして、今度はフリンズの身体をいたわるように抱き締め直す。先ほどと比べると全身を軋ませる圧迫感も痛みもない抱擁だというのに、どうしてかじんわりと伝わってくるファルカの体温のほうが傷口に染みるようでくるしく思えた。
 本当に、咄嗟のことだった。フェイである自分は人間よりも頑丈だからとか、そんなことを思うまでもなく身体が動いていた。ワイルドハントを斬り伏せてライトキーパーの同僚を守ってくれたファルカの死角から襲い掛かる、別個体の存在を認めたとき、フリンズの足は全力で地を蹴り飛ばしていた。人間のかたちを保ったまま走れていたかもあやしいくらいに必死だった。フリンズと魔物の間にある距離は、彼も自分も無傷で敵を斃すには遠かったからだ。
 魔物の凶刃からファルカを庇うべく身を滑り込ませたときの、驚愕に見開かれた目をはっきりと覚えている。背に走った衝撃と激痛よりも、悲痛に歪む表情のほうが心の奥のやわらかなところに突き刺さって、そのときフリンズは「間違った」と思った。その場で振り向き、魔物の胴を槍で貫いて倒したのは、ファルカとその後ろに控えるライトキーパーを守るためというより、罪悪感から目をそらすためだったのかもしれない。それも身体に負担のかかる動きで、かつ敵が大型のワイルドハントの個体――マッドウォーリアーであったため、やむなく蒼炎も使った。同僚に見られてしまったが、そのあたりはファルカが上手いこと隠してくれるだろうという、都合の良すぎる甘えも押し付けてしまった。かくしてフリンズは意識を手離し、次に目覚めたときにはなぜか西風の砦にあるファルカ用のテントの中の寝台の上で、どうやらずっと寄り添い続けていてくれたらしい彼に抱き締められて今に至っている。
「ありがとな、フリンズ。本当は真っ先に伝えなきゃならないことなのに、遅くなった。お前のおかげで俺も、お前の同僚も、みんな無事だ」
……いえ。同僚たちが無事なのはあなたが加勢してくださったおかげです。僕ひとりでは負傷者を出すことを避けられなかったでしょう。むしろ魔物の動きを読み切れず、あなたを危険に晒し、こうして心配もかけてしまいました」
「いいんだ。人間であれフェイであれ、完璧なやつなんかこの世に存在しない。確かに肝は冷えたが、お前も俺も今生きてる。お前だって、別に自分を道具だと思って盾にしようとしたわけじゃないだろ?」
 あのときのフリンズの行動も、困惑も、罪悪感も、すべてを見抜かれたようで息を呑んだ。
 互いの体温の交わり合うこの距離では、動揺はいやでも伝わってしまっただろう。ファルカがふっと優しく笑う気配がする。
「俺がお前のことを容赦なく抱き締めちまったのと同じで、お前も身体が勝手に動いた結果があれだった。そう思ったんだが、違ったか」
 このひとはゆるしてくれようとしているのだと、そうわかる声音だった。
……いいえ。ファルカさん、あなたのおっしゃる通りです」
 素直にフリンズは頷いて、ファルカに身をゆだねる。
……あなたを失ってしまうかもしれないと思った瞬間には、勝手に身体が動いてしまっていました」
「そうか」
「ままならないものですね。置いていくかもしれないというのも、置いていかれるかもしれないというのも」
 ファルカに迫る凶刃に気付いた瞬間、身の凍るような恐怖を覚えたのは確かだ。
 長命であるフリンズはファルカとの別れが不可避であることを理解しているし、置いていかれる覚悟はとっくに済ませている。けれどそれはもう少し先の未来の話であると思っていたし、理不尽に悪しき者がファルカの命を刈り取っていくかたちで現実となることを許しはしないとも思っていた。
 それもあってフリンズの身体は理性よりも先に動いていた。身を挺してファルカを守ったあの瞬間、青いひとみにありありと浮かぶ驚愕と恐怖の色を前に、置いていく側の苦しみの一端に触れた。彼に置いていかれる恐怖をほんの一欠片でも覚えさせてしまったことを、後悔した。
 離別は避けられない。だからこそともにいられる時間を尊び、愛することが出来る。そういうものだと理解していても悩みは尽きない。心ある生きものとして当然の感情の揺れ動きは、なんと制御の難しいことか。
 懺悔するような声で言ったフリンズの頭を、大きくたくましい手が優しく撫でる。
「そうだな。覚悟なんていくらしたつもりでも、結局つもりでしかないのかもしれないと俺も思い知らされた。同時に、そのくらいお前のことが大切なんだとも痛感したよ」
……僕もです。願わくは今後はこういったことではなく、別の方法で確かめ合いたいものですね」 
「まったく同意だ。けど、俺もお前も同じ気持ちだってわかったなら、今回のことをこれ以上気に病む必要もない。違うか?」
……違いません」
「なら、お互い生きててよかったってことでこの話は終わりだ」
 先ほどフリンズがファルカの無言の抱擁を受け入れゆるしたように、ファルカもフリンズにゆるしを与える。沈んだ空気を吹き飛ばすようにからりと笑う彼は頼もしい北風であり、太陽のようでもあって、やはりまぶしいと思った。
 ゆっくりと身体を離したファルカが、ベッドの脇に置いてあるランプを大切そうに手に取り、フリンズへと渡してくる。テント内の淡い照明の光を受けてにぶく光る銀のランプには曇りがなく、おそらく戦場から戻ったあと、フリンズが目を覚ますまでの間ファルカが磨いてくれたことが窺えた。
「まだ傷も塞がってなくてつらいだろ。しばらくはここでゆっくり休んでくれ。お前の正体がばれないよう、ライトキーパーや騎士たちには上手いこと言ってあるから」
 なるほど、ピラミダの診療所ではなく西風の砦に連れてこられていたのは、あの場に居合わせたライトキーパーたちの前で人間として振る舞う必要なく、休息を取るのに専念出来るようにというファルカの気遣いあってのことらしい。もちろん、ファルカの中には出来ることなら自分の目の届く範囲にフリンズを置いておきたいという気持ちもあるだろうから、甘んじて受け入れるのに抵抗はない。むしろ人間として振る舞うことで発生する不都合と負担を考えなくてもいいのはありがたいことだし、ファルカの傍なら安心して休める。
 そう思うと自分のほうが甘やかされてしまっている気もするが、こちらを見つめる青のひとみにまだ拭い切れていない不安が滲んでいるのに気付いて、フリンズは考えるのをやめることにした。ランプを受け取ろうと手を伸ばす素振りを見せて、けれどファルカが手を離す前に掴み、ランプをしっかりと握り直させる。
「では、遠慮なくそうさせてもらいます。僕が眠っている間、肌身離さず大切に抱えておいてください」
 微笑み、ファルカが何か言う前にフリンズはしゅるりとランプの中に入った。ガラスを隔てた向こう側でファルカの少し焦ったような、ちょっと嬉しそうな、なんだか複雑な気配がしたあと、優しい腕に抱えられるのを感じ取る。事務仕事をするのに邪魔になったら適当に転がしておいてくれてかまわないと言っておくべきだったかもしれないが、この状況で彼が書類に目を通せるとも思わない。なのでせめて少しでも早く目を覚ましてやれるよう、今はいっときの安寧に身をゆだねることにした。
 肉体を溶かしておさまったランプの外側で、北風の優しく寄り添う気配がする。
 ――彼の目に宿る恐怖を見たとき、大丈夫だと伝えてやりたかった。
 置いていかれるのは自分だ。置いていくことはしない。必ずその隣に戻ると、言ってやりたかったのかもしれなかった。
 のどかに広がる小麦畑の情景が仮に帰郷の念にも似た想いを反映していたのだとしたら、次に目を覚ましたとき、その金色ははたしてどのように見えるのだろうか。
 願わくは、次は。