Hnyanko
2026-05-20 10:03:38
3695文字
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憐憫などと言うものか

悠アキ
一人称視点の練習

 悠真が眠っているところを、僕はたぶん、一度も見たことがない。

 目を閉じているところなら、何度もある。ランダムプレイのソファに沈み込んで、片腕で目元を覆っているとき。任務帰りの車内で、窓ガラスに額を預けたまま黙っているとき。店先のベンチで、六分街の夜風に髪を揺らされながら、まるで世界の端を見ているみたいに遠い顔をしているとき。

 けれど、それは眠りではなかった。

 悠真はいつも、起きている。笑っていても、ふざけていても、面倒くさそうに肩をすくめていても、どこか一か所だけは決して緩めない。たぶん、世界が壊れる音を聞き逃さないように。あるいは、自分の身体のどこかが壊れていく音を、誰より先に知るために。

 だから僕は、彼に声をかける前、いつも少しだけ立ち止まる。

 その沈黙が、僕にできる唯一の礼儀みたいになっていた。

 雨上がりの六分街は、濡れた路面にネオンを滲ませている。ランダムプレイのシャッターは半分下りていて、店内にはもう客の気配もない。リンは奥で何か作業をしているらしく、時々キーボードを叩く音だけが薄く届いた。

 僕はカウンターの中で、マグカップを二つ並べる。

 片方には砂糖を少し多めに。もう片方には何も入れない。

 悠真が甘いほうを選ぶ日は、少し悪い。無糖を選ぶ日は、もっと悪い。

 最初に気づいたとき、僕は何も言わなかった。ただ、それからは砂糖の瓶を彼の目に入る場所へ置かなくなった。選ばせるふりをして、選択肢を減らす。優しさと言うには卑怯で、心配と言うには遠回しすぎる。けれど悠真には、そのくらいがちょうどいいのだと思っていた。

「アキラくんってさ」

 背後から声がした。

 振り返ると、悠真がソファに座っていた。いつ入ってきたのかわからない。雨に濡れた外套を脱ぐこともせず、長い脚を投げ出して、いつもの顔でこちらを見ている。

「たまに、何も聞かないよね」

「聞いてほしいの?」

「ううん。聞かれたくない」

「なら、聞かない」

 僕はそう答えて、甘いほうのマグカップを差し出した。

 悠真はしばらくそれを見ていた。湯気の向こうで、金色の目が細くなる。笑っているようにも、呆れているようにも見えた。けれど僕には、そこに小さな疲労が沈んでいるのがわかってしまう。

「今日、甘いやつ?」

「うん」

「僕、そんなに顔に出てる?」

「出てないよ」

「じゃあなんでわかるの」

「わかりたいと思って見てるから」

 言ってから、少し後悔した。

 悠真の指が、カップの取っ手に触れたまま止まったからだ。

 ほんの一瞬。見逃してもいいくらいの小さな沈黙だった。けれどその沈黙は、薄い紙に刃を入れるときの音に似ていた。戻せない、と感じるには充分だった。

 悠真は笑う。

……そういうとこ、ほんとずるいよね」

「ずるい?」

「うん。ずるい」

 カップを受け取る彼の手は冷たかった。雨のせいだけじゃない。指先の血色が悪い。僕はそれに気づいて、けれど触れない。触れたらきっと、悠真は笑って逃げる。大丈夫だよ、とか、平気平気、とか。自分を軽く扱う言葉ばかりを選んで、僕の手の届かない場所へ行こうとする。

 心配している、と言うのは簡単だ。

 休んで、と言うのも。

 大丈夫か、と聞くのも。

 でも悠真は、そういう言葉を受け取るのが下手だった。優しさを向けられるたび、自分の命の残量を量られているみたいな顔をする。僕が彼を見るのは、彼が壊れかけているからではないのに。弱いからでも、可哀想だからでもないのに。

 ただ、隣にいてほしいだけだ。

 明日も。明後日も。その先も。

 くだらない映画の話をして、リンに呆れられて、フェアリーの余計な一言にふたりで頭を抱えて。そういう、何でもない日を当然みたいに積み重ねたいだけだった。

 でも、その当然がいつまで続くのか、僕にはわからない。

 わからないから、時々、息が詰まる。

「アキラくん」

「なに」

「僕がいなくなったら、泣く?」

 雨の匂いが、急に濃くなった気がした。

 悠真はカップに口をつけないまま、湯気だけを眺めている。横顔がひどく綺麗だった。綺麗で、遠くて、腹が立つくらい儚かった。

 僕はすぐには答えなかった。

 泣く、と思った。

 たぶん泣く。みっともなく、声も出せないくらいに。後悔を数えて、触れなかった指先の冷たさを思い出して、もっと言えばよかった言葉ばかりを抱えて、どうしようもなく泣くのだと思う。

 でも、それを悠真に渡したくなかった。

「泣かないよ」

 僕がそう言うと、悠真は少しだけ目を見開いた。

「そっか」

「うん。泣く暇があったら、探す」

……は?」

「いなくなったなら探す。どこにいても。ホロウの中でも、誰かの命令の奥でも、君が自分で勝手に決めた終わりの向こうでも」

 僕は、悠真の前に膝をついた。

 濡れた上着の裾が床に落ちている。そこから雨水が染み出して、小さな影を作っていた。僕はそれを見ないふりをして、悠真の冷えた指先に触れる。

 彼は逃げなかった。

 ただ、息を止めた。

「泣くのは、見つけてからにする」

 自分の声が、思っていたより低かった。

「君がまた、くだらない顔して『見つかっちゃった』って笑ったら、そのときに怒って、たぶん少し泣く」

……アキラくん」

「だから、いなくならないでくれ。少なくとも、僕に黙って勝手に決めないで」

 悠真の喉が、小さく動いた。

 何かを言おうとして、でも言えなかったのだとわかった。僕はその沈黙ごと、彼の指先を包み込む。

 悠真はいつも、軽い言葉で重いものを隠す。

 死にたいわけではないくせに、死を冗談にする。諦めたふりをして、生きることにしがみついている。痛みに慣れているくせに、本当は少しでも痛くない明日をまだ捨てられずにいる。

 その矛盾が、僕には苦しかった。

 可哀想だとは思わない。そんな言葉で、悠真を小さくしたくなかった。

 彼は今ここにいる。息をしている。冷えた指で僕の手を握り返し、情けないくらいかすかに震えている。

 生きたいのだ。

 生きたいから、怖いのだ。

 望んでしまったものを失うのが怖いから、最初からなかったことにしようとする。受け取らなければ、なくしたときの痛みも少なくて済むと、きっと本気で思っている。

 そんなわけがないのに。

「僕は、君が生きたいって思うたびに、そばにいたい」

 悠真の顔が歪んだ。

 笑おうとしたのかもしれない。茶化そうとしたのかもしれない。けれど唇はうまく形にならず、金色の瞳だけが雨上がりの街灯みたいに揺れた。

「そんなの、重いよ」

「知ってる」

「僕、返せないかもしれない」

「返さなくていい」

「アキラくんが損する」

「損得で君の隣にいると思う?」

 悠真は黙った。

 その沈黙が、答えだった。

 僕は身を乗り出して、彼の額に自分の額をそっと当てる。熱はない。けれど、ひどく冷たい。その冷たさが、僕の胸の奥までゆっくり染み込んでくる。

「悠真」

 名前を呼ぶと、彼の肩がかすかに震えた。

「君は、僕の前でくらい、ちゃんと欲張っていいよ」

……欲張りだよ、もう」

「もっと」

「これ以上は、怖い」

「うん」

 怖くていい、と言いたかった。

 怖いまま、ここにいてほしかった。

 僕だって怖い。いつか失うかもしれないものを大切にするのは、ひどく怖い。けれど、失うのが怖いから触れないでいるほうが、もっと怖かった。

 悠真の手が、ゆっくりと僕の背に回る。

 縋るような力ではなかった。むしろ、今にもやめてしまいそうな、遠慮がちな触れ方だった。だから僕のほうから抱きしめた。

 濡れた上着の冷たさが胸に移る。雨と薬品と、悠真自身の匂いがした。生々しくて、苦しくて、忘れたくない匂いだった。

……僕さ」

 悠真が耳元で言う。

「明日もここに来ていい?」

 たったそれだけの言葉が、胸のいちばん柔らかいところに刺さった。

 僕は彼の髪に頬を寄せる。

「来て」

「明後日も?」

「来て」

「その次は?」

「何度でも」

 悠真が小さく笑った。

 今度の笑い方は、少しだけ本物だった。弱くて、頼りなくて、いつもの彼ならきっと誰にも見せない顔だった。

 雨はもう止んでいる。

 それでも僕たちは、しばらく動かなかった。閉店後のランダムプレイで、世界から少しだけ隠れるみたいに抱き合ったまま、明日の約束を何度も確かめる。

 永遠ではない。

 救いでもない。

 それでも僕は、この温度があるかぎり、まだ間に合うのだと思いたかった。

 悠真が生きたいと願うたび、その願いの隣に僕がいられるなら。

 たとえいつか泣く日が来るとしても。

 今はまだ、離さないでいようと思った。