「再来月の第一土曜と日曜、空いているか?」
俺からの質問に彼女は部屋の空間を見上げ、一点を見つめた。自身のスケジュールを思い浮かべているのだろう。それから間もなく近くに立っていた俺を見上げながら
「はい。確か、空いてます。一応、確認しても?」
彼女は犬を撫でていた手をごめんねと言いながら止める。彼女の太腿に顔を乗せ、我が物顔をしていた犬は不満げな顔つきで彼女の顔を見上げている。思わず彼女は困ったと言わんばかりに眉尻を下げたが、誘惑にも負けず、手はテーブルの上に伏せてあった自身のスマートフォンに伸ばした。指先でそれを操作し、瞳をゆっくり上下させたのち、顔を上げて空いてましたと俺に報告をする。
「一緒に旅行に行かないか。俺の両親もいるが」
「再来月というと
……、もしかして以前、皇坂さんがご予約されていた旅館の
……?」
父と母の年に一度の恒例行事となっている*#●県にある旅館への宿泊。最初こそ洋二さんに融通を効かせてもらったが、今はあちらから定期的にお伺いが来るまでになったのは、当時よりも名実ともに名を上げた父の賜に違いなかった。
父本人は特別扱いなんて申し訳ないと恐縮してたが、施しに対して常に控えめな所も俺は息子として誇らしかった。
「人気のお宿ですよね? 今からお部屋の予約は可能なのでしょうか」
「部屋は両親と同室だが、マスタールームとは別にベッドルームがある。ただ逆を言えばプライベートな空間はそこしかないのがネックだから、お前さえ良ければの話になる」
彼女は首を横に振りながら
「あ、いえ、そこは私は問題ないのです。むしろお邪魔にならないかが心配で
……。もし皇坂さんが行かれるなら家族三人、水いらずの方が
……」
「邪魔どころか二人ともお前も呼んでくれと何度もしつこく言われている」
父と母、特に母の勧誘はすさまじかった。最初は遠回しに彼女も一緒にと俺に伝えてきたが、さすがにアウェーである彼女には気が重いに違いないから俺はその思惑に気が付かないふりを続けた。
だが昨夜、これから家族になる彼女を除け者にするわけにはいかないと電話越しでかなり語気を強めて言い始めたので、いよいよ俺が折れたのだ。その様子をそのまま伝えると彼女は小さく笑いながらお義母さまらしいですね、と言った。
「それなら是非、ご一緒させてください。この子はどうしますか?」
彼女の細い指が犬の首の下を掻くが、
「由鶴には根回しは済んでいる」
ユヅルという言葉に反応した愛犬のバーニーズ・マウンテン・ドッグの↓◆*◎は垂れ耳を器用にピンと立てて、そわそわと立ち上がるや否や、リビングを右往左往し始める。
「※○〃▲、城瀬さん、まだ来てないよ。落ち着いて」
彼女の言葉にも聞く耳を持たず、興奮しすぎて立っている俺に飛びかかろうとするのをやんわりと制止した。恐らくコイツは俺を主だと思っているのは間違いないが、主よりも由鶴、そして次点で彼女を好いているだろう。
「でも城瀬さんなら安心ですね。お礼にあちらの特産物、たくさん買って帰りましょう」
「そうだな」
☆↓●#はようやく由鶴が来ないと悟ったのか、レースカーテンの向こう側に顔を突っ込んでこちらに背を向けながら身体を丸め始める。この行動は拗ねている時だ。余りにも分かり易い感情の発露に、笑い声は漏れたのは彼女と同時だった。
「
……今度から由
……、アイツの名前を出す時は隠喩が必要だな」
「確かに。しごできスーパー秘書さん、とかですかね」
「長い」
俺はようやく
――というか愛犬が陣取っていたせいなのだが
――彼女の隣に腰を落ち着かせた。持っていたコーヒーカップをローテーブルに置き、
「
……本当にいいのか」
と改めて尋ねた。彼女は首を傾げたので旅行の件だ、と補足を入れると、彼女は旅行の件と俺の言葉を繰り返したので、質問の真意が伝わってなさそうだった。
「別に断ったっていい。適当に理由はつけられる」
彼女と両親は長い時間を過ごした事はない。それが家に入る側である彼女にとって、重圧になることは想像に容易い。
しかし彼女はこちらの心配をよそに
「そんな。むしろお誘いいただけて有り難いです。お義母さまと過ごしていると、もし母が生きていたらこんな感じなのかなと思えるので。それに皇坂さんもお泊まりになられた事があって感動したと仰っていたので、私も楽しみです」
かつては感情が読みにくいと思っていたが、今では分かる。これは結構喜んでいる。俺は安堵して、スマホで写真アルバムをスクロールをする。あの時、見た景色を彼女にも見せたいと思ったからだ。
「ああ。特に部屋から見える絶景が
……」
何が絶景だった? 海か? 山か? 日の入りか? 星空か? 朝焼けか?
思い出せない、何も。
「皇坂
……さん?」
名前を呼ばれてはっと横を見ると彼女が心配そうに俺を見上げていた。
「
……ああ、悪い。家に電話を入れてくる。あっちから催促がくる前にな」
冗談を言って取り繕っても、力が入らない膝に、薄らと額に浮かぶ脂汗。それでもどうにか動かして立ち上がった。すると彼女が
「途中でお電話を代わって頂いてもいいですか? お誘い頂いたお礼を伝えしたくて」
彼女はいつもと変わらず、抑揚のない声で、俺に言う。そうだ、いつもと変わらないのだ。
これが俺の日常の筈だ。
「
……分かった」
ならばまた隣に座り直して電話をかければいいのに、何故か俺は部屋の角に歩きながらスマホの電話帳から実家の番号を引っ張り出してタップした。
数コール目で電話に出たのは母だった。
「あら、逢くん。どうしたの?」
「お疲れ様です。旅行の件ですが、彼女も是非一緒にと」
「ほんと! よかったわ~!! 心配してたのよ。てっきり逢くんがめんどくさがって彼女に話を持っていってないだけかと思ってたけど、疑ってごめんなさいね」
母はこんなにはつらつな人間だっただろうか。こんな声だっただろうか。そもそもたった数秒話を聞くだけで疲労困憊するような相手ではないはずで。
「
……■♭さん、彼女が電話を変わってほしいと。ぜひ御礼をと」
「私も丁度、*¶さんとお話したいと思っていたの。代わってちょうだい」
「
……いま、なんて?」
名前が聞こえない。後ろを振り向けば、名前を思い出せるのか。彼女の名前を。
「あら、あなた、自分のÅ〝*▲#の名前も忘れたの?」
忘れたんじゃない。思い出せないわけでもない。ありえないだけだ。
彼女は俺の■■■■■であって、□□□□□じゃない。
「
……坂さん、皇坂さん、皇坂さん」
ゆっくり目を開けると、視界には空になった小皿、箸、まだ日本酒が残るグラスが飛び込んだ。視線を上げれば
「今日も随分姉さんに飲まされたな」
と首まで赤くしながら笑う洋二さんが正面にいて、
「あら、逢くん、おめざ?」
洋二さんの隣で手酌をしている蓉子さん、そして
「大丈夫ですか? ご気分は
……」
俺を気遣う彼女
――弥代衣都は俺の隣にいて、心配そうに顔を覗き込んでいる。
「
…………どのぐらい寝ていた」
「眠っていたのは五分も満たないです。恐らく三分ぐらいかと
……。ただうなされていたので、思わず起こしてしまいました。お水、お飲みになってください」
グラスの和らぎ水を差し出されたので、それを受け取って飲めば、何かが引き戻されていく。ここは馴染みの料亭で、定例の食事会に部下を付き合わせているのだろう。そしていつも通り蓉子さんにかなり飲まされたに違いない。
「夢でも見ていたんじゃない? 怖い夢?」
ああ、そうだ。俺は夢を見ていた。怖い夢かは、もう思い出せない。
「そうですね。妙な夢だった記憶があります。弥代、お前も出てきたぞ」
俺の言葉に弥代は目を丸くしながら
「私
……ですか?」
と言う。
「それと犬を飼っていた。大型犬だ」
「犬」
あらま! なんだかすぐにでも現実になりそうな夢ねえ、素敵! と蓉子さんは嬉しそうにしていた。
「そうですね。現実になれば楽しそうな夢でしたよ」
俺の言葉に隣の弥代は相変わらず演技がお上手でと言いたげだ。
こっちの世界の彼女も感情が読み易くて安堵する自分を薄ら疑問に思いながら、夢は忘却の彼方へと消えていって、二度と思い出せなくなった。
おしまい
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