ちゆき
2026-05-24 04:23:26
2174文字
Public 短編
 

浴室

キスの日だときいたので…
ただお風呂でいちゃいちゃしてるだけです

 ぴちゃんとどこかで水が跳ねる。薄い靄のかかる仄明るいこの空間に響いたそれは頭上の換気扇の音とともに数秒ごとに繰り返し、もう何度目になるだろうか。数えてなんかいられない、頭がぼんやりとする。大きな掌が熱に浮かされる私の頭を後ろからぐいと引き寄せ、半身を包む温かな水面がたぷんと小さく音を立てた。シングルベッドひとつも入らないようなこの狭苦しい場所はいつだって石鹸の香りに包まれ、正しく清潔で、そして無機質に均一だ。そこに最近少しずつ増え始めた男性用の小物がその感覚に矛盾のない雑然さを加えた。そんなすべてが一律に反響するこの浴室に今、不揃いなふたつの息が弾んでいる。
……ふ、ぁ……
 ぴちゃぴちゃと耳を犯すのはたとえば蛇口やタオルからひっきりなしに垂れる水滴でもなければ適度に張った湯でもない。唇を吸い舌を絡ませ合う音だ。大人の男女が身を沈めるには少し不自由なサイズの浴槽で私はしどけなく恋人にしがみつき、彼にされるがまま身を委ねていた。
「ね、セバスチャン……
……まだだよ、もう少し」
 荒い呼吸の合間さえ舌先を離さず形を確かめるようになぞり上げ、降参だと震える唇へセバスチャンが歯を立て軽く引っ張るようにした。湿気の多い浴室だから粘膜同士が張りつく間もなく、いや、ここが雨を知らない砂漠であったってこんなに長い間キスをしていれば乾く場所もありはしないか。どちらのものともしれない唾液で濡れ切った唇にじんと熱が籠り、疼きに喘ぐこの喉が大仰に上下した。
 今夜はセバスチャンが泊まりに来てくれたからたまには一緒に風呂でもどうかと誘ってみたのが発端だ。互いに体を洗ってときに悪戯をして揶揄って、戯れ合いながら浸かった湯船で最初にキスを求めたのはセバスチャンの方だった。優しく目を細め普段よりも低い声で私の名を呼ぶその声にまんまと釣られてしまって、彼の脚の間でくるりと体の向きを変えその首へ腕を回したのは私。そこから先はわかりきったことで、きっと町の子ども達が遊ぶパズルよりも簡単に私達はぴたりと重なった。

 セバスチャンの唇が私の鼻先にちょこんと落ち、そのあとゆっくり頬を滑っていったかと思うとこめかみを伝う汗ともシャワーの名残ともしれない滴を舐め取る。ここは浴室、ただでさえ熱の籠る場所。絶えず彼から与えられる刺激に初めは甘えるようにまとわりつかせていた腕もどんどんと力が抜け、今では彼の肩に指をかけ縋りつくのがやっとだ。それなのにセバスチャンは辿り着いた先の耳朶をちゅうちゅうと吸い、その本能に訴えかけるような音に堪らずかくんと首を後ろへ倒すとすかさず彼の掌が支えた。
「顔が真っ赤になってる……可愛いね」
「だってこんなの、のぼせるよ」
「最初に誘ったのはお前だよ、ほらちゃんと開けて……
 そう妖しく微笑んだセバスチャンが再び私の唇の奥へ舌先を捩じ込む。頭を支えるのとは別の、もう片方の腕がしっかりと腰を抱き寄せるものだから私はより一層彼へ密着する形となった。あたたかくて気持ちいいなんてものをとうに超え、喉の奥が水分を欲している。とても冷えた水なんかを、もう蛇口に口をつけたっていいほどに。濡れてまとまった彼の黒髪から伝い落ちる水滴だって構わない。しかし流れ込んでくるのは二人分の唾液で、生ぬるいそれを飲み干せば水面の境目で彼の掌がちゃぷちゃぷと音を立てながらこの腰を撫でた。
 それでもまだ足りないというのかセバスチャンの指が軽く髪を掴み顔を上へと向けさせる。これ以上塞がれては本当に酸欠になってしまいそうだからと口を開いて舌をだらしなく差し出すと、セバスチャンはそれを待っていたかのようにすぐさま己のそれで絡め取った。少し尖った舌先がざらりと表面をいたずらに撫でていく。私もそのお返しにとなけなしの意思をもって突き返した。するとまたセバスチャンがちゅ、とわざとらしくリップ音を鳴らして私の唇を啄む。ずっとこんなことの繰り返し、私達も結局ずっと規則的に響いている水の滴る音や換気扇の音と同じだ。瞼を伏せれば狭い浴室が一気に広くなるのを感じ、同時に自分が途轍もなく小さな物体になった気がした。先細りに丸めた紙の向こうから細く覗き込まれているような、それともこちらが覗き込んでいるような、そんな不可思議な心地を額の奥に感じる。もうそろそろ限界なのかもしれない。細く浮き出た彼の鎖骨から水気を払うように指を滑らせると、セバスチャンは頭を掴んだままだった指先から力を解きようやく私を解放した。
……そろそろ食べごろかもな。ねぇ、お前はどう思う?」
 収穫どきかなと揶揄うように笑うセバスチャンは熱さに茹るこの頬へ軽く口づけた。
 けれどねえ、気づいてる? あなたの、セバスチャンの肌だって綺麗に色づいている。頬だけじゃない。アシンメトリーな髪から珍しく覗く耳も肉の少ない首筋も、水滴を集めた鎖骨も普段は一ミリだって覗かせない胸板も全部ぜんぶ。真っ白な肌によく映える、一等級の林檎も足元にも及ばない美しくさした紅色。この浴室にあなたとふたりで沈み切るなら本望だ。セバスチャンの細い喉がこくんと震えるのを見つめながら私は小さく立てた渦の向こう、水底に隠された彼の体へゆっくりと手を伸ばした。
「ちゃんと全部、きれいにたべてね」