氷酒
2026-05-23 12:36:57
5145文字
Public SS
 

うそつきな、

ある女性のお話。

 きっかけは、ほんと出来心から来た火遊びのようなものだ。
 あの日はそう、秋の始めだ。ずっと付き合っていた彼氏から「真面目過ぎてつまらない」なんて最悪な言葉と共に別れを切り出された直後だった。
 社会人として必死に仕事をこなして、生活もして、幾らも残らない余裕と時間の中でも彼氏のことを大事にしてきたつもりだった。その結果が「つまらない」なんて。そんな愚痴を友人に聞いてもらいながら酒を飲んで、その場の勢いでそのまま友人がおススメだという店に誘われたのだ。
 普段行く店よりも少しだけ洒落ていて、男性店員とお話ができるお店。連れて行ってくれた友人は通い慣れているらしく、「そこらへんのバーと大して変わらないから」なんて言っていたけれど、普段縁遠い生活をしている私に取っては未知の世界だった。
 そんな中でたまたま接客に当たってくれた、とりわけ綺麗な顔をした男性。
「初めまして。カイって呼んで」
 カランと、彼が差し出されたグラスの中の氷が澄んだ音を立てる。
 それが、彼と初めて会った日だった。
 
 
 
 ◆
 
 
 すらりとした長身に、切れ長の瞳に長い睫毛、白い肌。中性的で甘い顔立ちはまだあどけなさを残しているのに、纏う雰囲気はずっと落ち着いている。
 モデルみたいだね、なんて言ってみたら、「そんな器用な性格じゃないよ」なんて笑って返された。きっちり容姿のことに関しては否定してこない辺り、よく言われているのだろうし、確かに性格はとても良い、とは言えないかもしれない。

 あれから、私は週に一回か二回の頻度で店に顔を出すようになっていた。
 理由は簡単な話。彼との会話は心地がよかったのだ。自分からあまり主張することはないのに、不思議と会話が途切れない。話題の誘導が上手い、のだろう。気が付けば日常のことから仕事のこと、そして最近別れた彼のことまで、カクテルを傾けつつ話してしまっていた。
「真面目なの、俺はいいと思うけど」
「つまらないって言われたけど」
「まぁそうだけど。平穏なのが1番って言うじゃん?」
「そこは否定して欲しいなぁ」
 嫌味はしっかり言うくせに、何故か不快は感じない。下手な建前で甘い言葉を囁かれるよりもずっとマシだと思えてしまった。
 いいや、違う。きっと彼がそのラインを見極めて、選んでいるのだ。私が好む振る舞いで、嘘ではない丁度良いレベルの言葉を選んでいる。そう、頭では理解している。
 その証拠に、穏やかな笑みを浮かべる彼の目はちっとも笑っていなかったから。
「お世辞、上手いって言われない?」
「今お世辞で言ったつもりないんだけど?」
 ほらまた。どうとでも取れる言葉をあえて選んで使ってくる。自分よりも年下の筈なのに、彼のそんな部分に妙な慣れ感を感じて、私はなんとも言えない気持ちになった。こう言うところが『真面目』と言われてしまうのだろう。
「カイくん、何歳?」
「20歳。何か奢ってくれるの?」
 しっかりと飲み物を強請ってくる彼に苦笑しつつ、マスターに注文彼の分のドリンクを入れる。ありがと、と綺麗な顔で微笑んだ彼は、私の分のお酒ををカウンターから差し出してくれた。
「最近お姉さんがよく来てるから、ちゃんと店に来てるんだ」
「嘘ばっかり」
「嘘じゃないよ、他のキャストに聞けばわかるから。気まぐれなの、俺」
「気まぐれだな人にはこういうお仕事、向いてないと思うけど。接客業だし」
「まぁそうだね」
「じゃあなんで此処で働いてるの。ご家族は?」
 個人の事情に踏み込むことの危うさは理解している。それでも、私は聞かずにはいられない。なんとなく、予感のようなものがあったから。
「いないよ」
 彼はきっぱりと、感情の見えない声でそう答える。
「いないって。離れて暮らしてるとか、その……亡くなっているとか」
「いない。良いじゃん、俺のことなんて」
 こちらに合わせてくる彼にしては珍しい、明確な否定だった。
 けれも瞳の奥にはどこか寂しさが映っていた気がして。この時、私は初めてまともに、この子と会ったように思えた。
「何か事情とかある?」
「知らない。……でもそうだな、お姉さんのこともう少し知ったらわかるかも。ゆっくり話せない?」
「そろそろシフト終わりって言ってたでしょ」
「うん。でも、帰ったらメシ食って寝るだけだし」
 これが常套手段だということはいくら私でも分かる。こうしていつも、彼は慣れた手つきで女性を弄んでいるんだ。
 分かっている。彼は『真面目』なんて呼ばれる私とは遠い存在で、きっと関わってはいけない人物だ。関わり続けたらきっと碌なことにならない。
「お姉さんの時間は?」
 屈んで甘えるように見上げてくる視線が絡みつく。造形の整った顔立ちに、色香を宿す目元の黒子。長い睫毛縁取られ深い色の瞳。
 その奥に存在する、ガラス玉のような無機質な感情。
 彼はうそつきだ。私だから、なんて言葉、きっといくらでも言っている。こんな顔なんて誰にでも見せている。彼がむけている感情は全部嘘で、私のことなんて欠片ほどの感情も抱いていない。遊びでしかないんだ。
……
 でも、と。頭の中で何かが鳴った気がした。
 きっとそれだけじゃない。それだけじゃないのだ。
 だって彼は、どう見ても――
 口にしていたグラスを置く。半分残った鮮やかなカクテルの中で、溶けなかった氷が踊る。
 するりと合わせられた大きくて柔らかな掌を、私は無言で握り返した。





 安っぽいホテルの部屋で、彼は起き上がって煙草を咥える。そんなありきたりな仕草でも十分と様になるのは、やっぱり彼が綺麗だからだろうか。
 差し出されたペットボトルの水を一口飲みながら、私はシーツの中でぼんやりとそんなことを考えていた。けれど、ふととある事実を思い出し、慌てて彼の腕を引く。
「駄目だよ、煙草」
「なんで? 嫌いだったったけ?」
 確かに煙草の匂いは嫌いではないけれど、今、私のことは関係ない。もっと大事な理由があるのだ。
「そうじゃない。だって貴方、未成年でしょ」
 初めて、彼の目が大きく見開かれ、驚きの表情を見せた。
 その顔が普段の様子よりもずっと幼く見えて、私の中の予感は確信に変わった。
「なんでそう思うの?」
「弟、いるから。雰囲気が大人びてるから分かりにくいけど、そんな気がするなって。お店でのドリンクはこっそりノンアルにして貰ってるでしょ」
 きっかけは具体的に何、と言われれば困ってしまう。けれど私から見た彼はどう見ても少年にしか見えなくて。だから余計に彼を放って置けなくなっていた。
 まいったなぁ、なんて彼は大して困っていなさそうな表情で髪をかきあげる。焦っている様子はもちろん無い。怒っている様子もない。どちらかと言えば、呆れている……そんな声色だった。
「なんとなくバレてそうな人はいるけど、面と向かって言ってきたヤツは初めてだよ」
「気付いたら放って置けなくて。ねぇ、なんで歳を誤魔化してるの」
「そっちの方が都合がいいだけ。未成年だと動きにくいし、周りは色々言ってくるし」
「でも、」
「ま、今の場合、都合が悪いのはお姉さんかもだけど。未成年に手を出したら大人の方がまずいんだろ?」
「わ、私は………
 指摘された状態に何にも言えなくて言い淀む。惹かれていたのは事実、でも、流されてしまったのも本当だ。
「せ、責任はとるよ……
「冗談。真面目なヤツは面倒だから脅すつもりはないよ」
「お金とか困ってるなら……!」
「別に他のお姉様に食わせて貰ってるし」
 というか、潮時だから誘ったんだよね。なんて、彼はやっぱり手慣れた様子で私をあっさり切り捨てる。もうきっと、彼の中に私の感情なんて残っていないんだ、って。理解してしまった。
 元からお店だけの関係。火遊びのような接点だ。
 わかっている。これ以上進むなら、後には戻れない。
「でも、結構お姉さんのこと嫌いじゃなかったよ」
……どうしてそんなこと、言うの」
「お姉さん、真面目だから」
 化粧も薄いし、香水の匂いもない。なんて、おおよそ魅力的とは思えない部分を彼は挙げていく。
「まともな家族作れそうじゃん。だからちゃんした人と付き合いなよ」
 するりと頬を撫でられ、柔らかなキスをして彼は離れる。
 貴方は、と声にならない感情のままに見上げると、彼はやっぱり大人びた仕草で首を横に振った。
「やっぱりその真面目さは、俺は要らないよ」
 だって、真面目だけじゃどうにでも出来ないでしょ。
 最後に突きつけられた現実に私はどうしようもなくて。部屋を出ていく彼を見つめているしか出来なかった。
 飲みかけのペットボトルは冷たくもなく、ぬるくもない。そんな中途半端な温度が、何故か無性におかしかった。







 季節は巡って、秋。厳しい残暑も終わり、夕方近くになると随分と冷え込んできてくる時期だ。
 その日の私は、出向先で一仕事を終えたところで、帰り道に温かいコーヒーを買って飲みながら帰っていた。
 あれから、一年近くが経過した。恋なのか、執着なのか。今だによく分からない感情が実ることなく散ったその後の私は、それでも特段変わり映えのない日々を過ごしている。さすがにあの店には通わなくなったが、元々非日常の空間だ。むしろ、それで元通りになったとも言えるくらい。
 日々の仕事をこなして、ささやかな日常の中で新しい経験と出会いがあって。幸運なことに再び人と付き合うことになった。お互い忙しい中で時間を作って、他愛無い連絡を取ることが楽しい。喧嘩をすることはあるけれども、真っ直ぐに私と向き合ってくれる姿が嬉しくて。真面目だね、と受け入れてくれる言葉が愛おしかった。

 けれど、ふと思い出す。
 真面目が嫌いじゃ無いと。けれど自分には要らないと言った少年のことを。
 彼はうそつきだ。本心は絶対に見せてくれないし、私にかけてくれた言葉の殆どが、嘘で塗り固められたことも分かっている。
 けれども、あのホテルで言われた言葉は、どうしてか嘘では無いような気がした。
 私の真面目さは彼には不要なのかもしれないけれど、彼には何かが必要なんだと今だに思っている。あの寂しそうな瞳には、きっと今はない何が必要だと。
 でもそれは私ではなくて、別の何がが――
「まりーん!」
 そんな思考の渦に飲まれている私の横を、小さな男の子が通り過ぎた。
 小学生の低学年くらいだろうか。小柄で元気いっぱいの声で誰かの名前を呼び、これまた元気に走っていく。
 可愛いなぁと微笑んでその視線の先を追って、思わず息が止まった。
 彼だった。
 ずらりと高い背。綺麗な顔立ち。夕日の逆光で見えにくかったけれど、あの日以来会っていない彼の姿がそこにあった。
 彼は近くのスーパーで買ったらしい袋を片手で下げ、もう片方の手で男の子の手を握っている。あんまり走り回るんじゃない、なんて小言を言う表情は、私が知らないものだ。
 なんだ。カイなんて男は本当はどこにもいなかったじゃないか。
 考えてみれば当たり前だ。年齢もなにもかも嘘つきな彼なんだから、名前だって嘘に決まっている。
 事前に気付いたのか、ふと、彼がこちらを見た。少しだけ驚いた表情を見せた後、ふっと微笑む。あの時と同じように、甘く、けれども少し寂しそうに。
 けれど何か声をかけることなく、彼は男の子の手を引いて先に歩き出してしまった。

 ずるい人。覚えているなら、一声くらいくれてもいいのに。あの時はごめん、くらい言われれば。燻っていた感情が出てきてもおかしくはないのに。
 けれど彼はもう、人にあんなふうに声をかけることは無いんだろう。必要なものは見つかったから。
 私は彼には不要だった。彼に必要だったのは真っ直ぐな支えじゃなくて、きっと彼がそうになれる、と思わせる人だったんだ。私に彼は救えないけれど、彼が自分を救えたのなら、それでいい。
 胸の中に小さく残っていたしこりが解けた気がする。
 私は止まっていた足を、ヒールを鳴らして再び進め出す。
 今夜は少しだけ小洒落た夕飯にしよう。帰りに料理を買って、家にあるとっておきのお酒を飲むのだ。作り置きの氷じゃ足りないだろうから、氷も追加で買ったほうが良いだろう。
 彼と男の子の姿はもう見えない。きっと、彼らも彼らの家に帰ったんだろう。
「さよなら、まりん君」
 一言、届かない声をかえて私も帰路に着く。
 もう彼と会うことはないだろうと、そう確信を得ながら。