あさかわ
2026-05-18 01:02:48
2541文字
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はなさない

鬼→←水でまだ未整理な話。はなさない男たち。

切れかけた電灯の下を三回通り、水木は路地に終わりがないと気がついた。夕日はすっかり西に落ちて、オレンジ色の名残が建物の隙間から差し込んでいる。水木は通勤鞄を持って黙々と足を進めた。
 輪っかのように、道のどこかとどこかが繋げられている。後ろから何かが迫る気配がする。ランニング中の男性でも買い物帰りのご婦人でもなさそうだ。水木はため息を押し殺してただ前を向いて歩き続ける。下手に騒いだり走って逃げようとしてはいけない。追い詰められても平静を装うことが肝要なのだと目玉が口を酸っぱくしていっていた。
 ひたひたと迫る気配の更に奥から、馴染みのある音がする。カラン、コロンと下駄の音。ゆっくりとした感覚が急速に狭まり、カツンと高い音と共に水木のこめかみを閃光が掠めた。

「水木さん、済みました。振り返っても大丈夫ですよ」
 振り返った先には下駄履きの少年が立っている。口調や立ち振る舞いは落ち着いていてとても子供には見えない。水木が鬼太郎の二十歳の誕生日を祝ったのは十数年前のことだ。
「何もせず歩いてきてくれて助かりました。まだ明確な形が無い妖怪のなりかけです。あなたが姿を確かめようと振り返ったら、形を得て力が強くなっていた」
「これが初めてという訳でもないからな」
 水木の言葉に鬼太郎は眉を寄せた。鬼太郎が目玉と共に自立した頃からだろか。老いが遅くなり、姿がほとんど変わらなくなった。目玉の見立てでは、人のまま何かがずれているらしい。
「お疲れさん」
 水木は箱から煙草を一本引き抜いた。労いを込めて鬼太郎にも箱を差し出す。鬼太郎はじろりと箱を睨めつけてため息を吐いた。
「いいんですか、最近うるさいんでしょう」
「そりゃあ普通の路地で吸えばお前を見咎める人がいるかもしれないが、ここは治外法権だろ」
 水木は摘まんだ煙草で周囲を指し示した。人はおろかカラスの鳴き声もしない。終わらない路地は水木のように、現世から少しだけずれている。鬼太郎に連れられて出るまでは誰にも出会えないはずだ。
……じゃあ、一服」
 鬼太郎は煙草を一本抜き出して口にくわえた。
「ほら、火」
 喫茶店で貰ったマッチを擦る。無音の空間でジッと発火する音がいやに響いた。鬼太郎は慣れた手つきで煙草の先端に火を移す。水木は少し短くなったマッチを口元に寄せて自分の煙草にも火をつけた。男二人、無言のまま紫煙をくゆらせる。残りが半分ほどになったところで鬼太郎が口を開いた。
「僕とのこと、真剣に考えてくれませんか」
 水木は黙って煙草をふかす。随分前から鬼太郎に口説かれている。自分と共に歩んではくれないか。連れ添ってはくれないか。鬼太郎は淡々と言葉を紡いだ。
「この場所と同じで、あなたは普通の人間からずれている。老いがない妙な人間がいれば気になる妖怪もいるし、幽霊族と縁がある人間ならと抱き込もうとする輩もいる」
「さっきの奴みたいに?」
 歌うように問えば鬼太郎が小さく頷いた。
「ええ。人の世界でも外見の変化が少なければ怪しまれるでしょう。妖怪は興味をそそられ手を伸ばしたくなる。人間は疑念から正体を暴きたくなる」
 水木は口を開けてゆるゆると昇っていく煙が薄れて霧散するのをぼんやりと眺める。鬼太郎が乾いた笑いと一緒に煙を吐き出した。
「結局僕も妖怪の仲間みたいなものだ。水木さんが普通の寿命でこの世から去るのなら我慢できた。……目の前に共に生きる時間があると知ってしまったら、垂れ下がった可能性に縋ってしまった」
 鬼太郎がいつから恋慕を抱いたのか知らない。水木は普通の人間より長く生きる。降ってわいた時間は、恋に身を焦がす鬼太郎に垂らされた蜘蛛の糸だ。強く引けばたやすく切れるが希望を見いださずにはいられない。
 水木は指に挟んだ煙草を緩く振る。
「返事はまだ保留だ」
「よくよく考えてくださいよ」
 低く言い聞かせるように抑揚を付けて話してくる。口説くというより怪談話でも聞かせているようだ。
「覚悟しておいてください。あなたが僕と添うと言ったその時は」
 ぎょろりとした目が水木を見上げている。
「死ぬまで離しませんから」
 脅すような声音に水木は片眉を上げて応じた。鬼太郎は深々と煙を吸って、煙草をあっという間に短くしてしまう。足下に吸い殻を捨てると鬼太郎が水木を手招きした。黒と黄色のちゃんちゃんこを追いかけて路地を曲がると、途端に水木の後ろから乗用車が追い抜かしていった。ずれた世界から戻ってきたのだろう。鬼太郎の姿はすっかり消え、水木は誰かに見つける前に煙草を落として踏み消した。

 鬼太郎は水木の危機を救っては、自分の思いを口にして去って行く。ぽつぽつと小雨のように言葉を募らせる時もあれば、倦み疲れ未練に押しつぶされるように愛を請う時もある。そして必ず最後に死ぬまで離さないと警告するのだ。
 痕跡一つ残さずに去った男の横顔を思い出しながら水木は苦笑した。
……死んでも離さないと言わないところが、まあ」
 いじらしいというべきか、律儀というべきか。目玉の聞いた話では、幽霊族は霊界や地獄を行き来する術を持つという。鬼太郎は水木が死んだ後に残る魂を掴まえることも、魂を追って地獄に通い詰めることもできるのだ。できると知っているはずなのに、鬼太郎は水木の寿命までしか縫い付けようとしない。その気になれば水木をさらって森の住処に閉じ込めることだってできるだろう。力を振るわないのは、無自覚に自分を律しているのだ。
「優しい子になってくれればと思っていたが、ここまでとは」
 不器用に愛情を注いだ養い子はすっかり大人になった。養父が注いだ愛情を取りこぼさず、奢らず、他人を踏み付けず、優しくたくましく成長した。報われたいと思って鬼太郎を育てたわけではない。それでも鬼太郎の言葉や立ち振る舞いが、がむしゃらに生き延びた人生を肯定してくれる。拾い上げた子供に掬い上げられた。水木は鞄を持ち直す。

 返事をどうするか決めていることはまだ秘密だ。頃合いを見計らって、お前の熱意に負けたのだと言って鬼太郎を死ぬまで離さない。
 そして、惚れた腫れたの始まりはきっと死んでも話さない。