イトフユ本丸(仮題)

姥包/に、なる話なのに驚くべき事にまだ恋が始まらない。刀剣男士が二振だけしかいない本丸の話。
2026.05.30少し追加

 政府直轄第三本丸、通称イトフユ本丸。そこには政府職員である審神者と、二振の刀剣男士がいるだけだ。他の本丸よりも小ぢんまりとした建物は、現世でも洋館と呼ばれるような外観をしている。二振それぞれの私室と生活空間がある母屋に、審神者の生活空間がある離れ。その二棟の他は、庭や畑があるばかりだ。
 その母屋の居間で、大包平はじっと庭先を眺めていた。数ヶ月前にこの本丸へ身を置いてからというもの、大包平はそうして庭先を眺めることが日課と化している。
 この大包平は、殆ど外を知らない刀剣男士だった。元の本丸で顕現されてから、審神者の与えた近侍部屋で過ごしてばかりいた。さらには、その元の本丸は季節が春に固定された、常春だったという。四季を巡らせているイトフユ本丸の庭先ですら、大包平にとっては人の身を得て殆ど初めて感じるものばかりだ。
「またここに居たのか、大包平」
 扉を開けて居間へやって来たのは、山姥切国広。彼にもまた、元の本丸があった。多くは語らない国広だが、自ら元の本丸を離れてイトフユ本丸に配属されたと、言葉少なに大包平へ伝えていた。
 翡翠色と深紅、二つのマグカップを手にした国広は、大包平へ一つ、差し出す。その深紅のマグカップを受け取った大包平は、その中身を見て眉根を寄せる。
「今日のは何だ」
「ミルクティーだと言っていたが」
……昨日と同じくらい砂糖が入っていることは、ないだろうな?」
「昨日のは珈琲だったからな。今日は牛乳以外は入れていないはずだ」
 毎日、審神者が手ずから用意する飲み物を一つ飲む。それだけがイトフユ本丸で続くルールだった。昨日のカフェオレという飲み物は酷かった。大包平はそう思っている。飲み干したカップの底に、溶け残った砂糖が山となっていた、あれは頂けない。カップを返しに離れへと行った大包平が、審神者に延々と説教をする声が母屋の国広の耳にも届いた程だった。
「じきに、冬が来るのか」
「そうだな。またそのうちに、庭の掃除をしなければならない」
「焚き火で芋を焼くと良い、と言っていたが」
「ああ、頼んでおいてくれ」
「そうしよう」
 初夏の頃にこの本丸へやって来た大包平にとって、初めての冬がやって来る。常春の本丸に暮らしていた大包平にとって、今すら外は冷えているというのに、さらに寒くなると聞く冬がどんなものなのか。建物の中は暖かくなるようにしていると審神者は言っていたが、大包平は何と返せば良いか分からなかった。
「今日はどのくらいだった」
「いつもと同じだ」
「俺には何も分からん。そんなにも、か」
「だが、お前のおかげで毎日顔を合わせることが出来るようになった」
……そうか」
 大包平が来てから殆ど毎日のように、そんなやり取りをしている。己の身が、元の本丸の審神者が変えてやろうと望んだ身が、国広の、イトフユ本丸の審神者の救いになっているのだと思えば、大包平にとっても救いだった。あの本丸の、誰とも異なる質を持って顕現した大包平は、それでも意味を持っているのだと。
 僅かに口元を綻ばせた大包平を視界に入れながら、国広は何とも複雑な心境を持て余していた。大包平がこの本丸へ来た経緯は、国広とて伝え聞いている。この大包平が持つ特異性は、国広にとって一筋の救いだ。間違いなく。国広の持つ特異性を厭うでもない大包平と、こうして共に時を過ごせること。イトフユ本丸の審神者と毎日少しでも顔を合わせることができるようになったこと。それは、国広にとっては奇跡と言っても良かった。
 けれど、大包平は。大包平自身は、その特異性があろうとも、きっとどこででも大包平として過ごすことができる。元の本丸が違う環境だったとしたら、大包平はイトフユ本丸に来ることすら無かっただろう。国広は、己の特異性が大包平をここへ押し留めているような気がしてならない。本来ならば、もっと別の本丸に配属されたっておかしくないだろう。
……大包平は」
「なんだ」
……いや、何でもない」
「貴様のそれは悪癖だな」
 この本丸で良かったのか。本当ならば、大包平に見合う本丸がもっとあったのではないか。国広はその問いを、いつも飲み込んでいた。もしも他にもあったと言われて、けれどこの本丸に決められたと言われて、国広はどうすることもできないというのに。問うたところで何になる。
 飲み込むたび、大包平はじとりと国広を見て、何度となく言葉にしろと返す。もはやこの本丸にしか居場所のない国広にとって、大包平という存在は稀少だ。何と言われたところで、離別を畏れる己が手放してやれるはずがない。ならばやはり、問う意味などないことだ。国広は、まだ温かさの残るミルクティーを一口、飲み込んだ。



 勢いよく浮上した意識と共に、目を見開く。
 大包平は、荒れた呼吸を落ち着かせるために、大きく、ゆっくりと息をした。まだ夜半なのか、部屋は薄暗い。けれども届く空気の冷たさが、イトフユ本丸であることを身に伝えて来る。
 軟弱だ。みっともない。あまりにも情け無い。己を責め立てたところで、殆ど夜毎に魘されることに変わりはなく、それが一層、大包平を酷く疲弊させた。
 元の本丸の審神者は、決して悪人ではなかった。むしろ心根は優しい女人だった。悪意を持っていたわけではない。そのくらいは大包平だって理解している。彼女にとって異物であった大包平にすら、部屋から出さないまでも、本丸での仕事や生活を教えてくれたのは、ひとえに優しいからだろう。
 己が彼女にとって異物であることを、それを良しとされていなかったことを、大包平が受容出来なかったのだ。作り変えられることを拒絶した。優しかった彼女があんな行いに出てしまうほど、看過できない特異性。それを持って顕現した己は、不完全であると言われたような衝撃だった。
……くそ」
 彼女を拒絶して突き飛ばした手の感覚が生々しく蘇ったような気がして、大包平は思い切り手を強く握り締める。その痛みで、頭は幾らか冴えて来た。寝汗をびっしょりとかいてしまった不快感を、大包平はそこでようやく自覚した。
 外は薄っすら白みそうな頃。ともあれ汗をどうにかせねばと、大包平はのろのろと起き上がった。

 大人数など想定されていないこのイトフユ本丸は、母屋の浴室もさほど広くない。審神者いわく、現世の家庭用の大きさだ。幼い姿で顕現される短刀たちならいざ知らず、この本丸の二振では、一振ずつ入る他ない。大包平は部屋を出てその浴室へ向かう。途中、国広の私室は静かだった。
……お前もか、山姥切国広」
「大包平……
 青い顔をした国広が、脱衣所の前で立ち尽くしていた。言葉少なな国広が、けれど何かを畏れている。そんなこと、こう何度も鉢合わせれば大包平とて察しがついた。どこか茫洋とした国広の目が、大包平を見上げている。
「お前が先に来ていたんだ、先に使え。空いたら教えろ」
 国広のその茫洋としている瞳が、大包平には恐ろしい物のように見えた。その、我を失いかけた瞳を、大包平はよくよく知っている。元の本丸での記憶か、己が感じた恐ろしさを自ら打ち消すでもなく、ただもっともらしい理由で離れるのは、逃げではないと己に言い聞かせる為でもあった。
……大包平」
「なんだ山姥切国広。さっさとしろ」
……ああ、すまない」
 国広は、言葉を飲み込んで脱衣所に入っていった。それを見送った大包平は、自室ではなく居間に向かう。自室に戻れば、己の中に渦巻くものが増してしまいそうだった。部屋の明かりを付けて、立ち尽くす。しんと静まり返った居間は、魘された夜にどこか非現実的に見えてしまう。
 この本丸での生活は、夢か幻で、己はまだあの本丸にいるのではないか。
 それほどまでに、大包平に強く色濃く残る、あの女審神者が触れてくる感覚。強引に事を運ぶようでいながら、どこか縋るようにも見えた、あの我を失ったような表情。望んでもいないのに、次から次へと大包平の脳裏に止めどなく蘇ってくる。
 あまりに軟弱な己を叱咤しても、大包平はその記憶に蓋をすることが出来なかった。忘れずとも、乗り越えて、打ち消すことなど更にだ。あの審神者を、あの本丸で「不完全」な己を作り変えようとした審神者を、拒絶してしまった重みが大包平の中に根深く巣食っている。そしてその巣食うものを前にして、何故だか途方に暮れてしまう。引き抜いて捨ててしまえば良いだけの筈なのに。
 こういう時、イトフユ本丸はあまりにも静かすぎる。かつての本丸でただ聞くだけだった声や物音から考えれば、大包平にとって昼間すら静かではあるけれど、夜など更にだ。意識を散らす理由も付けられずに、大包平はまるで傷のような重みと、以前の記憶と向き合う他なくなってしまう。
 意識してゆっくりと深い呼吸をする。まるで戦いの前に精神を統一するかのよう、なのかは戦場に出たことのない大包平にはよく分からない。けれどこのイトフユ本丸で国広と手合わせをする前と同じだとは思う。こうして雑念を払って、払い続けていれば、いつか己の中に巣食う重みすら払い除けてしまえるのではないか。今までは出来なかったが、今日こそは。いつもそう思って出来ていない軟弱者、不完全なものとして顕現してしまった存在の癖に。
「大包平」
……ああ、空いたのか」
「いくら空調があるとはいえ冷えるぞ」
「そうだな」
 新しい寝巻きに着替えた国広が、風呂が空いたと伝えにきたことで、大包平の思考は霧散した。国広は幾らか落ち着いたようだが、まだ少し顔が蒼い。それでもあの、茫洋とした目をしていないことに、大包平は安心していた。あの目をした審神者を拒絶したように、憔悴していた国広を拒絶してしまうのではないかと、大包平はずっと恐れている。

 風呂場へ向かう大包平を見送って、国広は居間に置かれた椅子に腰掛けた。小さく息を吐いて、目を閉じる。大包平はあまりに酷い有様だった。譲られる前に、強引にでも先を譲れば良かったのかもしれないが、あの時の国広にそんな余裕はありもしなかった。そして譲ったとて断られれば、つまりは拒絶されてしまえば、国広はもうイトフユ本丸からすら離れなければならない。
 大包平はきっと気付いていない。少し離れた後、また顔を合わせるまでの、声を掛けるまでの、国広が持つ祈りにも懇願にも似た心の内を。大包平と共に過ごすようになって数ヶ月を経た今なお、その感覚は濃く強く存在を示してくる。大包平の特異性を信じられていない、とはまた違う。ただ、それだけが過去にならない、国広の持つ特異性の影響だった。
 かつて居た本丸のことは、もう済んだことだ。過去の、もう何年か前のことだ。国広の中ではそう位置付けられている。だからこそ、その祈りや懇願に似たものや、拒絶への恐れは、全て己の持つこととなった特異性に依るだけだ。かつて居た本丸の審神者の為に己が抱えると決めたものを、抱え続けているだけだ。だから、本当は――
……誰とも関わらずにいるつもりだったのにな」
 国広は独り言ちて立ち上がった。迫り来る冬の気配は、寝汗を流しただけの身体を再び冷やそうとしている。僅かに思案した国広は、部屋に戻らずに台所へと足を向けた。


 寝汗を流し、着替えまで済ませれば幾分かさっぱりとする。頭を冷やす、とまではいかないが、それでも身に纏わり付く寝汗の不快感はなくなった。脱衣所から廊下に出た大包平は、そこで薄らと台所の方から明かりが漏れていることに気付く。国広はまだ寝ていないらしい。そう気付くや否や、大包平の足は自室ではなく台所の方へ向いていた。
「まだ寝ていなかったのか」
「ああ、喉が渇いていたからな。そら、お前も飲んでおけ」
「おい、そこは飲むかどうか聞く所ではないのか」
「どうせ要るならいいだろう」
 台所で立ったままマグカップに口を付けていた国広は、大包平が入ってくるや否や、既に用意していたのだろう、まだ湯気の立つマグカップを一つ差し出した。流し台には小さな鍋が置かれている。マグカップの中身はホットミルクのようだった。国広はたまにこうして、元の本丸で得た知識で考えているのかと思うようなことをする。
 飲んでいる間、会話はない。静かな本丸の中で、国広も大包平も、それが苦にはならなかった。静かな中でも、側に誰かの気配がある。それだけでどちらも気が落ち着いていくのだと、言わずとも分かっているかのようだった。


 パチパチと枝が爆ぜる音がする。イトフユ本丸の庭で、国広と大包平は小さな焚き火を囲んでいた。庭の落ち葉や枯れ枝を集めたものに火を付けて、そこに銀紙で包んだ芋を放り込んだのは国広だ。大包平は勝手が分からずにそれをじっと見ているだけだった。しゃがみ込んで焚き火の中を枝で突く国広を見下ろしながら、大包平はその焚き火の熱を感じていた。
「なるほど、これで暖を取れるというわけか」
「そうだな」
「ところで離れの分はどうする」
「そう慌てるな、座って待っていろ」
 母屋に近い庭だ。この焚き火の音や熱は、審神者のいる離れには届かないだろう。せいぜい煙くらいだ。大包平が焚き火をすると告げた時、審神者はそれでも良いと言っていたが、本当に良かったのかと思う。大包平は今になって、審神者はどうにも、国広と大包平だけで日々を重ねることを望んでいるように思えた。
 離れで臥せり気味だった審神者が、ここ最近は調子が良いと笑っていたというのに。大包平がその場に居さえすれば、国広と審神者は共に過ごせるというのに。
 国広と大包平が審神者との政府式主従契約ではなく、政府と直接主従契約を結ぶ刀剣男士だからなのか。どうにも、審神者は二振に深く関わることを遠慮しているように、大包平の目には映っている。ただそれは、国広も、そして大包平も同じようなものだった。
 元々は本丸を持っていた審神者だ。かつての本丸の刀剣男士たちとも良い関係であったと、二振は聞き及んでいる。それが今、イトフユ本丸でひっそりと研究をしながら暮らしている。審神者と直接主従契約を結び、良い関係を築いていた彼らを差し置いて、己が、ただ審神者と同じように特異性を持っているだけの刀剣男士が、日常を共にして良いのかと。
 パチン、と一際大きく枝が爆ぜた音がして、大包平は思考の海から勢いよく引き戻された。大包平が思わず肩を跳ねさせると、国広は口元に小さく笑みを浮かべた。
「初めてならそうもなる」
「貴様、笑っているな?」
「安心しろ、馬鹿にはしていない」
……ぐ」
 言い返せずに言葉に詰まった大包平をよそに、国広は焚き火の中から銀紙に包まれた芋を一つ転がした。熱いぞ、とだけ言い置いた国広は、焚き火の中にある他の芋を探っているらしい。素手では触らない方が良いという言外の注意に、どうしたものかと大包平は逡巡した。そうして、ふと目に入った足元に転がっている枝を使って芋を突く。力を抜いていたせいか、芋はころりともしなかった。
「おい、これはどうするんだ」
「ああ、軍手を用意するのを忘れていたな。まあ、掠め取る輩もいないことだし、火を消したら軍手を取りに行くか」
 国広は、目を伏せ気味に焚き火を見ているせいか、懐かしむには少し哀しげにも見える。それでも声は穏やかだ。もしかしたら、元いた本丸でもこうして焚き火で芋を焼いた思い出があるのかもしれない。
 こういう時に、大包平は己の無知を突き付けられたような気さえしてしまう。国広も、審神者も、そして大包平にも、元いた本丸は確かにあった。けれど、大包平だけだ。大包平だけが、かつていた本丸でのこんな穏やかな思い出や経験を持っていない。空の青さも、焚き火の暖かさも、煙が目に染みるものだとも、冬の入り口の空気の冷たさも、全てイトフユ本丸で初めて知ったのだ。
 仕方のなかったこととはいえ、それでも、大包平は持っていないことが、知らないことが、あの女審神者の言っていた不完全さを証明しているようにも感じてしまう。
「大包平、少し離れていろ。水が跳ねるかもしれない」
……跳ねたら芋の方にも掛からないか?」
「そうならないように善処するつもりだが」

 ここ最近、臥せることが多い、体調を崩しがちな審神者の為に、食べやすいように切り分けた芋を大包平が離れに持っていくのを見送りながら、国広は目を細めた。どうも大包平は「自分は何も知らない」ということに劣等感のようなものを覚えているようだが、国広からしてみれば、そんなものは瑣末なことだった。何せ大包平がいなければ、焚き火で芋を焼くなんてことはなかった。
 イトフユ本丸で、審神者と対面もできない中、一振でそんなことをして一体何になるというのか。元いた本丸での、もう終わった記憶を蘇らせて、それだけだ。だから、大包平が物を知らないとしても、国広にとっては彼の存在で新たな思い出を作っているように思える。それで十分なのだ。
 元いた本丸の賑わいも、何もない。ただ静かに過ぎていくイトフユ本丸での国広の日々を、大包平が彩らせていると言っても過言ではない。何も知らないのだ、大包平は。日常の知識だけではない。国広が元いた本丸でどう過ごして、どう離れていったのかも。大包平が居なければ、審神者の病の進行にいよいよ孤独にイトフユ本丸で朽ちるつもりでいたことも。大包平が離れていくなら、自ら本体である刀身を折ってしまうとすら思っていることも。
「戻って来たか。どうだった」
「ああ。随分と喜んでいたぞ」
「そうか、なら良かった。では俺たちも食うか」
「そうだな」
 戻って来た大包平が、何の変化もなく当たり前に言葉を返してくる。それが国広にとってどれだけの奇跡であり救いなのか、大包平は知らない。同じテーブルを囲んで、同じ物を食べて、美味いと言い合う。国広がもう二度と手に入らないと思っていたものを、大包平だけが与えてくれる。イトフユ本丸での思い出を作り上げてくる。
 口に入れた芋は随分と甘い品種で、きっと審神者の好みなのだろう。国広は大包平が来るまで知る由もなかったが、審神者は甘党らしい。そして大包平は、恐らく甘過ぎるものは苦手だ。二口ほど食べて直ぐに、茶を淹れてくると台所へ向かってしまった。国広はそのどちらでもなく、ただ、なんとなく「甘い」と感じられるようになったのも、大包平が来てからだなと思っていた。
「山姥切国広、お前の分も淹れてやったぞ」
「ああ、すまない。ありがとう」
「流石に甘すぎやしないか」
「確か……品種によって違うんじゃないか? 手配を任せ切りにしていたからな、審神者の好みが出ているだけだ」
 そんな何気ない会話を向かい合って出来る。大包平が当たり前のように、なら次はもっと別のものを頼むと先のことを口にする。そんな国広にとって得難いものを、噛み締めて飲み込んだ。



 イトフユ本丸の審神者がとうとう起き上がれもしなくなったのは、冬至の過ぎた頃だった。元から持っていた病が進行していたのだという。それは今の時代では治せない、ただ症状や進行を遅らせるだけしかできないものだと。
 大包平はその説明の殆どを上手く理解できなかったが、つまりは審神者の死期が近いということだけは分かった。そして、審神者がイトフユ本丸から去ったとしても、国広と大包平の二振がここでこれまで通り過ごせるように計らってあるとも。ならば、大包平が出来ることは、それを粛々と受け入れることだけだ。
 大包平は国広以外の刀剣男士と過ごした経験などない。元いた本丸と、イトフユ本丸以外の他の本丸を、他の刀剣男士を、他の審神者を、大包平は知らない。イトフユ本丸のように、大包平の特異性を作り変えずにいられる場所が他にあるのか、今の己では何かの折に反射的に拒絶してしまうのではないか。そんな懸念を持ったままで、外に出たいと思えなかった。
 それに、国広を一振置いて外に出たとて、彼はどうなるというのか。大包平が元いた本丸で抱えた孤独とも違う、この静かなイトフユ本丸で、たった一振で過ごす孤独を、知らないなりに虚しそうだと思う。それを国広に抱えさせて、己だけが外に出ることを、大包平は良しと出来ない。出来ようはずがなかった。手に入れたものを失わせるなど。
「ああ、感謝する」
 だから大包平は、それだけを審神者に伝えた。大包平の得られなかったものを与え、この離れで二振が外に出られるように、命を削るように特異性の研究をしていた審神者への、大包平が持てる最大の賛辞だった。

 国広は、審神者の死が迫っていること、このままイトフユ本丸で生活できるようになっていることは飲み込めた。けれど、大包平がそれを受け入れた理由が分からなかった。外は、他の本丸や政府施設は、大包平の知らないことだって多く知ることができるはずだ。何かを抱えていたとて、それを癒す手立てだっていくらでもあるはずだ。大包平に、そこまでイトフユ本丸に居続ける理由など、本当はないのではないかと。
 国広がイトフユ本丸から出られる日。審神者もそれを望んでいた。研究に熱が入っていたらしいとは、知っている。けれど国広にとって、それは途方も無い望みだった。ここで過ごす日々を気が遠くなるまで続けて、いつか誰からも忘れられてしまうだろうと、心のどこかで思っていた。それが己の特異性が持つ当然の帰結だと。
 だから、離れで隣に座っていた大包平が、イトフユ本丸に残ることを決めたのは、己のせいなのではないかと。国広は、大包平をこのイトフユ本丸に縛り付けるような真似はしたくなかった。けれど安堵しているのも嘘ではない。元の本丸から移って、それを過去としてしまえたのは、本丸の形が全く違うからだ。
 イトフユ本丸には、まだそう多くはないが、大包平と過ごした半年分の思い出が色濃くある。その思い出の墓標と共に一振で生きることに耐えられそうもない。だからそうなれば自身の本体を折るつもりはある。けれど、国広には己の命や特異性ですら、大包平を縛り付けるものとして扱わない。大包平には、大包平の意思があるのだから。
 だというのに、大包平は国広を見捨てない。イトフユ本丸で共に暮らし続けるという。それを喜んでしまう。国広の特異性が、大包平を縛り付けているようなものだと言うのに。
「ああ、分かった」
 考え込んでいた国広が、審神者にどうにか直接伝えられたのは、それくらいだった。そうして深々と頭を下げる。ただの研究材料としてではなく、刀剣男士として生きる場を与えてくれた審神者への、精一杯の感謝だった。

 審神者が書き記していた指示を元に、国広と大包平は離れの整理をしていた。政府施設にいる研究者に引き継ぐ書類や資料、そして審神者の生活用品の整理だ。その中で、二振はそれぞれの持つ特異性が、対外的に『祝福』と呼ばれていることを知った。それと同時に、これが『祝福』とよくも呼べるものだとも。
 本当にそれが何かしらの『祝福』であるなら。大包平は持ってしまったが故に作り変えられるべき不完全性と見做されたのは。国広の持つものが殆どその言葉と対極なものであるのは。二振がこのイトフユ本丸で暮らしているのは。果たして何だというのだ。
 ただ、大包平は元の本丸の審神者にとっては、正しく『祝福』であったのだろうと思う。あの常春も、聞こえてくる楽しそうな声も、きっと『祝福』を忌むべきものとしていなかったからだろう。ただ、大包平の持った『祝福』が、その審神者にとっては不完全なもの、変えなければならないものだっただけで。それを拒絶してしまった大包平は、本当ならばその『祝福』の不完全性を変えてもらうべきだったのではないか、とも。
「資料や書類はこれだけか」
……ああ。あとは手順書の通りに物資転送をすれば良いらしい」
 箱に封をした国広に話しかけられて、大包平は手元にある審神者の指示を読み返す。審神者の血縁者、弟だと言う人間の意向で、審神者は緩和ケア病棟に身を移されている。審神者という職だったこと、特異性を踏まえて、配慮はされているらしい。ただ、その血縁者に看取られる。その死が来た時に端末に連絡が入ることくらいが、二振の理解できることだった。
 離れにあるのは、転送する物以外はもう、病棟にも持って行けないもの、審神者が残していたものくらいだ。それも、審神者は早くから身辺整理を進めていたのだろう。遺されていたものは、数着の衣服と、審神者が毎日用意していた飲み物を入れていたコップやマグカップだけだった。国広と大包平の分だけかと思えば、そこに審神者のものもある。
 ここで初めて、二振は毎日飲んでいたものを審神者も飲んでいたのだと知る。色の違う揃いのコップやマグカップで、深く関わらないなりに、審神者は二振と共有していたものが確かにあったのだ。
……どうする、山姥切国広」
……コップやマグカップは母屋に置いておこう」
「服は……
「そうだな……虫干しが出来れば残してもいいんだが……
 今更、大切な、形見の物のように残して何になるのか。そんな問いはどちらも出せなかった。主と、呼んでも良かったのかもしれないだとか。無理矢理にでも、多少強引にでも、審神者と二振で過ごす時間を増やしても良かったのかもしれないだとか。がらんとした離れの中で、二振はそれぞれの胸に去来した後悔を持て余して、暫く立ち尽くしていた。
 イトフユ本丸に遺されたもの。その中に国広と大包平も入っているのかもしれない。
 国広は、元いた本丸の審神者や刀剣男士たちを置いて出て行った。彼らはこんな、今の国広のような、降って湧いた喪失感を抱えただろうかと、僅かに思う。すぐさま、そんな事はあり得ないだろうと打ち消した。
 何せあの本丸で不和を生み出した側だ。イトフユ本丸の審神者のように、どこかに籠って少しだけ関わるようにも振る舞えず、ただ黙って立ち去っただけの己が、あの本丸に何を残したと言うのか。
 それにもう、彼らはとっくに国広のことを忘れているに違いない。過去のこと、終わったことなのだから。
……服は、後で考えるか」
「そう、だな。物資の転送と、コップの移動だけ済ませよう」
 大包平の、常より覇気のない声に応えながら、国広は封をしたばかりの箱を抱え上げた。
 それからたった数日後、服をどうするか決まりきらない中で、端末に審神者の訃報が届けられた。酷く簡素な報告だけの文面だったが、それを見た国広と大包平は、離れで黙祷を捧げた。情感を煽られていれば、二振ともここまで静かに過ごせなかったかもしれない。本丸の空に、雪の気配が強まって来た頃だった。



 本丸はすっかり雪景色だ。大包平も最初の数日こそ積もっていく雪に目を丸くしていたが、積もり切った状態が続けばもうすっかり見慣れてしまった。
 審神者の言った通りに、国広と大包平は変わらずイトフユ本丸で過ごしている。端末を介して必要なものを頼む手順などは、審神者が書き記してくれていた。時折、政府からの連絡が届く程度で、イトフユ本丸を訪ねる者はいない。そうせずとも、国広の持つ『祝福』の影響を逐一感じさせずとも、本丸で過ごせることを、審神者が考えてくれたのだろう。
 国広と大包平は、一日に一度、審神者のマグカップに飲み物を入れて、二振で同じものを飲むことが日課になっていた。その度に、国広も大包平も審神者へ思いを馳せる。手向けというには酷くささやかで、静かだ。冬の本丸に花はなく、ただ白い景色を窓から眺めて過ごすだけ。それでも、それは二振にとって意味のあるものだった。
……審神者の、服をどうする」
「そうだな……大包平は、どうしたい」
「俺に訊ねる前に、お前はどうなんだ」
……分からない。残すべきとも思うが、使われないまま仕舞われることが、良いとも思えない」
「俺もだ」
 国広も大包平も、何度もそんな会話を繰り返していた。使われもしないまま、家宝のように扱われない、ただ死蔵されるだけの物。そういう物への、憐れみもあった。審神者がイトフユ本丸に居たのだと示す物として残す物。そういう形の一つとして、残しておきたい気持ちだって確かにあるけれど、二振ともどうにも、物の気持ちまで考えてしまう。刀剣男士として皆がそうなのかは分からないが、こうしていつも有耶無耶なままに終わる会話だ。
 二振だけの生活になって、何か大きな変化があったわけではない。ただ、互いに見えるものが増えていくような感覚があった。
「おい、明日は雪掻きをするのか?」
「そうだな。本来なら、玄関先から門までは毎日した方がいいんだろうが……
「二日三日では大して変わらなかったな」
 居間から繋がっている和室の炬燵に入りながら、窓の外を見ながら言葉を交わす。本丸の景趣というのは不思議なもので、圧し潰されそうなほどには積もらない。ある程度まで積もってしまえば、そのままの状態で保たれていた。それが本来のものなのか、二振きりでは雪掻きだけで毎日が過ぎてしまうことを懸念した審神者がそうしたのかまでは分からないが、母屋の中に籠りきりにならないことはありがたかった。
 それに、と大包平は思う。手分けをして雪掻きをしていた時にちらりと見えた、国広の懐かしさとも哀しみともつかない目が浮かべていた、昏い色。あれを毎日のように見るなど、大包平も望んではいない。
 ただ、大包平のいない所ではああいう昏い目をしているのではないか、と思うきっかけでもあった。何かを諦め切ったような、まるで一振だけで生きているかのような。だから、という訳ではないが、大包平は。
「おい、蜜柑がなくなったぞ。貴様、食い過ぎではないか?」
「今日はまだ四個目だ」
「はぁ。仕方がない、茶のついでに持って来てやる」
「ああ、ありがとう」
 大包平は、国広から離れる時には必ず声を掛けるようになった。国広が何を抱えているのかまでは知らないが、大包平が出来るのはそれくらいだった。一振だけで生きている訳ではないのだと、言外に伝えることだけが。
 何せ国広は、その己の目を自覚はしていないだろう。そこへ無遠慮に触れてはいけないことくらい、大包平も理解している。大包平は、どうすれば国広がそういった目をしなくなるのかも分からない。他者との交流の経験が殆ど無い大包平にとって、知らないままに柔いであろう部分に手を出すことなど出来るわけもなかった。
 明け渡されたとて、抱えてやれる訳でもない。共倒れをしたいわけではないのだ。ただ、こうして日々を過ごせていれば、それで良いだけで。

 炬燵から出た大包平の背を目で追った国広は、何故かは分からないが気を遣われているような心地になっていた。最近の大包平は、国広から離れる時、そして戻る時に分かりやすく声を掛けてくる。審神者の死が大包平を変えた、という訳でもなさそうだ。もしかしたら、二振きりになってから会話をせずに共に過ごすことが増えたせいだろうか。
 変化のない閉じた本丸で、しかも雪の中だ。目新しい話題もない上、二振の中の無言は居心地が悪いわけでもない。国広はそう思っているから、口数が減ったような自覚もあるのだ。それが、大包平は不満なのかもしれない。放っておけば最低限しか口を開かないような国広が、口を開くように気を遣っている。国広の見立てはそんなものだった。
「おい、山姥切国広、今ある蜜柑はこれで全部だ」
「ああ、すまない。明日また届く予定だ」
「そうだったな。だが俺も食うんだぞ、少しは加減しろ」
「善処しよう」
 テーブルの上に新たに置かれた蜜柑を載せた籠から、大包平の手が離れたことを確認して、国広は蜜柑に手を伸ばした。どうにも、大包平は触れそうな近さが苦手なようだと国広が気付いたのは、審神者が死んだ後のことだった。イトフユ本丸で漸く炬燵を出した、その頃に。
 最初は、初めてだろう炬燵に戸惑っていただけかと思っていたのだが、そういう訳でもないようだった。大包平は直ぐに一振ででも炬燵に入っていたのだから、それ自体が苦手ではないらしいと分かるのも早かった。
 ただ、蜜柑をテーブルに置くようになって、互いに手を伸ばせば偶然に手が触れそうになることが度々あった。その時、大包平が自覚しているのかはともかく、一瞬だけ動きが止まる。目に緊張が浮かんでいる。そう国広が気付くのは容易かった。だから、国広は炬燵の中で足が触れないように気を付けているし、大包平の手が伸びたなら国広は手を引っ込めている。
 大包平が何を抱えていて、そして何故イトフユ本丸に居続けることを決めたのか、国広には分からない。聞くこともできない。けれども、同じ本丸で暮らしているのだ。不必要な緊張など、与えずとも良い。国広は大包平のためだと、そう自身に言い聞かせている。大包平にとって無意識の反応だとしても、拒絶されたら国広は、平静を保てるのか自信がなかった。
 きっと大包平の方が余程深いものを抱えている。国広はそれを暴き立てる度胸もない。拒絶されたら、嫌悪されたら、例えばそうすることで、大包平の持つ『祝福』が無くなってしまったら。大包平が、更に傷付いてしまったら。
 一振だけで生きていくことを覚悟していたかつての己はなんだったのか。もうとっくに、大包平と共に過ごす日々を手放せないのだ、国広は。だから静かに、大包平が落ち着いて暮らせるように整えることは、自分本位の考えでしか動けない贖罪のようでもあった。



 母屋の中にある道場で、大包平は毎日のように刀を振るっていた。時折、国広との手合わせもしているのだが、そもそもの実戦経験の差は変えられない。それでも、少しずつでも埋めて行けるようにと、大包平は鍛錬を欠かさなかった。

―― 春は、始まりの季節だと思っているよ。

 いつか、もう居ない審神者がそう言っていたのを、大包平は鍛錬の後にいつも思い返す。その審神者の感性を、大包平は理解出来た試しがない。大包平にとって、春とは終わらない、隔てられたものだった。始まるものなど、大包平には存在しなかった。けれど、その時の審神者の、何かを懐かしむような穏やかな表情までは、否定出来ようもない。
 刀剣男士として実戦をこなした経験も無い、穏やかな、普通の本丸で持つであろう知識や思い出も無い、己を顕現した審神者からは不完全なものとされた。そんな自身にも、始まるものがあるのだろうか。大包平には分からない。壁一枚隔てた先に見える希望など有りはしなかった。
 拒絶だ。大包平にとっての春は、その言葉に尽きた。冬の後に来る春が、大包平は恐ろしいのだ。
「くそ、軟弱だぞ、大包平」
 己に言い聞かせて頭を振り、大包平は道場を後にした。恐れに呑まれることなど、あってはならない。それこそ己がまだ弱いことの証左だ。もっと、もっと鍛えなくてはならない。そうでなければ。そうでなければ、いつか。
 いつか、このイトフユ本丸から出られる日が来て。国広を守り支えることなど、彼を一振に、孤独にさせないことなど、出来るはずがないのだから。不完全なものとされた己の居場所を、守り通すことだって。
 大包平にとってすっかり日常の景色と化した雪景色を、廊下の窓から眺める。果たして己は、イトフユ本丸の外に出たいのだろうか。大包平の自問に、答えはない。


 現世の暦ではとっくに春を迎えている中、イトフユ本丸はまだ冬が続いている。国広にとっては、暦と違う景色が見えるのは初めてのことだった。審神者と大包平と共に決めた結果とは言え、実際に冬が続いていくというのは、国広からしてみれば不思議なものだ。そんな中で、大包平が毎日のように道場で鍛錬していることが、国広には小さな引っ掛かりとなっていた。
 大包平は、どうやら実戦経験も無いらしい。それでも、刀剣男士としての本分を果たしたいと思っているのだろう。国広は、本当ならこのイトフユ本丸のゲートから出陣もできることを知っている。自身の『祝福』の影響が戦場でどう働くのかが分からないので、国広はそもそも出陣するつもりも無いが。何より、そもそもゲートは封鎖も何もされていないのだと分かっている。大包平がどう捉えているのかは分からないが、もしそれを教えて、彼が此処から出て行ってしまったらと思えば、国広の口は重くなってしまう。本当ならば、大包平に教えなければならないもののはずだというのに。
 例えば大包平が一振で出陣しなくとも良い。端末で政府と連絡を取って、他の政府所属刀剣男士と共に出陣したって構わない。国広とは違って、大包平にはそれが出来るのだから。そうすべきだとは、国広も考えているのだ。
 それに、国広はこの冬が「終わらない」と思っている。審神者は、いつか国広たちが外へ出られる日が来ると信じているようだったが。大包平はともかく、国広が外へ出られる日など、当刃とて来るはずがないと考えている。外へ出られる日は、春なのだと審神者は言っていた。だから、イトフユ本丸にもう二度と春は来ないと、国広は思う。
 そんな冬の中に大包平を留めておくくらいならば、彼がこの冬を厭うより先に、冬を厭う季節にしてしまう前に、彼を手放してやるべきなのだ。国広は、この冬の中で忘れ去られて朽ちたとて構わない。けれど、大包平は違うはずだ。本来なら、イトフユ本丸以外でだって過ごせるはずだ。だから、大包平に外への道を、教えるべきなのだ、本当は。
 それでも国広は、言えなかった。せいぜい、大包平が外に出たいと言い出した時に教えてやれば良いと、己に都合の良い猶予を作る覚悟しか、国広は出来なかったのだ。大包平の意思を尊重すると言えば聞こえは良い。けれど、単なる利己的な理由だ。大包平と共に過ごす時間を、自ら手放したくないという、あまりに自分勝手な。
……すまない」
 届くはずのない、大包平への謝罪を小さく口にした国広は、それでも何食わぬ顔をして自室を後にする。すっかり日課となって久しい、同じ飲み物を用意するために。



 国広の元いた本丸の審神者は、人に「好かれ過ぎる」ような人間だった。だからこそ、現世とは離れた本丸で働く審神者という道を選んだのだと。その「好かれ過ぎる」ことこそ、その審神者の持っていた『祝福』だった。それが無くとも立派に審神者を務める良い主であった。
 けれど、人間と全く関わらずに過ごすことは、審神者であっても難しい。その「好かれ過ぎる」特異性でトラブルに巻き込まれ、そこに初期刀であった国広を始めとする刀剣男士たちをも巻き込むことに、審神者は何度も頭を下げていた。
 そうしながらも続いていた本丸で、審神者はとうとう、収めきれない問題に巻き込まれた。政府、他の審神者、現世の人間が絡んだ上に、審神者を庇った国広が怪我を負ったのだ。国広からしたら当然でもあったし、傷も大したことはなかったのだが、審神者の心には堪えたらしい。
 すっかり塞ぎ込んで、本丸の自室から一歩も出ないような有様だった審神者を見かねて、国広はその特異性を己が肩代わりしようと決めたのだ。
 結果として、国広はイトフユ本丸に来ているが、元の本丸の審神者は、そのまま審神者を続けている筈だ。だからこれで良かったのだと、国広は思っている。
 例え、審神者から受け取った特異性が反転した、悪感情の増幅を己が持ってしまったのだとしても。それで本丸に不和を生み出してしまったとしても。己が離れれば全てが収まるのだから、審神者が心穏やかに本丸に居られるのだから、国広にとってはそれで良かったのだ。
―― っ」
 それでも、国広は未だ夜毎のように夢に見てしまう。冷たい目、無関心な目、嫌悪を浮かべた目。それらに晒され続ける心地に突き落とされて、目を覚ます。
 本来ならば、お前はそうして生きていくしかないのだと、現実を突き付けられているような心地だった。冬の中でのそれは、大包平をイトフユ本丸に留めておくなという、警告のようにも思える。
 何度か深呼吸をして気持ちを鎮めても、もう一度眠る気にもなれない。無理矢理にでも寝てしまえば、今度はもっと酷い夢を見ることは分かりきっていた。繰り返せば嫌でも身に染みてしまう。イトフユ本丸に冬が来てからずっと、国広は目を覚ましてからは再び寝入ることなく、一人で夜を過ごしている。
……分かっている。分かっているんだ」
 己に言い聞かせるように呟いて、国広は自身の持つ『祝福』を宥めすかしているようだなと、自嘲した。持つと決めたもの、誰かに渡すまいと決めたもの、消す術もないもの、そんなこと、国広はとっくに覚悟を決めて受け入れている筈なのに、何故こうも夢に見てしまうのか。元いた本丸でのことはとっくに終わったものだ。ただ『祝福』が、そうさせているのだと、国広は信じきっていた。



 冬の、雪の中の夜は殊更に静かだと大包平は思う。未だに度々、悪夢を見ては飛び起きる日がある。そういう日には、その冬の夜の静けさを強く感じてしまう。冬になってからは、こんな夜更けに国広と顔を合わせることもなくなっていたから尚更そうだ。大包平は、台所で一振だけでホットミルクを作って飲んでいる。
 国広は、己のようにこんな夜を過ごすことはないのだろうか。こうして一振で、元いた本丸での記憶や、悪夢を忘れようとして、大包平は国広のことを考えてしまう。元いた本丸と悪夢は繋がっている。気持ちを落ち着かせるために浮かべられるものが、大包平にとっては国広しか居ないのだ。
 イトフユ本丸だけが、大包平の世界の全てと言っても過言ではない。それは矮小であることくらい、大包平だって分かっている。端末に時折届く政府からの連絡や、物資の注文を大包平だってやっているのだ、外にはもっと違う世界があることくらい、分かっている。いつかそこへ踏み出す日が来るだろうことも。
 そして、大包平は、イトフユ本丸のゲートが封鎖されていないことも知っているのだ。外へ出られない国広に告げてはいけないような気がして黙っているが、大包平は政府からの連絡には一通り目を通して、ゲートは自由に使えるということを理解している。ただ、大包平はゲートの使い方など教わったことはない。例え知っていたとして、国広を置いて外に出ようなどとは思えないけれど。
 冬と春の違いこそあれ、一振だけ周りから閉ざされる孤独を大包平は知っている。常春の中にいた大包平自身と、いつまで続くとも知れない冬の中の国広を、どうしても重ねてしまう。国広をイトフユ本丸に置いて行くことは、かつての己の孤独を彼に押し付けるようにも思えてしまう。だから大包平がイトフユ本丸に留まっているのは、国広の為であり、自身の為とも言えた。外へ行くことを躊躇う弱さを誤魔化しているようでもあったが、それでも大包平の中では確かな理由だ。
……下らんな」
 大包平は溜息を吐くと、すっかり空になったマグカップを洗い始めた。
 一つの筋に纏まらないものだ。纏め上げる力も無い。もしも国広が外に出られる日が来たら、大包平の不完全性などきっと必要とされなくなる。その事実を直視することも、まだ出来ない。結局はまだ己が弱いだけだ。そうなった時に心が折れるなどと言う醜態を晒さない為にも、春が来るまでに更に強くならなければならない。
 すっかり片付けの済んだ台所を後にして、大包平は自室に戻っていった。途中、国広の自室の前を通り過ぎたが、やけに静かだった。きっと寝ているのだろうと、大包平は物音を立てないように気を遣いながら思っていた。



 イトフユ本丸の冬は、もう一年以上続いている。暦を捲り、現世はとうに初夏だと気付く位には、二振とも続く冬を当たり前のことと受け入れていた。大包平がイトフユ本丸に来てから数えると、もう二年ほどの月日が過ぎている。
 その日は丁度、ゲートでもある門から母屋の玄関先までの雪掻きをしていた。一年以上もまめに雪掻きをしていればすっかり慣れて、手際も良くなるし雪掻きをした後の見栄えも悪くはない。日が天頂に登るより先に二振で雪掻きを済ませて、後は片付けをするだけだという頃合いだった。
……何だ?」
……これは」
 本丸の空気が僅かに揺らいだ気がして、大包平が辺りを見渡す。国広は既に見当が付いているのか、強張った表情で門の方へ視線を向けていた。そこで漸く、大包平はこの揺らぎがゲートが動くと生まれるものなのだと知った。それと同時に、大包平の中にも緊張が生まれる。
 ゲートが動いたということは、政府施設か何処かから、誰かがイトフユ本丸に来たということ。ゲートが封鎖されていないと証明されたということ。そして国広は大包平が居なくては対面が出来ない。けれど、大包平は、国広以外の刀剣男士を知らない。関わり方も分からない。元の本丸で聞こえた声と同じ誰かだとしたら、緊張どころか落ち着いていられるかも分からない。
 だが、国広のことを考えれば、間違いなく自身が行くべきなのだと大包平は理解している。何せ向こうは直ぐに引き返した訳でもない。空気の揺らぎはあれきり無い。
……山姥切国広、片付けは任せた」
……大包平」
「お前では、いけないだろう」
……すまない」
 どちらも張り詰めた声だった。互いの表情すら良く見る余裕もない。今までの生活が、互いに薄氷の上だったのだと薄らと感じる。イトフユ本丸の中で、二振だけだからこそ平穏が成り立っていたのだと。
 道具を受け取り、門へと向かう大包平の背中を、国広は見送る前に背を向けた。
 知られてしまった。国広の中にあったのは、そればかりだった。本丸のゲートが封鎖されていないことが、使えることが、大包平に知られてしまった。外へ繋がる道があることを、大包平が知ってしまった。ならば、もしかしたらもう、大包平はこのイトフユ本丸の外へ出て行ってしまうのではないか。外へ出たいと思ってしまうのではないか。
 いつかは来ると思っていた日が、来てしまうのではないか。
 大包平の意思を尊重すると決めながら、いざその時が目前に迫った今、国広の中を占めているのは大包平を手放したくないという、あまりに身勝手な感情だった。物置部屋に雪掻きの道具を片付けながら、国広は自身の手が僅かに震えていることに漸く気付いた。
 恐ろしいのだ、大包平との別離が。改めて訪れるであろう孤独が。まだ決まった訳ではないと己を落ち着かせても、ゲートが封鎖されていないことを、そしてゲートの使い方を、教えなかったのは国広の独断だ。大包平に問われれば、謝る他ない行いだ。黙っていたことを知られて、それで嫌気がさしたと言われれば、国広はもう利己的だろうが引き留める理由すら失ってしまうと、そう思えるほどの愚行だった。
 誰がやって来たのか、大包平と今どんな会話をしているのか、国広は分からない。ただ、剥がれた平静の奥で、大包平を連れて行くなと願う己がいる事を、もう無視をしたり、誤魔化せるとも思えなくなっている。
……どうして」
 国広は力無く呟いた。どうして今なのか。今になって。今更。それでも変えられない現実だ。一つ大きく息を吐いた国広は、物置部屋を後にした。


「ゲートの安全が確認できるまで、暫しお邪魔させてくれないかい?」
 門の辺りに居たものは、政府所属の刀剣男士、歌仙兼定と名乗った。大包平はその姿を初めて見たけれど、声は良く知っていた。距離を置いて立ち止まったままの大包平に何かを察したのか、単に相手も様子を窺っているのか、少し大きな声で話しかけられる。知っている声。元いた本丸で、良く審神者に食事の時間だと伝えていた声だ。冬の冷たさがなければ、大包平はイトフユ本丸にいる事を忘れてしまいそうだった。
……分かった。そのまま、付いて来い」
 流石にこの雪の中に留めて置くのは気が引ける。どうにか声を上げた大包平は、平静を装えていたか分からないが、歌仙が何も言わないのを良いことに、さっさと母屋の方へ向かって行った。
 母屋に客が来ることをそもそも想定していなかったのだろうイトフユ本丸に、応接間はない。審神者がいた頃には、万が一にも来客があれば離れに案内するようにと言われていたが、その審神者はもういない。大包平は離れに知らぬ誰かを入れる気にならない上に、門から離れまでの動線は雪が積もったままだ。かと言って空部屋に通してはおかしいだろうとは、あまり物を知らない大包平ですら察せられた。
……大したことは、出来ないぞ」
「構わないよ。エラーとはいえ、いきなり来てしまったのは僕の方だからね」
 結局、居間に歌仙を通した大包平は、少し待つようにとだけ告げて台所へ向かった。心臓が早鐘を打って、じわりと汗が滲むのが分かる。あの歌仙は、元の本丸の彼ではないとわかっているのに、それでも大包平の記憶に残る声だというだけで、異様な程に身が固まってしまった。大包平自身が思う以上に、あまりに軟弱な己に嫌気がさしそうだ。
「大包平」
……政府所属の歌仙兼定だった。ゲートの安全が確認できるまで居間に居させる」
「それなら俺たちの方からも政府に連絡しておこう。それと、本来なら茶くらいは出すべき、なんだが……
……どうする」
 台所では国広が湯を沸かしている所だった。大包平はその姿を見て、ようやっと一息吐けた心地になる。どこか気遣わしげな国広の呼びかけに、大包平は自身がよほど酷い顔でもしていたのかと思い至る。けれども目の前の問題と言えば、来客を全く想定していなかったこの母屋に、他人に出す湯呑みの一つもないことだった。審神者のマグカップを使わせたくないというのは二振共が思っていた。客を厭っている訳ではない。ただ、彼等にとって審神者の物とは、それだけの意味を持っていたのだ。
……大包平。そもそも確認したことは無かったんだが、アンタはこの本丸の説明をどれだけ聞いているんだ」
「今更だな。俺はただ、政府の管轄にある特殊な本丸だと聞いている。審神者も、特異性を持つものの本丸だとしか」
……成程」
「どうした、山姥切国広」
「アンタに立ち会って貰う必要はあるんだが……歌仙兼定への説明は俺がする。茶でも飲みながら聞いておけ」
 国広はてっきり、大包平にも政府や審神者がイトフユ本丸の詳しい説明をしているものだと今まで思い込んでいた。それこそ、対外的な説明が出来るようにと。だがどうやら、これは。恐らく政府や審神者は、国広が教えるだろうと思っていたかもしれない。或いは、もしかしたら彼等の気遣いだったのだろうか。実質一振だけの生活をしていた国広に、大包平との関わりを持つ理由を与えたかったのだろうか。
 まだ国広の意図を飲み込めない大包平に、端末で政府に連絡を送るように伝える。国広はそれを横目に茶の用意を進めていた。歌仙兼定。国広の元いた本丸にもいた刀剣男士だ。イトフユ本丸に迷い込んでしまった彼個刃に思うところがある訳ではない。それに、強張って青い顔をしたまま台所に来た大包平には申し訳なさがあるが、彼が側に居さえすれば、あんな目を向けられることはないのだ。国広は己に言い聞かせながら、二つのマグカップに茶を入れた。

「すまない、待たせたな」
 大包平を連れて居間へ入った国広は、平静を保ちながら手に持っていた自身のマグカップを歌仙の前に置いた。
「本来、この本丸は来客がある場所ではない。だからまあ、これでも持て成している方だと思っておいてくれ」
 僅かに眉を跳ね上げた歌仙を牽制するように、国広は先んじて言葉を重ねた。湯呑みでもないマグカップで、しかも茶請けになるようなものもないが、事実、それが今のイトフユ本丸で出来得る限りの持て成しだった。
「成程。さて、僕は政府の歌仙兼定だ。必要なら所属も明かす用意はある。突然来てしまった形なのに、対応して貰えたことは感謝しているよ」
「俺と大包平は、政府では研究四課の所属、となっている筈だ。そう説明を受けているからな」
……研究四課か。政府の中では比較的新しい部署だったね、軽くだけれど聞き及んでいるよ。僕は演練部だからあまり馴染みがないけれど」
「そして此処は、政府直轄本丸だ。確か第三本丸、と聞いている。一応こちらからも、政府の歌仙兼定を保護していると連絡は送ってある」
 国広がすらすらと語る説明は、大包平も半分以上が初耳だった。ただ、台所で国広が前もって確認をして来たことから察するに、誰が大包平に説明をするかどうかに行き違いでもあったのだろう。国広が「聞いておけ」と言った意図が、大包平の中でようやく理解出来た。
 恐らく研究四課とは、『祝福』の研究をしているのだろう。審神者以外と対面した記憶は大包平にはないが、外でも研究が為されていることは、離れを整理していた時に良く分かっている。歌仙の声に未だ緊張は走るのだが、大包平の中では知らなかったことを咀嚼して理解を繋げる方が忙しく、気が紛れている。無知を未熟と取っていたが、今の大包平は己の無知に救われていた。
「ふむ、政府直轄第三本丸だね。僕もこの第三本丸にいることを政府に伝えておくよ。失礼」
 言いながら、歌仙は懐から携帯用端末を取り出した。国広は見知っているものだが、大包平は初めて見るかもしれない、と横目で彼の様子を伺う。イトフユ本丸では帳面の大きさの端末を使っているし、特に離れている中で連絡を取り合う必要もないのだ。大包平はまだ強張った表情だが、目で歌仙の使っている端末を捉えている。後で大包平に説明をする、と国広は頭の中に記した。
 ずっと、互いに様子を窺って関わるばかりだった。国広とて大包平を無知のままにしておきたい訳ではないが、そもそも彼が何を知っていて何を知らないのかすら、聞くことが出来なかったのだ。元の本丸がありながら、大包平が無知であることから、聞くこと自体が彼を傷付けるのではないかと、恐ろしかったのだ。
「それにしても、君は修行に行って帰って来た山姥切国広なんだね。政府でも何振か見掛けるよ。僕は生憎、まだその踏ん切りが付かなくて」
……その時が来れば、自ずと行こうと決断できる、とは思うが」
 大包平の視線が痛いほど己に突き刺さっている。国広は其処で初めて、彼がそもそも『山姥切国広』を知らなかったのだと悟った。当たり前のように接して来たものだから、国広も気にすることなく流してしまっていた。そもそも、大包平と対面した時には国広が彼を警戒、と言うよりは自身の『祝福』の影響をいつ受けてしまうかと、恐れていたせいでもあるかもしれない。
 しかし、それでは大包平が外に出た時に困るだろう。否、大包平もだが、国広以外の、修行に行っていない『山姥切国広』が困る。同じ存在なのだ、断言出来る。大包平はいつかこの本丸の外に出るべきだと思っている側の心は、流石に看過出来ないと言っている。けれど、大包平を手放したくないという側の心は、仄暗い喜びに満ちていた。大包平が知っている『山姥切国広』は己だけなのだという事実に。
「この本丸には君たちだけなのかい?」
「ああ、俺と大包平だけだ」
「景趣は冬のままなのかい? それだと時間を持て余しそうだね。本は読むかい? 対応して貰った礼に、後で何冊か見繕って送ることも出来るけれど」
……そうだな。俺も大包平も、物資として本を頼んだことは無いな。馴染みが無くて選び方を知らないんだ」
 国広の表情が僅かに強張ったことに、大包平は目敏く気付いてしまった。何か、歌仙の言葉の何かが、国広の柔い部分を引っ掻いたのかもしれない。ただ、大包平からしても、単なる雑談のようにしか思えない会話だ。元の本丸での記憶に引っ掛かるのだろうか。
 日常生活のこと以上に、大包平は国広のことを何一つ知らなかったのだとまざまざと突き付けられたような心地だ。大包平はそもそも語れるような知識や思い出がない。問われても知らない事ばかりだろう。けれど、国広はそうではないのだ。元の本丸でのことや、審神者と国広だけだった頃のイトフユ本丸でのことは、聞いても良かったのかもしれない。
 ただ、大包平は自身の知らないことを知り、抱えていくことにばかり意識が向いていた。己が何を知らないのかも分からないまま、聞くべきことも良く分からない。国広に柔い部分があることだけは察せられたから、無遠慮に手を突っ込むことも出来なかった。本当は、ほんの少しずつ手を伸ばしても、良かったのだろうか。何も分からないまま、ただ知らない事の多さだけが積み重なっていく。
 殆ど国広ばかりが歌仙と会話をしていた。国広のように初対面の誰かと雑談をするには、大包平はあまりに引き出しが少なかった。割って入ることも出来ないままの大包平に、歌仙は特に気を悪くしたようでもないのは幸いだ。もしかしたら、政府所属ゆえに何か事情があるのだと察して、深くは聞かないようにしているのかもしれない。
 それから程なくして、歌仙の端末に安全確認が済んだと政府から連絡が入った。
「君たちがどうしてこの本丸にいるのかは分からないけれど、君たちといつか政府施設で会えることを楽しみにしているよ」
 ゲート前で歌仙兼定はそう言い置いて帰って行った。きっとそれは彼の本心なのだろう。けれど、その言葉は今の国広と大包平には重いものだった。
 歌仙が帰った後も、二振は暫くその場に立ち尽くした。互いに、何を話せばいいのか、どう切り出せば良いのか、どう話せば相手を傷付けずに済むのかと考え込んでいる。それでも冬の冷たさに、国広が「ひとまず戻るか」と呟いたことで、ようやく揃って母屋へ戻って行った。



 どことなくぎこちないまま、揃って炬燵で暖を取っている。大包平は視線を彷徨かせながら、何と言うべきなのか言葉を探していた。国広は神妙に俯いていたが、いよいよ顔を上げて、大包平の名を呼んだ。
「大包平、すまない」
……な、にを、謝ることがある」
……ゲートの、否、ゲートが使える事を、お前にずっと黙っていた。それに、使い方も。お前が聞いて来ないからと、黙っていて良いものでは、なかった……
 国広はもう、これで大包平が腹を立てて本丸を出て行ったとて、引き留める資格もない。国広の声は僅かに震えて、表情も硬い。そうだ、国広だけが知っていて、万が一の出来事でもあれば、例えば本丸に時間遡行軍が襲撃に来るだとか、そんな時に、大包平だけはゲートを使って政府施設へ逃げ延びるという手も使えないのだ。そういう意味でも、国広は己が黙っていた事そのものが重大な罪のように思えている。
「山姥切国広。俺は……俺は、ゲートの使い方など知らないが、この本丸のゲートが使える事は、知っているぞ」
……何?」
「俺とて端末で政府からの連絡を確認している。見ていれば、この本丸のゲートが使えるだろうと予想くらいつく」
 大包平の言葉に、国広の理解が追い付かなかったようで、呆けたような表情が浮かんでいる。だが、大包平にとってそれは、国広を誹るような罪科でも何でもない。その事実は伝えなければならなかった。その程度で、大包平が国広を咎め立てする筈がないのだ。本丸が襲撃を受ける事例だって、端末に届く一斉連絡で知っている。万が一、そうなったとしても、大包平は国広と共にこの本丸で戦い抜くことも、折れることも、とうに覚悟だけは決めている。
「使い方を聞かなかったのは俺の意思だ。お前が負う責ではない」
……それでも、俺が教えなければいけなかった」
 国広は、どうにも大包平を一から十まで物事を教えなければならない存在のように見ている。大包平の疑念は、その国広の一言で膨れ上がった。大包平とて知りたいと思えば国広に問う。端末で得られる情報だって頭に入れている。持っている知識を結び付けて理解を深める。だと言うのに、国広が責を一人で負おうと頑なな様は、大包平に与える知識を選別できるとでも言いたげに見えた。まるで大包平の意思を見ていない。国広の中で己が対等な位置に置かれていない。それが業腹で、大包平は口を開いた。
「見縊るなよ山姥切国広。俺は、確かに知らない事は多いし、実際に戦場に立った事はないが、かと言ってお前に任せ切り、寄り掛かるような真似はしない」
 大包平の鈍色の瞳に真っ直ぐ見つめられて、国広は言葉に詰まった。国広にそんなつもりは無いのだ。けれど、手放したくないと願う心に引き摺られている己の取った行いは、そう取られてもおかしくはないのだと、漸く思い至った。国広に全てを任せて、寄り掛かること。国広が居なければ外へ行く選択肢すら見つからないような、無知で弱い様を望んでいると取られても。目の前にいる大包平の事を、国広は見ていたようで全く見ていなかったも同然だ。彼の意思を尊重する為などと嘯きながら、本当に、あまりにも身勝手に意思を確かめもせず、その特異性だけを見ていたと言われても仕方がない。
……そんな、つもりはなかった。なかったんだ、本当に」
 茫然としたままの国広が、震える声で呟いた。その事に大包平は面食らった。すっかり顔を青ざめさせた国広は、まるで大包平からの裁きを待っているかのようだ。そうさせるほどの断罪のつもりなど大包平にはなかった。ただ、己が無知で無力ではないと、そのままで居る気はないと、そう言葉にしただけのつもりで。何が国広の柔い部分に触れてしまったのか分からない。
 今まで国広は何も語らなかったから。否、例えば今までのイトフユ本丸での生活で、折に触れて大包平が小さな問いを重ねなかったからか。どちらにせよ、大包平は己が無知、無力で居るばかりではないと宣ったばかりだが、無知を言い訳にして、国広を傷付けない為と嘯いて、踏み込む力を持たなかった。それは間違いなく事実だった。本当に必要だったのは、国広自身を見て、内面に触れることだったのだろう。
……なあ、山姥切国広。ゲートの件は使い方を教えて貰えれば、それで手打ちで良い。外へ行く予定などないしな」
 大包平のその言葉は、あまりにも国広に都合が良過ぎた。だが、それが本当に大包平の意思だけなのか、国広の『祝福』を気にしてなのかが分からない。そこまで踏み込んで尋ねる余裕もない国広は、ただ小さく呟いた。
……アンタは、それで良いのか」
「うん?」
……いや、出陣や遠征だって、まあ俺は付いて行けないが、ゲートが使えれば出来るんだぞ」
「お前が行けないなら、何をすれば良いのかも、帰還する時の事も分からないだろう」
「ああ……確かにそれは無理か」
 他の政府所属刀剣男士と行けば良いとは、歌仙との対面で大包平があれだけ強張っていた様を見てしまったばかりだ、流石に国広も言えなかった。そして国広は、一つ、己で期限を決めた。イトフユ本丸に春が来ることは、もうないだろう。ならば、やはり。今すぐではない、明確な日取りでもないが、大包平が外へ出て行くと、国広を置いて本丸の外へ出ると言い出すまでは、この都合の良い状態を甘んじて受け入れようと決めた。
「ところで山姥切国広」
「何だ、大包平」
「あの歌仙兼定が言っていた修行とは何だ。お前の姿が『山姥切国広』なのは間違いないのだろう」
……少し待っていろ。それを説明するには端末が要る」
 そうして、少し席を立った国広が端末を手にして戻って来ると、何度か指を滑らせてから大包平へ画面を見せた。他の刀剣男士の姿を大包平に見せない為に気でも使ったのか、そこには見慣れない襤褸布を頭から被った山姥切国広の姿がある。何とも勿体無い、と端末に写る山姥切国広をまじまじと見つめてしまう。雪に反射する光を浴びている国広の金糸の髪は美しいものだし、翡翠のような碧い瞳もまた然り。だというのに、どうやらこの端末の中の姿が顕現した時の山姥切国広の姿だと言う。
「何故これは襤褸布を被っているんだ、勿体無い」
「じろじろと見て来る奴が多いからな。その姿の『俺』がいてもまじまじと見るのは勘弁してやってくれ」
 国広曰く、修行前の ―― 初の姿の山姥切国広は、かなり卑屈だと言う。そして、初期刀として選ばれる刀のうちの一振という立ち位置のせいか、比較的どの本丸でも早い段階で顕現することが多いらしい。大包平は自身の元いた本丸で山姥切国広の声、というものを聞いた覚えがない。つまりは、元いた本丸に山姥切国広がいたとしても、この初の姿であれば、卑屈故に大包平の部屋に届くような声を出していなかったのかもしれない。
 それから修行についても説明をされたが、大包平にはまだ何の実感も湧かないものだった。実戦経験がない上に、主と呼ぶべき審神者もいない。ある程度の強さを得たら、自ずと行きたくなる日が来るとは国広の弁だった。ついでに、国広は再び端末を操作して、修行後の ―― 極の姿の山姥切国広の姿を大包平に見せた。わざわざ炬燵を出て戦装束に着替えようとまでは思えないのだろう。炬燵から出たくなくなる気持ちは、大包平もよく分かる。
「うん? 修行に行ったとて、お前のその内番着でも布はあるようにも見えるが」
「ああ、元々ここでは母屋は俺だけだったからな、周りの目もないし、取った方が効率が良くてそのままだった」
……なるほど」
 神妙に頷く大包平に小さく笑みを浮かべながら、国広はさっさと端末の画面を暗転させた。
「それで、他に何かあるか」
「他に、と言われてもだな……
 国広に問われて、大包平は口籠る。確かに知りたいことは多いのだが、国広のその余りにも漠然とした問いに直ぐに浮かぶ疑問を、どれから出すべきなのか、どれなら出しても良いものなのか、大包平には分かりかねた。国広の内面に触れそうなものでも、どこまで触れて良いのかがまだ良く分からない。政府からの通知とて、イトフユ本丸の二振が知っても良い範囲なのだろうとは思っている。出した質問が、その中にあるものなのか、そうでないのかも分からないのだ。
「あ、歌仙兼定が持っていた小さな端末があるだろう。あれは俺たちでも持てるのか」
「確か政府に申請すれば持てる筈だ。すまない、この本丸で必要性を感じなかったから、元々用意していなかったんだ」
「いや、聞いてみただけだ。離れていれば便利なんだろうが、俺たちではあまり意味が無さそうだ」
「そうか? 私的に使うなら別に持っていても良いんじゃないか」
 私的に使う、と言われても大包平にはピンと来なかったようだ。国広も、どう説明したものかと考える。元の本丸では本丸内の面々との連絡用として使うものが多かったが、そもそもイトフユ本丸には二振だけ、外には出ない上に、本丸も広くはないのだ。わざわざ端末を介するよりも対面する方が早い。政府からの連絡や、物資の申請は大包平も問題なく出来ていて、他に使うという考えもなさそうだった。
 そもそも、二振とも形式上は政府所属ということになっているが、政府の仕事らしい仕事をしている訳でもない。時折、政府から届く簡易な採血器具で採血したものを送る程度の、単なる研究協力しかしていない。国広の知っている範囲なら、政府直轄第三本丸の管理、という業務になっていることくらいしか分からない。そんな生活で、確かに大包平に公私の別を教えるのは難しい。
……そうだな、この端末は俺とお前が、政府からの連絡確認や物資の申請で共に使っている。私的な、というのは……例えば俺には見せたくないものを調べるとか、そういうことだ」
「何だそれは」
「まあ、もし必要だと感じたら申請すれば良い」
「それもそうか」
 そうして、少しだけ部屋に沈黙が落ちた。気まずさなどではなく、単に会話の中の小休止のようだった。その間に国広は逡巡していた。大包平は恐らく、知りたいことは多い筈なのだ。だというのに何が知りたいのかという問いは、大包平にとってはあまりに漠然としているのかもしれない。かと言って、まず教えるべき、刀剣男士として必要な知識と言われても、国広もどう説明したものか難しかった。
 ふと視線を動かすと、テーブルに置いたままの端末が国広の視界に入る。大包平は確かに政府からの連絡の確認や、物資の申請でこれを使っている。それはイトフユ本丸で必要なこととして審神者や国広が教えたからだ。だが、大包平は例えば『山姥切国広』の姿だとか、そういうものを端末で確かめられることを知らないようだった。少なくとも、国広が細々と確かめながら教えるよりはと、再び端末の画面を表示させて、大包平の名を呼んだ。
……大包平」
「うん? 何だ」
「そもそも俺は、お前が何を知っていて、何を知らないのか分からないから、実際お前の役に立つかは分からんが」
「ああ」
「刀剣男士としてだとか、生活で必要な知識はこの端末の、これだ、これでも確認できる。それを見た上で、分からないことが出来たら聞いてくれ。……見られない、という場合もだな。それがまず必要なことだ、と思う」
「成程。俺も何が必要なことか分からなかったから、助かる」
 大包平は出された端末の画面を見ながら、ひとまず少しずつ順に見て行くことを決めた。見出しを眺める限り、元の本丸で審神者から教えられたようなものは、あまり書かれていないようだった。彼女は本丸での仕事を教えてはくれたが、この見出しの中には審神者の業務のようなものは無いのだろう。イトフユ本丸では使うことのない知識だった。
「茶を入れてくる」
 沈みかけた大包平の思考が、国広の言葉で引き戻される。確かに、互いのマグカップはとうに空になっていた。思いの外長く話し込んでいたのか、緊張で喉が渇いていたのか、そのどちらもかもしれない。大包平はそんな国広の背を目で見送った。



「俺は、お前には政府や審神者が粗方説明をしているものと思っていたんだが……お前はどこまで聞いているんだ」
 面倒だからと、ポットや茶葉、急須までまとめて持って来た国広が、急須に湯を注ぎながら大包平に問いかけた。この本丸のこともそうだが、国広自身のこと ―― 祝福の仔細だとか、そういったものまで、大包平はどこまで知った上でイトフユ本丸に来ているのか、国広は分かりかねていた。
「それは俺も思ったが。山姥切国広、お前は俺のことをどこまで聞いているんだ」
 どちらも、声音に緊張が乗っていた。相手の柔い部分に触れてしまうだろう。そして何より、己の柔い部分を曝け出すことにもなるだろう。二振ともが、それを恐れて避けていたものだ。大包平は分かりやすく、顔が強張っている。国広はまず大包平のマグカップに茶を注いでやりながら、言葉を選ぶように口を開いた。
「俺は……そうだな。大包平は政府に保護された刀剣男士で、俺と暮らしても問題がないとだけ聞いていた。お前が保護された経緯はそもそも聞いていないし、お前の祝福については審神者から軽く聞いただけだ。俺の祝福を無効化するだろうと」
 大包平の元いた本丸のことを国広は知らないと言う。元いた本丸で、大包平が審神者から突きつけられた不完全性のことも、何も。国広は、大包平のことを不完全性を持つ存在だとは見ていなかったのだ。ならば、大包平がそうだと知られたらどうなるのだろうか。国広にとってそれが役に立っているうちは大丈夫だろうか。今はその話ではないと大包平は思考を強引に断ち切ったが、それにしても。
「それだけ、か」
「ああ、それだけだ。お前は、どう聞いている」
「俺、は。あまり聞いていない。俺のような特異性を持つもののいる本丸で、刀剣男士が一振いる、と。国広の祝福は、周りがお前を害する、ようなものだと審神者からは聞いているくらいだ」
「成程……? お互い、殆ど何も知らなかった訳だ」
 政府や審神者が気を遣ったのか、或いは二振が生活の中で知って行く、聞かされることを考えていたのか。そもそもイトフユ本丸で二振だけで、例え問題が起きても審神者の仲介で済む範囲だと思われたのか。国広は今度は自分のマグカップに茶を注ぎながら、もっと審神者に聞いても良かった事は多かったのかもしれないと、今更に思い至る。
「まず大包平、お前の祝福は、祝福の無効化で合っているのか? 何を何処まで無効化するのかも俺は知らないが」
……この本丸に来る前に政府から聞いたことは、祝福の無効化だけだ。それから、これは祝福か体質かまだ分からないと言われたものだが、どうやら俺は、呪いを感知出来ないらしい」
 大包平は恐らくその重大さを良く理解はしていない。だが国広は、それも大包平をイトフユ本丸にやった理由の一つだと納得した。それが祝福だった場合、通常の呪い対策が効くかも分からないのだ。大包平は政府施設で暮らすにも制限が多いだろう。国広は、離れの整理をしていた時に軽く目を通しておいた審神者の研究資料の中身を思い出しながら、ともかくこれは伝えなければと決断した。
「分かった。大包平、お前はまず心当たりが無い物資が来たら近付かずに俺に言え。心当たりが無い、歌仙のようなだな、ゲートがいきなり動いて客が来たら対応より先に俺に言え。呪いに気付かないならまず心当たりが無いものに近寄らないことが必要だ。これは何より、お前が身を守る為のものだ」
「待て待て待て山姥切国広! 何なんだいきなり!」
「呪いが分からないことは、呪いが効かないことでは無いぞ、大包平。知らずに触れて、最悪なら折れる可能性だってある。だからお前の身の為だ」
「む、そ、そう、なのか」
 いきなりつらつらと話し始めた国広の勢いに困惑していた大包平も、理由を言われれば大人しくなった。元の本丸では呪い騒ぎなど無かったし、イトフユ本丸に来るまでも、来てからも、大包平はそういったもので不都合を被った経験はない。実感としても、呪いとは良くないものくらいの認識しか持っていないのだ。だから、国広に最悪なら折れるとまで言われて漸く、それだけ危険なものがあり、己がそれを判断出来ないということまで納得した。
「それで、俺の祝福の話か。周りが俺を害するとまで言える程のものでは無いんだが……まあ、相手の悪感情を増幅させる程度のものだ」
……何だそれは」
「ほんの少しでも俺に不満を持てば、それが俺に対する嫌悪になる、というだけだ」
「だけ、で済む訳があるか。害されるというのも合っているように思うが」
「そうか? 仕方のないものだし、俺はこの祝福で害されたことはないんだが」
 淡々と言いながら茶を飲んだ国広に、大包平は酷く納得のいかない顔をしていた。そもそも大包平は、国広のその祝福が実際にどういった事態を呼ぶのか知らない。ただ、大包平は国広が酷く憔悴していた夜を知っている。一振だけで生きているような昏い目をすることを知っている。きっとそうなるに至った出来事がある筈で、それが祝福のもたらしたものだったとしたなら、大包平にとって、国広はもう嫌と言う程に害された側だろうと思う。
 何故認めないのか。それは諦めというのではないか。大包平は問い掛けたいと思いながらも、踏み止まった。きっと問い掛けた所で、国広の答えは変わらない。大包平が何を言った所で、国広は害された側だとは思えないだろう。悲しいかな、大包平は国広を納得させられるような言葉を持ち合わせていないのだ。不服を隠しもせず、大包平は茶を煽るように飲んだ。
……これは、聞いても良いことなのか分からない、お前にとっては酷な話、かもしれないんだが」
「なんだ、大包平」
「山姥切国広。お前のその祝福は、顕現した時からのものではないように思う。……修行、とやらに行ったんだろう。その祝福を持っていたなら、お前は修行に行かないだろう」
 知っていること。知ったこと。大包平はそれらを正しく結び付けて、湧いた疑問を口にした。国広がイトフユ本丸で暮らし、出陣や遠征にさえ行かないのは、彼の祝福の内容があるからだろう。国広の姿は、修行を経たもので、修行とは一振で行く旅のようなものだと大包平は聞かされた。ならば、国広の祝福があるなら、彼はそんなものをしないと確信がある。
 大包平は、元の本丸の審神者が顕現して殆ど間もない己を近侍部屋に留め置いていたから、自身の祝福が顕現当初から備わっていたのだと知っている。そしてその元の本丸の審神者が生まれ付いて祝福を持っていることも。だから大包平は、祝福とは生まれ付いて持つもの、顕現する時から持っているものだと漠然と考えていた。けれど、それだけではないのではないか。
「元の本丸の審神者が生まれ付いて持っていた祝福を、俺が取った」
「取った!? 取れるものなのか?」
「まあ特に調べもしないまま強行したせいで手順を間違えたらしく、悪感情の増幅なんてものに変わったんだ。それで元の本丸から離れたが、審神者が思い詰めているよりよほどマシだ」
……それで、お前は本当に良かったのか」
「もう過ぎた事だ」
 大包平には、国広がここまで平然と語る理由が分からなかった。国広には、元の本丸での穏やかな思い出がある筈で、それを自ら手放さなければならなかった状況を、こうまで何の躊躇いもなく語れるものなのか。大包平には良く分からないけれど、そんな事はない筈なのだ。そうでなければ、あんな昏い目をしないだろう。そうでなければ、冬が来るまでの夜に顔を合わせることもなかっただろう。なのに、国広の中ではもう、過去のこと、終わったことになっている。
「それで、大包平。まだ何か聞きたい事でもあるのか」
……いや、お前にばかり、元の本丸の話をさせてしまったと思って」
「俺だって話したくない事なら断る。元の本丸のことも、俺は話せるから話しただけで、お前が話したくなければそれでもいいだろう」
「だが、それでは俺は納得いかん」
 無作法だが大包平のマグカップに茶を注ぎ足してやりながら、国広は律儀すぎる奴だなと思っていた。国広は元の本丸の話をしても良い、過ぎた事を言うだけのものだと考えていて、大包平の疑問にもその話せる範囲で答えられると判断したから話しただけなのだ。害された訳でもない、ただ仕方のないことだっただけの国広だから話せたものだ。
 対する大包平は、納得いかないと言いながらも顔は強張っているし、テーブルの上に所在無さげに置かれていた手は、今は僅かに震えながら拳を作っている。話せない、話すには心を強く持たなければいけない。そんな風に国広の目には写っているのだが、大包平は同じだけ明け渡すことで、対等でありたいと思っているのかもしれない。
「では、俺が幾つか聞く。答えられなければ無理に答えなくて良い。―― 大包平、お前は元の本丸で顕現して、どの位で政府に保護されたんだ」
「分からない、が、一年にも満たない筈だ。……あの本丸は、常に春になっていたからな」
 大包平の声は硬い。彼の為には、もうこれ以上は聞かない方が良いのではないかと国広は思うのだが、大包平の鈍色の目は次の問いを待っているように見えた。
「この本丸みたいに現世の暦を貼っていなかったのか」
……俺の、居た部屋には、無かった」
「そうか」
 国広はそれで話を一度区切ったつもりだった。何せ大包平は分かりやすく言葉を詰まらせた。恐らく触れられたくないのだろうと、これ以上は掘り下げる気はなかったのだ。だと言うのに、大包平はそれを単なる相槌だとでも思ったのか、まるで悲壮な覚悟をしたような顔をして、再び口を開いた。
「俺は、その……部屋から、出たことが無かったんだ。だから、他の部屋にはあったかも、しれないんだが」
「大包平。話せないなら無理に話す必要はないと言っただろう」
 目を彷徨かせながら話す大包平に、国広はいよいよ制止をかけた。いつもなら真っ直ぐに国広の目を見て話しているような彼が、それすら出来ずに言葉を出す事にも躊躇っているのだ。国広はそうまでして語って欲しいとは思わない。腹の内を自ら抉るようなことを、大包平にして欲しい訳ではないのだから。
「だが、やはり、お前にばかり話をさせるのは、どうにも落ち着かない」
「話の多さに拘ってどうする。俺はもう過ぎた事だから話せるだけだ。お前はそうじゃないんだろう」
……俺だって、過ぎた事の筈だ。もう、二年は経った頃だぞ」
「お前にとっては、過ぎた事じゃあないだけじゃないか」
 国広のその言葉は、大包平に痛い程に響いた。過ぎた事に出来ていない。未だに大包平はあの常春の本丸の部屋の中をありありと思い出せてしまう。あの本丸の審神者の姿を生々しく思い出せてしまう。思い出す度に過ぎた事だと言い聞かせても、あの時に彼女を突き飛ばした感覚は、手に生々しく蘇ってしまう。彼女は大包平の為を思って居ただろうに、それを拒絶してしまった苦々しさまでも。
 言い返せずに口を噤むしかなかった大包平は、けれど心の中で国広へ「お前だって過ぎた事ではないだろう」とも思う。国広の中に、その祝福を持ったことで生まれた事態への傷があったっておかしくはない。見ていないのか、気付いていないのか、大包平にはそのどちらなのかは分からないけれど。何せ、大包平からすれば、自ら拒絶という形で本丸から保護された己とは違って、国広は穏やかな思い出があるであろう場所から、自ら離れなければならなかった。しかもたった一振で。それは、痛む記憶ではないのか。
……お前は、何故そうして過ぎた事に出来たんだ」
「仕方のない事だったからだ。祝福の影響は自分では制御出来ない。周りも抗えない。それに」
「それに?」
「俺は元の本丸が既に通常通りに戻っている事を知っている。ならもう、それで良いんだ」
 そう言って微笑んだ国広の目を見て、大包平は疑念を殆ど確信に変えた。過ぎた事の訳がない。そんな昏く諦め切ったような目をして、それで良いなどと良く言えたものだとすら思う。けれど、国広はきっと頑なに過ぎた事、終わった事として扱う事を止めないだろう。それが少し、歯痒い。何せそうする事で、国広は立ててしまえている。大包平は国広を支えてやることすら出来やしないのだ。
……お前は、春が来たら元の本丸に戻りたいと、再び会いたいと思っているのか?」
「何故? 戻る意味が分からない。向こうもわざわざ過去に不和を呼んだ奴と過ごしたいとは思わないだろう。もう会う事もない」
……そうか」
 沸いた疑問への答えは、国広の諦念だった。大包平とは違って春への恐れは無いのだろうが、国広自身の希望も全く無い答えだ。大包平は元の本丸に戻りたいとは思えないが、国広は穏やかな思い出を持てる場所にいたのだ、春が来て、外へ出られる日が来て、戻ったとて誰も咎め立てはしないだろうに。けれど大包平は、僅かに安心もして居た。春が来ても、国広と共に過ごす事が出来るかもしれないと。