付かず離れずの距離を保ったまま、俺の後ろを足音がついてきていた。まだ人通りの多い道だから気のせいだと思えばそう済ませることもできるけれど、背中に感じるこの視線は、勘違いではないだろう。信号で立ち止まれば同じように止まり、角を曲がれば数秒後に足音も曲がってくる。心当たりがあるからこそ、警察に向かうなんてこともできなかった。
コンビニに立ち寄りコーヒーを買った俺は、さりげなく辺りを見渡し、電柱に隠れるようにしてその人が立っているのを確認した。思った通り、少し前からAporiaに通ってくれているお客さんだ。
コーヒーを片手に持ったまま自然な動作でスマホを取り出して、着信履歴の上の方にある名前をタップする。耳に当てて、コール音数回。ぷつっと途切れ、すぐに『どうかしたか』と聞き慣れた声が届いた。無意識のうちに強張っていた体からほっと力が抜ける。
「お疲れ様です。逢さん、まだ事務所にいますか?」
『ああ。忘れ物か?』
「いえ、そういうわけではないんですが、……詳しくは後で話します。でも多分もっと早く言えって怒られると思うので、簡単に。最近カフェによく来てくださっているお客さんに、後をつけられているみたいで」
『……今どこだ』
「すぐに気がついたのでまだ渋谷です。コンビニでコーヒーを買って様子を見ているのですが、立ち去ってくれなさそうで……。なので一度事務所に戻って、時間をおいてから帰ろうかなと。もうカフェのシフトに入ってた人はみんな帰りましたか? ターゲットが俺だけなら良いんですけど、他の人もだと危ないかもしれないので」
『……、もう全員帰った。位置情報を送れ』
「え?」
『迎えに行く』
「え、いえ、そんな」
『すぐそこなんだろ。一人より二人の方が、相手も手を出してきにくい』
「でも逢さん、まだ仕事の途中ですよね?」
『お前に何かあった時、ほんの数分手を止めなかったことを後悔したくない。いいからどこにいるか教えろ』
「……すみません」
『お前が謝る理由は一つもない』
「……ありがとうございます。位置情報送りますね。コーヒー、ホットとアイスどっちがいいですか?」
『は?』
「何か買って待ってた方が変だと思われずに済むと思うので」
『……ホット。いいか、大人しくしてろよ』
「はい、コンビニの中にいます」
『わかった。すぐ行く』
電話を切って、宣言通りにコンビニの中に戻る。この後になんの予定も入れてなくて良かったけれど、せっかく逢さんが早く帰れるなら帰れって言ってくれたのに、先に帰るどころか余計な仕事を増やすなんて。
ちょうど仕事を終えて帰る人と、これから遊びに行く人とが混ざり合う時間で、コンビニのレジはそれなりに列ができていた。忙しそうな店員さんを見るとコーヒー一杯だけを買うのは申し訳なくて、小腹を満たすためにおにぎりを二つとエナジードリンクを一本選んでレジに並んだ。会計を済ませてレジ袋を手首に引っ掛け、コーヒーを両手に持ってイートインスペースを覗く。幸い一つ席が空いていたから、そこで待つことにした。
数分もかからず道の向こうに逢さんが現れ、俺は席を立ってコンビニを出た。逢さんのことしか見ていなかったから、いつのまにか入り口の近くまで来ていたその人には、全く気がついていなくて。
「あの、城瀬さん、ですよね……」
不意に声をかけられ、思わずビクッと肩を揺らしてしまう。驚いた表情はすぐに隠して「えっと……?」となんでもない顔で首を傾げて見せたけれど、彼はとても傷付いたように表情を曇らせた。
顔を覚えている体で対応した方がいいのか、何も分からない体で対応した方がいいのか、咄嗟のことに頭が回らず返答に困っていると、彼はその数秒で俯き、体の横に垂らした手をギュッとキツく握りしめた。
やばいかも、と頭の中で警鐘が鳴り、無意識のうちに半歩後退る。パッと顔を上げたその人が口を開くより先に、俺の視界は遮られた。俺を庇うように前に立った逢さんの後頭部が目の前にある。
「あ、」
「何かお困りですか。店員さんか、警察を呼びましょうか」
「……貴方は誰ですか」
「……人に聞く前に自分が名乗るべきでは」
「俺はただ、城瀬さんに、挨拶をしようと」
「失礼ですが、ご関係は?」
「それは、……まだ、ただの客ですけど、でも」
「まだ?」
俺を背中に隠す逢さんの腕にピクッと力が入り、声に剣が滲む。綺麗な人は、怒ると怖い。真正面から逢さんに見据えられたその人は明らかに動揺した様子で視線を彷徨わせた後、小さな声で「なんにもしてないだろ」と呟いて走り去っていった。
その背中が見えなくなるまで見届けた後、逢さんは振り向き、俺を頭のてっぺんから爪先まで見た後にほっと息を吐いた。コーヒーカップを持ったままの俺の右手首を掴み、もう一度大きくため息を吐く。
「……無事でよかった」
「……はい、ありがとうございました」
「アイツがお前のすぐそばにいるのを見た時、心臓が止まるかと思ったんだぞ……」
「すみません。全然、気付かなくて」
「……いい、由鶴が謝る必要はない。……いや、……もう少し警戒心を持て。両手にコーヒーを持ってたら抵抗もできないだろう、ばか」
「う……はい、すみません。でもいざとなったらコーヒーをかけて逃げますよ」
「……」
「心配をかけて、すみませんでした」
「……何事もなかったから、今日は許す。すぐに連絡をくれてよかった」
俺の手首を掴む逢さんの手がかすかに震えていることには気がつかないフリをして、俺は動揺を隠すように目を伏せる逢さんの顔を覗き込んで目を合わせた。
「迎えにきてくれてありがとうございます。コーヒー、飲みますか?」
「……もらう。あの様子じゃ今日はもう帰っただろうが、念のため一緒に帰ろう。事務所まで荷物を取りに行ってもいいか」
「もちろんです」
手を離して俺からコーヒーを受け取った逢さんは、俺が手首にかけているコンビニのレジ袋をチラッと覗いて「夕飯か?」と眉間に皺を寄せた。まるで、それじゃあお前には足りないだろう、と言う心の声が聞こえてくるようで、俺はふっと笑って首を振る。
「小腹が空いていたので夕飯までに食べちゃおうかなと」
「……夕飯は何を食べるか決まってるのか」
「まだです。安心したら余計お腹が空いちゃった」
「荷物は持っててやるからとりあえずそれを食べてろ」
逢さんは奪うかのように俺のカバンの持ち手を引っ張った。これ以上甘えるわけにはいかないから断ろうとしたけれど、ちっとも空気を読めないお腹がグーッと鳴って、俺は笑い声を堪える逢さんに大人しくカバンを渡した。恥ずかしさに俯いたまま袋からおにぎりを取り出し、かぶりつく。こんなタイミングで食べるつもりじゃなかったのに。
「夕飯、まだ決めてないなら何か食べて帰るか」
「ん、いいんですか?」
「俺も腹が減った。……だが、今日はそこらへんで済ませるのは避けたいな。どこか個室のある店に」
「逢さんの家は? 俺、作りますよ?」
「……お前がそれでいいなら」
「逢さんがそれでいいなら」
「ふ。じゃあ決まりだな。ついでに泊まってけ。一人で帰すつもりはないが、夜中にお前の家まで送るのも面倒だ。いいだろ?」
「……ありがとうございます」
「ん」
おにぎりを二つ食べ終えたところで事務所の入っているビルに着き、逢さんは俺を先に建物に入れると振り向いて左右を見渡した。俺はもうすっかり忘れていたけれど、たぶん逢さんはここまでの道中も周りを気にしてくれていたんだろう。申し訳なさとありがたさで胸がギュッと締め付けられる。
エレベーターに乗ってボタンを押し、二人きりの空間で逢さんが大きく息を吐いた。
「しばらく、一人で帰るなよ」
「え。でも」
「俺が空いている時は俺が送る。どうしても予定が合わない時は他のやつに頼む。強行か特務の手が空いていればいいが」
「そんな、わざわざ、大丈夫です」
「大丈夫じゃない。お前は自分のことを軽く見過ぎだ。例えば環野や宇京が同じ状況だったら、どうする。たとえ寮までだって一人で帰すわけにはいかないだろう」
「そ、れは……はい。……でも、まだそこまで警戒するほどでも」
「今日たまたま気がついただけで、すでに家を突き止められていたら? ほとんどホールに出ないお前を選んでターゲットにするようなヤツが、マトモなわけないだろ」
最上階に到着したエレベーターから逢さんが先に降り、事務所の鍵を開ける。中に入ると電気はつけっぱなしで、デスクには広げたままのメモやペンが転がっていた。電話の後、事務所を飛び出して駆けつけてくれたんだ。今日はただ声をかけられただけだったけれど、それだけで終わると楽観的に考えられるほど、俺たちの現実は甘くない。
「……少しの間、ご迷惑をおかけします」
「あぁ。大事にならなければそれが一番良い」
「はい。……でも、どうして俺だったんだろう。キッチンなんて、ホールからほとんど見えないのに」
「女性のお客様でもお前のファンはいるだろう」
「……たしかに……?」
「それに全くホールに出ないわけでもないからな。料理ができて見た目が良くて誰にでも優しく物腰が柔らかい人間を嫌いになる方が難しい。だからといって、店員以上の目を向けてくるようなヤツ、もはや客でもなんでもないが」
「……」
「? どうした」
「……いえ、すごく、褒めてもらえた気がして。すみません」
「……すごく、褒めている、いつも」
「う、はい、……ふふ、ありがとうございます」
こんなことで喜んでいる場合ではないのだけれど、やっぱりストレートな褒め言葉は嬉しくて表情が緩んでしまう。すみませんと言って頬をぐにっと揉めば、逢さんはようやくふっと笑みを浮かべた。
「帰るか」
「はい。お邪魔します」
「邪魔じゃないと言ってるだろう。ある程度の食材は家にあるからそのまま帰れるが、どこか寄るか?」
「いえ、大丈夫です。もし逢さんが食べたいものがあればそれに必要なものを買っていきたいですけど、どうでしょう?」
「あるものでできる料理でいい。お前が作ったものならなんだって美味い」
「……光栄です。でもあんまり褒めすぎないでください」
「今のは事実を言っただけだ」
当然のようにそう言われ、また頬が緩んでしまう。照れ隠しで唇を尖らせれば逢さんは珍しくこどもっぽい無邪気な笑みを浮かべた。あまり見ることのないそんな表情に心臓がきゅんと甘く痛んだ。
戸締りをして事務所を後にし、アプリで呼んだタクシーに乗り込む。逢さんの家はここから遠くないから普段ならわざわざタクシーを使うことはないけれど、今日は念のため尾行を警戒しておいた方がいいだろうということになった。
見慣れた風景が流れる窓の外を見るともなしに見て、自分が男性に一方的に思われることがあるなんて、といまだ飲み込めない現状を頭の中で整理してみる。接客業をするようになって女性のお客様から好意を示されたり、わりと大胆にアプローチされたりすることは、何度かあった。言葉を選ばずに言うとストーカーじみた人も中にはいて、思い返せば相手が女性であってもそれなりに恐怖を感じていた。それでもまだ、何かあっても自分の方が力が強いから、冷静に対処できたけれど……。
今日、俺の目の前に立った男性を思い出し、思わずピクッと体が震えた。小さく息を吐いてザワつく心を落ち着かせる。怖い、と認めることすら、怖い気がした。
「由鶴」
「っ、……はい?」
「ついたぞ」
「あ……。すみません、ぼーっとしちゃって」
慌ててタクシーから降りて、視線を彷徨わせる。逢さんは何も言わないまま俺の目の前に立ち、俺が顔を上げると安心させるように小さく微笑んだ。
「おにぎり二つじゃ腹が減ったままだろう。食事をとれば気分も落ち着く」
「……うん、そう、ですよね」
「冷蔵庫の中に何肉があるか予想してみろ」
「えっ? えーっと、いつもなら鶏肉は必ずあるはずですよね」
「ふふ」
「この前冷凍庫に美味しそうな牛肉も入ってなかったですか?」
「よく見てるな。貰い物のステーキ肉だ。由鶴が来てる時に焼いてもらおうと思って取っておいた」
「え、食べたい」
「あははっ、じゃあそれも食べよう」
ぐーっとお腹が鳴った気がした。逢さんが俺がいつも通りに話せるような話題を選んでくれたことは明らかで、そんな彼の優しさにタクシーの中での余計な思考が解かれていく。
冷蔵庫の中身を予想する遊びをしながらマンションに入り、逢さんの部屋へ向かう。玄関に入って鍵を閉めたところで、逢さんが「そうか」と呟いた。振り向いて首を傾げた俺を、逢さんの瞳がまっすぐに捉える。
「付き合うか、由鶴」
「……え?」
「今日のアイツもそうだし、今までお前を狙っていたヤツらも、俺と付き合っているということにしたら手を出してこないだろう」
「え、あ、えっと、それはつまり、恋人のフリをする、ということですか? 逢さんが、俺の?」
「ああ」
妄想すらしなかった夢のようなセリフに、しばらく理解が追いつかず呆けてしまった。逢さんは少しの間ただじっと待って、それでも俺が返事をできずにいると先に靴を脱いで部屋に上がり、振り向いてもう一度俺と目を合わせた。
「もちろん、すでに恋人がいるなら」
「いません!」
「……そうか」
「……、大きい声を出してしまって、すみません」
「いや、それはいいが。……これはあくまで提案で、強制しているわけじゃない。俺は俺がお前のためにできることを考えてこの答えを出したが、実際もっと現実的で良い解決法が何かあるかもしれない」
「いいえ。……っ、すみません、あの、なんて言えばうまく伝えられるか分からないんですけど」
「いいよ。そのまま、思っている通りに言え」
「……すごく、嬉しいんですけど、逢さんはすでに弥代さんとお付き合いをしているという設定になっています」
「……、蓉子さんにこちらのことを伏せておけば問題ないだろう。他には?」
「その、フリと言っても、男同士ではただ仲が良いと思われるだけな気が」
「あぁ、そうか、たしかに。道端で突然キスをするわけにもいかないしな」
「!?」
「例えばの話だ。そうだな……しばらく家に泊まるか」
「え?」
「どっちにしろ今日のアイツの件が片付くまでは送るつもりだったが、毎日同じ家に帰っていれば都合よく勘違いしてくれるかもしれない。部屋は余っているし、事務所も近いから不便はないだろう」
「毎日、ここに?」
「お前が嫌じゃなければ」
「嫌なんてことは」
「じゃあそうしよう。今日からお前は、同じ家に暮らす恋人ということで」
逢さんの言葉が俺の頭の上を飛んでいく。理解なんて、できるわけがなかった。たとえフリだとしても逢さんが俺の恋人で、しかも今日からしばらくこの家で生活を共にする、だって?
名案だとでも言うように満足げな顔をする逢さんを、俺は目を見開いて見つめることしかできなかった。目の前に立つこの人は、数年前から俺が恋している、片思いの相手だったから。
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