Hnyanko
2026-05-20 20:45:43
11716文字
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悠アキ🏹🧡オメガバパロ

巣作りの話です。
始まりが雑だったが故にすれ違い気味。

 巣にならなかった。

 それは、僕がいちばんよくわかっていた。

 ベッドの上に集めたシャツを見下ろして、何度も並べ替えた。肩にかけてみたり、枕元に丸めてみたり、膝の上に重ねてみたりした。けれど、どれだけ手を動かしても、そこには巣と呼べるものはできなかった。

 ただ、服があった。

 悠真の服が、少しだけ。

 それだけだった。

 情けない、と思った。

 僕の身体は、こんなにも正直なのに。悠真の匂いを探して、まだ洗われていない袖口に顔を寄せて、息を吸うたびに胸の奥がほどけていくくらい、どうしようもなく悠真を欲しがっているのに。

 その欲しさを受け止められるだけのものが、何もない。

 布が足りない。匂いが足りない。悠真が僕に残してくれたものは、こんなにも少ない。

 違う、と頭のどこかで思う。

 悠真はもともと物を持たない人だ。服が少ないのは僕のせいじゃない。悠真の愛情とは関係ない。そんなこと、考えればわかる。

 でも、ヒートの熱でおかしくなった身体は、そんな正しさを聞いてくれなかった。

 少ない。

 足りない。

 僕がもらっている悠真は、これだけなんだ。

 そう思ったら、喉の奥がひどく痛くなった。

 僕はシャツを胸に抱いた。悠真の匂いがする。すっきりしていて、少し冷たくて、遠い。いつも隣にいるはずなのに、どうしてこんなに遠いのだろう。

 僕たちは番になった。

 その事実だけを並べれば、きっと誰かは羨ましいと言うのかもしれない。αとΩが番になるなんて、ひどく強い結びつきだ。身体は相手を覚え、匂いは互いを選び、熱の夜にはどうしたって相手を求める。

 でも、心まで同じ深さで結ばれるとは限らない。

 僕は、それを知っていた。

 好きなんだ、と告げた日のことを、何度も思い出す。

 あの日、僕はできるだけ穏やかに笑った。困らせないように。逃げ道を塞がないように。悠真が断りやすいように。もし笑われても、冗談にできるように。

 けれど本当は、指先まで冷えていた。

 悠真は、少しだけ目を細めて笑った。

 暇つぶしならいいよ。

 軽い声だった。

 その軽さに、僕は救われたのだと思う。

 だって、重く受け取られたら怖かった。真剣に考えられて、真剣に断られたら、きっと立っていられなかった。だから、暇つぶしという言葉に頷いた。僕はそれでいいと思った。悠真の隣にいられるなら、名前なんて何でもよかった。

 恋人でも。

 番でも。

 暇つぶしでも。

 僕が頷いた。

 だから、傷つく資格はない。

 わかっているのに、涙が出そうになる。

 身体が熱い。喉が渇く。肌の下で血が甘く煮えているみたいだった。悠真の匂いを吸うと少しだけ楽になる。けれどそのたびに、もっと苦しくなる。

 欲しい。

 来てほしい。

 抱きしめてほしい。

 僕がこんなふうに欲しがってしまうことを、許してほしい。

 でも、そんなことを言えるはずがなかった。

 僕は悠真の本気をもらったことがない。

 たぶん、まだ。

 それなのに身体だけが先に番の形をしてしまった。熱に浮かされて、悠真の服を集めて、巣にすらならないものの中で震えている。

 みっともない。

 みっともなくて、浅ましい。

 こんなのを見られたら、悠真はきっと困る。

 面倒なΩだと思うかもしれない。暇つぶしにしては重すぎると、少しだけ眉をひそめるかもしれない。優しいから、口には出さないだろう。けれど僕は、その沈黙に気づいてしまう。

 僕はたぶん、そういうことにだけは聡い。

 玄関の鍵が開く音がした。

 心臓が、嫌な跳ね方をした。

 悠真だ。

 帰ってきた。

 来てほしいと思った。来ないでほしいと思った。今すぐこの部屋に入ってきて、僕を見つけてほしい。けれど見つけられた瞬間に、僕はもう終わってしまう気がした。

 こんな巣を見られる。

 こんな僕を見られる。

 悠真の服を集めて、その匂いに縋って、たったこれだけの布を宝物みたいに抱えている僕を。

 だめだ。

 僕は慌ててパーカーを引き寄せた。身体を隠そうとしたけれど、隠せる場所なんてどこにもない。ベッドの上にあるのは、僕の弱さばかりだった。

……アキラくん?」

 名前を呼ばれて、胸が潰れそうになった。

 返事ができなかった。

 したら、声が泣いてしまう。

 扉の向こうから、悠真の気配が近づいてくる。足音が静かで、それが余計に怖かった。いつものように軽く入ってきてくれたらよかった。何でもない顔で、ただいま、と言ってくれたらよかった。

 でも悠真は、何かに気づいている。

 僕の匂いが、部屋中に漏れているのだろう。抑えられない熱が、Ωの本能が、僕の恥を全部、空気に溶かしてしまっている。

……来ないでくれ」

 やっと出た声は、自分のものとは思えないほど頼りなかった。

 悠真が止まる。

「なんで」

 なんで、と聞かれても、答えられることはひとつしかない。

 怖いから。

 君に見られるのが怖いから。

 僕が君を欲しがっていることを、君の匂いがないと落ち着けないことを、番になったくらいで君の全部をもらえた気になっている浅ましさを、知られたくないから。

 でも、そんなことは言えなかった。

「その……巣が、うまくできてなくて」

 言った瞬間、涙が落ちそうになった。

 違う。

 本当は巣の話じゃない。

 巣なんて、ただの形だ。僕が本当に隠したいのは、この小さな布の山を見て、愛情の量まで測ろうとしてしまった自分だった。

 悠真は悪くない。

 服が少ないのも、言葉が軽いのも、愛されていると信じきれないのも、全部、僕の問題だ。

「笑わないけど」

 悠真の声がした。

 優しい。

 その優しさが、ひどかった。

「そういうことじゃないんだ」

 喉が震えた。

 笑われたほうが、まだよかったかもしれない。からかわれて、何やってんの、と言われて、僕も怒ったふりをして、終わりにできたかもしれない。

 でも優しくされたら、僕はきっと期待してしまう。

 期待して、また勝手に傷つく。

「ヒートは、ひとりで耐えられるから」

 口にした途端、自分の嘘に吐きそうになった。

 ひとりで耐えられる人間は、番の服を抱いて泣きそうになったりしない。来ないでくれなんて言いながら、足音が止まったことに絶望したりしない。

 悠真に入ってきてほしい。

 でも、入ってきた悠真に失望されたら、もう耐えられない。

 僕はパーカーの袖を握りしめた。爪が布に食い込む。悠真の匂いがする。腹の奥がきゅうと疼いて、目の前が滲んだ。

 ベッドの端が沈む。

 悠真が近くに来た。

……来ないでって、言っただろ」

「うん」

「だったら」

「ごめん」

 謝らないでほしかった。

 悠真が謝ると、僕がひどいことをしているみたいになる。僕が拒んで、僕が傷ついて、僕が勝手に苦しんでいるだけなのに、悠真に罪を渡してしまうみたいで嫌だった。

「違うんだ」

 僕は首を振った。

「悠真が悪いんじゃない」

「アキラくん」

「僕が、勝手に……

 言葉が途切れる。

 勝手に好きになった。

 勝手に期待した。

 暇つぶしでもいいと頷いたくせに、番になった途端、本当は愛してほしいなんて思っている。

 そんなこと、言えるはずがない。

「勝手に、欲しがってるだけだから」

 声が落ちた。

 自分で言って、自分で傷ついた。

 悠真が息を呑む気配がした。見たくなくて、僕はさらに顔を伏せる。

「だから、見ないでくれ」

 涙が落ちた。

 隠したつもりだったのに、シーツに小さな染みができる。最悪だ。熱で汗も涙もぐちゃぐちゃで、悠真の服を抱えて、巣にもならない場所で震えている。

 こんな僕を、悠真に見せたくなかった。

「こんなの、重いだろ」

 悠真は何も言わない。

 沈黙が怖くて、僕は笑おうとした。けれどうまくいかなくて、息だけがひゅっと漏れた。

「暇つぶしにしては、面倒すぎる」

 言ってしまってから、しまったと思った。

 部屋の空気が固まった。

 あの日の言葉を、僕はずっと隠していた。覚えているなんて知られたくなかった。そんな昔のことをまだ持っているなんて、重すぎる。浅ましい。みっともない。

 でも、一度こぼれたものは戻らなかった。

「ごめん。今のは、忘れてくれ」

 僕は急いで言った。

「熱で変になってるだけだから。ほんとに、気にしないで。僕が勝手に覚えてただけで、悠真は何も」

「アキラくん」

「何も悪くない」

 遮るように言った。

 悠真を責めたかったわけじゃない。

 ただ、痛かっただけだ。

 好きになったときからずっと、あの言葉が胸の奥にある。暇つぶしでもいいと受け入れた僕自身が、そこにいる。都合のいい場所に座って、笑って、平気なふりをしていた僕が。

 悠真の手が、僕の髪に触れた。

 びくりと身体が跳ねる。

 触られたかった。

 触られたくなかった。

 触れられた瞬間、堪えていたものが全部ほどけそうで怖かった。

「触らないで」

 そう言ったのに、声は泣いていた。

 悠真の手が止まる。

 離れていく気配がして、胸が潰れた。

……待って」

 反射的に言っていた。

 最低だと思った。

 触らないでと言ったくせに、離れないでと願っている。来ないでくれと言ったくせに、置いていかれたら耐えられない。自分でも扱えない矛盾を、悠真に差し出している。

「ごめん」

 僕は小さく言った。

「ごめん、悠真。僕、変だ」

「変じゃないよ」

「変だよ。だって、来てほしいのに、来ないでって言ってる。触ってほしいのに、触らないでって言ってる。ひとりで耐えられるって言ったのに、本当は……

 本当は。

 本当は、何。

 抱きしめてほしい。

 このみっともない巣ごと、僕を受け入れてほしい。

 暇つぶしじゃないと、もう一度言ってほしい。

 でもそんなことを言えば、僕はきっと壊れてしまう。

「本当は?」

 悠真が静かに聞いた。

 優しい声だった。

 逃がしてくれない声だった。

 僕はシャツを握りしめる。悠真の匂いが指先に染みる。熱が苦しい。胸の奥のほうが、もっと苦しい。

……ひとりに、しないでほしい」

 やっと言えた。

 言った瞬間、涙がぽろぽろ落ちた。

「でも、失望されたくない」

 声が震えて、うまく息が吸えない。

「悠真が思ってるより、僕はずっと重い。ずっと、欲張りだ。暇つぶしでもいいって言ったのに、ほんとは、ちゃんと好きでいてほしい。番だからじゃなくて、ヒートだからじゃなくて、僕だから、そばにいてほしい」

 言葉にすると、あまりにも惨めだった。

 僕は肩を丸めて、顔を隠した。

「こんなの、嫌だろ」

 悠真はすぐには答えなかった。

 その沈黙の数秒で、僕は何度もだめになりそうだった。やっぱり言うべきじゃなかった。困らせた。重すぎた。悠真の優しさに甘えて、言わなくていいことまで言った。

 けれど次の瞬間、悠真の腕が僕を抱きしめた。

 強くはない。

 でも、逃がさないみたいに。

「嫌じゃない」

 耳元で、悠真が言った。

「ごめん。僕が、そう思わせた」

 僕は首を振ろうとした。

 でも悠真の腕の中で、うまく動けなかった。

「違う」

「違わない」

「悠真は悪くない」

「悪いよ」

 悠真の声が、少しだけ苦かった。

「暇つぶしって言ったの、僕だから」

 胸が痛い。

 あの言葉を悠真自身の口からもう一度聞くと、傷口に触れられたみたいだった。けれど不思議と、前ほど冷たくはなかった。悠真の腕があるからかもしれない。今ここで、逃げずに言ってくれているからかもしれない。

「軽くしないと、怖かった」

 悠真が言った。

「アキラくんが本気なの、わかってたのに。ちゃんと受け取ったら、失敗したときに戻れなくなる気がした。だから、逃げた」

 僕は息を止めた。

 知らなかった。

 悠真が怖がっていたなんて、考えたこともなかった。僕ばかりが怖いのだと思っていた。僕ばかりが好きで、僕ばかりが欲しがって、僕ばかりが軽い言葉に縋っているのだと思っていた。

「でも、もう逃げたくない」

 悠真の手が、僕の背をゆっくり撫でる。

「巣、うまくできてないんじゃないよ」

……できてない」

「できてる」

「できてないよ。だって、こんなに小さい」

「うん」

「布も足りないし、形も変だし」

「うん」

「僕の上に服をかけただけだ」

「うん」

 悠真はそこで、少しだけ息を吐いた。

「でも、僕の匂いだけ集めてる」

 涙が止まらなかった。

「それって、僕の場所でしょ」

 悠真がそう言った瞬間、胸の奥に残っていた何かが崩れた。

 巣にならなかったと思っていた。

 僕の欲しさばかりが丸見えの、みっともない失敗作だと思っていた。

 でも悠真は、それを自分の場所だと言った。

 僕が欲しがって、集めて、失敗したものを、恥だと言わなかった。

「入れて」

 悠真が言った。

「アキラくんの巣、僕も入れて」

 僕は泣きながら、少しだけ身体をずらした。

 小さな巣は、やっぱり小さかった。

 悠真ひとりが入るには足りなくて、僕たちはほとんどくっつくしかなかった。悠真の服がくしゃくしゃになる。並べたシャツも、丸めた上着も、形なんてなくなってしまう。

 それでも、悠真は文句を言わなかった。

 僕の肩に自分の上着をかけて、足りないところを自分の腕で埋めるみたいに、僕を抱いた。

 その瞬間、僕はようやくわかった。

 欲しかったのは、服じゃなかった。

 巣を完成させるための布でも、うまくΩらしく振る舞うための形でもなかった。

 悠真が、ここにいてくれることだった。

……もっと服、買って」

 僕は悠真の胸元に額を押しつけたまま言った。

「うん」

「僕が、ちゃんと巣を作れるくらい」

「うん」

「君の匂いがするものを、たくさん」

「うん。全部、アキラくんのにする」

 その言葉があまりに甘くて、痛くて、僕はまた泣いた。

 泣きながら、それでも悠真の服を掴む。

 もう隠れるためじゃない。

 離さないために。

「暇つぶしじゃ、ない?」

 声は小さく、情けなく震えた。

 悠真は僕の髪に唇を落とした。

「違う」

「ほんとに?」

「ほんと」

「僕、重いよ」

「知ってる」

「面倒だよ」

「知ってる」

「たぶん、君が思ってるより、ずっと君が好きだよ」

 それを言うのは、とても怖かった。

 でも悠真は笑わなかった。

 ただ、僕を抱く腕に力を込めて、耳元で静かに言った。

「それ、僕がもらっていいやつ?」

 僕は返事ができなかった。

 代わりに、悠真の胸に顔を押しつけた。泣いて、熱に浮かされて、みっともない巣の中で、やっと息をした。

 巣はまだ、うまくできていない。

 僕の恋も、きっとまだうまくできていない。

 けれど悠真は、その中に入ってきた。

 足りない布の代わりに、自分の体温をくれた。

 だから今夜だけは、僕はひとりで耐えなくてよかった。




 悠真の「いるよ」という声は、あまりにもやわらかかった。

 そのやわらかさが、僕には少し苦しかった。

 もっと突き放してくれたらよかったのに、と思う。こんなことを考える自分が嫌になる。悠真は悪くない。悠真は今、僕が欲しかった言葉をくれている。怖くないように、壊れないように、僕が差し出せる速度に合わせて、腕の中で待ってくれている。

 なのに僕は、その優しさにまで傷ついている。

 受け取っていいものかわからないから。

 優しくされるたび、胸の奥に小さな借りが積もっていく気がする。こんな僕にここまでしてもらっていいのだろうか。悠真は本当に望んでここにいるのだろうか。番だから、αだから、僕がヒートだから、仕方なく優しくしているだけではないのか。

 そう考えるたび、喉が詰まった。

……アキラくん?」

 悠真が呼ぶ。

 僕は返事の代わりに、彼の服を握りしめた。

 声を出すと、またひとつ願いがこぼれてしまいそうだった。もっと近くにいてほしい。もっと強く抱いてほしい。苦しい。こわい。ひとりにしないで。そういう言葉が、喉の奥で熱に煮詰められている。

 けれど、それを全部悠真に渡してしまったら。

 悠真はきっと、受け止めようとする。

 それが怖かった。

 受け止めてくれるかどうかではなく、受け止めさせてしまうことが怖かった。

 僕の弱さで、悠真の腕を塞いでいる。僕の熱で、悠真をこの小さな巣に縛っている。彼は本来なら、もっと自由で、軽くて、何にも囚われない人だったはずなのに。

 僕が番になってしまったから。

 僕が好きだなんて言ってしまったから。

 僕が、暇つぶしでもいいなんて頷いたから。

 今さら苦しいなんて言う資格が、どこにあるのだろう。

 身体の奥で熱が跳ねた。

 息が乱れそうになって、僕は唇を噛んだ。噛まないで、とさっき悠真に言われたばかりなのに、反射のほうが早かった。声が漏れるのが怖い。欲しがっていることが、またひとつばれてしまうのが怖い。

 けれど悠真はすぐに気づいた。

 指先が、僕の顎に触れる。

「噛まない」

 叱るというより、お願いみたいな声だった。

 僕はゆっくり力を抜いた。唇がじんと痛む。悠真の親指がそこをなぞって、痛くない程度にそっと離れる。

 その触れ方に、胸の奥が崩れそうになった。

 どうしてそんなに優しくするんだろう。

 僕はこんなに面倒なのに。言葉を飲み込んで、嘘をついて、平気なふりをして、結局耐えきれずに泣いている。ひどく不格好で、扱いづらくて、慎ましいふりをした欲張りなΩなのに。

「ごめん」

 また、謝っていた。

 悠真の眉がわずかに寄る。

「何に謝ってるの」

……わからない」

 本当に、わからなかった。

 苦しくてごめん。欲しがってごめん。信じきれなくてごめん。優しくされても怖がってごめん。君の服を勝手に集めてごめん。こんな小さな巣しか作れなくてごめん。

 たぶん、息をしているだけで謝りたかった。

「僕は、たぶん」

 声が掠れる。

「君に、好きでいてもらうやり方がわからない」

 悠真の呼吸が止まった。

 言ってから、しまったと思った。重い。重すぎる。こんなの、ヒート中に言うことじゃない。もっと甘えて、もっと素直に苦しがっていればいいのに、僕はどうしてこうやって、柔らかい場所に刃物を置くみたいなことをしてしまうのだろう。

 でも、もう止まらなかった。

「何をしたら、まだそばにいてもらえるのか、わからない。どこまでなら迷惑じゃないのか、わからない。ヒートで苦しいって言えば、君は優しくしてくれる。でもそれが、僕だからなのか、番だからなのか、わからない」

 涙が落ちる。

 悠真の服に染みを作る。

「わからないまま、君に縋るのが怖い」

 悠真は何も言わなかった。

 その沈黙が、また怖い。

 ああ、言いすぎた、と思う。悠真だって万能じゃない。僕の不安を全部消せるわけじゃない。こんなふうに泣かれても困るだけだ。困らせてよ、と言ってくれたけれど、本当に困らせていいわけじゃない。

 僕は慌てて顔を伏せた。

「ごめん。今の、忘れて」

「忘れない」

 悠真の声は静かだった。

「忘れないよ」

 腕の力が少しだけ強くなる。

 優しいのに、逃がしてくれない。

「アキラくん」

……うん」

「僕も、好きでいてもらうやり方なんか知らない」

 思わず顔を上げた。

 悠真は苦い顔で笑っていた。いつもの軽い笑い方ではない。どこか不器用で、少し痛そうな顔だった。

「たぶん僕、好きでいるやり方も下手」

「そんなこと」

「あるよ。だから最初に逃げた。暇つぶしって言った。軽くして、失敗しても傷が浅く済むようにした」

 あの日の言葉が、また胸に刺さる。

 けれど今度は、悠真の手がその棘に触れている。

 抜こうとしているのではなく、一緒にそこにあると認めてくれているみたいだった。

「僕がちゃんと言わなかったせいで、アキラくんがずっと自分のこと安く見積もってたなら、それは僕が悪い」

「違う」

「違わない」

「僕が勝手に」

「勝手に好きになっただけ、って言うんでしょ」

 言葉を奪われて、息が詰まった。

 悠真は目を逸らさなかった。

「それ、もう禁止にしていい?」

……なにを」

「勝手に、って言うの」

 悠真の指が、僕の手に触れる。

 僕が握りしめていた服の皺を、ゆっくりほどくように。

「僕もここにいるんだから、もう勝手じゃないでしょ」

 その言葉は、優しかった。

 優しいから、ひどかった。

 そんなふうに言われたら、僕はもう、自分ひとりの片恋に逃げ込めなくなる。暇つぶしだったから、僕が頷いたから、僕が勝手に欲しがっただけだから。そう言って傷を自分だけのものにしておけば、まだ耐えられたのに。

 悠真がそこに入ってくる。

 僕の痛みの中に、自分の場所を作ろうとしてくる。

 それが嬉しくて、怖くて、どうしようもなく苦しい。

……僕、上手に甘えられない」

「うん」

「かわいくもない」

「うん」

「ヒートなのに、黙ってばかりで、君が何をしたらいいか困らせる」

「うん」

「でも、本当はずっと、君に気づいてほしかった」

 声が震えた。

「黙ってるくせに、気づいてほしかった」

 これがいちばん醜いと思った。

 助けてと言わないのに、助けてほしい。来ないでと言うのに、来てほしい。平気だと言いながら、平気じゃないことを見抜いてほしい。

 そんなの、あまりにもわがままだ。

 悠真は少しだけ目を伏せた。

「気づくよ」

……気づかなくていい」

「気づきたい」

 僕の胸が、また痛くなる。

「アキラくんが黙ってるとき、何もないわけじゃないって、もう知ってる。平気って言うときほど平気じゃないのも、服を握る手に力が入るのも、息を止めるのも、全部見る」

「そんなの」

 みっともない、と言おうとした。

 でも悠真が先に、僕の額に唇を落とした。

「見たい」

 呼吸が止まる。

「綺麗なところだけじゃなくていい。ちゃんとしてるところだけじゃなくていい。慎ましくしてるアキラくんも好きだけど、苦しくて、怖くて、僕を困らせるアキラくんも、僕が見る」

 涙が、また勝手に溢れた。

 そんなことを言われたら、もう隠れる場所がない。

 小さな巣の中で、僕はずっと隠れているつもりだった。悠真の服にくるまって、弱さを見られないようにして、欲しがっている自分をなるべく小さく折りたたんでいた。

 でも悠真は、その折りたたまれた僕をほどこうとしている。

 無理やりではなく、逃げ道を塞ぐのでもなく。

 ただ、ここにいる、と言い続けながら。

「苦しい」

 僕はまた言った。

 さっきよりも、ずっと小さい声だった。

「うん」

「怖い」

「うん」

「信じたいのに、信じるのが怖い」

「うん」

「悠真が優しいほど、いつかなくなるのが怖くなる」

 悠真の腕が、わずかに震えた。

 僕はそれに気づいてしまって、胸が裂けそうになった。

 傷つけた。

 また、悠真を傷つけた。

「ごめ」

「謝らないで」

 言葉を遮られる。

 悠真の声は少しだけ掠れていた。

「それ、謝ることじゃない」

「でも」

「怖いって言われるのは、痛いよ」

 悠真は正直に言った。

 その正直さに、僕は息を呑む。

「でも、言われないほうがもっと嫌だ」

 悠真の手が、僕の後頭部をそっと抱く。

「知らないまま、アキラくんがひとりで怖がってるほうが嫌だ」

 その瞬間、胸の奥で何かが崩れた。

 悠真は、痛がってくれるのだと思った。

 僕の不安を、面倒だと切り捨てるのではなく、ちゃんと痛いものとして受け取ってくれる。僕が怖いと言えば、悠真も傷つく。それでも、知らないよりいいと言ってくれる。

 そんな信頼の形を、僕は知らなかった。

 誰かに痛みを渡して、それでもそばにいてもらう方法を知らなかった。

……悠真」

「うん」

「僕、たぶん、何度も同じこと聞く」

「うん」

「暇つぶしじゃないかって、何度も不安になる」

「うん」

「そのたびに、君を傷つけるかもしれない」

「うん」

「嫌にならない?」

 悠真は、少しだけ笑った。

 痛そうで、優しい笑い方だった。

「嫌になったら、こんな小さい巣に入ってない」

 涙でぐしゃぐしゃなのに、少しだけ笑ってしまった。

「小さいって言うな」

「事実じゃん」

「傷つく」

「ごめん」

「謝るなって言ったばかりだろ」

「これは別」

 くだらない会話だった。

 でも、そのくだらなさが息をさせてくれた。

 ヒートの熱はまだ消えない。むしろ悠真が近くにいるぶん、身体はずっと苦しい。皮膚の下を甘い火が這い回って、喉の奥に知らない声が溜まっている。けれど、さっきまでとは少し違った。

 苦しさの中に、悠真の腕がある。

 怖さの中に、悠真の声がある。

 僕はまだ全部を信じられない。きっとこの夜が明けても、すぐには変われない。悠真の言葉を疑って、優しさに怯えて、何度も同じところで立ち止まる。

 それでも今だけは、黙るのをやめたかった。

「悠真」

「なに」

「もう少し、いて」

 言ってから、違うと思った。

 もう少し、じゃ足りない。

 でも、それ以上を言うのは怖い。

 悠真は僕の迷いごと抱きしめるみたいに、背中を撫でた。

「いるよ」

「朝まで?」

「朝まで」

「明日も?」

 声が震えた。

 悠真は少しだけ黙った。

 その沈黙に、心臓が冷たくなる。聞かなければよかった。欲張りすぎた。朝までで止めておけばよかった。

 でも悠真は、僕の髪に頬を寄せて、ゆっくり息を吐いた。

「明日も」

 涙が落ちる。

「次のヒートも?」

「次も」

「その次も?」

「その次も」

……飽きても?」

 言った瞬間、自分で傷ついた。

 悠真の腕が強くなる。

「飽きない」

「わからないだろ」

「わからないことでも、今決める」

 悠真の声が低くなる。

「僕は、飽きないって決める」

 そんなの、約束としては不完全だ。

 未来のことなんて誰にもわからない。人の気持ちは変わる。どんなに強い結びつきだって、永遠の証明にはならない。

 でも、その不完全な約束を、悠真が今ここで差し出してくれた。

 それだけで、僕はまた苦しくなる。

……信じたい」

「うん」

「まだ、全部は無理」

「うん」

「でも、信じたい」

「じゃあ、それでいい」

 悠真が僕の手を取る。

 服を握りしめていた指を、一本ずつほどいて、自分の指を絡めた。

 布じゃなくて、手。

 匂いの残骸じゃなくて、今ここにいる悠真。

 その温度に触れた瞬間、僕は声を殺しきれなかった。

 小さく、情けない音が喉から漏れる。

 恥ずかしくて顔を伏せようとしたら、悠真が手を離さないまま言った。

「いいよ」

 たったそれだけで、また泣きそうになる。

 僕は、許可がほしかったのかもしれない。

 苦しがっていい。

 怖がっていい。

 欲しがっていい。

 声を出していい。

 うまく巣を作れなくても、慎ましいΩでいられなくても、悠真を困らせても、それでもここにいていい。

 そんな許可を、ずっと。

……苦しい」

 僕は何度目かわからない言葉をこぼした。

 悠真は何度目でも同じように答えた。

「うん。ここにいる」

 それがあまりに優しくて、あまりに足りなくて、あまりに欲しかったものだったから。

 僕は悠真の手を握り返して、小さな巣の中で、声を震わせながら泣いた。