まう
2026-05-21 20:58:04
2648文字
Public ysp症候群
 

【一眠り】

みぶりんみぶ
名前を呼んでみる話

「さて、帰ろうか、龍胆くん」
「おー」
 声をかけた時には、龍胆くんは既に助手席のドアを無造作に開け、乗り込むところだった。長い髪がふわりと揺れ、車が少し沈む。
 今日の仕事は、内容としてはつつがなく終わったものの待機時間の長いものだった。時刻は既に二十四時を回っている。あたりはすっかり静まり返っていた。人も車も通らない。
 三月に入り、突然春めいてきた甘ったるい空気を肺に入れて少し苦笑する。助手席のシートは一般的な座席の角度に比べ、常に大きく倒されている。何も知らずに乗り込んだ人が驚く程だ。龍胆くんはそこに体を沈め、あくびをした。これが僕らにとって当たり前のことになってもう随分経つ。僕も当たり前に運転席に乗り込み、車を発進させる。
「一時間くらいで着くと思うよ。折角のドライブだ、僕のおしゃべりに付き合ってよ」
「あぁ? 今日一日ずっと喋ってたろ。まだ喋り足りねえのかよ」
 龍胆くんは閉じていた目をうっすら開け、こちらを睨む。また一つ、あくびをこぼした。
「喋り足りるってことはあんまりないかもしれないな。喋っているときって、ずっと楽しいからね」
「お前、口閉じたら死ぬんじゃねえの」
「はは、失礼だなぁ」
 そのまま他愛ない話を続けていれば、龍胆くんはあーとかうーとか言いながら相槌を打ってくれる。僕を無視して寝ることもできるのに、なんだかんだ結局付き合ってくれるので優しい。
 実際のところ、今話したいことがあるという訳ではない。ただ、折角一緒にいるのに無言というのは寂しいなあと思ってしまうのだ。別に明日も会うし、そのときも話す時間なんて沢山あるのも分かっているのだけれど。
「じゅーいち、青」
「ああ、すまない」
 アクセルを踏んだ車が滑り出す。街に近づいていくに連れてすれ違う車は多少増えたが、やはり夜道は静かだ。そして、車内もスイッチを切ったように静けさに包まれる。ちらりと横を見ると、龍胆くんは窓の外をぼんやり見ているようだった。なんとなくそのまま口を閉ざしていると、やがて微かな寝息が聞こえてくる。どうやら眠ってしまったようだった。
 彼の寝顔を見るのは好きだ。当たり前かもしれないけれど、起きているときには見ることができない表情をしている。成人男性相手にこの表現は怒られそうだが、あどけない、ように見える。勝ち気な瞳が閉ざされているからかもしれない。人の寝顔をじっくり見る機会なんてあまりないので、運転中なのが心底もったいない気持ちになってくる。ずっと見ていても見飽きないだろうななどと思いながら、起こさないように車を走らせることにした。
 人から呼ばれる際、「壬生」と名字を使われることが圧倒的に多い。これは子どもの頃からそうだ。というのも、やはり「壬生」という家の持つ力が強いからだ。これは物心ついたときには自覚があったし、両親からもそう教えられていた。そして、それは特段嫌なことではなかった。相手も「壬生」というものに利益を求めているし、こちらもそれで得るものがあれば何も問題はない。
 呼び名一つで人の関係性は大きく変わる。これも物心ついた頃から染み付いていたものだ。相手をどう呼ぶか、そして呼ばれたことに応えるか。たったこれだけのことで人からの印象を変えることができる。仕事にもプライベートにも大いに役立つから、もう意識せずとも「どう呼ぶか」を決めている。
 それで言えば、龍胆くんは出会った頃はずっと二人称で僕のことを呼んでいた。頑なに固有名詞で呼ばないあたり、分かりやすい人間だなぁと微笑ましい気持ちになるほどだった。裏表のない人間はシンプルに好感が持てる。扱いやすい、とも言うけれど。
 いつまで頑張るんだろうと思っていたから、初めてきちんと固有名詞で呼ばれたときは柄にもなく嬉しくなってしまった。例えるなら野良猫がやっと撫でさせてくれたみたいな。
 というのは表向きの気持ちで(表向きも何も、誰にも言ったことはないのだけれど)、よくよく考えてみれば彼が、名字ではなく名前で呼んでくれたのがなんだかとても嬉しかったのだ。名字呼びが多いと言っても、名前呼びの人もそれなりにいる。だけど、なんだか、彼に呼ばれたのはちょっと違う感覚があった。と思う。
 あれから、結構な頻度で呼んでくれるけれど、その度に嬉しいなと思ってしまうのは絶対に本人には言わないでおこうと思っている。まぁもし聞かれたら答えてもいいけれど、あんまりそういう質問が来る状況は思い浮かばない。
 そんなことを取り留めなく考えている横で、龍胆くんは気持ちよさそうに寝入っていた。

 深夜一時を過ぎた頃、やっと目的地の駐車場にたどり着いた。車を止め、助手席に目を向ける。規則正しい寝息だけが車内に響く。いつもだったらすぐ起きそうなものだけど、これだけ熟睡しているってことは疲れていたんだろう。起こしてしまうのは悪い気がするけれど、このままという訳にもいかない。
「龍胆くん、着いたよ。このままここで寝ていてもいいけれど、流石に体が痛くなってしまうよ」
 軽く揺すってみるが、微かにうーんとこぼしたきり起きる気配はない。
「龍胆くーん」
 もう一度呼んでみるが、今度は無反応。僕の力じゃ龍胆くんを担いでいくなんて無理だし、さてどうしようかなと考え込む。

「久我くん」
 そっと、口に出してみる。当たり前に起きる気配はない。
「起きないかー。どうしようねえ」
 深夜だと言うのに、妙にぬるい気温だった。だから、ちょっと魔が差したのだ。
 身を乗り出して、龍胆くんの肩に頭を乗せる。人の体温と、規則正しい呼吸の動きが伝わってくる。微かに煙草の匂いもした。それが、思ったよりも気持ちよくて。
 少しの間、このままでもいいかな、なんて思ってしまった。




***

 なんとなく車が止まった感覚はしていた。けど、あまりにも瞼が重くてこのまま寝ていたい気持ちに勝てない。十一が何か言っている気がするけど、全然頭に入ってこなかった。
「久我くん」
 突然、前触れもなく呼ばれたことに驚いて一瞬で目が覚めたが、渾身の力で動きを止めた。いやべつに起きたっていいというか、そりゃ起こされたんだからそれが正解のはずなんだが。だけど、ちょっとここで起きるのはやばい、と思った。何がやばいんだ。

「起きないかー。どうしようねえ」
 十一の頭が、おれの肩に乗っかる。

 今更起きられる訳ないだろ、バカ。