幸せビレッジ
2026-05-20 18:09:31
10545文字
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シンパパ廻屋と新人保育士のあざみさん


「せんせ、おはよぉ!」
 朝のきらきらした光が差し込む保育園の玄関。元気いっぱいの声と一緒に、トコトコと走ってきたのは、私の大好きな女の子、たぬみーちゃんです。
 頭の上には小さな茶色いたぬき耳、お尻からは細いたぬきしっぽ。それが嬉しそうに、ぴこぴこと左右に揺れています。この世界では誰も気にしないけれど、私から見れば最高に可愛いチャームポイント。
 そんなたぬみーちゃんと繋がれていた手が、ふっと離れました。
 手を引いていたその人、たぬみーちゃんのお父さんである廻屋渉(めぐりやあゆむ)さんは、私を見て、少しだけ目元を緩めました。
「おはようございます、あざみ先生。今日もよろしくお願いします」
「あ、は、はいっ! おはようございます、廻屋さん!」
 私はトクンと跳ねた心臓を隠すように、精一杯の笑顔で頭を下げました。
 ……うう、今日も相変わらず、とてつもなくかっこいい。
 年齢は二十代の後半くらいでしょうか。黒髪を左右に分けていて、切れ長の瞳は感情が読めません。どこかミステリアスな雰囲気を纏っていて、大人の色気というか、落ち着きがすごいんです。それでいて、慣れない手つきでたぬみーちゃんの靴を揃えてあげたりするギャップが、もうたまらなくて。
「では、たぬみー。いい子にしていてください」
「うん! パパ、ばいばい!」
 たぬみーちゃんがちっちゃい手をぶんぶんと振ると、廻屋さんはもう一度私に軽く会釈をして、スマートに去っていきました。後ろ姿まで完璧です。
 なんて素敵なお父さんなんだろう。優しくて、かっこよくて、毎日の送り迎えもあんなに丁寧で。
 きっと、お家にいる奥さんもすごく素敵な人なんだろうなぁ。……うん、ちょっとだけ、本当にちょっとだけ、羨ましくなっちゃう。
「あざみしぇんせー、あーそぼ!」
「ふふ、おはよ、たぬみーちゃん。今日もたくさん遊ぼうね!」
 私は胸の奥の小さなチクンとした痛みをかき消すように、たぬみーちゃんの小さな手をぎゅっと握りしめました。

 最初の頃のたぬみーちゃんは、毎朝パパと離れるのが嫌で、大泣きして暴れる子でした。新人の私はオロオロするばかりだったけれど、とにかく「大好きだよ」の気持ちを込めて優しく抱きしめ続けたら、今ではすっかり私に懐いてくれたんです。
 そんな微笑ましい朝が終わり、園内はお昼寝タイム。
 カーテンを閉め切って薄暗くなったお部屋で、子供たちの規則正しい寝息が聞こえています。
「ふぅ……
 トントンと園児のお腹を優しく叩きながら、私はようやく一息つきました。
 すると、隣のクラスのベテラン保育士である先輩先生が、資料を片手に足音を忍ばせて近づいてきました。
「あざみ先生、お疲れ様。たぬみーちゃん、今日も元気に寝てるわね」
「あ、先輩、お疲れ様です。はい、今日も朝から元気いっぱいで」
「それにしても、廻屋さんって本当に立派よねぇ」
 先輩先生が、しみじみとした口調で言いました。
 大好きな廻屋さんの名前が出て、私は思わず耳をすませます。
「そうですよね! いつも優しくて、本当にかっこよくて、素敵なお父さんです」
「そうそう。あんなに若いのに、男手一つで一生懸命育ててて偉いわよ。やっぱりシングルファーザーって、色々大変でしょうに。不慣れながらも頑張ってる姿、応援したくなっちゃうわよね」
……え?」
 先輩の言葉が、頭の中で綺麗に滑り落ちていきました。
 しんぐる……ふぁーざー?
 男手、一つ……
「あの、先輩? 廻屋さんの……奥さんは……?」
「え? 知らなかったの? 廻屋さん、シングルよ。お母さんはいないわよ」
――えええっ!?」
「ちょ、ちょっとあざみ先生、声が大きい! 子供たちが起きちゃう!」
「あ、ご、ごめんなさい……っ!」
 口元を慌てて両手で押さえたものの、私の頭の中はパニック状態でした。
 奥さんが、いない……
 つまり、廻屋さんはシングルファーザー!?
 知らなかった。あんなにかっこいい廻屋さんが、まさか一人でたぬみーちゃんを育てていただなんて。
(というか、私……廻屋さんのこと、好きになってもいいのかな……!?)
 いやいや、不謹慎なことを考えている場合じゃない。一人で子育てをするのがどれだけ大変か、保育士の私にはよく分かります。確かに思い返せば、たぬみーちゃんの服のボタンがたまにズレていたり、髪の毛がちょっとハネていたりしたことがありました。あれは、廻屋さんが一生懸命、不器用ながらも頑張っていた証拠だったんだ……
 胸の奥が、ぎゅーっと熱くなりました。
 切なくて、愛おしくて、なんだかもう、廻屋さんのことが朝よりもずっとずっと好きになってしまっています。
 そんな私の大混乱を知ってか知らずか、お昼寝から目覚め、お友達と遊び、おやつも食べてご機嫌だったたぬみーちゃんが、私のエプロンの裾をトントンと引っ張ってきました。
「あざみしぇんせー」
「なぁに、たぬみーちゃん。そろそろお迎えの時間だね」
 しゃがみ込んで目線を合わせると、たぬみーちゃんは頭のたぬき耳をきゅっと寝かせながら、恥ずかしそうに、でも真剣な目で私を見つめてきました。
「あのね、たぬみー、おねがいがあるの」
「お願い? なにかな、先生にできることなら何でも言ってね」
 すると、たぬみーちゃんは小さな手を私の両手に重ねて、ぽつりと言ったのです。
「あざみしぇんせー、たぬみーのお家にいてくれたらいいのになぁ。パパと、たぬみーと、あざみしぇんせーと、みんなでいっしょに、おウチにいたいの」
「えっ……
 ピュアすぎるその言葉に、私の心臓は今日一番のスピードでバックバクに跳ね上がりました。
 それって、それってつまり……
……あざみ先生、どうかしましたか?」
「ひゃいっ!?」
 夕方のお迎えの時間。
 ガラス越しの夕日を背に受けて、いつの間にか教室の入り口に立っていたのは――お仕事帰りの、少し首元を緩めたシャツに身を包んだ廻屋さんの姿でした。
「パパーー!」
 たぬみーちゃんが嬉しそうに駆け寄っていきます。廻屋さんはそれを慣れない手つきで、でも優しくしっかりと抱き留めました。
「すみません、うちの子が何か困らせるようなことを言いましたか?」
「い、いえっ! 全然そんなことないですっ!」
 私は顔が真っ赤になるのを止められません。
 シングルファーザーだと知ってしまった今、廻屋さんのちょっと疲れたような、でも優しい笑顔が、朝よりも何倍も魅力的に見えてしまうのです。
「あざみ先生、顔が赤いですよ? 体調でも悪いんですか?」
「大丈夫です! すこぶる元気です!」
 心配そうに覗き込んでくる廻屋さんの端正な顔が近くて、私は爆発しそうでした。
 たぬみーちゃんは、廻屋さんの腕の中で可愛い笑顔を浮かべて、私にお家に来て欲しい! と、目で訴えています。
(ど、どうしよう……! 廻屋さんのこと、もっと支えてあげたい。たぬみーちゃんの言う通り、お家に行けたら、なんて――!)
 新米保育士の私。
 大好きな廻屋さんと、可愛いたぬみーちゃんとの、怒涛の日々はここから始まりそうな予感がしました。
――――
 数日後の給食の時間。今日のメニューは、子供たちが大好きなカレーライスです。
 うちの保育園では、カレーの日はお家からお弁当箱に白米だけを詰めて持ってきてもらう決まりになっています。
「たぬみーちゃん、お給食の準備をしましょ……あ!」
「うわぁぁぁん!!」
 ガシャーン、と派手な音が響いた瞬間、たぬみーちゃんが泣き叫びました。
 お席に運ぼうとしたお弁当箱を落としてしまい、中身の白米が床にきれいに散らばってしまったのです。
「う、うぇぇん! パパが、パパがせっかく詰めてくれたのにぃ……!」
 頭のたぬき耳が、悲しそうにペタンと寝そべっています。
「大丈夫、大丈夫だよたぬみーちゃん! 先生に任せて!」
 私は他のお友達を別の先生にお願いすると、エプロンのまま保育園を飛び出しました。ダッシュで向かったのは、すぐ近くのコンビニです。
「すみません、パックごはん、温めてください!」と息を切らせてレジに駆け込み、大急ぎでホカホカの白米をゲット。園に戻ってピカピカのお皿に盛り付けました。
「はい、たぬみーちゃん! 笑顔のごはん!」
……あ、あったかい。あざみしぇんせ、ありがとぉ……っ!」
 まだ涙目でぐずぐずしていたたぬみーちゃんでしたが、真っ白なごはんを見ると、すぐにパァッと顔を輝かせました。しっぽをちぎれんばかりに激しく振って、嬉しそうにカレーをパクリ。その笑顔を見て、私もホッと胸をなでおろしました。
 そして、その日の夕方。お迎えにやってきた廻屋さんは、私の報告を聞いて、綺麗な眉を八の字に下げました。
……そうだったのですか。たぬみー、怪我はありませんでしたか? 食べ物を持って走ってはいけないと、いつもお伝えしているでしょう」
「パパ、ごめんなしゃい……
「あざみ先生、私の準備が甘かったせいで、お手数をおかけしてしまい本当に申し訳ありません。そして、本当にありがとうございました。たぬみーを助けてくださって、痛く感謝いたします」
「いえいえ! 私は保育士ですから、これくらい当然です!」
 廻屋さんは、自分の娘であるたぬみーちゃんに対しても、すごく丁寧な敬語で話します。それが冷たいわけじゃなくて、一人の人間として大切に扱っているのが伝わってきて、やっぱりすごく素敵なんです。

 それからまた数日後のこと。
 お迎えに現れた廻屋さんは、いつもより少し緊張した面持ちで、私に綺麗な白い封筒を差し出してきました。
「あざみ先生、先日はありがとうございました。これはその時の白米の代金と……それから、本当にささやかですが、お礼の気持ちです。受け取っていただけますか?」
「あ、ありがとうございます!」
 代金を受け取るのは当然なので、私は素直に封筒を預かりました。
 でも、廻屋さんが帰ったあと、職員室でそっと中身を確認して、私は思わず「ひゃっ!?」と声を上げてしまいました。
 中には、白米代の数百円と一緒に、結構な額のギフトカードが入っていたのです。
(ええっ!? こ、こんな高価なもの、絶対に受け取れないよ……!)
 次の日のお迎えの時間。私は廻屋さんが教室にやってくるのをソワソワしながら待っていました。そして、たぬみーちゃんが荷物をまとめている隙を見計らって、昨日のお礼の封筒――ギフトカードだけを残したものを、そっと差し出しました。
「廻屋さん! すみません、こちらのギフトカードは受け取れません!」
「そうですか……私の気持ちですので。どうか受け取ってください」
 廻屋さんは困ったように目を瞬かせました。だけど、私は一歩も引きません。
「ダメです! 廻屋さんは……その、男手一つで一生懸命たぬみーちゃんを育ててらっしゃるじゃないですか。不慣れなことも多くて大変なのに、こんな風に気を使わないでください!」
「あざみ先生……
「このお金があるなら、たぬみーちゃんに美味しいものを食べさせてあげたり、可愛いお洋服を買ってあげたりしてください! たぬみーちゃんのために使ってあげてほしいんです!」
 フンス、と鼻息荒く一気にまくし立てると、廻屋さんは驚いたように少し目を伏せました。
 あ、やってしまった。新人のくせに、お父さんの家庭事情に首を突っ込むような真似をして、お節介だと思われたかな……
 不安になって私が縮こまっていると、廻屋さんの口元が、ふっと優しく緩みました。それは、いつも見せる大人の余裕の笑みではなく、どこか心を開いてくれたような、温かい笑顔でした。
……あざみ先生は、本当に優しい方ですね」
「えっ?」
「わかりました。先生がそこまでおっしゃるなら、これはたぬみーのために使わせていただきます。お気遣い、嬉しかったです。ありがとうございます」
 そう言って、廻屋さんはギフトカードを静かにポケットにしまいました。
 私の言葉を真っ直ぐに受け止めてくれたこと、そして、私の行動を好意的に受け止めてくれたのが分かって、胸の奥がじんわりと熱くなります。
「パパ、あざみしぇんせ、なにはなしてるのー?」
 お着替えが終わったたぬみーちゃんが、不思議そうに私たちの顔を見上げてきました。
「なんでもありませんよ、たぬみー。あざみ先生が、今日もあなたをたくさん守ってくださったというお話です」
「えへへ、あざみしぇんせ、だいすき!」
 たぬみーちゃんが私の足にぎゅっと抱きついてきます。その頭を、廻屋さんが愛おしそうに撫でていました。
 不器用だけど一生懸命なパパと、甘えん坊で可愛いたぬき耳の女の子。
 この愛しい親子を、私も全力で支えていきたい――そんな想いが、私の心の中でますます大きくなっていくのでした。

――――

 保育園のあざみ先生は、私のことを妻に先立たれたか、あるいは離婚したシングルファーザーだと思っているようですが……実は、そのどちらでもありません。私はバツイチでもなければ、そもそも結婚したことすらありません。
 たぬみーは、北海道の秘境で偶然拾った、人間の言葉を話す子たぬぽっくる。それが、我が家の真実です。
 そんな私とたぬみーの夜ご飯は、お世辞にも丁寧な暮らしとは言えません。
「たぬみー、お夕飯ができましたよ。お席に着いてください」
「わーい! ごはん!」
 テーブルに並ぶのは、電子レンジで温めたレトルトカレーに、冷凍食品のハンバーグ。お味噌汁はお湯を注ぐだけの乾燥具材のもので、たぬみーが大好きなデザートも、スーパーのカットフルーツです。今日はメロンを用意していました。
 かつてはトーストを焼くことすら料理と呼んでいた私からすれば、これでも精一杯、親らしく頑張っているつもりなのですが。
「パパ、おいしいね!」
「それは良かったです」
 たぬみーは小さなスプーンを上手に使って、もぐもぐと口を動かします。その無邪気な様子を眺めながら、私は密かに胸を撫で下ろしていました。
 本来、私の人生に子育てなんて予定はカケラもありませんでした。
 私の本職は、都市伝説の解体、及び調査。オカルトや奇妙な噂の真相を突き止め、それをインターネットで発信したり、探偵のように解決したりするのが仕事兼趣味です。そのため、基本的には昼夜逆転、食生活も不健康そのものでした。
 それが、たぬみーを拾ってからは一変。
 不吉な噂のある場所への取材旅行や、泊まりがけの調査は一切入れられなくなりました。何より、たぬみーは怖いものが大の苦手。私の仕事部屋には、呪物や怪しげな資料がたくさん転がっているため、彼女は絶対にその部屋に近づこうとはしません。必然的に、私も仕事のやり方を変えざるを得なかったのです。
「パパ、あのね」
 カットフルーツのメロンを幸せそうに頬張りながら、たぬみーがふと、ちっちゃなたぬき耳をぴこぴこ動かして言いました。
「たぬみー、おおかあさんほしいなぁ」
「お母さん、ですか?」
「うん! あざみしぇんせがいい! あざみしぇんせがお家にいてくれたら、まいにちたのしいよ!」
 不意に飛び出した名前に、私はスプーンを動かす手を止めました。
「たぬみー。あざみ先生にそんな我儘を言ってはご迷惑ですよ。先生には先生のお仕事や生活があるのですから」
「ぶー。でも、あざみしぇんせ、たぬみーのこと、しゅきって言ってくれたもん」
「それは保育士としてですよ」
 口ではそうやって窘めたものの。
 ……確かに、この静かで少し殺風景な我が家に、あの向日葵のように明るいあざみ先生がいてくれたら。そんな光景を想像してしまい、私は静かに思考を打ち消しました。何を馬鹿なことを考えているのか、自分は。

 正直なところ、もしあの保育園にたぬみーを預けられていなければ、私の生活は完全に崩壊していたでしょう。
 たぬみーを拾ったばかりの頃、私は彼女をどう扱っていいか分からず、とりあえず近所の公園に連れて行ったりしていました。しかし、仕事は溜まる一方。限界を迎えて保育園への入園が決まった時は、文字通り心の底から安堵したものです。
 ですが、本当の地獄はそこからでした。
 たぬみーは一度、元の村で仲間とはぐれてしまった過去があります。そのため、保育園の玄関で私の姿が見えなくなると「また置いていかれる、捨てられる」と本能的に恐怖し、狂ったように泣き叫んで暴れ回ったのです。
 慣れない子育ての疲労と、周囲の視線。引き剥がすように預ける罪悪感に、私も折れそうになっていました。
 そんな私とたぬみーを救ってくれたのが、新人のあざみ先生でした。
『大丈夫ですよ、廻屋さん! たぬみーちゃんは、私が絶対に責任を持ってお預かりします! だから、安心してお仕事に行ってきてください!』
 頼りない新米先生のはずなのに、あの時、真っ直ぐに私を見据えた彼女の瞳は、不思議なほど力強かった。あざみ先生は、泣き叫ぶたぬみーを何度も何度も優しく抱きしめ、「大好きだよ」「パパは必ず迎えにくるよ」と声をかけ続けてくれたのです。
 彼女のその底抜けた優しさと温もりがあったからこそ、たぬみーは今、こうして安心して笑っていられる。
「あざみしぇんせ、おむかえにいくと、いっつも。またあしたねってぎゅーしてくれるんだぁ」
 嬉しそうに語るたぬみーを思い返します。
 今となっては、夕方にお迎えに行くと、あざみ先生と離れたくないあまりに、彼女の足にしがみついて離れない始末です。先生はいつも「嬉しいけど歩けないよ~!」なんて顔を真っ赤にして困っていますが。
……そうですね。あざみ先生には、本当に感謝しかありません」
 私は、ポケットの中にある、昨日返されてしまったギフトカードに触れました。
 シングルファーザーだからと私を気遣い、自分のことよりもたぬみーの幸せを願ってくれた、お節介で、酷くお人好しな可愛い先生。
 私とたぬみーの歪なふたり暮らしに、あざみ先生という光がじんわりと染み込んでいくのを、私は静かに感じていました。
――――
 保育園がお休みの日曜日。
 私は家から少し離れた大きめのスーパーで、一人暮らし用の食材を選んでいました。新米保育士のお給料は決して多くありません。だから、休日の夕方は狙い目なんです。
「ええと、このひき肉は……よし、30%引き! 玉ねぎもバラ売りで安いやつにして……
 真剣な目付きでカゴに食材を放り込んでいた、その時でした。
 ぐいぐい、と私のロングスカートの裾を引っ張る小さな手があります。
「ん……? わ、きゃっ!?」
「あざみしぇんせぇ! やっぱりあざみしぇんせだぁ!」
 足元を見詰めると、そこには見覚えのある茶色いたぬき耳。たぬみーちゃんが、おめめをキラキラ輝かせて私を見上げていました。そのまま「だっこぉ!」と言わんばかりに、小さな両手をいっぱいに広げています。
「たぬみーちゃん!? どうしてここに――
「たぬみー! 勝手に店内を走ってはダメだと……っ、あざみ先生!?」
 奥の通路から、いつもはクールな廻屋さんが、見たこともないくらい狼狽した様子で走ってきました。私と目が合った瞬間、彼はピキッと固まり、すぐに表情を落ち着けると頭を下げました。
「申し訳ありません、あざみ先生。私が目を離した隙に、あなたを見つけて突っ走ってしまって……たぬみー、先生から離れなさい、お休みの日までご迷惑をかけてはいけませんよ」
「ふえぇ、あざみしぇんせぇ……
 廻屋さんにひょいと抱き上げられ、私から離されてしまったたぬみーちゃんは不満そうに頬を膨らませています。
「い、いえ! 全然大丈夫です! 私もびっくりしちゃって!」
 私は慌てて手を振りましたが、その瞬間、自分が持っている買い物カゴに視線が落ちて、血の気が引きました。
 カゴの中には、30%引きのひき肉、半額シールの貼られた食パン、見切り品の玉ねぎ……。生活感丸出しというか、ぶっちゃけ貧乏な一人暮らしが丸分かりのラインナップです。
(うわあああ、恥ずかしい……! 大好きな廻屋さんの前で、割引シールだらけのカゴを見せちゃうなんて……っ!)
 私は必死にカゴを身体の後ろに隠そうと、不自然な動きをしてしまいました。
 そんな私の羞恥心なんて露知らず、たぬみーちゃんは廻屋さんの腕の中で、嬉しそうに小さな手を合わせました。
「あのね、あのね! パパがね、今日はお菓子ひとつ買っていいよって言ったの! あざみしぇんせ、いっしょにえらぼう?」
「こら、たぬみー。先生は今お買い物中でしょう。我儘を言って困らせてはいけません」
 廻屋さんがすぐに、いつもの丁寧な敬語で窘めます。
「はーい……」としょんぼりするたぬみーちゃんを見て、私は「いいんですよ?」と言おうと一歩踏み出しました。その時、ふと、廻屋さんが押している大きなカートの中身が目に入ってしまったのです。
(あ……
 それは、失礼だと自覚しつつも、保育士としての職業病でしょうか。つい目がいってしまったそのカートには――
 冷凍のチャーハンに、レトルトのパスタソース。スープの素に、カップ麺。カットされた野菜が少しあるだけで、お肉やお魚といった料理をするための食材が、何一つとして入っていなかったのです。
 本当に、男手一つで、一生懸命レトルトや冷凍食品でやりくりしているんだ……
 胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるように痛みました。
『私が毎日、ふたりのお家にご飯を作りに行ってあげたい!』なんて言葉が喉まで出かかりましたが、そんなのただの不審者です。保育士の分際で言えるわけがありません。
 私はなんとか気持ちを落ち着かせて、少しだけ世間話をすることにしました。
「あ、あの、廻屋さん。いつもお仕事お疲れ様です。お休みの日のスーパーって、混んでいて大変ですよね」
「ええ、そうですね。普段はあまりこういう時間に来ないのですが、たぬみーがどうしてもお菓子を見たいと言うので。先生もお休みの日に、自炊をされるなんて素晴らしいですね」
「いえ、私はただ……自分の分だけですから、適当ですよ」
 そう言って笑い合っていると、床に降ろされていたたぬみーちゃんが、私の後ろに隠してあったカゴを上からピョンと覗き込みました。
「あ! あざみしぇんせのカゴ、おにくと、たまねぎある! これ、えほんで見た! ハンバーグのざいりょうだ!」
「えっ? あ、うん、そうだよ。ハンバーグを作ろうと思って……
 割引シールを見られた恥ずかしさで固まる私に、たぬみーちゃんは目をこれ以上ないくらいに輝かせて、身を乗り出しました。
「ハンバーグ! たぬみー、ハンバーグたべたい! あざみしぇんせのつくったハンバーグ、たべたいなぁ!」
「たぬみー……滅相もないことを言わないでください」
 廻屋さんが眉を顰めて、たぬみーちゃんを引き戻そうとします。
 でも、そんな親子のやり取りと、たぬみーちゃんのあまりの可愛さに、私は思わず口を滑らせてしまいました。
「ふふ、いいよぉ。今度、たぬみーちゃんに美味しいハンバーグ、作ってあげるね!」
「わーい! やったぁぁぁ!」
 たぬみーちゃんは大喜びでパタパタとしっぽを振ります。
「あざみ先生、本当にすみません……。この子が真に受けてしまうので、そんなお世辞を言ってくださらなくて大丈夫ですよ」
 廻屋さんは、完全に『優しい先生が子供に話を合わせてくれた冗談』だと思い込んで、申し訳なさそうに苦笑いしていました。
「それでは、私たちはこれで。お邪魔してしまってすみませんでした。ほら、たぬみー、先生にバイバイは?」
「あざみしぇんせ、ばいばい! ハンバーグ、たのしみにしてるねぇ!」
「うん、バイバイ!」
 遠ざかっていく親子の後ろ姿を見送りながら、私は自分の赤い顔を両手で覆いました。
(作ってあげるなんて、言っちゃった……。でも、冗談だと思われてるよね。ああ、本当に作りに行ってあげられたらいいのに……!)

 その夜、廻屋家のリビングでは、小さな大騒ぎが起きていました。
「はんばーぐ、はんばーぐ、あざみしぇんせの、はんばーぐぅ~♪」
 お風呂上がり、パジャマ姿のたぬみーが、ソファーの上をピョンピョンと跳ねながら、自作の謎の歌をノリノリで熱唱しています。頭のたぬき耳も、お尻のしっぽも、歌のリズムに合わせて激しくスイングしていました。
「たぬみー。もう夜遅いですから、静かにしてください」
 パソコンで都市伝説の資料を整理していた廻屋は、画面から目を離して溜息をつきました。
「だってパパ! あざみしぇんせ、ハンバーグつくってくれるって! たぬみー、まいにちお歌うたうの!」
「あれはあざみ先生の優しさ……大人の社交辞令というやつです。本当に作ってくれるわけではありませんよ」
「えー! 先生、うそつかないもん!」
 ぷう、と頬を膨らませてベッドに潜り込んだたぬみーを見つめながら、廻屋はそっと額を押さえました。
 あざみ先生のあの性格です。きっとその場の空気を和ませるために、話を合わせてくれただけなのは間違いありません。園の先生にプライベートで料理を作ってもらうなんて、そんな大迷惑なこと、あってはならない。
……早く飽きるか、寝て忘れてくれればいいのですが」
 廻屋はぽつりと呟き、静かになった部屋で、再びパソコンのキーボードを叩き始めました。
 しかし、画面に映る不気味な都市伝説の文字を見つめながらも、彼の頭の片隅には、あのスーパーで見せたあざみ先生の、少し困ったような、でも底抜けに温かい笑顔がずっと焼き付いて離れないのでした。