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千代里
2026-05-21 08:16:27
10672文字
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ネイスのヒカセンルート
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光の戦士・ネイスの話(サスタシャ侵食洞攻略後)
目に突き刺さるかのような強烈な日差しに、ネイスは反射的に手で日除を作っていた。
ここリムサ・ロミンサは、海に突き出た数多の白い岩塊を繋ぎ合わせた構造をしている。岩塊の中をくり抜いて、洞窟を建物のようにしている作りは見事だが、建物として活かされた白の石材が日の光を反射して、眩しいことこの上ない。
(でも、今の俺には丁度いいかもしれない)
空を見上げれば抜けるような青空。眼下から響く波が岩にぶつかる音。ヴィエラ族のネイスの耳が拾い上げた人々のざわめき。それに混じる、微かな潮の香り。
絵に描いたような港町の光景に紛れていれば、その時だけでもあの瞬間のことを忘れられる気がする。
ほんの数日前、初めて受けた大きな依頼の果てにあったことを。
◇◇◇
駆け出しの冒険者に過ぎないネイスに託された依頼。それは、サスタシャ侵食洞と呼ばれている海辺の洞窟の調査だった。
普段は人など立ち入らない場所なのに、怪しい人影を見かけた者がいる。近くの海辺からは海賊船の出没情報もあったという。杞憂ならばそれでいい。だが、もしその先に何か潜んでいるのならば、その断片でも暴いてほしい。
冒険者向けの、実にありふれた依頼だ。不確定な情報であることを依頼を持ちかけたギルドマスターーーバデロンは謝っていたが、ネイスは特に気にしていなかった。
同じ依頼を受けた呪術士、幻術士、そして槍使いの冒険者と共に、ネイスは海水が染み出した洞窟へと足を踏み入れた。
誤算があったとしたら、洞窟に本当に海賊が潜んでいたことーーではない。
かつて、ネイスが海賊に囚われ、死すらも生ぬるい絶望を叩き込まれた経験があったということ。
そして、その記憶を未だ彼がはっきりと覚えていたこと、だろう。
すでに過去のこととして記憶の奥底に押し込んでいたつもりだった。だが、洞窟の湿った気配が、攫われた人々の怯えた視線が、偶然行き合った海賊の姿が、ネイスの中の記憶を揺り起こしてしまった。
無事に洞窟の奥地に辿り着き、海賊のねぐらであるという証拠をいくつも見つけ、襲ってきたサハギン族を撃退した。
そのあと、リムサ・ロミンサの治安維持部隊であるイエロージャケットに連絡し、彼らが到着するまでは、息を潜めていた。
だが、いざイエロージャケットの一団が乗り込み、一部の海賊が逃げ延びようとしているのを見て、ついにネイスの中で押さえ込んでいた箍がーー外れた。
イエロージャケットを目にした瞬間、洞窟の奥地から飛び出してきた海賊の一人。めざとく見つけたその男を、ネイスは無心で追いかけていた。
(逃すものか。だって、お前たちは、逃げたところでまた同じことを繰り返すんだろう)
ネイスの目には、男の背しか捉えられていない。そ十年以上前に感じた怒りがまるでつい最近の出来事のように吹き上がり、ネイスの思考を真っ赤に染め上げていく。
「ま、待ってくれ! 話を聞いてくれ!!」
命乞いをする男の後ろにあるのは、黒々とした岩壁だけだ。男の声など聞こえなかったように、抜き身の剣を構えたまま、ネイスは距離を詰める。
「なあ、お前、イエロージャケットじゃないんだろ。冒険者ってやつだろ!? そ、それなら、ほら。金はやる! だから、命だけはーー」
ガツン。
剣先が岩に突き刺さる音が、男の耳に響く。
それもそのはず、男の耳のすぐ横にネイスは剣を突き立てたのだから。
男の命乞いも、後ろで聞こえるイエロージャケットが海賊たちを摘発している声も、ネイスには聞こえていない。聞こえたのは、目の前の男の引き攣った命乞いの声だけだ。
「命だけは? その言葉を、お前たちは何度聞いてきた」
発した声は、ネイス自身、自分の声と思えないほどに低く、冷たかった。
「助けてくれって、皆言っていた。命だけは、どうかって、縋りついていた。なのに、お前たちは何度笑って、彼らを踏みつけてきた!!」
ネイスの目には、もはや眼前の賊すら映っていなかった。
彼の視界を、思考を埋めたのは、かつて自分や牢にいた人たちを虐げ続けた者たちの顔だ。そこに、目の前の男がいたかどうかすら定かではない。
「絶対に、許さない」
中でも、ネイスの心に消えない傷を残したあの男の顔が、怯え切った賊と重なる。
当時は船長と呼ばれていた男だった。この洞窟にいた海賊の中に、その人物がいたのかすら、やはりこれも確かではない。
「絶対に、絶対に!!」
けれども、もはやそんなことはどうでもよかった。
この怒りを、どこかにぶつけなければ。ただその想いだけがネイスを突き動かし続ける。
「許さないーー!!」
勢いよく振り上げた剣が、賊の頭に落ちる。
そのほんの数秒の間隙を縫って。
ネイスに、衝撃が走る。
「おい待て! そいつを殺すなって言ってるだろ!!」
上体に何かがぶつかり、視界が大きくぶれる。
誰かに突き飛ばされたと理解すると同時に、体を強かに地面に打つ前に受け身を取っていた。真っ赤にそまった思考でも体が動けたのは日々の鍛錬のおかげだろう。
地面に触れた指の感覚が、少しずつネイスの五感を揺り起こしていく。おかげで、ネイスはようやく我に返り、周囲の状況に気がつけた。
長い耳が拾い上げる怒号は、最後に記憶しているときよりずっと少ない。視界の端々では、海賊を引き立てているイエロージャケットの眩い黄色の制服が目に入った。
遅れて、自分のそばに立っているルガディン族も、イエロージャケットの隊員であると気がつく。見事な巨躯の彼が、先ほどネイスに与えた衝撃の張本人なのだろう。
「こいつらには、聞かなきゃならねえことが、山ほどあるんだ。恨みがあるのか知らないが、殺すのだけは後にしてもらおうか」
男の説明に、言葉で答えることはできなかった。
は、と漏れた息のおかげで、肺に空気が流れ込む感覚をようやく実感する。どうやら、自分はずっと無意識に呼吸を止めていたらしい。
「
……
俺は、殺すところ、だったのか」
「ああ。ま、こいつらがしでかしたことを思えば、あんたがキレちまうのも仕方ねえけどな。おら、立て!」
すっかり腰を抜かした賊の尻を蹴飛ばすようにして、ネイスをその場に残し、イエロージャケットの男は去っていった。
残されたのは、微かに聞こえる隊員たちの声の残響と、ざくざくと岩床を蹴り、こちらに近づく靴音。
顔を上げれば、今回の任務で行動を共にしていた冒険者たちがいた。
「剣士さん、大丈夫〜?」
真っ先に声をかけてくれたのは、呪術士のララフェル族だ。
パーティを組むにあたって、彼らに名前は伝えていない。冒険者同士で深い縁を結んだところで、所詮は一期一会の関係。別れが辛くなるからと、お互いのことは戦い方を元に呼ぶように最初に決めたのだ。
「さっき、すごい顔で飛び出していっちゃったけど〜。怪我とか、してない?」
「ああ。
……
大丈夫だ。何でもない」
何でもないなどと、どう聞いたって嘘だとすぐに分かる言葉を口にして、ネイスは立ち上がった。
その後、どうやってリムサ・ロミンサに戻ったかは記憶にない。気づけば、いつの間にかネイスは冒険者ギルド内の長椅子に腰を下ろしていた。
ぼんやりとしていたネイスの手を掴み、誰かが手のひらの上にずっしりと重みのある袋をのせる。金貨の澄んだ金属音が、ネイスの意識を少しずつ現実に引き戻してくれた。
「
……
これは?」
とりたてて、金銭に執着があるわけではない。だが、これを蔑ろにすると、関わった人を傷つける場合が多い。ゆえに、ネイスは気がつくとぼんやりとしてしまう意識を無理やり引き戻せたのだ。
目の前にいたのは、あのララフェル族の呪術士だった。
「それ、今回の依頼の報酬だよ〜」
「皆には分けたのか」
「うん、もちろん〜。幻術士さんと、槍使いさんは、何か美味しいものでも食べるんだーって、早速行っちゃったよ〜」
「そうか。待たせて、ごめん」
「ううん〜。それは、いいんだけどさ〜」
話しながら、ララフェル族の呪術士は後ろ手になり、小さな体をゆらゆらと揺らしている。どうしたのかと思いきや、
「剣士さん〜。あのね、気がついてるかな〜」
「気がついてるというのは、何のことだ」
「うーんとね。あの後の剣士さん、ずーっと怖い顔、してるんだよね〜」
そう言われて、ネイスは自分の頬に触れてみる。だが、目の前に鏡があるわけでもないのに、どんな顔をしているかなどと分かるわけもない。
「だから〜、お金もあるし、ちょっと息抜きしてもいいかもね〜って」
「息抜き
……
?」
「うん。美味しいもの食べたり、綺麗な景色を見ることだよ〜。冒険者にも、休憩は必要だからね〜。じゃあ、僕も行くね〜」
ばいばいと手を振って、呪術士の小さな姿が人混みに消えていく。残されたネイスは、手の上にある袋をじっと見つめて、つぶやいた。
「
……
息抜きって、何をすればいいんだ」
◇◇◇
かくして、ネイスは昼の日差しが降り注ぐリムサ・ロミンサをふらふらと歩いていた。息抜きをした方がいいと言われても、ネイスには自分が何をすれば息抜きしたことになるかがわからない。
武器の手入れも、ウルダハにて馴染みの職人に作ってもらった防具の手入れも、すでに専門の職人に託して磨き上げてもらっている。
ならば、冒険には欠かせない錬金薬や雑貨の買い出しをと思ってマーケットに足を伸ばしてみるも、腑に落ちないものがある。
行動を共にした彼らを真似して、何か食べたいものでも探してみるかとネイスは思案する。食べたいものを探してる時点で何かがずれているとは、彼は気がついていなかった。
あれこれと考えながら、気の向くままに真っ直ぐ歩いているうちに、一際濃い潮の香りが鼻をくすぐった。
足を止め、どうやら自分が国際市場と呼ばれる商店が並ぶ大通りを抜け、波止場までやってきてしまっていたらしいと遅まきながら気がつく。
船は出た直後のようで、今は海の近くに近づけるように波止場までの道も開放されていた。こうなったら行き着くところまで行ってみようと、ネイスは港の淵まで足を伸ばす。
「すごい。カモメがたくさんいる」
何か食べ物でも運んでいたのだろうか。今日の波止場は、カモメたちがあちこち歩き回り、元々あった白い石床の上に、さらにもこもこの蠢く白い絨毯が敷かれているようだ。
彼らを蹴飛ばさないように気をつけて歩いているうちに、仮初の目的地とした港の突端にたどり着く。船を停めるための縄をかけるのに使う係線柱も、今は停めるための船もないのでカモメの止まり木と化していた。
その隣で足を止め、何とはなしに海を覗き込む。ざん、ざざんと打ち寄せる波は白い岩にぶつかり、砕け、これまた白い泡となって海の一部として溶けていく。
打ち寄せて、ぶつかり、消える。延々と繰り返すそれを見ていると、少しだけ気が紛れるような気がした。
(海賊たち許せないという気持ちは、確かに俺の中にある。
……
でも)
休暇をいしきするため、今日は装備を身につけていない。故に久しぶりに手袋に包まれていない手を外気に晒す。
無論、そこには戦闘時の汚れなどない。けれども、ふと思い出してしまう。
(殺したい、なんて。
……
そんな風に思ったのか、俺は)
あの瞬間、イエロージャケットの隊員が止めていなかったら、ネイスは間違いなく剣を海賊の頭の上に振り下ろしていた。その結果、あの海賊は死んでいたーーネイスに殺されていただろう。
誰かを殺すことがどれほど悍ましくて、悲しくて、苦しくて、辛くて、何もかもがどうでも良くなる程に目の前が真っ暗になることだと、わかっていたのに。
海賊を許したくない。
だけど、怒りのあまりに彼を殺すべきだったとも言い切れない。
そんな堂々巡りも、波間を見てる間は見ないふりをできた気がした。
そうして、繰り返す波の行き来をぼんやりと見つめていたときだった。ネイスの長耳が、一際激しく鳴くカモメの声に気がついたのは。
「随分と騒いでいる。何かあったのか
……
?」
周りの漁師たちは気にしていないようだが、一度気がつくと無性に何があるか気になってしまう。
いつの間にか腰を下ろしていた港の淵から立ち上がり、ネイスは音の発生源に向かって歩き出した。
幸い、わざわざ耳を傾けずとも、目で見てはっきりと分かるほどに大きなカモメの集団がネイスの視界に飛び込んできた。波止場に溜まっている彼らは、そこだけを見ると、まるで白い毛玉が蠢いているようでもあった。
何をそんなに騒いでいるのかと、カモメを掻き分けるように中心に向かっていったネイスは、そこにあったものを目にして一度瞳をぱちくりとさせる。
「
……
こんなところに、サボテン?」
口にはしたものの、それがサボテンではないことはすぐに分かった。
まず、それはサボテンのように緑色ではなかった。それに、サボテンはふるふると震えたりしない。
そこにあったのは、棘だらけの丸い玉
――
一言でいえば、そう形容できる何かだった。
乾燥地帯のザナラーンで育ったネイスにとって、棘だらけの丸い存在といえばサボテンだが、目の前にあるものは植物ではないようだ。
しゃがんで様子を見守っていたネイスを掻い潜り、好奇心旺盛な一羽のカモメが嘴で正体不明の棘玉をつつく。ころんと転がった棘玉の角度が変わる。
ひっくり返った棘玉の裏側
――
その隙間から見えたのは、ふわふわの毛と小さな目、そして尖った鼻だった。
「ねずみ、か? こんなに棘だらけのねずみがいるのか」
仰向けになってしまった棘ねずみを、カモメは我先にとつつこうとする。
どうやらカモメがこのねずみを攻撃しているらしいことは分かったので、ネイスは棘だらけの体など気にせずに、ねずみをひょいと抱え上げた。
もっとも、これはカモメからねずみを救おうという正義心に溢れた行動ではない。この波止場には、見慣れない生き物が輸入されてくることもある。そういったものは、大体既に持ち主がいるものだ。
この棘だらけのねずみの持ち主を探さねばと思ったからこそ、ネイスはねずみをカモメから取り上げたのである。
「えっと、荷揚げの偉い人は
……
ああ、彼に聞いてみるか」
ちょうど、荷物の整理をしていたルガディン族の荷揚げ人を見つけて、ネイスはねずみ片手に彼に近づく。帳簿を付けている様子からも、彼はこの波止場に来る荷物をある程度把握できる立場なのだろう。
声をかけ、このねずみは波止場に届いた荷物にあったかと尋ねると、
「ああ、ヘッジホッグか。東では、ハリネズミって名前でも呼ばれてるな。ラザハンの方で、食用として扱っていたことがあるとかで、レストランの連中が何匹か輸入してきたんだ」
「食用
……
。これ、食べられるのか」
かつて、ウルダハの荒野で自給自足の生活をしたこともあるので、ネイスはねずみや小動物を食べることに忌避感はない。だが、こんなにも棘だらけなら食用には向いてなさそうに見えたので、不思議に思ったのである。
「俺は詳しくは知らんがね。料理人連中曰く、チキンに似てさっぱりした味だったそうだ。ま、見ての通りの小ささだから、食うところを探すだけでも一苦労しそうだがな」
「味だったってことは、もう食べられたのか」
「ああ。二週間ほど前のことだからな。そいつは、大方、波止場にきた後に逃げちまったんだろう」
「じゃあ、これ、どうすればいい。そのレストランの人に渡しておいた方がいいか」
「いや、その辺に放しておけばいいだろうよ。一匹だけ逃げ出していた、なんて言ったら、あいつらにまた文句を言われちまうからな」
どうやら、この荷揚げ人に引き取ってもらうというのは難しそうだ。だが、レストランの料理人に渡してほしくもないようである。
ひとまず御礼を言ってから、ネイスはねずみ改めハリネズミを片手に、波止場から市場に向かう道の途中で一度腰をおろした。
「どうする。お前、外に行きたいか」
そうはいったものの、どこかに放置されればまたカモメに追い回されるだろう。
ハリネズミはネイスの手を安住の地と定めたのか、針を寝かせて丸まっている。こうしていると、針が皮膚に突き刺さらないので、見た目ほど痛くはない。
突如手元に転がり込んできたハリネズミを、暫く意味も無く観察していたネイスは気がつく。
「お前、怪我してないか」
針だらけのボールになっていたハリネズミをちょいちょいとつつくと、少しだけ手足を出してくれた。
ネイスが気づいたのは棘に付着していた小さな血痕だったが、それが手足についた傷によるものだと分かる。
(このまま野に放っても、怪我をしていたら長くは生きられないだろう。それぐらいなら、俺が好きなようにしてもいいだろうか)
食用ならば、咄嗟のときの非常食になるかもしれない。サバイバル生活が長かったせいで、愛玩用に連れ回すという考えが一イルムも思い浮かばないネイスは、当座の目的を定めて、ハリネズミ片手に市場に戻る。
ひとまず、自分も怪我の治療に使う錬金薬を買い求める。ついでに、当初の目的だった自分の食事となる食べ物として、果実店にあったオレンジを買っておく。
「お前、オレンジは食べられるのか」
質問しても、ハリネズミは丸くなるばかりだ。どうしたものかと途方に暮れ、果実店の店主にダメ元で質問してみると、
「そういう小動物なら、虫とか穀物を食べるんじゃない。あと、木の実とか。見た目はモグラっぽいから、虫の方がいいかな」
「虫、か。それなら、外で採取してくる必要があるか」
「そこまでしなくても、釣具店で魚の餌になる虫を扱ってたよ。瓶に入れてくれるし、そっちの方が持ち運びも便利じゃないか」
店主の勧めに従い、ネイスは釣具店でミミズのような虫をまとめて数匹購入した。野で暮らしていた時期が長いせいで、虫をわざわざ店で買うという概念がなかったネイスにとっては、なかなか新鮮な体験だった。
一通りの買い物を済ませ、ハリネズミを片手に抱いたまま宿に戻る。
買ってきたオレンジをひとまず小机に置き、今までずっと片手を占拠していたハリネズミを床の上に置くと、早速ふんふんと鼻を動かして探検を始めようとしていた。
「あちこち行くのは後だ。まずは怪我の治療をしないと」
ネイスの言葉が分かったのか、ハリネズミはネイスの周りでちょろちょろと歩き回るに留めていた。治療用の錬金薬を取り出し、自身も一度床に座る。
せわしないハリネズミを膝に抱え直して、薬を何滴か治療用に買っていた布に浸し、小さな足に押し当てる。傷が痛むのか、一瞬棘がぶわっと広がったものの、ネイスはお構いなしに布をそのまま足に巻いてやった。
「あとは、食事だったな。虫、食べるか」
詰めてもらった虫の一匹を手でつまみあげ、ハリネズミの前に置いてやる。こちらは気に入ったようで、すぐに虫に襲いかかっていた。
「元気になったら、自分でも捕まえるんだ。狩りができないと、一人で長く生きるのは難しい」
経験則に基づいた指導を行ってみたが、ハリネズミはどこ吹く風で瓶の中からお代わりを勝手に頂戴していた。
自分も何か食べるかと、ネイスは買ってきたオレンジを手元のナイフで小分けにしていく。今使っているのは、ネイスが長年使ってきたナイフではない。大きさは同じものだが、ウルダハで冒険者となった後、一度買い直したものだ。
ナイフでオレンジを切り分ける。みずみずしい果汁で指先をぬらし、備え付けの小皿に置いて、一欠片分を改めて口に含む。柑橘類の甘酸っぱい独特の香りが口の中にじわりと広がる。
そのまま咀嚼を続けていると、ふと床の上で食事の真っ最中のハリネズミと目があった。
「お前はよく食べるな。もう殆ど残ってない」
ネイスの言うように、瓶の中の虫はほぼなくなっていた。ハリネズミという生き物は、見た目によらず大食いらしい。
最後の一匹をぺろりと平らげたハリネズミは、図々しくもネイスの足下にやってきて、じーっとこちらを見つめている。
「食べるか?」
食べる、と言ったわけではないのだろうが、ハリネズミが頭を縦に動かす。ほんの少しだけ指先にとり、ハリネズミの鼻先に持っていくと、暫く嗅いだ後、ひょいと口の中に入れる。
動物には人間のような表情はないが、小刻みに鼻を動かしているので、嫌だとは思っていないのだろう。オレンジというデザートを食べ終えて満足したのか、ハリネズミは床にぺったりと体を伸ばしてじっとしている。どうやら眠くなってきたらしい。
「そんなところで寝ると、俺が踏む。寝るならもう少し近くで寝てくれ」
ハリネズミを片手で掬い上げ、膝の上に載せる。いよいよ本格的に目を瞑り始めたハリネズミを横目に、ネイスはオレンジの続きを口に含む。
機械的に食べ物を摂取しているだけのはずなのに、不思議と膝の重みにほっとしている自分に気づかされた。
ハリネズミの腹越しに伝わる小さな温もり。微かに響く、ネイスよりは早い鼓動。それは、この小さな生き物が生きている証でもある。
ふと、オレンジを持っている自分の手に目をやる。いつもなら、防具に覆われて見えない素手。剣を握り、魔物を倒し、そして、つい先日は
――
人を殺そうとした、手。
「俺は、何のために冒険者になったんだろう」
サスタシャ浸食洞に挑もうとした矢先、別の冒険者と話をする機会があった。そのとき、彼に問われたのだ。君はなぜ、冒険者を志したのかと。
「俺は
……
誰かを助けられる人に、なりたい」
ネイスなら、きっと世界中の人を助けられる。そう信じてくれた彼女の言葉が、今もネイスを生かし続けている。
ぷう、と暢気な音が聞こえて、ネイスは膝の上に視線を落とす。どうやら、先ほどの音はハリネズミのいびきのようだ。
思わず、ふ、と口角が緩む。いとけない子供のような寝顔は、冒険に旅立つ前の在りし日の生活をふとネイスに思い出させた。
「そうだったな。
……
俺は、ナージャが言ってくれたような人になってみせるよ」
それが今の自分にできる精一杯だと見つめ直して、ネイスは膝上の小さな生き物に視線を落とす。小さく鼻を動かして寝入るハリネズミは、ネイスが出会わなければ今頃カモメの餌になっていただろう。
(これも、誰かを助けたのうちに入るんだろうか)
なら、もうしばらく、この生き物と共にいてもいいかもしれない。非常食としてではなく、ただ共にいるだけの曖昧な関係だったとしても。
オレンジにもうひとつ、手を伸ばす。口に含んだ果実は、先ほどよりもくっきりとした甘酸っぱさをネイスの舌に残してくれた。
***
翌朝、次の街への旅立ちのため、冒険者ギルドに顔を出したネイスは、あの依頼を受けた者たちと顔を合わせる機会に恵まれた。
とてとてと歩み寄った呪術士が、挨拶代わりに手をひらひらと振る。
「あ〜、剣士さんだ〜。もう出発するの〜?」
「ああ。グリダニアの偉い人に手紙を送ってくれって頼まれてる。そろそろ行かないと」
ネイスの説明はかなりざっくりとしたもので、彼が渡された手紙は都市国家の最高権力者に宛てた式典の招待状という、かなり公的なものなのだが、幸か不幸か、彼らはそれを知らずに済んだ。
「グリダニアかあ〜。じゃあ、僕もそっちの方に行こうかな〜。剣士さんは船で行くの〜?」
「いや。飛空艇を使っていいと言われた」
「なに、飛空艇!?」
すると、一緒に話を聞いていた青年ーー先日行動を共にした幻術士が目を丸くして、ネイスへと詰め寄った。
「それは本当か!? 昨今は、帝国のせいで空の便は普通は使えないと聞いていたんだが
……
まさか、許可証を持っているのか!?」
「ああ。ウルダハの偉い人が、使っていいとくれたんだ」
「剣士はすごい人と知り合いなんだな。ううむ
……
ウルダハか。一度足を伸ばしてみるべきか」
やはり伝手は大事だと唸る幻術士は、先だっての依頼でも、慣れない戦闘に戸惑う面々を後衛ながら大きな声で励ましてくれた。
今も、相乗りさせてくれとごねたり、あからさまな羨望の目を向けない彼のさっぱりした性格は、ネイスも嫌いではなかった。
「こっちも訓練を積み重ねて、次の依頼に備えないといけないわね。剣士に負けていられないわ」
うんうんと頷くエレゼン族の槍使いは、長らく訓練をしていたと本人が言うだけあって、実戦では緊張し通しだった。だが、それも呪術士ののんびりとした話し方を聞くうちに、少しずつ改善を見せていた。
(
……
そうか。俺が一緒にいたのは、そんな人だったのか)
依頼に気負っていたからか、それとも因縁のある海賊を目にしてしまったからか。仮初とはいえ傍らにいる仲間のことすら、自分は十分に見ていなかった。すでに依頼は終わった後だが、今ようやくそのことに気がつけたのだ。
「剣士さん、何かいいことでもあった〜?」
「いや、特にはないと思うが」
「でも、この前よりも、剣士さんの顔、優しい顔になってるかな〜」
言われて、ネイスは自分の頬に触れてみる。やはり自分の顔などわからないが、きっと仲間が言うならそうなのだろう。
「ありがとう、呪術士」
「僕は何もしてないよ〜。でも、それなら、どういたしまして〜だね〜」
あの時、呪術士が声をかけてくれなければ、ネイスはいつまでも冒険者ギルドの片隅で茫然としていただろう。
仲間に声をかけてもらえたから、足を踏み出せた。そうして、今も懐の中に眠っているハリネズミとも出会えたのだ。
ネイスは暫く、この生き物を自分の旅路に連れていくことにしていた。いずれどこかで野に放つこともあるかもしれないが、そのときはそのときだ。
「じゃあ、また」
自然と口にした再会を願う言葉を後に、ネイスは飛空艇に繋がる昇降機の元へと向かう。
冒険者となり、人助けを続けて、その先に何があるか。
まだ先は見えないけれども、最初に決めた誓いだけは思い出せた。
今はまだ、ネイスにはそれだけがあれば十分だった。
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