その日、僕は全身筋肉痛になった

悪いずるいまつだの話 俳優パロ

 稽古入り当日、ダブル主演の片方が足を怪我したらしいと情報が入った。松田さんは松葉杖をついていて、マネージャーやスタッフに気を遣いながら僕の方へやってきた。
 すまんなあ、と大して悪びれずに平謝りする言い方は少々軽すぎる気がして気に障ったが、僕は演技にさえ支障が出なければいいと思い、「はあ」と気のない返事をした。なぜなら僕は主演のうちのもう片方じゃないし、当の片割れである相手役の女優は、松田さんの松葉杖を一度見た後、すぐに「大丈夫ですか?」と色めいた声をあげて松田さんと話し込んでしまった。だから僕の出る幕は清々しいほどに、無い。
 すかさず取材に来ていた報道陣が主演二人の写真を撮る。きっとあれは加工されて、週刊誌に売られる用だ。僕はその価格が一体いくらなのか、勝手に推測して遊んでいた。女優は今ちょうど彼氏がいないはずで、そろそろ結婚も考えたいといつかのバラエティで話していた。司会者に程よくいじられてその話は終わっていたが、SNSはその話題でひっきりなしで、いろんな連中が今も騒ぎ立てている。
 彼女が今舞台で一緒なのは。いや、数週間前に終わったドラマの共演者じゃないのか? 来春には映画の公開も控えている。彼女の華々しい道を共に進むのは誰なのか──二人が似合いの男女であることは、誰の目にも明らかだ。松田さんは普段、映画でも名脇役として知られていて、主演を張ることなどほとんどなかった。それでもどの映画や舞台にも、必ず味のある役として呼ばれるほどだったのに、ここにきて主演になる、ということは、彼も彼なりに俳優生活を本気で取り組もうと本腰を入れ出したのだろう。それが彼女との生活のためだと言われるのも、無理はない。タイミングがあまりに合っていた。
 むしろちょうどいい。僕らのような脇役が、これを機に己の技術を隙なく固め、いつだってその座を狙えるのだから。下積みが長く、認められる機会の少なかった僕は、今ごろになって火がついた野心が揺らめくのがわかった。松田さんにはさっさと上に登り詰め、高い位置から、もがく僕らを見ていればいい。
 ──なのに今、僕は松田さんに肩を貸している。
 主演の女優が舞台袖で待機する場面で、長尺のセリフもあり、ここは松田さんが一番見せ場として主張したいところだと話していた。女優との掛け合いなり、友人役との談笑なり、彼の見せ場はあまりにたくさんあるというのに、「ここが一番重要やろ」と台本合わせのときに譲らなかった。そしてその場には僕というしがない大学生役の男がいて、松田さんから話を聞いているシーンだ。感銘を受けているわけでも、達者な口でモノマネをするわけでもない。ただじっと聞き、横顔の変化だけで松田さんを魅せる、引き立てる。
 稽古中、松田さんはカットのたびに舞台監督と、映像班の方にも足を運んでチェックした。そのたびに僕は、最初は松葉杖を渡していたのだけれど、だんだん億劫になって肩を貸すことにした。ずっしりと重い松田さんの腕が首回りをなぞると、熱いかたまりにとぐろを巻かれているような気分になる。そのままその熱が声を出し、「やっぱ、ええな。これで行こか」と納得したころ、みんなの拍手が聞こえた。僕の首と肩はおそらく、明日には筋肉痛だろう。
「あの」
「ん?」
「すいません、僕の演技不足で」
 僕らが二人揃って映像を確認しにいく間、現場の空気はしん……としていた。松田さんの腕の熱が場違い過ぎて、早くここから抜け出したいのに、がっちり掴まれているような気がして背中に脂汗が落ちていた。やっと終わった安堵感から、僕は思わず卑屈になったが、松田さんはひらひらと手を振った。
「あー……これな、全部編集で使うらしいわ」
「え?」
「アイドルのCD特典みたいやろ。山田くんだけのやつ作んねんて」
 松田さんは顎に手を当てながら、僕を見た。蔑んでいるでも貶めるのでもなく、こういうのが今時なんやな、と納得しながら話を進めているようではあった。もちろんその特典は松田さんだけのだったり、あの女優だけのもあるのだろう。
「そ、れなら僕だけで撮れば良かったんじゃ」
「それやと緊張感ないやん。あと、俺がこのシーン好きやから」
 タバコいる? と言われて喫煙所へ促される。このシーンが好きと言われ、心の素直な部分が崩れたように思う。「……はい」と答える間も、松田さんは僕の肩に腕を乗せたままだ。
「これやと歩きづらいか」
 と言われ、僕の肩から降りた腕が松葉杖を探すのかと思いきや、僕の二の腕あたりで腕を組み、「行こか」と言われる。遠慮のない距離の詰め方に辟易へきえきして、いっそハラスメントで訴えれるのでは? とも思ったが、多方面からの報復が怖いのでその考えはやめた。
 一本だけもらったタバコは苦かった。役者になりたてのころに同期で入った眉崎と吸っていた以来のタバコだった。多少のせは覚悟したが、意外と苦さに対して肺にすんなり落ちていくから、続け様に二度ほど吸った。じんとした痺れが頭を埋める。
「山田くん、邦画向きよな」
……そうですか?」
「そのうち映画、声かかりそうやん。今回の特典映像、配信もあるし」
「だといいんです、けど」
 タバコの火は進んでいく。僕の肩は少しまだ重みを感じている。もう松田さんは僕から手を離してもいいはずなのに、近い距離で話している。くっついた腕が、指が、話をするたびに擦れ合う。
「内緒なんやけど、さっきの、俺ももらったわ」
 そう言って松田さんがスマホを出すと、その画面に僕の演技中の横顔が映った。え、なんで? と聞き返す間もなく、スマホがひょいとしまわれる。だから松田さんが他にどんな写真を撮って、どんなことを画面に残していて、アプリはなにを取っていて、とか、そういう細かい情報がいっさい拾えなかった。
「大事にしとくわ。これから売れる人の写真、こんな簡単にもう撮れんやろ」
「そんなのわかんないですよ」
 いちいちくすぐったいことを言う松田さんは、生意気を言う僕に、タバコの煙を軽く吹きかけた。
「ずいぶん謙遜するんやなぁ」
 そうして松田さんの体がちょっとぐらついたので、僕が慌てて片手を差し出そうとすると、大きい手がそれを制した。「大丈夫やから」と聞こえる小さい声は耳元で囁かれ、肌が少しだけ震えると、
「今日はずっと、山田くんに頼ってばっかりやなぁ」
 と珍しく弱気なことを言われる。
 ──肩を貸し、頼られている、という男心を掻き立てられ、噂の女優をそっちのけで自分との撮影を選び、隔離された場所で秘密を明かし、最後にちょっと弱いところを見せる。さすが、演技力で培ってきた人だ。その目に、演技だけじゃないと滲ませるのがとても巧くて、甘い。
 僕の額あたりを換気扇で吸い込み損ねた煙がまだ待っている。松田さんが吹きかけた煙が、僕の思考を絡め取るように滞空している。僕は負けじとぐっと背筋を伸ばそうとするが、松田さんがやわらかく僕の人差し指の爪を形取り、パッと離してしまうものだから、ああもっと、と喉奥から出そうになる声がまるで演じることができていなくて、青臭い若輩者の自分が松田さんよりはるかに遠く感じた。それを強引に近づけて、狂いたくて狂えない男をさぞわらっているだろうと彼の目を見て、芸能界は闇だらけだよと教え込まれたのに、その歴が長い松田さんのこんな一面は、きっと誰にでも──あの女優にすらやれてしまうのだろうと歯痒くなって、苦し紛れに噛んだ唇を松田さんの親指でゆるめられた後、なにをするかはもう決まっていた。喫煙所の、小さな一角。誰の目も見ていない場所。僕らがじっと息を潜めて舌を合わせるまでになっている間、煙はようやく換気口に吸われてあっけなく消えた。