つきりま
2026-05-20 17:27:40
13283文字
Public サングラ
 

乞い煩い

ど空時空(本編時空はおおむね無視しています)のサンダルフォンとグラン君の話です。
ぼんやりとした恋わずらいの話。いつかもしかしたらそういう関係になるかもしれない二人。

こちらの話は6月21日のCC福岡にて再録して本にします。
書き下ろしが同じ文量ある予定ですので紙でほしい方はそちらもよろしくお願いします。

何かあればメッセージかこちらにいただけたら嬉しいです!
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 それはたとえばマグの底の茶色い輪っかみたいな。そういうちょっとこびりついてしまっただけの、洗ったらきれいに落とされてしまうような感情の澱、でしかないのかもしれない。そういうものを、大事にしたところで、きっと、ほんとうは、なんにもならないのだろう。けれどなぜか、どうしてだか、その茶色い輪っかがまるでいとおしまれるものであるかのように錯覚してしまった。そうしたら、どうしても、大切にしたくなってしまった。人ってたぶん、そういうものなのだ。そういうものだから、しようがなかった。しようがないから、抱きしめていた。茶色い、輪っか。あえて表するのなら、たぶん恋慕のようなもの。好きとか、愛しているには届かないのに、いとおしいには指先が触れるくらいの、繊細な感情は、自覚したときから大きくも小さくもならないままに、今日もただただ滞留している。だからやっぱり、これは澱なのだ。美しくもなく、輝いてもいない。なんとなくかなしいばかりの恋情は、いや、果たして恋と呼ぶにすら値しないかもしれない。だが、ほかに適切な名前もない。だからしかたなし、恋と称して、それから、大事にする。抱え込んで発露をしない。そう、これは、表に出す必要のないものなのだ。自分の中でだけ完結して、慈しまれて、そうしていつかきっと忘れられる。そういうもので、あるはずなのだ。なのだが、やはり欲が出てしまうのが人なのだろうか。難儀なものだと思う。茶色い輪っかでしかなかったはずの感情が、波打つ瞬間が、不意に訪れた。
 それは些細なことだった。本当に小さな、小さなきっかけに過ぎなかった。視線がかち合っただとか、指先が触れただとか、名前を呼ばれただとか、そういう本当にくだらないことが、乾いていたはずの底に涙滴を落とした。それは無自覚に自意識を侵食していき、ついにこのとき、おかしなことが起きてしまった。
「どうかしたか?」
 つかんでいた。服の裾をしっかりと。引き止める理由もなく、意識をしていたわけでもない。完全なる無意識のうちにぎゅっと握りしめたそれはぬくくも、つめたくもなかった。
「ご、ごめん、なんでもない」
 手を離す名残惜しさにまたたきだけ目を丸くしながら、そうっと力を抜く。つかまれた相手は見るも明らかに怪訝な顔をしてじっとこちらを見据えていた。あいまいに頬を弛緩させ、ごまかしの言葉を探すが何も見つけられない。困ったことだ。何より、一番困惑しているのは己なのだと、言えたらどれほど楽だろう。言ったところで言い訳にしかならないのだから、どうしたって逃げ道はなかった。
「ほんとに、ほんとになんでもないから……
 うわごとのように繰り返す。もはやそれは懇願だった。逃がしてほしい、気にしないでほしい、お願いだからこれ以上の追求をしないでほしい。
「ならいいが」
 願いは無事聞き届けられた。ほっとするのと同時に、一抹の寂しさを覚えるのは、どういう了見だろうか。はらんだ矛盾は胸の内でとぐろを巻き居座ろうとする。振り払おうにも強固に存在感をアピールするので、どうにもできないまま一旦無視をする。――無視も、難しい。どうしたと、いうのだろう。わからない。わかろうとすることを拒んでいる? なんとなく、そんな気がした。だからやっぱり、無視をする他ない。無視をして、忘れてしまうのが一番いい。いい、はずなのだ。濁ったため息がテーブルに落ちる。食べかけのアイスクリームの溶けた滴に乗って流れていく。せっかくのバニラアイス、早く食べてしまわないともったいない。わかっているのに、スプーンは刺さったまま、一向に口元へは運ばれなかった。
 溶けていく。どんどんと、どろどろに、溶けて形をなくしていく。ああまるで、まるで、この心中のようだと、ぼんやり思って首を振った。だから、気にしてはいけない。不明な寂寥は、忘れてしまわなければいけない。だのにスプーンはやはり動きやしなかった。
……サンダルフォン」
 もういなくなったその人を、誰にも聞かれないように呼んでみる。その響きが舌に馴染んだのはつい最近のことだ。まさか彼を、こんなに親しく呼ぶ日が来るだなんて、出会ったときは思いもしなかったものである。いや、いまはそんなことどうでもいいのだ。どうでもよくて、どうでもいい、はずで、もう一度ため息。重苦しいそれは実はこの場には似つかわしくなく、果たして周囲に聞き耳を立てられていることなどついぞ気づかないまま、ようやく、突き刺したスプーンを動かした。唇に触れた冷たさのあとに、舌を滑る甘さと、鼻に抜けるバニラの香り。その一体感は十分に満足を呼ぶおいしさを感じさせたが、どうにも、うまく受け取ることができないまま嚥下される。
 ああ、そうか。ふと、思い至って今度は唇の端に苦さが乗せられた。ごまかすように含んだアイスはやたらに冷たく感じられて、余計に苦味が強くなる。
 そう、そう、そうなのだ。結局自分はこの寂寞の意味を理解しているのだ。わかりたくないと拒んでも、すでにしっかりと知っているのだ。その原因に、はっきりと心当たりがあるのだ。
「やだなあ、ほんとにやだなあ……
 駄々っ子の気持ちで素直に発する言葉は、妙に嘘くさく流れていく。残りのアイスを一気にかき込んで立ち上がり、食器を下げてまっすぐ自室へ向かう。寄り道、したかった。しなかった。しないことが、いまの気持ちの正解だった。数秒のためらいののちベッドになだれ込み、意味のない音をひとしきり吐いて、天井のしみと目を合わせる。
「もう少し一緒にいて、なんて、言えたら苦労しないよね」
 それは、先ほどかけらも想像に至らなかった本音だった。
「言ったらさ、きっと付き合ってくれるんだよ」
 それはおそらく事実だった。彼はきっと余計な詮索をすることなく、嫌ではないことは受け入れてくれる。彼にはそういうおだやかなやさしさがあった。そういうところが、有り体に言えば好きなのだ。好き、そう、好き。その好意に、少しの欲もなければこんなに悩まずに済んだのに。考えたところで詮ないことだった。あるものは、あるのだから。それが罪でもあるまいし。とはいえ、覆ってしまいたいはずだったのに、今日は本当にどうしたことだろう。
 気づいたら、つかんでいたのだ。彼の服の裾をしっかりと握りしめていたのだ。それは明確に彼を引き止める行為である。何か用がなければ、否、用があったとてあまりしない行為であった。相手の服をつかむだなんてそんなこと、あまりに子どもじみていて恥ずかしい。いまさら首の後ろが熱くなるのを感じながら、眉根を寄せる。しかしどうして、完全なる無意識の対処をどうするべきなのか。答えなど、そう易く出るはずもない。何せ、だって、意識して行った行為ではないのだ。気づいたら、その瞬間には、もう、手遅れだったのだ。そんなもの、どうしろというのだろう。およそ解決策にもならない物騒なことを考えかけて首を振る。手首を切り落とすなんて、冗談にしても面白くない。
「好きって言っちゃって玉砕したらいっそ楽なのかな」
 そんな度胸がどこにある。せっかく、ようやく居心地のいい関係性を築けたところだというのに、またやり直しにでもなったらたまったものではない。それどころか修復不可能にだってなりかねない。そんなことは、望んでいない。望むはずもない。可能なかぎりいまのまま、平穏を崩すことなく一緒に過ごしたいというのは、偽りのない本音だ。では、どうして、あんなこと、してはいけないはずだった。無意識にどう言い募ったところで仕方ないことを理解しながら、枕に顔をうずめてうめく。
「欲求不満なのかな」
 とんでもないことを、考えた。けれど実際、近からず遠からじといったところだろう。ああ困った。困ってしまう。何よりもまた同じことをしてしまったら、と、考えるだけでたまったものではない。
 だってきっと、今度はごまかされてくれない。何か用があるんだろうと訊ねられるだろうし、答えを得るまで食い下がられるだろうし、嘘をついたら見抜かれる。知っている。よく、知っている。だから、恐ろしい。対処法はなんだ、彼を避ける以外にできることなどあるのか。そんなことできっこないししたくもないから結局却下だ。ならばいっそ、再びやらかしたときのことを考えたほうがましなのではないか。下手な嘘は見抜かれる。だから上手な嘘を、検討しておく。
「でもなあ……
 咄嗟に、用意していたものを出すことができるかと自問する。返されたのは否だった。知っていた。ぐりぐりともう一度、枕に頭を押し付けてしばらく。
「そもそも僕、サンダルフォンとどうなりたいんだろう」
 好きだという感情の延長上には、関係性の変化がある、というのが一般的だろう。それはいわゆる〝恋人〟と名付けられていて、ではそれは、これまでとどう違うのか、いまいち想像ができない。手をつなぐだとか、くちづけを交わすだとか、それ以上のことだとか――知らないなりに知っていることは多々あれど、本質は、そこではなかった。
「恋人って、何……?」
 素直な、疑問の発露。団員たちに聞いてみれば、皆それぞれの答えをくれるだろう。だが、それらはきっとどれも正解で、どれも自分にとっては間違いで、そういうものなのだと思う。そう、この疑問の答えは、不格好でもいびつでも、自分で導き出さなければ意味がないのだ。なぜだろう、それだけはよくよく理解できていた。
 好き、なのは間違いようも、疑いようもなかった。いつからだとか、何がきっかけなのかとか、そういうものは何もない。ただ気づいたら、その感情はあたりまえに自分の内側に生じていて、心の隅っこを占拠していた。そのくらい自然なものだった。
「サンダルフォン」
 呼んでみる。しっくりとくる響きだ。名前を呼ぶだけでなんとなく胸の端に日だまりが生まれる。やさしくて、心地よく、繰り返しになるが、舌の上によく馴染む。ぼんやりと転がしていると、いっそ甘いような気がしてくる。不思議なほどに、いとおしいと思うだけの要素がたったそこには含まれている。なんとも、おかしな話だ。おかしくって、やっぱり困ってしまう。何せそれだけ彼を好いてしまっているという事実が浮き彫りになってしまうのだ。これが困らずにいられようか。
「好きって難しい」
 およそそれは、間違いなく、はじめての感情だった。だから余計、わからなかった。どうしていいのか、どうしたらいいのか、堂々巡りの繰り返し、繰り返し。それ以上前に進めない。後ろにも戻れない。にっちもさっちもいかないままにぶくぶくと感情ばかりが肥え太る。大きくなったそれに、振り回されるのは当然に、自分だけだった。
 やはり、伝えてしまうのがいいんじゃないか。そんなことを考えて、首を振る。仰向けに大の字で、もう一度天井のしみとご対面。段々と人の顔に見えてくるようで、そのままにしていたら似ても似つかない彼の顔が引かれた。やめてほしい。思い出したら、会いたくなった。部屋を訪ねたら、招き入れてくれるだろうか。追い返されたり、しないだろうか。
 いけない。用もないのだから、そんなこと、してはいけない。あくまで自分と彼の関係は、団長と団員のそれと同じであるべきだ。なればこそ、適切な距離感を間違えてしまうわけにはいかないのである。
 だってせっかく、せっかく彼がこの艇に馴染んでくれたのに。たとえいつか飛び立つまでの一時の止まり木だったとしても、心休まる場所と認めてくれたのに。それをほかでもない自分が台無しにしてしまっていいはずがなかった。
 また、意味のない音を唇から長く吐き出す。胸中を空っぽにするイメージで、どんどん吐いて、深く息を吸う。少しだけ、湿ったにおいがした。嫌いじゃない、においだ。
「コーヒー飲みたい」
 息をしっかり吐ききって、もれた願望はささやかながら贅沢だった。なんたってもう夜だ。こういう時間コーヒーを飲むと、睡眠の質を下げるのだとかなんだとか。言っていたのは彼だったか、他の誰かだったか。とにかく、あまり褒められた行為ではないらしい。詳しくは、知らないけれど。そもそもこの願いには〝サンダルフォンの〟という言葉が頭につくのだ。これが、贅沢でなくてなんとする。実際彼の淹れるコーヒーが格別なのは事実だけれど、本質はそこではない。
 自分のために、特別に用意されたものが、ほしいのだ。
「特別、か」
 そうだ。自分は、彼の特別になりたいのだ。では、特別とはなんだ。何よりも優先してもらえること? そんなものは望んでいない。彼には彼の、自分には自分の目的や願いや優先するべきことはたくさんある。それらすべてをかなぐり捨てて自分を、だなんて、考えただけでぞっとする。でも、そう、たとえば、ひどく凍える夜に、孤独をそっと慰めてほしいとは思うかもしれない。あるいは見事な朝焼けを、ともに迎えてほしいだとか、昼下がりの小さな秘密を、共有させてほしいだとか。そういうことは、こいねがってしまうかもしれない。それがどれほどささやかであっても、そういう特別にこそ価値を見いだして、抱きしめてほしいのだ。果たしてそれは、ささやか、だろうか。あまりにも、あまりにも、尊大なようにも感じられた。だって、そう、それは、それは、
「手を伸ばしても届かなかったものじゃないか」
 知っている。自分はそれが、どれほど遠くにあるのかをよく知っている。知らずにはいられない。思わず口元に引かれた苦笑を消し去るために頬の内側を強く噛んで、痛みにぼんやり昇華した。
「ごめんね、サンダルフォン」
 なんとなく謝りたくなって、そのまま音にした。居心地が悪い。両手で顔を覆い、ぐっとこめかみを押し込む。頭痛があとから追ってきた。ひどく不快で、吐き気までする。意識して呼吸を深めるようにしてしばらくをやり過ごし、どうにもならずに身を起こす。
 チカチカと瞳の奥で何かが閃いた。めまいがする。もう一度身を横たえて深呼吸。どうしたことだろう。この不快感の対処の仕方がまったくわからない。どうすることもできないままたえるしかできない。たえた先に、解放はあるのだろうか。考えたところでしようがなかった。けれどたえている時間にできることなど思考する以外にないのも事実だった。
 目を閉じる。目を開ける。やっぱり閃光が走って落ち着かずに目を閉じる。どっちにしろ逃げられないが、閉じているほうが楽だった。
「泣きたい」
 泣けない。
「叫びたい」
 叫べない。
「会いたい」
 会えない。
 願う、同時に否定される。誰に? 自身に。なんとつらいことだろう。やめてくれと懇願しても、聞き入れてなんてもらえない。助けてと、これは声にしなかった。
 寝返りも打てないまま呼吸に意識を向ける。少しでも、頭を空っぽにしたかった。吸って、吐いて、吸って、吐く。繰り返し、繰り返し。頭痛ががんがんと脈打っていた。閉じた視界がぐらぐらと揺れる錯覚。口の中がやたらに苦く、胃酸が上がってきている予感をもたらした。いっそそのまま胃の中をひっくり返したら、楽になれるのだろうか。そんなことはなさそうだった。
 だって、これ、ほんとうは、ぐあいがわるいわけではないのだから。
 このまま眠りが訪れたらと、淡い期待は打ち砕かれ、頭痛は増していく。気がおかしくなりそうだった。いや、すでにおかしかった。ずっとずっと、正常ではなかった。
 不意に、もたらされた解放は、およそ涙とも言えない一滴が流れた刹那だった。
 肩の力が抜ける。全身の力が抜けていく。握り込んでいたこぶしを開き、目も開ける。まぶしかった。しばらくすると目が慣れて、視界が開けてくる。ごとりと首だけ動かして見やったのは扉のほうだった。
「誰かいるの?」
 ノックはされていない。人の気配ならいくらでもある艇内で、それはもしかしたら通りすがりに足を止めただけの誰かかもしれない。だのに、気づいたら身を起こして扉の前まで歩いていた。はて。なんの返事もないことに違和感を覚えながらノブに手をかける。
 少しの、軋み音。なんとなく下方に視線を向けているとそこには踵の高い靴があった。まばたき、三回。今度は自分の首が軋み音を立てるみたいにぎこちなく上へと動かされる。
「ど、どうしたの?」
 動揺は動揺のままに声に乗った。目と目がしっかり合っている。吸い込まれそうな赤色。そこには、なんら感情は乗せられていないようで、何かを訴えてくるようでもあった。なぜ、いま、ここに、彼がいるのだろう。彼の部屋はここからあまり近くない。食堂へ行くのも、風呂場へ行くのも、談話室へ行くのも、ここを通らずに済んでしまう。つまり、何かのついでに通るような位置関係にはないのだ。なのに、どうして、彼はここで、この場所で何やら少々気まずそうな顔をして立っているのだろうか。まさかまさか、自分の願いが通じたわけでもあるまいし。
 ああ、ああ。心臓が、うるさい。鼓膜の奥からがつんがつんと殴られるようだ。彼の声を、聞き逃すわけにはいかないというのに、これでは何も聞こえない。それはいけない。それは嫌だ。なんとかなだめようと胸に手を当て、控えめな深呼吸。だめだ、どうにもならない。
「な、何か言ってよ」
 いつまでも開かれることのない唇に向けて、言葉を重ねてみる。はく、と無音のまま一度口元が動いて、また閉口される。何を、彼はためらっているのだろう。果たしてこれはためらいなのだろうか。わかりっこない。待つしかできない自分にとって、この時間はあまりにも永遠のようだった。
「とりあえず、入る?」
 わずかの落ち着きも取り戻せないまま、提案するとうなずかれた。そっと招き入れ、椅子をすすめる。自分はベッドに腰掛けて、また沈黙。いやに、重苦しい。不意に、何か深刻な相談があるのではないかと思い至って、さあと血の気が引く感覚があった。妙に浮かれた自分が恐ろしく恥ずかしい生き物であるかのような、居心地の悪さ。心臓が、先ほどとは違う理由で跳ねている。
「何かそんなに言いづらいこと……?」
 目を合わせられないまま、沈黙の中にぽつりと問いを落とす。衣擦れの音がした。
「気になったんだ」
 主語のない回答の意図を、はかりかねて顔を上げる。目はやはり合わなかった。
「気になったって」
「さっきの、あれだ」
「さっきのって――
 さっき、さっきとは、いつだ。理解している。食堂でのあれだ。あれしかあるまい。なんてことだ。やり過ごしていたつもりだったからなんの言い訳も考えられていない。どうしよう、どうしたらいい。なんと言えばいい。なんと返したら正解なのだ。正直に? そんなこと、できるわけがない。
「食堂での、あれだ」
 追い討ちをかけるように、彼の口から事実が確定される。
「理由もなく引き止めるようなことをするだろうかと」
 やめてくれ、やめてほしい。理由なんてないのだ。否、理由ならあるのだが、それを伝えられるほど素直にはできていないのである。目が泳ぐ。背中に汗が伝っている。小刻みに動く脚を右手で押さえつけて、唾を飲んだ。苦かった。非常に、苦くていけなかった。
 とはいえ彼の疑問はもっともなものだ。自分だって、同じことをされたら気になってしまう。気になって、あれこれ考えて、考え尽くして眠れなくて、相手を訪ねてしまうこともきっとある。理解も、納得も、すとんと胸の内に落ちた。収まりが悪いのは、自分の感情の行き場だけだった。できるならいっそ、逃げ出したかった。招き入れたのは自分であるというのに、一体どこに逃げるというのか。どこに逃げたところで、彼の疑問は膨れ上がるばかりだろう。
 ああ、観念すべきか。観念して、その後はどうなる。どうなってしまう。怖い、こわい、こわくてたまらない。やっとなのだ。やっと、いまの関係性に落ち着いたのだ。それなのに、それが壊れてしまうのが、恐ろしくて震えが走る。
 彼の目を見れないまま、時計の秒針の音が互いのあいだを抜けていた。背中がじゅくじゅくと不快だった。
「やはり何か用があったんじゃないのか?」
 ない。そんなもの、ない。反射で首を振りそうになる。ぎこちなく止めて、あいまいに笑う。頬がわずかに引きつっていた。目元がうまく、取り繕えない。
 刻々と、時間ばかりが過ぎていく。まるで深刻なことを隠しているみたいに、目は泳ぎ、手は震え、のどはからからに渇いていた。茶の一杯でも、あればよかったが、ここには当然、何もない。
「グラン」
 呼ばれる。以前までは、別の呼び方で引かれていた距離を埋めるように、そういえば最近はよく呼んでくれる。それはきっと、幸福なことだった。
……なん、でも、ないんだ」
 しどろもどろに、渇いたのどから音を発する。ほんとうだけれど真実でもない言葉を、とりあえず形にする。
「本当に、なんでもなくて」
 なんでもない。ただ一緒にいたかっただけ。言えたら、どれほど楽だろう。楽になりたい。楽になれない。首をもたげた恐怖に胸中はすっかり支配されている。
「なんでもないなら、どうして――
「どうしてって、言われても……
「何かあるだろう。してほしいことがあるとか、何か」
 ない。ないのだ。本当にただ純粋に、もう少しだけ同じ時間を共有させてほしかったのだ。そういう意味では、現在は願いが叶っていた。あんまり、幸せな心地ではないけれど。
 だって浮かれるには、あまりにも尋問じみている。
「そういうんじゃないんだ」
 また、同じ。ほんとうだけれど、真実を語らない。こういうあいまいな濁し方を、彼は好いただろうか。自分なら、やきもきしてしまうかもしれない。彼も、同じであるような気がした。
「じゃあ、なんなんだ」
 ちょっとだけ、言葉尻にいらだちのようなものを含ませて彼が問いを重ねた。ぎゅっと、唇を噛みしめる。うつむいた視線の先には、真っ白になったこぶしがあった。
……い、言いたくない」
 精一杯の正直は、あまりにも幼子の駄々だった。
「そんなに深刻な話なのか」
「そうじゃない」
「じゃあなぜ」
「気持ちの問題」
 どんどんと、幼い気持ちになっていく。本当はこんな態度を彼に取りたくなかったはずなのに。もういくらも取り繕えない。感情が感情のまま発露されるような感覚がある。いまはそう、なんというかきっと、
「拗ねているのか?」
 指摘しないでほしい。的確に当てないでほしい。
「拗ねてない」
 嘘をついた。当然見抜かれていた。
「その態度でそれは、さすがに嘘だとわかる」
「だってサンダルフォンがどうでもいいこと気にするから」
 今度は彼に責任をなすりつけた。もとはといえば、おかしなことをした自分がすべていけないことはわかっていた。わかっていても、止められなかった。
「どうでもよくないから、気にしているんだ」
 言われて、顔を上げる。かち合った視線は音を立てたように思われた。
「なんで、どうでもよくないの」
 どうでもいいじゃないか。きっと寝て起きたら忘れてしまえるくらいのことでは、あるはずじゃないか。気になったとて、所詮その程度のものであるはずじゃないか。
「言いたくない」
 先ほど自分が投げ渡したそれと、同じ言葉がそっくり返された。ぎゅっと、眉が寄る。
「なんで」
「気持ちの問題だ」
 また、同一。どうにもむかっ腹がすいてくるのは気持ちばかりが幼いからか。地団駄を踏みたいような心地で頬を軽く膨らませる。不満があるときは、この顔をするのが一番わかりやすいはずだった。
「そんな顔をされる筋合いはない」
 もっともだ。けれどいまの自分にはそんなこと、全部お構いなしだった。気分はそう、王様である。
「はあ……
 ため息をつかれた。心外だった。けれど、しようのないことだった。誰だって、ため息くらいつきたくなる。そういう状況にしているのは紛れもなく自分だった。ただ、ごめんと言うのも違う気がする。ではどうするか、貫くべきは沈黙なのか、それとも――。あれこれ考えているあいだに、秒針は淡々と時を刻む。
「そんなに言いたくないんだな?」
「サンダルフォンだって」
 お互い、妙に頑固だった。それゆえにどうしようもないままぐるぐると同じところを回っていた。やはりせめてお茶とお菓子でも用意があれば、状況も少しは違っただろう。たらればと語ったところで、ここにあるのは自分と彼と、それだけである。お茶も、お菓子も、何も、ない。
「気にしなきゃいいのに」
「気になるだろう。あんなこと」
「言い方! 別になんでもないんだってば」
「なんでもないわけないからごまかすんだろう」
 しつこいな。わかっているならそのままごまかされてくれていたっていいじゃないか。
「ごまかされててよ」
 言った。本音だった。彼は、ぎゅっと眉根を寄せてその綺麗な顔を歪ませる。それが、なんだかもったいなく思われて気づくと手が伸びていた。
「なんだ?」
 ぐっと身を乗り出して、その深々とした眉間のしわに人さし指を押し当てる。ぐりぐりぐり。しわを伸ばすというよりは押し込むように指を動かす。
 と、やめろとばかりに首を振られた。
「危ないよ」
「ならいきなり意味不明な行動を取るんじゃない」
「だって――
 だって、なんだかとても、気になったのだ。その深いしわが、色濃い感情の発露が、彼らしくて、彼らしくなくて。いとおしくて、こいしくて。触れたら、手の中に収められるのではないかと錯覚したのだ。
 もう一度、手を伸ばす。大仰によけられて自然と唇が歪んだ。反省。確かに、不用意に触れすぎた。非常に、よくない傾向だ。まるで何もかも許されているはずもないのに、無遠慮を働いていいはずがなかった。
「ごめんね」
 謝罪は短く、手を引っ込める。彼は、何やらまた眉を寄せていた。
「何でそんな顔するの」
「何故謝るのかと」
「なぜって……、触れていいって言われてなかったなって」
 当然のことだ。何も、不思議なことはない。他者に触れるには許可がいる。それは、いくら親しい間柄であったとしても常識であるはずだ。何より、彼と自分とは触れ合いを求められるほどの関係性ではない。だから余計、いけないことであるはずだった。
「なるほど」
 妙に納得しない様子で吐かれた四文字は、宙ぶらりんとして揺れているよう。どうかしたのだろうか。聞いてみたかったが、なんとなく聞けないまま、互いのあいだに何度目かの沈黙が訪れた。
 秒針の立てる音だけが、室内を支配する。そろそろ、風呂に入っておきたい頃合いだった。だのにお互い、この時間を終わらせるきっかけを失ってしまったような心地で無言を貫いていた。
 明日の予定は、どんなだったか。朝早くから依頼など入れられていなかっただろうか。何か言うなら、自分からであるべきなのだろうか。彼の言葉を待ちたい気がしたが、どうにも、この場を支配する沈黙の空気が破られる気配はない。であればやはり、こちらから壊していくしかないのだろう。はて、何を言えばいい? そろそろ風呂に入りたいと、素直に発露すべきか? 嫌だなと思った。では、どうする。
「あのさ、サンダルフォン」
 とりあえず、名前を呼んでみる。うつむき気味だった顔が上げられ、視線がぶつかった。
「さっきの話なんだけど――
 言いながら、わずかにだけ首をかしげる。なぜ、蒸し返したのか、と。およそ、何も考えていなかった。気づいたら口をついていた。おかしい。こんなはずではなかった。どうしよう、どうしたら、考えるには、もう遅い。
「もう少し君といたかったから引き止めたって言ったら、君はどうするの?」
 何を言っている。何を、言っている。どうして止まらないまま、謎をかけるように発せられた〝真実〟はあまりの軽さにそのまま浮き上がってしまうよう。対する自分の心中はずんぐり重たく沈んでいく。ああ、心臓が痛い。
 繰り返される沈黙。秒針の刻む一秒は一定のはずなのに異様に遅く感じられる。果たしていま、自分はうまく息が吸えているだろうか。頭痛が、閃いた気がした。自分で種を蒔いておきながら、あんまりなことである。
「なんて――
「それならそうと言ってくれればいくらでも付き合った」
 目を見開く。口がぽかんと開いてしまう。なんなら肩の力が抜けた。
…………理由がなくても?」
――? 十分な理由じゃないか」
「十分って……
 否、否。確かに彼が、そういう人物であるとは知ってはいたが、だからと言って、十分な理由と言われるまでの関係性が、自分たちのあいだに築かれていただろうか。自分の中ではまったく、そんなつもりはなかった。そんなつもりは、なかったのである。
 目が回る。揺れる視界の中で、彼の姿だけ鮮明だった。ああ、もしかして、もしかすると、これまで自分は彼との現在をずいぶんと低く見積もってしまっていたのではないか。思い至ると、首の後ろあたりが熱くなる。
「なんだ、そんなことだったのか」
 不意に、小さく呟かれた言葉を明確に拾ってしまう。そこに含まれる意図は、一体どういうものなのだろう。まじまじと見つめた表情からはちっとも読み取れなかった。
「決めつけないでよ」
「事実だろう?」
「わかんないよ、たとえ話だもん」
 最後の抵抗。最後の意地。なんの意味もないとわかっていてもとりあえず形だけは繕いたかった。
「構わない。都合よく受け取っておく」
「な、何それ」
「そのままの意味だ」
「わかんないよ」
 わからないでいい。暗にそう告げられる。立ち上がった彼はそのまますたすたと扉のほうへと足を向けた。
 行ってしまう、のか。途端に込み上げる身勝手な寂しさはシーツにしわを作ってみせた。行かないでほしい。もう少しここにいてほしい。けれど、望んでその先、どうするというのだろう。ここは素直に見送る以外に選択肢はないはずだ。
「引き止めないのか?」
 なのに、どうして、どうしてそんなことを言ってくれるのか。意地の悪い問いだと思った。何やらつい先刻までとは別人のような余裕が憎らしい。どういうことだ。こちらは、こんなに、余裕も何も、残されていないというのに。だてに二千年の時間を積み上げていないということか? 普段は、年の近い友人たちと変わらない気がしていたのに、どうしてこういうときだけ、微妙な距離を感じてしまう。生き物としての根幹の違い、なんて大それたものではないけれど、置いていかれているような感覚に陥る。
「引き止めないよ。お風呂入りたいし」
「そうか。それは残念だ」
 何が、残念なのか。聞いてみたかった。聞かなかった。聞けなかった。
「何、引き止めたら朝まで一緒にいてくれるの?」
 かわりの精一杯は、いっそ豪胆だった。
「朝までか。何をする?」
「何もしないよ。一緒に寝るだけ」
「それは……悪くないかもしれないな」
 勝てる気がしない。何を言っても余裕綽々と躱される。苛立たしいような、楽しいような、複雑な心地のまま立ち上がると、彼の背を追った。その距離、ほんの一歩半。
「なんだか君のことがわからなくなってきた」
 正直に、発する。眼前の彼はきょとんとして首をかしげてみせながら、こちらに手を伸ばしてくる。頬に、指先がかすめて、その手はそのまま軽く髪を撫ぜた。
「案外、単純なものだと思うが」
「わからないものはわからないよ」
「それを言うなら俺にも君がわからない」
「なあにそれ」
 嫌味だろうか。違った。明らかに本心だった。
「じゃあ――
 だから、提案することにした。
「今度、わかるようになるまで話をしようか」
 それが、どれほど途方もなく、また、困難なことであるかは、理解していた。
「それも、悪くない」
 彼が来たときと同じように、扉は軋み音を立てながら開かれて、やがて彼だけを外へと誘った。
「またね、サンダルフォン」
「ああ、また」
 扉が閉まる直前にするやさしい約束は、果たして、どんな意味を持ったのだろう。
「なーんだ……
 知らなかった。彼と自分の関係が、実はこんなに強固なものだったなんて、知るはずもなかった。これなら、そう易々と壊れることはなさそうである。変わってしまうことは、あるかもしれないが。それでも、繋がりがぷつりと切れてしまうことはない、と。いまならちゃんと、そう、思える。
 だからいつか、いつか、本当に勇気が実ったとき、彼に伝えてもいいのかもしれなかった。
「君が好きだよって、ね」