迎賓館
2026-05-20 01:35:50
9936文字
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聖鐘

第一話相当の話 中編予定

 雨は、夕暮れからずっと止まなかった。
 村を囲む森は霧に沈み、木々の輪郭すら曖昧になっている。湿った風が吹くたび、戸板がかたかたと鳴った。

 ラドラス辺境、ローデン村。
 日が落ちてからというもの、村人は誰一人として外へ出ない。霧が濃い夜は、『帰ってくる』からだ。

 小さな家の中。煤けたランタンの明かりが、壁に揺れていた。
 老婆は椅子へ浅く腰掛けたまま、縫い物の針を動かしている。だが縫い目は何度も乱れ、指先は震えていた。
 時計の音だけがやけに響く。
 カチ、カチ、カチ。
 窓の外を見てはいけない。夜半の霧を見るな。呼ばれても返事をするな。
 ラドラスでは、子供でも知っていることだった。
 それなのに。

 ――ぎ、……
 何かが鳴った。
 老婆の手が止まる。
 ……家鳴りではない。木の軋む音。
 濡れた靴が泥を踏むような音。

 ゆっくりと。
 一歩。また一歩。
 家の前まで来て、止まった。

 老婆の喉が鳴る。呼吸が浅い。聞こえるはずがない。ここ数日は霧が深い。こんな夜に外を歩ける人間などいるわけがない。
 だが、この村で霧夜を歩くものは、生者だけではない。

 ランタンの火が揺れた瞬間。

 こん、……こん。
 扉が叩かれた。
 老婆は悲鳴を呑み込んだ。強く叩く音ではない。遠慮がちな、弱い音だった。
 まるで。帰宅をためらう子供みたいな。

 こん、こん。
 沈黙。
 雨音。

 老婆は震える足で立ち上がった。
 逃げるべきだった。教会へ鐘を鳴らすべきだった。頭では分かっている。
 それでも、扉の向こうから聞こえた濡れた呼吸音が、どうしようもなく記憶を揺らした。

 息子も昔、こんな風に扉を叩いていた。
 泥だらけになって。悪戯をして。
 怒られるのを怖がって。

 こん。
 老婆は扉へ手をかける。
 冷たい。
 指先が震えて外れない。
 やめろ。開けるな。それはもう人ではない。
 村長の言葉が脳裏を過ぎる。
 それでもゆっくりと、扉を開いた。

 霧と雨。白く煙る夜。
 その中に、人影が立っていた。

 兵士だった。
 ぼろぼろの軍服。泥に濡れた外套。片足を引きずっている。
 喉元が大きく裂け、黒ずんだ血が胸元まで乾いていた。
 老婆は息を呑む。
 その顔を知っていた。他の誰よりも見続けてきた、愛しい顔だったから。

……ロアン」
 ――数ヶ月前、北方防壁で死んだはずの息子だった。
 兵士――ロアンは、しばらく老婆を見つめていた。
 焦点の合わない目だった。濁った死人の目だ。
 それなのに。
 ようやく帰り着いた子供みたいに、酷く疲れた顔をしていた。
 ロアンの唇が、ゆっくり動く。
……さむい」
 老婆の目から涙が落ちた。

 ◆

 夜明け前には、村中へ話が広がっていた。

 ロアンが帰ってきた。
 死んだはずの兵士が、霧の中から戻ってきた。

 村人たちは家の戸を固く閉ざし、誰も老婆の家へ近づこうとはしなかった。だが窓の隙間から、怯えた視線だけがじっと様子を窺っている。

 やがて誰かが教会へ鐘を打った。
 低く、鈍い音が霧の中を沈むように響いていく。
 残響発生の報せ。死者帰還の合図――

 ――老婆の家では、ロアンが椅子へ座っていた。

 濡れた軍靴の下へ布が敷かれている。老婆が持ってきたものだった。床を汚さないように。昔から、この子は泥だらけで帰ってくるから。

 ロアンは黙っていた。時折、浅く息を吐く。
 死人が呼吸をするはずはない。それなのに、寒さに耐えるように肩が小さく震えていた。

……母さん」
 掠れた声だった。老婆は息を呑む。
 返事をしてはいけない気がした。名前を呼び返せば、もう二度と戻れなくなる気がした。

 けれど。
「ここにいるよ、ロアン」
 声が震える。ロアンはぼんやりと老婆を見たあと、小さく瞬きをした。

……よかった」
 その言葉だけで、老婆は泣き崩れそうになる。
 外ではまだ雨が降っていた。

 ……村人たちは遠巻きに囁き合っている。
「まだ暴れていないらしい」
「本当にロアンなのか?」
「教会はまだか」
 誰も近づかない。
 ……だが誰も、「殺せ」とは言えなかった。
 ロアンをよく知っていたからだ。

 冬になれば薪割りを手伝っていた。子供へ木剣を作ってやっていた。
 祭りの日には酔って川へ落ち、皆で大笑いしながら引き上げてやったことを覚えている。
 ただの、村の若者だった。
 だからこそ、余計に怖かったのだ。

 死んだ者が、そのまま帰ってきている。
 それは、この土地で最も忌むべきことだった。

 朝が近づく頃、村の入口へ馬車が現れた。
 鐘の音がする。
 小さな銀鐘。雨音へ混じる、澄んだ音。
 村人たちは息を呑んだ。

……エクソシストだ」
 黒い外套を纏った男が、馬車から降りる。
 長身。雨除けの外套は煤と泥で薄汚れていた。
 腰には短剣と香炉。首元では、小さな銀鐘が揺れている。
 男――ガレフは、村を見回した。

 怯え。沈黙。家屋の閉ざされた窓。
 一目で理解する。
 ……残る時間は、長くない。
 既に村全体へ『気配』が広がり始めている。
……発生地点は」
 低い声だった。
 村長らしき男が、おそるおそる老婆の家を指差す。
「あ、あそこです……ですが、まだ人は襲っていません。本当に、普通なんです。ロアンのままで……

 ガレフは返事をしなかった。ただ静かに家を見る。
 雨に煙る窓の向こう。
 ぼんやりと、人影が見えた。

 死者は帰る。
 だが、それは生者の場所へ留まっていいものではない。
 ガレフは外套の雨を払うと、老婆の家へ向かって歩き出した。

 ◆

 老婆の家の前まで来ると、ガレフは足を止めた。
 雨は弱まっている。軒先から落ちる雫だけが、ぽたり、ぽたりと土を叩いている。
 家の中には灯りが見えた。微かに、人の気配も。
 ガレフは目を閉じる。
 ――いる。

 残響特有の冷気。霧に混じる、鈍い死臭。
 生者と死者の境界が曖昧になる感覚。まだ薄い。
 だが確実に、この家を中心として『滲み』始めている。
 やはり長くは持たない。
 ガレフは首元の銀鐘へ触れ、小さく鳴らした。澄んだ音が、雨音の中へ溶ける。

 直後。
 家の奥から、何かがびくりと反応した気配がした。

 村人たちが息を呑む。
……やっぱり、『そういうもの』なんだな」
 誰かが怯えた声で呟いた。ガレフは答えない。扉へ近づき、静かに叩く。

「教会直属祓魔局所属、ガレフ・エインズだ」
 返事はない。代わりに、小さく椅子の軋む音が聞こえた。
「扉を開けてくれ」
 ……しばらくして。ゆっくりと扉が開く。
 老婆の顔は青白かった。一晩で何年も老け込んだように見える。

……あの子は、暴れてなんかいません」
 開口一番、老婆はそう言った。
「誰も襲ってないんです。ただ帰ってきただけなんです。寒いって、そう言って……
「分かっている」
 ガレフは低く答えた。
「だからこそ、急がなければならない」
 老婆の顔が強張る。
「どうしてです……!」
 掠れた悲鳴だった。

「ようやく帰ってきたんです! あの子は戦へ行って、それきり……っ」
「残響は留まれない」
 ガレフの声は静かだった。落ち着かせるための声ではなく、ただ事実だけを述べている声だ。
「留まれば、周囲を侵食する。本人の意思とは関係なく」
「でも、ロアンは……!」
「今はまだ、ロアンだ」
 ガレフは家の奥を見る。

 暗い室内。椅子へ座る兵士の影……。俯いたまま、動かない。
「だが、長くは持たない」
 沈黙が落ちた。
 雨音だけが続く。

 ……やがて老婆は、震える手で扉を大きく開いた。
 ガレフは静かに家へ入る。

 瞬間、空気が変わった。
 冷たい。
 冬の墓所へ踏み込んだように、温度が落ちる。
 ロアンがゆっくり顔を上げた。

 濁った目。乾いた血。青白い皮膚。
 それでも。

……誰」
 声は、まだ人間のものだった。
 ガレフは数秒、ロアンを見つめる。それから短く息を吐く。

……確認する」
 腰の香炉を外した。銀鎖が、微かに鳴った。
 香炉の蓋を開く。中には灰色の香が詰められていた。ガレフは慣れた手つきで火を落とす――微かな煙が立ち上った。
 乾いた薬草と、鉄錆に似た匂いが広がる。

 ロアンの肩が、小さく揺れた。ガレフは香炉を静かに卓上へ置く。

……ロアン・ベルク」
 低い声だ。
「北方防壁第三隊所属。霧災害による戦線崩壊時に死亡。遺体は未回収。違いないな」
 ロアンはすぐに答えなかった。ただ、ぼんやりと煙を見ている。
 やがて、ゆっくり口を開いた。
……おぼえて、ない」
 ひどく掠れた声だった。

「寒かった」
……
「暗くて……ずっと、歩いてた」

 老婆が嗚咽を漏らす。だがガレフは表情を変えなかった。
「なぜ帰ってきた」
 ロアンは沈黙する。焦点の合わない目が、ゆっくり老婆を見る。
……母さん、いるから」
 静かな声に、老婆が口元を押さえる。溢れ出る涙と嗚咽を抑えきれない様子だった。
 ガレフは僅かに目を伏せた。

 残響には執着がある。
 強い感情。後悔。未練。
 帰巣本能にも似た何か。
 だから帰ってくる。
 だが、それは生者の理から外れた行為だった。

「ロアン」
 ガレフは静かに、彼の名を呼ぶ。
「自分が死んでいる自覚はあるか」
 ロアンは答えない。代わりに、ゆっくりと自分の喉へ触れた。
 裂けた傷口。乾いた血。
……いたい」
 老婆が耐えきれず、ロアンへ駆け寄ろうとする。
 だがガレフがその腕を掴み、制止する。
「近づくな」
「でも……っ」
「刺激するな。境界が崩れる」
 老婆は震えながら立ち尽くす。ロアンはぼんやりと二人を見ていた。何を考えているのか、一切分からない表情のままで。

 その時だった。

 こん、……こん。

 窓の外で、何かが鳴った。
 全員の動きが止まる。

 雨音。霧。
 そして再び。

 こん、こん。
 ガレフがゆっくり窓を見る。

 白い霧の向こうに、誰かが立っている。
 背の低い影だった。

 丸いシルエット。不自然に白い顔。
 ――道化化粧。
 ガレフの眉が僅かに寄る。あまりにも場違いな姿をしたそれは、小さな女だった。
……なんだ、お前は」
 すると窓の外の女は、にこりと笑った。雨に濡れた鈴が、ちり、と鳴る。
「ねぇ」
 女は、窓越しにロアンを見つめたまま言う。
「そのひと、さみしそうだねぇ」

 唐突な来訪者に驚くガレフと老婆。
 ガレフが制止の声を掛けるより早く、女は窓枠へ手を掛けた。
「おい」
 ぎい、と湿った音を立てて窓が開く。冷たい霧と雨風が一気に室内へ流れ込んだ。
 老婆が息を呑む。
 女はひらりと窓を跨いだ。泥だらけのブーツが床へ着地する。

 妙な格好だった。
 色褪せた道化服、濡れて張り付いた外套。白粉の滲んだ顔。まるで旅芸人の成れの果てだ。元の顔は愛らしいのだろうが、それを雨濡れが台無しにしているような印象を受ける。

「勝手に入るな」
 ガレフの声は低い。だが女は気にした様子もなく、部屋を見回している。
「わぁ、寒いねぇ」
 場違いなほど呑気な声だった。老婆が怯えたように後ずさる。場違いにもほどがある女が侵入してきたのだ、無理もない。
「だ、誰なんだい、あんた……
「んー?」
 女は首を傾げる。濡れた髪から雫が落ちた。

「モルト」
 それだけ名乗って、彼女はロアンを見る。
 じい、と。遠慮なく。
 ロアンもまた、ぼんやりと彼女を見返していた。
 しばらく沈黙が落ちる。
 やがてモルトは、とことことロアンの前まで歩いていった。
 ガレフが眉を寄せる。
「近づくな」
「なんで?」
「不安定化している。刺激するな」
「ふぅん」
 モルトは気のない返事をする。
 そして彼女は、ロアンの前へしゃがみ込んだ。
 近い。
 ガレフの指先が僅かに動く。いつでも短剣を抜けるように。
 だがロアンは動かなかった。ただ、じっとモルトを見ている。

 モルトはそんな死人の顔を覗き込みながら、小さく笑った。
「おかえりぃ」

 老婆が息を呑む。ガレフの眉間へ深く皺が寄った。
 ――残響へ不用意に呼び掛けるな。
 それは境界を曖昧にする行為だ。

 だがモルトはまるで気にしていない。
「いっぱい歩いたの?」
 ロアンは答えない。モルトは続ける。
「寒かった?」
 ……しばらくして。ロアンの唇が、ゆっくり動いた。
……うん」
 小さな返事だった。
 老婆が涙をぼろぼろとこぼしながら、口元を押さえる。
 ガレフはそれを見て、静かに舌打ちした。
 まずい。
 残響は、生者の感情へ引き寄せられる。
 受け入れられれば受け入れられるほど、存在を固定していく。
 このままでは、ロアンは『帰ってきた死者』として定着する。それは最悪な結末を呼ぶ。

 だが。
「そっかぁ」
 モルトは嬉しそうに微笑んで、ロアンに言った。
「がんばったねぇ」

 ロアンの肩がびくりと震えた。
 ガレフの目が鋭く細まる。
 ……まずい。
 香炉の煙が、不自然に揺れている。室内の温度がさらに落ちた。
 老婆は気づいていない。ただ涙を流しながら、ロアンを見つめている。だがガレフには分かった。『近づきすぎている』。

 死者が、生者側へ寄り始めている。

「そこの女、離れろ」
 ガレフは低い声で忠告する。だがモルトは、しゃがみ込んだままロアンを見上げている。
「ねぇ」
 彼女は小さく首を傾げた。
「どこから歩いてきたの?」
 ロアンの喉が、ごり、と鳴る。
「わから、ない」
「いっぱい暗かった?」
……うん」
「ひとりだった?」
 ――沈黙。ロアンの濁った瞳が揺れる。

 部屋の隅に置かれていた水瓶へ、ぴし、と細い亀裂が走った。
 老婆が息を呑む。ガレフは即座に短剣へ手を掛けた。

「もう一度言う、下がれ」
 今度は鋭い声だった。その声に反応したのかようやく彼女が振り返る。
「えぇ?」
「境界が崩れ始めてる」
 ロアンの呼吸が乱れていた――違う。呼吸の真似だ。
 死人には本来必要のない動作。それを無理矢理続けている。

……くるしい」
 ロアンが掠れた声を漏らす。喉の裂傷から、黒ずんだ液体がぽたりと床へ落ちた。
 老婆が悲鳴を呑み込む。
「ロアン……!」

 ガレフは香炉を掴み、灰を床へ撒いた。瞬間、灰が淡く発光する。
 ロアンの身体がびくりと硬直した。
――あ」
 掠れた呻きを聞き、ガレフは短剣を抜いた。銀の刃が、鈍く灯りを反射する。
「あなたも下がれ」
「や、やめて……!」
「今ならまだ間に合う」
 ガレフの声は低く鋭く、有無を言わさぬ声色だった。
 それ以外の声は、静かだった。
 だがその静けさが逆に、何度もこれを繰り返してきたことを感じさせた。

 ロアンは俯いたまま、小刻みに震えている。床へ黒い染みが広がっていく――そして。

……やだ」
 小さな声だった。ガレフの動きが、一瞬だけ止まる。
 ロアンは震えながら、途切れ途切れに言った。
「やっと、帰れたのに」
 ……老婆が泣き崩れる。
 モルトは、その様子を黙って見ていた。
 まるで、ひどく痛む傷口を見つめるような目で。

 ロアンの肩が、小刻みに震えていた。
 喉の奥から、ひゅう、ひゅうと掠れた音が漏れている。壊れた肺で、必死に息をしようとしているような音だった。
 老婆が涙に濡れた顔で首を振る。

「やめて……お願いだから……
 ガレフは答えない。短剣を握る手にも迷いはなかった。
 迷えば、遅れる。遅れれば、取り返しがつかなくなる。
 何度も見てきた。

 泣きながら家族を噛み千切った残響。自分が死んでいることに耐えきれず、霧災へ変じたもの。村ひとつ呑み込んだ例もある。
 だから終わらせなければならない。
 今、この姿のまま。

「ロアン」
 ガレフは静かに名を呼ぶ。
「お前はもう、生者の場所へ戻れない」
 ロアンは震えながら顔を上げた。
 濁った目。だがそこには確かに、理解しようとする光が残っていた。

……やだ」
 掠れた声だった。
「母さん」
 老婆が嗚咽を漏らす。……モルトは何も言わない。
 ただじっと、ロアンを見つめていた。

 ガレフは一歩ロアンへと近づいた。
 香炉の煙が揺れる。銀鐘が、ちり、と鳴った。

「苦しいだろう」
 ロアンの肩が震える。
「寒いか」
 返事はない。だが喉の奥から、掠れた呼気が漏れ続けていた。
「それを、終わらせよう」

 静かな声だった。
 諭すような声でも、哀れむ声でもない。

 ただ、『死』に慣れた男の声だった。

 ロアンの瞳が揺れる。
……しにたく、ない」
 その瞬間。
 老婆が堪えきれず、ロアンへ縋りついた。
「この子を連れていかないで……!」
 ガレフの顔が歪む。
「離れろ!」

 だが遅かった。
 ロアンの身体が大きく痙攣する。

 ぶつ、と。
 何かが裂けるような音。

 喉元の傷がさらに開き、黒い液体が溢れ出した。びちゃびちゃと音を立てながら、際限なく溢れ出てくる黒。老婆が悲鳴を上げる。

 ロアンの濁った瞳が、大きく見開かれた。
 呼吸の音が変わる。ひゅう、と鳴っていたはずの音がごぼごぼと黒い液体を泡立たせるだけの呼気へと。
 床が、老婆の手や衣服が黒く汚れていく。

 ガレフは老婆の肩を掴み、無理矢理引き剥がす。
「押さえていろ!」
 誰へ向けた声か。普段ならば周囲の誰かが動く。だが、今回は違った。
 ――モルトが、老婆を抱きしめるように後ろへ引いた。まるで子供の腰を引き寄せるかのような、優しい手つきだった。

 ロアンが立ち上がる。ぎち、と骨が鳴った。
 俯いたまま。
 喉から黒を垂らしながら。
 それでもまだ、人間みたいに震えていた。

 ガレフは短剣を構える。――銀の刃へ、香炉の煙が絡みつく。
 こうなってしまえば、できることはひとつだけだった。

……すまない」
 ただ、小さく呟き。そして、踏み込む。
 胸を、心臓があるべき場所を貫かれた『それ』の動きが、ぴたりと止まった。

 ――ロアンの身体が、ゆっくり崩れ落ちた。膝をつき、そして黒い液体の中にびちゃりと音を立てて横たわる。
 老婆の悲鳴が響く。

「ロアン――ッ!」
 だが駆け寄ろうとした身体を、モルトが後ろから抱き留めていた。
 細い腕だ。それなのに、不思議に強く、振り払えない。

 床へ倒れたロアンは、もう動かない。ガレフは短剣を引き抜く。黒が、ぼたぼたと刃を伝って落ちた。
 喉から溢れていた黒い液体も、徐々に勢いを失い――静かに、波が引くかのように失せていき。床に広がった黒い染みだけが、生々しく残っていた。

 銀鐘が小さく鳴る。
 ちり、……ちり。微かに鳴って、そして沈黙した。

 浄化の終わりを告げる音だった。

 ――室内へ沈黙が落ちる。
 ただ、雨音だけが続いていた。

 老婆は崩れ落ちたまま、声もなく泣いている。もう彼へ触れようとはしなかった。
 ガレフは短剣の黒を布で拭い、静かに鞘へ納め、それから『ロアン』を見る。
 ――今度こそ、完全な死体だった。
 濁っていた目は閉じている。呼吸の音もない。
 ……苦痛に歪んでいた顔だけが、少し穏やかになっていた。

 ガレフは目を伏せる。
 間に合った。辛うじて。

 もしあと少し遅れていたら、あるいは、もっと深く『こちら側』へ寄っていたなら。ロアンはもう、人の形を保てなかった。

……よかったねぇ」
 ぽつりと、モルトが呟く。
 ガレフの眉が寄る。
 モルトは老婆を抱えたまま――その髪を優しく撫でながら、ロアンを見ていた。
「帰れたねぇ」
 その声は、泣いている子供をあやす時みたいに柔らかかった。
 ガレフは低く息を吐く。

「何が「よかった」だ」
 静かで、そして怒りの滲んだ声色。
「お前は、残響を引き留めかけた」
 モルトはきょとんとした顔をする。
「だって、帰ってきたかったんでしょう?」
「だから終わらせた」
「『かわいそう』なのに?」
 ガレフは答えなかった。代わりに、床へ広がった黒を見る。

 死は戻らない。
 戻してはいけない。
 その理を破れば、もっと多くのものが壊れる。
 たとえ間違っていると知っていても、切り捨てなければならない。

……お前、何者だ」
 ガレフはモルトを見る。
 彼女は少し考えるように首を傾げた。

「旅してるひと?」
「そういう話じゃない」
「帰りたいひとが好きなだけだよぉ」
 あっけらかんと言う。ガレフの眉間へ、深く皺が寄った。

 窓の外では、まだ霧が揺れていた。

 ◆

 村を出る頃には、雨はほとんど止んでいた。霧だけが残っている。
 白く、湿った霧。夜明け前の薄青い空へ溶けるように、村を覆っていた。

 ガレフは馬車へ荷を積み込んでいた。

 香炉。銀鐘。黒の付いた布。
 使い慣れた道具たちを、淡々と片付けていく。

 背後では、教会の者たちがロアンの亡骸を運び出していた。
 今度はきちんと埋葬される。……霧の外へ出られなかった兵士としてではなく、ローデン村の息子として。

 老婆は家の前へ座り込んだまま、それを見送っていた。
 泣き声は、もう聞こえない。ただ……酷く老いた顔で、ぼんやりと息子を見つめている。

 ガレフはそっと視線を逸らした。

「おわったぁ?」
 背後から、間延びした声がした。振り返らなくても分かる。
 ガレフは荷台へ布を放り込みながら答える。

……まだいたのか」
「いるよぉ」
 当然のように返答がある。
 ガレフが振り返ると、モルトは村の柵へ腰掛けていた。濡れた道化服のまま、ぶらぶらと脚を揺らしている。

「お前、教会の人間じゃないな」
「うん?」
「死霊術師か」
 モルトは少し考えるように瞬きをした。

「たぶん?」
「曖昧に言うな」
「だって、なあんにもしてない」
 彼女は柵の上で頬杖をつく。
「死んだひとと、おしゃべりするだけだよぉ」

 ガレフは眉を寄せた。
 最悪だ。

 死霊術師自体は珍しくない。この霧災が広がる世界では、死者へ関わる術師は一定数存在する。
 だが『死者を受け入れる側』の人間は危険だ。
 境界を曖昧にする。生と死の線引きを壊す。
 それは、この世界では災害に等しい――それこそ、霧災に繋がる。

「お前、自分が何をしたか分かってるのか」
 モルトはきょとんとした顔をする。

「帰ってこれたのに、かわいそうだった」
……そういう話をしてるんじゃない」
「でも、あのひと嬉しそうだったよぉ」
 ガレフは答えなかった。代わりに、馬車の扉を閉める。重い音が響いた。
 モルトはそんな彼を見ながら、小さく笑う。
「あなた、やさしいねぇ」

 ガレフの動きが止まる。

「どこがだ」
「だって、『ちゃんと終わらせてあげた』でしょう?」

 ――霧の中で、銀鐘が微かに鳴った。ガレフは数秒黙っていた。
 それから低く息を吐き、御者台へ乗り込む。そこへ軽い足取りで寄ってくるモルト。
……ついてくるなよ」
「えぇー」
 間延びした声。
 だが次の瞬間には、モルトはもう当然のように荷台へ潜り込んでいた。

 ガレフの額に青筋が浮く。
「降りろ」
「やだぁ」
「帰れ」
「帰る場所ないもん」
 ガレフは頭痛を堪えるように額を押さえた。
 最悪だ。本当に、最悪だ。なのに。
 荷台の奥で揺れる鈴の音が、妙に耳へ残った。

「お荷物め」
「荷物でいいよぉ。どうせここに居ても、『あのひとたち』に連れてかれるんでしょ?」
 ――おそらくは、先ほど死体を埋葬するために訪った教会の者たちのことだ。当然、話を聞けば彼女を放ってはおかないだろう。ラドラスにある本部へと連行される。
 そしてガレフは都合良く、それに使われることだろう。ガレフは深いため息をついた。

 馬車がゆっくり動き出す。

 霧の村を背に、二人は次の街へ向かった。