彼方理路
2618文字
Public #BL_華組
 

〈神様を見つけた日〉

SS/伊弦→灯芽(中等部時代)

放課後の気怠い空気が満ちる、廊下の奥。西日が落とす長い影の境界線に、ひとり、壁に背を預けて俯く人影があった。

透き通るようなプラチナブロンドの髪が、傾きかけた陽光を受けて淡く輝いている。
この伝統ある皇華おうか学園の中等部において、見間違えるはずもないその色彩。

すめらぎ灯芽とうが
学園理事長の孫という絶対的な肩書きを持ち、自ら風紀委員長としての重責を背負う少年。
生徒たちの前では常に背筋を伸ばし、毅然とした態度で規律を説く。その姿は、ある者には立派に映り、だが大多数の生徒にとっては──ひどく鼻につく、疎ましい存在だった。

「真面目ぶってて痛いよな」
「理事長の孫ってだけで、偉そうにふんぞり返りやがってさ」

そんな陰口は、日常茶飯事だ。彼がどれほど血の滲むような努力を重ねようと、誰より学園と生徒を想っていようと、色眼鏡越しの周囲にはその本質など届かない。

鵺束やつか伊弦いづるは、その光景をいつも少し離れた場所から、冷めきった瞳で眺めていた。

(──ああ、ひどく無駄なことをしている人だ)

正しさなど、誰も望んでいない。泥臭い努力は、他人に嘲笑われるための見世物でしかなく、報われることなど決してない。
幼い頃から身に染みついたその諦念は、もはや“呪い”そのものだった。

『どれほど努力しようと、お前は優秀だった兄さんにはなれない』

死んだ兄という絶対的な虚像。勝つことを許されない幽霊と比べられ、存在価値を否定され続けてきた伊弦にとって、人間の営みなどすべてが無価値だった。他人も、そして自分自身でさえも。
だからこそ、報われない正しさにそこまで必死になれる灯芽のことが、理解できなかった。滑稽を通り越し、哀れだとすら思っていた。

 
その日も、いつも通りの退屈な放課後になるはずだった。

静寂を切り裂くように、薄暗い教室の隙間から、くぐもった笑い声が漏れ聞こえてくる。

「皇のやつ、また先生みたいに説教してきてさ。マジで目障り」

陰湿な嘲笑。それに同調する卑屈な空気。
伊弦は廊下の曲がり角で足を止め、ただ目を細めた。

──やっぱり、人間なんてくだらない。

陰でしか石を投げられない臆病者たちも。
その悪意に傷つきながら、ただ耐えているだけの者も。
伊弦の視線の先。壁に背を預けた灯芽の華奢な肩が小刻みに震えているのを、伊弦は見逃さなかった。普段の気丈な姿からは想像もつかないほど弱々しく、うつむいた横顔から、静かに雫が落ちていく。

所詮、彼もその程度の存在だ。
折れて、泣いて、いずれ諦める。ありふれた弱い人間の一人に過ぎない。そう、断じようとした。

けれど。

灯芽は、ゆっくりと顔を上げた。

制服の袖で、目元が赤くなるほど乱暴に拭う。長い深呼吸を、ひとつ。
まっすぐ前を見据えたそのプラチナブロンドの隙間から覗く瞳には、涙の跡こそあれ、絶望や諦めの曇りは微塵もなかった。

そのまま迷いを振り払うように。彼は逃げることなく、ゆっくりと教室の扉に手をかけ、それを開け放った。

ガラリ、と無遠慮な音が響き、教室内で嘲笑っていた生徒たちの空気が一瞬で凍りつく。
気まずさと反発が入り混じるざわめきの中、灯芽は静かに歩みを進めた。

……君たち、さっきの話だけれど」

低く、芯の通った、凛とした声が響く。

「僕のやり方が不満なら、直接言ってくれて構わない。至らない点があるなら、改善する努力もしよう」
「っ、別に俺らは──」
「だが」

灯芽は相手の言葉を静かに断ち切った。

「これだけは覚えておいてほしい。人の背中を笑うのは簡単だ。でも、それを正しいとは僕は思わない。学園の規律は、僕の虚栄心を満たすためのものではなく、君たち自身を守るためにあるんだ」

その声には、自分を貶めた者への怒りも、見下すような傲慢さもなかった。
あるのは、ただ静かな誠実さと、己の信念を曲げない強さだけ。
どれほど傷つけられても、決して彼らを見捨てない。厳しい言葉の奥には、不器用すぎるほどの優しさが滲んでいた。

どこまでも、まっすぐだった。
誰に認められなくとも、自分の正しいと思う道を歩き続ける。たとえその足から血が流れていようとも。

 

伊弦は、気づけば息を詰めてその姿に目を奪われていた。

胸の奥の、分厚い氷で覆い隠していた場所が、音を立てて崩れていく。
灰色だった世界に、鮮烈な熱が差し込んでくる感覚。


自分とは、まるで違う。
親の期待という亡霊から逃げ出し、すべてを諦めて冷笑していた自分とは。
傷ついても、拒絶されてもなお、誰かのために強くあろうとする、その気高い在り方。
それは痛々しいほどに純粋で、どうしようもなく──美しかった。

 
……バカだな」

小さく、息を吐くように。震える唇から零れ落ちたその呟きは、これまでとは全く違う色を帯びていた。胸の奥底から込み上げてくる、初めて味わう熱烈な衝動。
伊弦はその場を静かに離れながらも、どうしても振り返らずにはいられなかった。

教室の中では、灯芽がまだ言葉を紡いでいる。
己の傷を隠すこともなく、卑怯者たちを責め立てることもなく。ただ孤高に立つその光は、伊弦の網膜に、そして空っぽだった心臓の中心に、深く、焼きついて離れなくなった。


あれほど価値がないと思っていた世界に、たったひとつだけ、見つけてしまった。

僕の、光。

誰も見向きもしないなら、誰も理解できないなら。自分だけがこの人を理解し、独占すればいい。
この気高く美しい人が、最も欲している「理解者」という仮面を被って、一番近くの特等席に這い寄ろう。

初めて知った『執着』という名の黒い熱を腹の底に飼い慣らしながら、伊弦は薄暗い廊下の影で、ひっそりと唇を歪めた。



春の陽光が、新たに始まる季節の気配を運んでくる。

中等部二年生となった伊弦の視線の先には、最高学年を迎えた灯芽の背中があった。

あれから、伊弦は時間をかけ、緻密に己を作り替えていった。灯芽が理想とする「真面目で優秀、そして、彼を慕う従順な後輩」という完璧な仮面は、いまや皮膚の一部のように馴染んでいる。

桜の盛りが過ぎ、青葉が薫り始めた頃。二人の距離は、伊弦の描いた盤面通りに縮まりつつあった。
──同じ風紀委員として、彼の最も近くにいられる聖域の中で。