別に、呆れたとか揶揄ったとか、そういうわけじゃなく。
「弟くんは甘えん坊さんだなァ」
ただ。ただ純粋にそう思って
……いや、疑問、に似た何かしらはあったかもしれない。だが決して否定的な意味合いはなく、ただの一事象、もしくは感想としてそう言うと、くすくすと笑う息が俺の胸を温める。それから、顔を上げて俺を見る。
「僕は、兄さんが思うよりもずっと甘えん坊だし、寂しん坊だよ」
図体はでかくなったはずなのに、あの頃と同じ瞳
……いや、あの頃よりも甘ったれた幼い瞳で。
ソファに寝そべって、弟を抱っこする、なんて、成人済みの兄と成人間近の弟がすることじゃない。そう冷静に思う一方で、いくつになっても、どれだけ歳を重ねようが一彩が俺のかわいい弟であることに変わりはないから別段おかしなことではない、という確信めいた気持ちが揺らぐこともない。
弟が求めるなら、俺はそれに応える。それだけの、極めてシンプルな話だ。
「
……ふゥン」
「今、疑ったね」
「疑っちゃいねェよ。知ってるし。けど」
「けど?」
小さく跳ね上がった語尾と一緒に傾いた頭を、髪を、撫でる。俺とは違う柔らかな癖毛は昔から、わずかのぶれも認められないほどに変わらない。
けど。
けれど。
弟は。生まれ落ちた瞬間に君主補佐として生きることを運命づけられてしまった一彩は、幼い頃から二回り以上も歳の違う大人に囲まれ、同年代の子供と触れ合う機会を奪われ育ってきたせいか、年相応の感情表現があまり上手ではなかった。だが、だから子供らしくない、と短絡的に繋げることはできないくらいには子供らしい面を、この子はちゃんと持ち合わせていた。俺がそう育てたから。願ったから。だから、弟がちゃんと寂しがったり甘えたがったりしていたことは知っているし、言語になりきれない弟のそういった感情を引き寄せ溶かすことが、兄である俺の役割だとも思っていた。小さな弟の人生がたとえわずかでも暖かく彩られるよう、接してきた。愛してきた。今も、これからも、それは変わらない。
だから、疑ったのではなく、意外だったのだ。
弟は、一彩は、お前は。
寂しいとか甘えたいとか、そういう極めて自分本位な欲求を甘く柔らかな声でくるんで口にすることなんて、ほとんどなかっただろう。
というようなことを。
「お兄ちゃんに乗っかってべったりなンざ、ガキの頃より甘えん坊さんになってねェかァ?」
素直になれない面倒な兄のフィルターを通して言うと、一彩がきょとんとした丸い目で、俺を見つめる。
「僕は『抱きしめて』とお願いしただけなのに、上に乗るよう指示したのは兄さんだよ?」
そうだった。
面と向かって抱きしめるなんて気恥ずかしくて、じゃれ合いに寄せればいいと思って、そう言ったのは俺だった。
この方が、抱きしめてすぐ終わり、にはならないし。
「あー
……サービスしてやったンだよ。おめェだって悪い気はしてねェだろ」
「なんだか誤魔化された気がしないでもないけど
……ウム。嬉しいよ、兄さんを独り占めしてるみたいで」
俺の思惑について特に言及しないことを選んだ一彩が、ころころと笑う。
「みたい、じゃなくて、してるだろ。独り占め」
俺を思う存分下敷きにしておいて、何を今さら。
一彩は、それを今初めて認識した、とでもいうように目を見開いて、それから、その丸い輪郭を緩やかに溶かす。
「ウム
……ウム、そうだね」
そう愛おしそうに、抱きしめるように相槌を打って、俺の胸にうつ伏せる。
これまで抱えてきた寂しさを埋めるものを、やっと見つけたように。
俺が、そう思いたかっただけかもしれない。
俺はかつて、他人に運命づけられた人生に嫌気がさして、俺の選んだ生き方が間違いではないと証明したくて、俺を否定するすべてから逃れたくて、夢を叶える、あるいは縋るために、出奔した。命より大切にしたかった弟を置き去りにして。
俺は夢と弟を天秤にかけた。その結果、弟を置いていく
……容赦のない言い方をするなら、捨てる選択をした。俺がいなくなれば、この子は郷にとって不可欠な人間になる。俺に捧げられた生贄という運命から逃れて、少なくとも俺がいる時よりは幾らかはまともな人生を送れる。立場を得れば、この子がその気になりさえすれば、誰かのためではなく自分のために生きることだって選べるかもしれない。
そういう算段はあったし、実際そうなる可能性は高かった。君主になるものが死亡したと見なされれば、弟がその役目を務めるほかはなくなる。だから俺の選択は正しくはなかったとしても、ある側面においては決して間違いとも言えない。だがそれは論理的には、という点において語れることであって、感情的なものとなると話は別だ。
俺は、自らの意思でこの子の手を離した。
その身勝手を、たとえこの子が許してくれたとしても、その事実を、俺は一生許しはしない。
なんてことが。
天城燐音の根幹には消せない烙印として刻み込まれているが。
今、俺が弟の我儘を聞いて弟とじゃれ合っているのは、贖罪でもなんでもない。
ただ、弟と兄弟らしく過ごしたい。
かつて叶わなかったありふれた過去を、ありふれた今にしたい。
ただ、それだけのこと。
俺には、一生をかけても贖うことのできない罪がある。
けれどそれでも、この子が俺を兄と慕ってくれるのなら、それ以上に幸いなことはない。
それらは相反しながらも両立するし、そうでなければ弟に対してそれこそ、罪深いだろう。
なァ、一彩。
「
……派手な鳴き声だなァ」
重い思考を遮るように俺の腹を轟かせた張本人を揶揄ってはみたが。
「ウム。お腹が空いてしまって」
予想通り、照れることも慌てることもせず俺の思惑なんて意にも介さず
……というか事実としてしか受け取っていないのだろう。一彩は澄んだ笑顔で素直に認める。
「よーっし、じゃあ外に飯でも食いに行くかァ」
あやすように弟の背中をぽんぽん叩く俺に、弟はゆるゆると首を振ってみせた。
「それもいいけど、部屋で食べたいな」
「ここで?」
「ウム。同室の人は夕方まで戻ってこないんだよね?」
「まァ、そうだけどよ」
「駄目かな」
何かをねだるような上目の眼差し。
何が欲しいんだ。
ぎゅうっ、と。弟の腕が俺の背中に回る。
……ああ、そういうことか?
「マジで弟くんは甘えん坊さんだなァ」
素直になれない面倒な兄のフィルター越しに俺が笑うと、一彩は子供の頃から一切変わらず濁りもしない素直さに、少しばかり甘さを滲ませて笑った。
「ウム。もう少し、兄さんを独り占めしたいからね」
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