千代里
2026-05-20 07:44:27
10242文字
Public 君ふれ短編
 

君ふれ・クガネ編・20話


 ユキハネのことが好きだ。
 昨晩、今まで抱いていた漠然とした憧れや崇拝に近い気持ちに、一つの答えを出された時。
 言葉にできない万能感が、ヒョウセツの心に満ち溢れた。
 フェリキシーに、その自惚れが手前勝手なものだと指摘される、ほんの数分の間だけは。
(オレ、そんなにも自分勝手だったのか……?)
 誰かに逐一確認して、そんなことはないと言ってほしい。そう思っている自分をまた自覚して、自己嫌悪に陥るという悪循環が今朝から続いている。
 ユキハネの親戚を探し出して、会わせてあげたい。
 最初にそう思ったとき、全く下心がなかったと言えば嘘になる。
 フェリキシーの言うとおり、結局のところ、ヒョウセツはユキハネにクガネに来てもらって、そのままずっとそこにいてほしかっただけだ。
 ただ、ユキハネの親戚という存在はヒョウセツにとって都合のいい舞台装置ではなく、生きた人間である以上、相応の問題を抱えていたというのが現実である。
 今朝、店の手伝いをしているときも、道場に向かう途中でユキハネと出会ったときも、そして今こうして道場の片隅で思考を弄んでいるときも、ずっと考え続けているのに、最善と思える答えは出ない。
(だけど、仕方ないじゃないか。オレは、知らなかったんだ)
 だったら、知った今、自分はどうするべきなのか。
 フェリキシーにも言われたように、借金取りを相手に暴れ回るのが愚策だとは、昨晩うんうん唸りながら考えて納得できた。ならば、次は?
(ユキハネをオレの家に連れて行く? それともエオルゼアにまた送り返す? 彼女の身の安全はそれで守れるかもしれないけれど、あの叔母さんたちはどうなるんだ)
「ねー。ヒョウセツ兄、聞いてる?」
 ぐらぐらと体を強く揺さぶられる感覚に、漸くハッとする。ヒョウセツを揺さぶっていたのは、道場にいるヒョウセツを慕う子供たちの一人だ。
 ケイとユキハネを道場に連れてきたヒョウセツは、離れにいた師範への挨拶を済ませた後、自由に見て回っていいと彼らを送り出したところだった。
 師範は、用事があると言って外出してしまったので、ヒョウセツは事実上道場全体のお目付役を任されたことになる。
 クガネの道場は、西方から来たケイたちには珍しいようで、おっかなびっくり、裸足で板張りの床を歩いていた。
「あ、ああ……。ええと、何かオレに用があったのか?」
「やっぱり聞いてなかった。来てから何だかずっとぼんやりしてて、どうしちゃったのさ」
 素直に答えるわけにもいかず、ヒョウセツは言葉をまごつかせる。その間にも子供の興味は次へと移っていく。
 「ねえねえ、あそこにいるお姉さんはさ。ヒョウセツ兄のコイビト?」
 ませた少年の突拍子もない発言に、ヒョウセツは何度か噎せ込んでしまった。彼女への気持ちを自覚し始めた矢先のこれは、あまりに強烈すぎる。
「べ、べ、別に、そういうわけじゃない! その……前にも話しただろ。西でオレと親父が世話になった冒険者だ」
「ふーん。じゃあ、すっごく強いって前にヒョウセツが話してた人か」
「そうだ。ユキハネは魔物を何匹も倒したことがある、凄腕の冒険者なんだ」
 以前の説明を繰り返したものの、その時と比べて我ながら覇気がないと思う。
 あのときは、ただ彼女の強さに無邪気に憧れ、側にいてくれたらいいという漠然とした願いを抱くだけでよかった。
 けれども、今はあの時とは何もかもが違う。それが分かれば分かるほど、当時の自分の無責任さに苛立ってしまう。
「じゃあさ。ヒョウセツ兄よりも強いの?」
 そんなヒョウセツの葛藤などつゆ知らず、少年は無邪気に質問する。
「ああ、強いぞ。魔物を相手にしたら、オレじゃ到底あの人には敵わない」
「でもさあ、女なんでしょ? 女の子たちは、オレたちよりずっと弱っちいって、前に師範が言ってたじゃん」
 それは、女性は体格差があるので筋力については男より劣る、という発言だったのだが、少年は曲解して覚えてしまっていたらしい。
「それなのに、ヒョウセツ兄の方が弱いなんてこと、ないと思うけどな」
「随分と突っかかった物言いをするな。ユキハネが来てから、何かあったのか?」
……オロシの所のちびどもが、こんな細いやつに負けるなんて、ヒョウセツ兄は女みたいになよなよした奴だって悪口言ってた」
 どうやら、またぞろヒョウセツの知らぬところで、二つの派閥が衝突してしまっていたらしい。
 道場では最年長であり、度々面倒を見てくれるヒョウセツを慕う子供たち。一方で、オロシのような家が大店の子供たちは、オロシを兄貴分と慕っている。
 ヒョウセツはオロシのことが嫌いではないが、好きでもない。
 何かと突っかかってくる彼の方はヒョウセツを嫌っているようだが、勝負において多少の引き分けに固執する彼ほど、ヒョウセツの方には執着心がなかった。
 だが、周りにいる子供たちにとって、道場内でどの年長者の下につくかは死活問題であったらしい。
「またあいつらが、余計なこと言ってるのか。今は、ユキハネの所か?」
 頷く少年の頭を軽く撫でて宥めてから、ヒョウセツは道場の端でのユキハネたちの元へと向かう。
 師範から借りた道着――白の小袖に紺の袴――を着たユキハネとケイは、来訪者とは思えないほど子供たちと打ち解けていた。
 普段と違う、自分の見慣れた道着を身につけているユキハネに、一瞬見とれそうになるものの、今はそんなときではないとかぶりを振る。
 彼らの周りから、いつもオロシの腰巾着をしている子供を見つけて、
「おい、ジュカン。お前、また変なこと言いふらしてるみたいだな」
 ユキハネたちから少し距離を置いて、観察するような目を向けていた少年――ジュカンは、話しかけてきたのがヒョウセツだと気づくと、露骨に嫌そうな顔をしてみせた。
「なんですか、ヒョウセツ兄」
 とってつけたような丁寧な言葉は、一応目上に対する礼儀を示そうと思ってのようだが、付け足された感が否めない。
「ユキハネとオレのことを、ごちゃごちゃ言いふらしているみたいじゃないか。客人が来てるっていうのに、くだらない身内の問題を吹き込むつもりなら、流石に黙っちゃいないぞ」
 すると、ジュカンはこれみよがしに嘲りの表情を浮かべ、ヒョウセツをじろじろと眺めると、
「それって、結局あの女よりも弱いと認めたってことじゃないですか」
「そういうわけじゃない。ユキハネは冒険者としては一人前だ。オレよりもずっと強い。だけど、今は誰が強いとか強くないとか、そういう話をする場面じゃないだろ」
「どうだか。だって、僕たちは女性より強い体を持っている。だから女性を守らないといけない。師範にもそう言われてたのに、ヒョウセツ兄の話が本当なら、あべこべじゃないですか」
 先の少年と比べると、ジュカンは彼なりに男女の体格差に対する哲学を持っているらしい。ただ、それが女性への嘲りではなく、同性の男性に対する強固な神話のような形で受け止められているようだ。
 どうやって子供たちを説得したものかと、ヒョウセツが困り果てていると、
「私がヒョウセツさんより強いところがあるとしたら、それは魔法や魔物を前にしたときの対応力だと思いますよ」
 助け船は、話題となっているもう一人の人物から出された。未だ子供たちの相手をしているケイを置いて、ユキハネが二人へと歩み寄る。
「ヒョウセツさんのように、重たい武器を私は振るうことができません。近くに敵が迫ってきたら、咄嗟に対応できる手数も限られています。そういったところは、恐らくヒョウセツさんの方が得意だと思います」
「あ、ああ。つまり、そういうことだ。オレとユキハネじゃ、得意とする場面が違う。師範の言っていた体格差がどうこうっていうのは、あくまで刀を振るときの話だ」
 思いがけない援護に感謝しながら、ヒョウセツは彼女の発言に追従する。
 すると、ジュカンはユキハネとヒョウセツを交互に見やってから、不意に先ほどまでの小賢しげな表情を隠し、子供らしい好奇心旺盛な顔を取り繕った。
「じゃあ、ユキハネさん。ヒョウセツ兄と、試合してみてもらえませんか。そうしたら、ヒョウセツ兄とユキハネさんの強さの違いが、よりはっきりと分かりますよね」
「なっ。お前! ユキハネは、刀を握ったことなんかないんだぞ! そんな素人相手に対して試合するなんて、怪我させたらどうするつもりだ」
「でも、ユキハネさんは一流の凄腕冒険者なんですよね。前にヒョウセツ兄が言っていたじゃないですか。だったら、初めての得物でも平気なんじゃないですか?」
 それとも、冒険者とは得物を選ばなければ戦えないような者なのか、とジュカンの視線が言外に語っている。
(こいつ、オレにユキハネと試合をさせて、オレとユキハネの関係をめちゃくちゃにする気だな……!)
 仮にユキハネがここで試合を断れば、ユキハネはヒョウセツが褒めそやすほど大層な人物ではなかったと道場の子供たちに認識される。
 試合を始めたとして、ヒョウセツがユキハネに勝てば、敗者となったユキハネからヒョウセツへの心象は悪くなる。
 一方で、ユキハネがヒョウセツに勝てば、ヒョウセツは女に負けた軟弱者として嘲笑の題材にできる。
 ここに至り、ジュカンの読みを悟って、ヒョウセツは歯がみしたが、既に賽は投げられた後だ。オロシの腰巾着であるジュカンにとって、彼のいない間にヒョウセツの評判を少しでも引き下げておきたいのだろう。
……ユキハネ、どうする? 嫌なら断ってもいいんだからな」
 どちらにせよ、これは身内の問題だ。道場内の子供たちが繰り広げる派閥争いに巻き込まれる必要はない。
 既に、どちらの派閥にも属さない子供たちが、興味深げにこちらをじろじろと見ている。ヒョウセツには、ここで負けても勝っても、何か良くないことが起きる予感がしていた。
「やらせてくれませんか。少し、体を動かしたい気分なんです」
「でも、ユキハネは刀の構え方なんて知らないだろ」
「はい。なので、もしあるのでしたら、棒を貸していただけませんか。棒術なら、杖と同じ動きができるはずです」
「もちろん、魔法の使用はなしですよ」
 横からジュカンの言葉が挟まる。ユキハネは「勿論ですよ」と笑顔で請け負った
「顔面と頭部へは寸止め。それ以外は多少の接触は許可する、という形式でどうでしょうか」
「それでいい。ユキハネ、防具はいるか」
「要りません。ヒョウセツさんは、刀の動きは熟知しているようでしたから」
 勢い余って強く打って出てしまっても、ヒョウセツなら必ず止められる。その技量があると、遠回しに太鼓判を押してくれたのだと理解し、ヒョウセツは表情を引き締める。
(オレの身勝手さが、ユキハネを振り回してしまったのかもしれない。でも、今はそんなことは忘れるべきときだ)
 心の迷いは、試合に響く。基礎の基礎である教えを思い返し、ヒョウセツは深く息を吸い込んだ。

 ***

 心が迷えば、動きにも迷いが出る。日常生活ならば、問題はない。好きなだけ迷い、好きなだけ隙だらけの動きを見せればいい。
 だが、魔物の前で見せる迷いは、そのまま死に繋がる。
 だから、戦うときは何も考えない。相手の息の根をどうやって止めるかだけに注力する。
……お師様に、そう教えてもらったんでしたっけ)
 何も考えるなと言われても、その言葉を告げた相手がフェリキシーである以上、ユキハネの呼吸は一呼吸分だけでも乱れる。
(いけない。今は集中しないと)
 心で自分を叱咤し、不十分な集中だと分かりつつも、ヒョウセツの動きに注視する。
 棒術を扱う相手は不慣れなのか、最初の一手二手は寸での所まで打たれかけていたが、今はユキハネとの間合いを読み、攻めの頃合いを見計らっている。
 こちらからは、打って出ない方がいいと、ユキハネは状況を捉え直す。
(私には長物という、リーチの利がある。自分から距離を詰める必要はない)
 殊更に自分にそう言い聞かせておかないと、相対する敵の気迫に押し負けて、先んじて動いてしまいそうになる。
 は、と呼吸を吐き出したタイミングで、眼前の相手が動く。
 大きく踏み出した一歩と、板張りに響く足音。大上段からの一撃は、隙が多いが打ち返しやすい――と思いきや、
「横から……!?」
 大ぶりに振られたと思った一撃が、突如角度を変えて脇からの一撃へと進路を変える。突然の変更にも対応できたのは、どこから攻撃されても対処するという心構えが身についていたおかげだ。
 がん、と木同士がぶつかり合う澄んだ音が響く。
(やっぱり、体格差があると、押し切られる――!)
 不格好な姿勢で押し合いの状況になったせいもあり、姿勢が崩れかける。咄嗟に棒の支点をずらして、弾くような動きに切り替えたおかげで、ヒョウセツは一度後ろに退いて距離を置いた。
 実戦的な剣術を学ぶ人間ならばこその駆け引きは、ユキハネの得手とするところではない。不意に力を抜かれてたたらを踏みかけたが、情けない所を見せたくないと踏ん張ったのは、もはや冒険者としての意地であった。
……ヒョウセツさんは、いつもこういう戦いをしていたんですね」
 魔物を相手にしていると、ヒョウセツはしばしば不意を突かれていた。それは経験不足によるものだと思っていたが、おそらくは人間を相手にした場合の動きをたたき込まれていたからだと、今更ながら理解する。
 彼の武術は、人間を相手取る形に特化している。故に、今、ユキハネと相対したとき、不慣れな武器を相手にしても柔軟に戦えている。
 ユキハネを相手にしていると意識しているためか、彼の動きに微かな乱れや躊躇いが混じっている。そのため、今はどうにか受けられているが、このままでは負けるのは自分だとユキハネは確信していた。
(お師様が聞いたら、どんな顔をするでしょうか)
 かつて、ヒョウセツに稽古をつけてこい、と言ったのはフェリキシーだった。そして、ユキハネに長物での戦いを教えたのもまた、フェリキシーだった。
 そこまで考え、また自分は師に囚われているとユキハネは自嘲する。
 気もそぞろでありながらも、体は動いてくれた。
 続く下段からの攻撃は距離を置き、更に詰め寄られたら得物の角度を変えて受け止めて。
 右、左。続け様の突きからの、一度距離を置いて、更に間髪入れずに叩き込まれる中段からの薙ぎ払い。
(この構え方なら、次は上段ーーじゃ、ない!?)
 動きから相手の次の攻撃を読もうとしたのが、仇になった。
 振りかぶったように見えたのは、フェイント。上段からの攻撃を受けようとガラ空きになったユキハネの胴に、角度を変えた一撃が襲いかかる。
「くっ……!」
 無理やり棒の角度を変えたものの、今度は踏ん張りもきかない。
 カァン、と甲高い音が響く。
 握っていた武器が、手から弾き飛ばされた感覚。得物がなくなり、徒手となった心細さを感じる。
(でも、これで終わりじゃない)
 武器を失ったぐらいで止まっていてはいけない。相手はーー魔物は、こちらが不利になろうがなるまいが、お構いなしに襲いかかってくるのだから。
 からん、とユキハネの棒が落ちた音が響く頃には、すでにユキハネは動いていた。リーチの利点が無くなった今、距離を置くのはむしろ愚策。
 一息で距離を詰め、拳を握り締め、自分の細い腕にありったけの魔力を集中させる。
「ユキハネ!?」
 今更こちらに気付いても遅い。
 武器を落として気が緩んだのか、隙だらけになっているヒョウセツの胴体めがけて、腰だめに構えた拳を叩き込もうとした、ときだった。
「そこまで!」
 朗々と響く男の声。こちらに駆け寄る誰かの足音。
 どうやら試合はもう終わり、らしい。咄嗟に、ヒョウセツの胴体に触れるか触れないかの寸前まで迫っていた拳を止めようとした。
「えっ、わっ、待って」
 だが、体は急制動についていかない。そのせいで、姿勢が大きく崩れてしまう。踏み込もうとした体の重心がぐらつき、転びそうになり、
「ユキハネ、危ないっ!」
 道場の床にあわや顔面から激突するところを、ヒョウセツの腕がどうにかユキハネの腕を掴み、支えてくれた。
 転ぶのを完全に止めることはできなかったが、わずかにできた時間のおかげで、どうにかユキハネは受け身をとることができた。そうでなかったら、強かに床に体を打っていただろう。
「び、びっくりしました……。試合は、もう、おしまいなのですか?」
「というより、そもそも、武器が手から離れた時点で勝敗がつくんだ。お前、そんなことも相手に教えていなかったのか」
 答えたのは、ヒョウセツではない。そこまで、と声を放ったアウラ族の青年ーーヒョウセツへと冷めた視線を送る彼は、昨日ユキハネの家にも来ていたオロシだ。
 だが、今はそのことに驚くよりも、オロシの発言の方への驚きが勝った。
「あの、武器を落とした時点で負けだったのですか」
「当然だ。ここは刀を扱う術を学ぶ場だぞ。刀を落とした相手をさらに殴りつけるなど、言語道断だ」
 昨日の叔母たちとの態度と比べると、オロシの言葉には遠慮がない。おそらく、こちらが素なのだろう。
「でも、やっぱりユキハネは手強かった。正直、体格差があるから、怪我をさせるんじゃないかと思ったんだが」
 結果的にはヒョウセツの勝利ではあったが、お互い一進一退の駆け引きをした良い勝負だったのは間違いない。しかし、満足げなヒョウセツに対して、ユキハネはやや不満げな視線を送る。
「やっぱり、最初は手を抜いていたんですか?」
「そんなことはない! ……と、思う。多分」
 ヒョウセツの言葉は、徐々に尻すぼみになり、最後には注意していなければほぼ聞こえないまでになってしまっていた。本人は否定していたが、自然と力を抑えていた場面はあったのだろう。
「で、でも、途中からは本気だったからな。それは間違いない」
「はい。ヒョウセツさんは、とても手強かったです。お師様と手合わせをしたときと同じくらい、敵わないと思いました」
 試合の高揚感が残っているおかげで、今は師のことを思っても、胸の痛みは少なくて済んだ。
 同時に、フェリキシーがなぜ、あまりユキハネと手合わせをしたがらなかったのかが分かったように思う。
(人と戦うのと、魔物と戦うのでは勝手が違います。もし、オロシさんの言うように武器を落としたら負けという試合の形式に慣れてしまったら、私は魔物や盗賊の前でも武器を落とした瞬間無防備になってしまっていたでしょう)
 習慣とは恐ろしいものだ。頭では理解していても、日常的な手合わせの感覚がユキハネに染みつくのをフェリキシーは避けたかったのだろう。
 彼は真実自分が生き延びるための術を叩き込んでいたのだなと、改めてこれまでの道のりを歩みなおせた気分だった。
 ヒョウセツの手を借りて立ち上がると、まばらに拍手が生まれる。周りで試合を見ていた子供たちだけでなく、いつのまにか外出していた師範も戻ってきており、揃って観戦していたようだ。
 こんなにも多くの人たちに見守られていたのかと思うと、何やら面映くなり、ユキハネの頬に試合の高揚とは異なる朱がさす。
「いやはや、お客人と試合をしていると聞いたときは何事かと思いましたが。良い試合を見させてもらいました」
 観客を代表するように、道着姿の男性が一同のもとへと歩み寄る。
「すみません、師範。オレが周りにのせられて、それで」
「事情は聞いています。ジュカンには、後できつく言っておきましょう。オロシ、あなたも自分を慕う者がいることは分かっているでしょう。不本意ではあるかもしれませんが、せめて周りに迷惑をかけないように注意するように」
……すみません」
 さすがに、師範に対して不遜な態度はとれないのか。オロシは、素直に頭を下げていた。
「ヒョウセツ。あなたの動きには、まだ粗が多い。ですが、試合での動きは見事なものでした」
 師範に素直に褒められて、嬉しかったのだろう。ヒョウセツの顔には、はっきりと喜びが浮かび上がる。
 しかし、師範はただにこやかに彼を褒めるだけでなく、やや厳しさを交えた目でヒョウセツを見つめ直す。
「ですが、あなたに言っておかねばならないこともあるようです。たしか、あなたは将来は用心棒を希望していましたね。父上のムヒョウ殿のようになりたいと」
「は、はい。それに、もし、できるなら……西方の冒険者のように、なれたら、とも」
 ヒョウセツの発言に、ユキハネは一抹の驚きを覚えた。
 強さを求めていた彼が、父の後を追いたがっているのはユキハネも知っていた。だが、そこに冒険者という彼にとって未知の職業が挟まったのが意外に思えたのだ。
「冒険者のように、ですか。それなら、なおのこと、武器を奪ったぐらいで気を緩めていてはいけません。武器の奪取も試合終了の判定として認めていますが、あなたの場合は、相手にとどめをさす寸前までとした方が良さそうですね」
「それは、武器を奪っても相手が反撃してくる可能性があるから、ですか」
 背筋を伸ばして教えを乞うヒョウセツの姿に、ユキハネもつられて居住まいを正す。
「そうです。あなたは、相手が武器を落とした時点で試合が終わったものと思い込み、隙だらけになった。ですが、そのような癖は実戦では命取りとなります」
「試合の癖、ですか」
「私たちは、怪我をすることなく己の体と心の成長を促すため、武の指導をしています。なので、今のあなたがそうなったのは、ある意味当然と言えるでしょう。それが間違っているとも、私は言いません」
 ユキハネが推測したように、試合に慣れすぎてしまうのも、実戦を志す者にはまた考え物のようだ。
「ですが、傭兵や冒険者を志す者には相応しくない癖となっていたようですね。あなたの手合わせの相手については、他のものとも相談しておきましょう」
 改めて頭を下げるヒョウセツ。続けて、師範はユキハネへと向き直る。
「そして、実戦に対する心構えを、そちらのお嬢さんは骨身に染みこませていたようですね。武器を落とされても、戦いは終わりだと思わずに、次の戦いへと気持ちを切り替えた。実に見事なものでした」
「すみません。試合の形式を知らなかったのです。あやうく、ヒョウセツさんに怪我をさせるところでした」
「それについては、試合の終わり方を伝えなかった彼らにも、そんな彼らに試合をさせてしまった我々にも非があります。申し訳ない」
「いえ、頭を上げてください。私も、聞こうともせずに始めてしまいましたから」
 頭を下げた師範に、慌てて声をかけるユキハネ。彼は、しばらく同様の言葉を繰り返した後、
「お嬢さん。差し出口かもしれませんが、一つ、よろしいでしょうか」
「はい。何でしょうか」
 師範は、ヒョウセツがオロシと連れ立って先に子供たちの様子を見に行ったことを確かめてから、声量を絞って続ける。
「今のあなたは、何か、悩み事を抱えていらっしゃるのでしょうか。あなたの体の癖を見る限り、あなたは本来ならばより一層の技の冴えが見せられたはず。ですが、体の動きに心がついていってないように見えました」
「それは……おっしゃる通りだと思います。個人的なことで、少し」
 ここで否定しても、ユキハネ自身がすでに気づいている痛みが消えるわけではない。素直に答えると、師範は暫し黙考してから、
「ヒョウセツやオロシのように、心構えの一環として武術を学びに来ているなら、そのままでも良いでしょう。ですが、あなたは、以前ヒョウセツが私に話してくれた冒険者の方……そうですよね?」
 たとえクガネではよく見かけるアウラ族であっても、師範には市井の娘と冒険者として生きてきたユキハネの違いがすぐに分かったらしい。これまた頷くと、
「それならば、あなたはなるべく早くその悩みを取るために動かれた方が良い。西方の冒険者という職には危険も多いと聞きます。その心で魔物と相対するのは、同じ武を身につけた者として勧められません」
……はい。あなたの言う通りだと思います」
 けれども、今の自分は冒険者を続けられるかも怪しいんです――とは言えなかった。
 自ら口にしてしまったら、まだ確定していなかったはずの未来が確かなものになってしまう気がして。
「ですが、焦り、逸っても答えが出ない者はあるでしょう。体を動かして気がまぎれるのならば、またいつでもおいでなさい。私も、西方の武道には興味がありますからね」
 最後に、わずかな茶めっけを覗かせて片目を瞑ってみせた師範に、ユキハネもつられて笑みを浮かべる。
 行きなさい、と軽く背中を押されて、彼女はオロシたちの元へと向かった。
 胸を塞ぐ思いはまだある。フェリキシーへの思慕に至っては中途半端に燻ったままだ。
 だが、ここに来た時よりは少しだけ。
 ほんの少しだけではあるけれども、心のどこかに光がさした――そんな気がした。