Privatter+
Font
Serif
Sans Serif
Color
Light
Dark
auto
Font size
Large
Medium
Small
Language
Japanese
English
Sign in with Google
Sign in with ID and password
Account ID
Password
Sign in
Forgot password?
Create account
日本海
2026-05-17 22:21:30
36920文字
Public
太刀忍
Clear cache
指輪をめぐる話
注意⚠️忍田さんに婚約者がいます!!!
推敲+加筆が完了したらpixivにもアップしようと思います。
七月も半ばを過ぎて、警戒区域では早朝から蝉が鳴いている。
成人混成部隊での日曜と月曜をまたぐ夜勤を終え、冷房の効いた作戦室のソファで眠って、目覚めたら十一時過ぎだった。体を起こして午後の予定を立てる。
シャワールームに寄ってから、食堂の階に来た。左手の腕時計を見ると十一時五十分。いい感じの時間だ。
本部中層階のワンフロアを占める食堂は広いが、正午を十分も過ぎると職員の利用であっという間に満席になってしまう。俺みたいな暇人なら、昼休み前に来て席を取っておけばいい。
適当な角の二人席に一人で陣取ると、いつのまにか迅が現れ、いつもの調子で話しかけてきた。
「よっ、太刀川さん、相席いい?」
「おう」
「なら、こっちの広い席、座ろ」
迅が指差したのは、隣の四人席だ。
「なんで?」
「いや、たぶんいいことあるから」
迅の行動は基本的には意味がある。だから素直に従って、カバンを四人席に置き直す。
麺類のレーンに直行すると、迅は後ろを付いてきていた。
「俺、今日ラーメン食いたいんだよね、冷たいやつ」
「だったら新しいメニュー出てたぞ」
「知ってる知ってる」
俺が柱に貼ってある新商品紹介ポスターを指差したのを完全スルーし、迅は腕組みして、窓口の上にあるパネルから今日食べるものを真剣に物色している。それが年長に対する態度とは思えなくて、ひじで脇腹を小突く。
なじみのおばちゃんに挨拶してから、それぞれ注文し、だらだら話しながら頼んだ品が出てくるのを待つ。
俺たち二人が話すことなんて、どうでもいいよもやまばかりだが、迅が珍しく緊張感を持って「そういえば、沢村さん元気なくてさあ、それで聞いたんだけど」と耳打ちしてきた。
「忍田さん、最近薬指に指輪してるってほんとう?」
俺たちが向かい合って席に着いたころ、昼休みのチャイムは鳴り、その後食堂は一気に賑わいだす。大勢がさざめくフロアで、迅は冷やしちゃんぽん、俺はA級セットの力うどんをすすっていると、少し出遅れたらしい忍田さんが席を探しているみたいに一人きょろきょろ歩いているのが目に入った。まだ遠くにいるうちから、誰よりも早く、箸を持ったまま大げさに手を振ると、気づいた彼は少しだけ表情を緩め、俺と迅に向かってはにかむ。
「忍田さん」
「こんにちは」
「やあ、相席いいか?」
「もちろん」
「迅、この間はご苦労だった」
「いーえ、実力派エリートですから、お安い御用で」
先日ゲートが大量発生した時の迅の活躍をねぎらったあと、月曜の昼から大学に行かず、本部で堂々と飯を食ってる俺に対し、忍田さんは思い出したように胡乱な目を向けた。俺と迅じゃ、身内の悪ガキとよその優等生くらい扱いが違う。そういえば、から始まるお小言が飛んでこないうちに、先制で言い訳をしておく。
「あのさ、今日二限休講だから。午後からは大学行くし」
「そうか、ならいい」
忍田さんは、テーブル越しに、財布で俺の頭をポンと叩く。
その、財布を握ってる彼の左手の薬指には、銀色に光る指輪が嵌まっている。
それに目ざとく気づいた迅が俺に目配せした。
忍田さんは定食のレーンに並びに行った。白いシャツの後ろ姿を見て、俺は深いため息をつく。
「ねえ、やっぱ忍田さん、指輪してた」
「そうだろ、見りゃわかる」
「太刀川さん、詳しく教えて」
「いいけど、あとで俺の愚痴聞けよ」
指輪は先週の月曜以降、忍田さんの指に鎮座しだしたもので、シンプルなデザインはその無骨で男っぽい指にもよく似合っている。忍田さんが付き合ってる女、どうせいつもみたいにすぐ別れんだろと思ってたら、半年続いて、一年続いて、なんと婚約したのだった。
俺は忍田さんに女ができる以前ほど頻繁にではないにしろ、彼と二人だけで飯を食ったりする親しい間柄である。そのときにいろいろと近況を聞いてはいた。彼女が転がりこんで来て半同棲状態だって話も、指輪を下見に行ったって話もしてたんだ。
忍田さんって、見た目も性格も悪くないし、結婚向きに見えるかもしれないけど、仕事が忙しすぎる上に、相手を全然構わなくなっちまうからいつもすぐ振られんだよな。俺は前の彼女何人か知ってるけど、こんなに続いたのは久しぶりだと思う。相手の年を聞いたら、忍田さんよりも二個上だという。会ったことないけどその女から、絶対に忍田さんと結婚するんだという強い意志を感じる。
俺は下降気味の気分を持て余しながら、コロッケを箸でつつく。食堂のコロッケは今日もちゃんと衣がサクサクしててうまい。うまいんだけど、このまま、二人が結婚しちゃうんだろうなって考えると、喉が詰まりそうになる。
それは彼のことをずっと好きだったからだ。
気持ちを伝えようと思ったことは何度もあるが、実際伝えたことはない。
好きな人の幸せを願いたいものだが、俺はそこまで健気な性格ではない。この一年、早く別れろと思いながら過ごした。けれど婚約するって聞いた時、俺はついに何も言えず、自分の思いとはうらはら、祝福するムードすら醸し出しておめでとうって言ったんだ。
未来視の副作用の持ち主である迅は、俺の長年の片思いを知っているが、馬に蹴られたくないとか言って滅多に口を出してこない。
その割には、今日みたいに、忍田さんが来ることを見越して俺を四人席に座らせたりする。ただ、「指輪」の真相を知りたかっただけかもしれないが。
忍田さんが戻ってきて、サバ味噌定食のトレーを、俺の隣の席に置き、椅子に座った。
俺はさりげなく迅に聞かせるつもりで、彼に話を振る。
「忍田さん、よく会うね」
「そうだな、ちゃんとバランスよく食ってるか?」
「うん、忍田さんこそ、顔色いいじゃん、彼女が飯作ってくれたりしてんの?」
「慶」
彼は事情を知らないであろう迅の方をちらり見て、照れたような顔をする。
「忍田さん、彼女居たんだ?!」
迅のわざとらしいもうひと押し。
「結構長いよな。もう一年経つ?」
俺が質問すると、忍田さんはこほん、と小さく咳払いして味噌汁の椀を持ったまま答える。
「そうだな、それくらい経つよ。それで、先日婚約したんだ」
「ええ! なんて言ってプロポーズしたんですか?」
迅がヒュウと口笛を吹いたから、周りの注目を集めてしまった。忍田さんが余計照れて恥ずかしそうに答えているのが、俺は地味に堪える。
「おめでとうございます」
「ああ、ありがとう、あんまり言いふらすなよ」
「わかってますって。うちのボスはもう知ってるんですか?」
「いや、まだだ、なかなか会う機会がなくてな。迅、あいつに余計なこと言わなくていいからな」
迅が忍田さんと談笑している間、俺はうどんをとっくに食い終わっていて、それでも茶々をいれる気にはならなかった。額にじんわり汗を感じながら、行儀悪く肘をついて二人の会話を横から眺めているだけだ。
忍田さんは午後一時から来客があるからと言って、さっさと飯を平らげて、席を立つ。
その去り際に、俺はいつも通りのお願いをする。
「忍田さん、今週末また稽古つけて」
「ああ、時間、空けてあるよ、ついでに飯でも行こう」
約束を取り付けて、安心すると同時に、飯でも行こうなんて言ってくれたことに、嬉しくなる。
忍田さんの後ろ姿が遠くなっていくのを目で追っていたら、迅がボソッと言った。
「なるほどねえ、婚約かあ、沢村さん死んじゃうんじゃないの」
「死んじゃいそうなのは俺だっての、迅、なんか見えたか?」
「いーや見えない。でも、幸せそうな忍田さんの姿が目に浮かぶようだよ。太刀川さん、コロッケおごってあげようか」
「同情すんな、みじめになんだろ」
「四年越しの大失恋だね」
「言うなよ」
そう、十六の時からもう四年以上も忍田さんに片思いしている。
忍田さんに女ができても、俺がくたばらずに済んでいたのは、ただただ、俺がこの人の一番近くにいるのだという自負があったからだ。
ここ一年半でボーダーの正隊員は増加し続け、そのせいで彼は多忙を極めていた。それでも忍田さんは俺が遠征でいない時を除いて、訓練の時間をほぼ毎週作ってくれていた。(彼女とは平気で二週間、連絡を取らなかったりするくせに。)
訓練は大体金曜日の終業後っていうのがお決まりで、その時によって模擬戦形式だったりランク戦形式だったりいろいろだ。その後残業がなければ飯に誘ってくれたり、俺が休日に遊ぼうって言ったら車を出してくれたり、一緒に飲んだ時は家に泊めてくれたりする。去年、二十歳の誕生日には腕時計をもらった。沢村さんなんかは俺たちのこと、年の離れた兄弟みたいに仲がいいねって言う。俺が冬に持ち込んだこたつ机も、代えの下着も、歯ブラシも、うどんを好んで食べる俺用のめんつゆさえ忍田さんの家にはあった。もう捨ててしまったかもしれないけれど、かつてはあったのだ。
今じゃきっと、彼女の私物の方が多い。
思い返していて、だんだん気分が塞いできた。
「はあ、大学いくか」
「え、めずらしー」
「忍田さんに行くって言っちゃったしな」
「ふーん、そういうとこ律儀なんだね」
「まあな、もうすぐテストだし、ノート写さしてもらわねえと」
迅が露骨に呆れたような顔をする。
俺は荷物を漁って、筆記用具があったか確認する。本当は大学なんて行かず、作戦室で寝ていたかった。
こういう時は体を動かした方が気分も晴れるんだが、残念なことに月曜の日中だ。米屋も緑川も村上も学校にいるに決まっている。中高校生の夏休みはもうすぐだったか。
俺はトリオン製のタブレット端末の画面を指で動かしながら、この先一週間の気温を確認する。梅雨も明けていないのに、三十度越えがしばらく続くとの予報で、外に出るのが嫌になりそうだ。
でも俺はこの、夏の入り口の季節が、胸が痛くなるほど好きだ。なんでだろう、たぶん、毎年、何かが始まりそうだと、期待せずにはいられないから。
今年はどうだろう。忍田さんの婚約のニュースによって、始まるどころか恋が一つ死のうとしている。忍田さんが結婚するなんて、こうやって事実を突きつけられるまで考えようともしなかった。
◇
大教室の椅子に座ってから、ものの十分で意識が途切れた。
どうしてこんなに眠いんだろうってくらい眠くて、講義中、起きていられなかった。隣に座った来馬が呆れていたほどだ。
「昨日夜勤だっけ?」
「そう。でも朝ちゃんと寝たんだよ、なんでこんな眠いんだろうな、プールのあとの古文って感じ」
「懐かしいこと言うなあ」
なんで高校のころのことを思い出したかっていうと、その頃の夢を見たからだ。
やっぱり季節は夏だった。夕方。西日の中、アブラ蝉がわんわん鳴いている。
裸足で踏む、古いけれどワックスの効いた、道場の板の間の感触が生々しい。俺は剣道具を畳の間に寄せて、道場にモップをかけていた。道着姿の忍田さんが俺の様子を見に現れて、光る、額の汗を拭う。
稽古で打たれてみみずばれの浮いた、俺の腕が痛々しいといって、薬をもってきてくれたのだ。俺がそれくらい平気だからいらない、というと、頭に手を突っ込んで、髪をぐしゃぐしゃにされる。汗で蒸れた頭に触られるのが恥ずかしくて、頬が赤くなるのがわかる。もう高校生なのに、そんなふうに俺の頭を触ったりするのは、忍田さんくらいだ。
夏休みになると毎年忍田さんが生身でも稽古をつけてくれていた。稽古の後は二人で銭湯に行って汗を流し、家まで送ってもらって、一緒に夕飯を食べることもあった。
覚醒しきらない頭で、だから俺は、夏が好きなんだ、と気づく。
忍田さんと二人っきりで過ごした時間が長いからだ。夢の余韻は少しだけ甘い。
何とは無しに携帯を見たら、同時刻に二件メッセージが入っていた。なんと、どちらも、忍田さんからだ。
『稽古、土曜の十六時からでいいか?そのあと飯に行こう』
『テスト勉強を怠るなよ』
テストのことは誰が告げ口したのやら。珍しく金曜以外の誘いだったが、もちろんOKの返事をした。
土曜には大学の同期との飲み会が入っていたがキャンセルだ。俺を紹介してほしいという女子が来るから絶対来いよと言われているのが頭をよぎったが、構わない。土曜が待ち遠しい。一週間、長すぎる。
「太刀川、どうしたの、なんか機嫌よくなったね」
来馬こそニコニコしながら、そんなことを言う。
◇
土曜の昼過ぎに隊室に寄ったら、うちの隊員もいないのにどうやって入ったのか、風間さんがソファにドカッと座って、俺を待ち構えていた。
風間さんのほうから俺を訪ねてくるなんて珍しい。嫌な予感がする。
「風間さん、どうしたの? ランク戦する?」
「寝ぼけたことを言うな。俺は本部長に頼まれて来たんだ。わかってるか? 一六時まで勉強するぞ」
「ええっ、うそ、かざまさあん」
「あとから月見も来る、感謝しろ」
俺がなかなか勉強に着手しないために、テスト期間前に風間さんの監視がつくようになったのは一年のときからだ。そのおかげで俺は卒業に最低限必要な単位を落とさずに済んでいる。
忍田さんとやる前に、だれかとランク戦してウォーミングアップしておこうと思っていたのに、予定が狂った。
観念して、俺は風間さんの向かい側に座り、カバンに入れっぱなしの大学ノートを取り出す。入れ替えるのが面倒だから、すべての授業で一つのノートを使っている。勉強ができないならできないなりに工夫しろと風間さんに言われたのがきっかけだ。
「相変わらずスカスカのノートだな」
「すいません
…………
」
「嵐山も心配してたぞ」
「あいつに般教の休んでた回のレジュメ借りなきゃ」
「あまり嵐山に迷惑をかけるな」
風間さんは基本的に俺に厳しい。それが風間さんの優しさであると俺は知っているが、普通にヘコむくらい当たりが強い。
そして隊室のインターホンが鳴る。月見が訪ねて来たのだった。
「風間さん、太刀川くん、こんにちは」
「こいつのために悪いな、何もないが座ってくれ」
「お茶を淹れましょうか」
「いや、気を使わなくていい、そういうことは太刀川がやる」
「じゃあお願いするわ、太刀川くん」
「はいはい」
ペットボトルの麦茶を、氷の入ったガラスのコップに注いで、月見がうちの隊員の分まで持って来てくれた、ちょっといいとこの梅ゼリーの残りを冷蔵庫で冷やす。
談笑する二人の声が、給湯室にも聞こえてくる。それが、最初は自分のところの隊員の話をしていたはずなのに、なぜか沢村さんの話になっている。
「この間から沢村さんの元気がなくって。さっき一緒にランチしたんですけど、何があったか聞いたら、忍田本部長が指輪してるって言うんです、太刀川くん、何か知ってる?」
またその話かよ。みんな知らないから仕方ないけど、沢村さんに負けず劣らずヘコんでる俺に聞くのはやめてほしい。
どうやら、指輪の噂は広まりつつあるらしい。迅は何か思うところがあったのか、沢村さんに婚約のことは伝えなかったようだ。麦茶とゼリーののったトレーをテーブルに置きながら、俺はうんざりした様子も隠さず答える。
「さあねえ、俺も師匠だからって忍田さんのことなんでも知ってるわけじゃねえし」
なんとなく、本当のことを言うのが嫌で誤魔化した。
風間さんは忍田さんの話題にはあまり関心なさそうに、ゼリーに口をつける。
「本部長、恋人がいるのかしら」
「いてもおかしくはないな」
「沢村さん、いつまでたっても告白しないから先を越されちゃったのよ」
人の話ではあるけど、相変わらず月見は痛いところを突いてくる。俺も同じだ。
「なあ、ベンキョーしねえの」
「珍しいな太刀川」
「だってこの後忍田さんと稽古だからさ。早く終わらせたいし、楽しみにしてんの。指輪のことは飯の時でも聞いてみとくけど」
話題を変えたくて、勉強会に乗り気なふりをしてみる。自分のノートを開いてパラパラめくるけど、メモしてあるわずかな単語さえ頭に入ってくる気がしない。こんなことなら、もっと真面目に授業を聞いておくんだった。
去年落とした語学の教科書とノートを月見が持ってきてくれたので、わからないところを教えてもらいながら三人で勉強していたら、あっという間に二時間過ぎてしまった。めずらしく集中して肩が凝ったから、この後体を動かすのが楽しみだ。本日のノルマを十六時前に達成したため勉強会は一旦お開きになって、月見と風間さんは帰ってしまった。
十六時まで待てなくて、携帯から忍田さんに執務室まで迎えに行くというメッセージを送る。今日は非番のはずだけど、どうせ早くに来て溜まっている事務仕事をやっているはずだ。返信はすぐにはない。けれどかまわず、隊室を出る。
執務室のドアをノックして、忍田さんの応答を待つ。どうぞと声をかけられて中に入ると、案の定彼は非番だというのに制服をかっちり着込み、仕事を片付けていた。
「忍田さんメッセ見た?仕事終わりそう?」
「見てない、すまないな。すぐ片付く」
「あのさ、俺、今年は語学の単位ぜったい落とさない」
彼は苦笑した。
「頼むぞ」
そして忍田さんはノートパソコンを閉じて、書類の端を揃える。
「慶、今日の食事だが」
「うん?」
「一人増えてもいいか?」
「それってもしかして忍田さんの彼女が来るの?」
「そうなんだ、お前がよければの話だが。慶の名前を出したら、ぜひ会いたいと言ってな」
「俺は別にいいけど」
いや全然良くない。せっかく二人で飯を食える機会だったのに。でも忍田さんの顔を潰すのも違うなと思う。顔が引きつったりはしないけれど、語尾に未練がましい響きが宿ったのに、彼は気づいたりしないだろうか。
内心、不満を風船のように膨らませていると、いきなり彼の私物の携帯から耳慣れない着信音が流れる。忍田さんには不似合いの、少し前に流行った歌だ。
「悪い、出るぞ」
応対する彼の口調と話の内容から察するに、どうやらちょうど、話題にしていた彼女からかかってきたようだった。俺は少し気まずい気分で、その電話の数十秒をやり過ごす。
通話を切った忍田さんは言う。
「突然すまない、ありがとな、彼女も喜ぶよ。それじゃあ行こうか」
忍田さんはついでにメールを打ちながら、俺を出口に促した。俺のひそかな不機嫌にはやはり気づいていないそぶりで、安心したように口元を緩めている。やっぱ稽古つけてもらえるだけでも嬉しいけど、食事だって、楽しみにしてたんだ。貴重なふたりきりの時間だと思っていたから。
◇
「よっ、太刀川さん、相席いい?」
その時も月曜の昼前だった。
俺がこの時間に本部にいられるのは、二限の授業がレポートの告知だけで早々に終わったからだ。
食堂の四人がけのテーブルに突っ伏していると、迅の方から声をかけてきた。
「迅、聞いてくれ」
「なーに、まあ、なんとなくわかるけど」
迅はあの、笑っているのか、目を細めているだけなのかわからない表情で椅子を引き、向かい合わせに座る。
「こないだ忍田さんとその彼女と一緒に飯食った」
「どうだった」
「立ち直れない」
「太刀川さんらしくないね」
稽古後の会食は、男二人だけの時には選ばないような一軒家の小洒落たレストランで行われた。
忍田さんの左隣に座る彼女の指にはやはり彼とペアのリングが光っていて、俺は今更ながら、ああ、やっぱり本当にこの人が忍田さんの婚約者なんだと思う。
派手ではないけど、肩につくくらいの艶のある黒髪が印象的な美人だった。気は結構強そうだった。その人が、いつも話に聞く弟子の俺に会ってみたかったと言って屈託なく笑ったとき、俺は柄にもなく内心怯んだ。その人を見つめる忍田さんのまなざしが、今まで見たことないくらい優しかったから。
少し会話して、俺とその人の相性が悪くなさそうだとわかると、忍田さんはほっとしたような表情を浮かべた。
本当は、今すぐ席を立ってこの場から立ち去りたいのに、不機嫌な顔ひとつできない。
「忍田さんがさ、帰り際、さりげなくその人の腰を抱いたんだよ」
「うん」
彼女の方が頭ひとつ小さい。その様子は、様になってるというか、誰がどう見てもお似合いという風情だったのだ。
「それみた瞬間俺、理屈抜きで死ぬほど嫉妬した」
「太刀川さんも嫉妬するんだね」
「なんだその感想は」
「いや、マジで。太刀川さんてそういうとこあるよ。嫉妬とは無縁そうだもん」
「知らねーよバカ」
「いやっはっは」
口調とは裏腹、笑いもしないで、迅は目を細めたまま俺の顔をじっと見ている。いかにも何か見えていますとでもいう風に。それがわざとらしいくらいに思えて、つい聞いてしまう。
「なんか見えてんのかよ」
「いや、うーん」
「はっきりしねえな」
「いやー、先に飯食わない?」
どうも歯切れの悪い迅に促されて、麺類のレーンにまっすぐ向かう。特に食べたいものがないときはA級セットを惰性で食べている。席に戻るとちょうど12時のチャイムが鳴った。昼休憩に入った職員が押し寄せてくる時間帯だ。迅はゴーヤチャンプルー定食のトレーを抱えて戻るなり、俺に聞いた。
「今日忍田さんは?」
「出張って言ってた気がする」
「また今週末稽古やる?」
「多分。時間あけてくれてると思う」
「だったら、飯も行くよね」
「それはわかんねえ」
「行く前提で話すけど、いや、本当は見えてること、言うべきか迷ってるんだけどさ」
「もう半分言ってるようなもんじゃねえの」
うーん、と唸りながら、迅は腕を組んだ。
「ちょっと難しいんだよね。俺さ、忍田さんにも、太刀川さんにもそれぞれ幸せになってほしいって思ってるよ。でも何が幸せなのかって、俺にはわからないし、そもそも俺が干渉してどうこうするのはおかしいだろ。幸せなんて本人たちが決めることなんだし。でも見えちゃったんだ」
「おお、急にどうした」
迅が突飛なことを言い出したので、俺は少し構える。
「これから俺が言うことで未来が変わるかもしれないし、変わらないかもしれない。それは忍田さんと太刀川さんのどちらにも関わることなんだけど、どうするかは太刀川さんが決めて」
俺は呆然と口を開いたまま、迅を見つめかえす。
そうして迅はこれまでになく神妙な面持ちで指を三本、俺の顔の前に突き立てた。
「三つあるんだけど」
迅は言った。
今週の稽古は絶対に金曜日にやれ、そのあと二人で食事に行け。最後に、その日は忍田さんを家に帰すな。
「具体的にどうなるんだよ」
「それは言えない。漫喫でもホテルでも太刀川さん家でもいいし、ずっと店で飲んでてもいい。とにかく外で好きに過ごして」
「なんで?ホテルってことは、もしかして俺と忍田さん、ワンチャンある?」
「いや、ないよ、そんなのはものの例えでしょーが。とにかく俺に言えるのはここまで」
「なんだよ
……
。それにしても、家に帰さないって、そんなことできんのかな、あの人今新婚みたいなもんだろ」
「だから、太刀川さんの選択次第だよ」
「そうかよ」
よくわからないが、迅が大事なことを訴えているというのは伝わってきた。とりあえず忍田さんに、今週の金曜日に稽古を入れてくれとメッセージを送ってみる。
「太刀川さん、テストもがんばってね」
「おまえまでそういうこというの?」
「今週の水曜からでしょ。嵐山から聞いたんだよ」
「はいはいやってるよ、レポートも」
この時期耳にタコができるくらい試験のことばかり言われる。実際、日頃心配されるような行いしかしていないから自業自得ではあるんだけど。
「とりあえず、稽古よりテスト勉強しねえとやべえな」
◇
金曜の時間割は、一限から六限までフルに埋まっている。当然試験も同じスケジュールだ。なんとか乗り切った後、俺は死んだ目で、ゾンビのように夕方の本部をうろついていた。
忍田さんの返事は火曜日の朝に来た。
少々時間が遅くなるが稽古はつけてくれるらしいとの回答にほっとする。迅いわく、忍田さんを絶対家に帰すなということだが、どういう流れに持っていけばいいのか、まだ思いつかない。それに、夕飯の約束も取り付けることができていない。
考えても仕方ないし、忍田さんの手が空くまで、個人ランク戦フロアにいた荒船や村上に声をかけて暇を潰していた。そうしたら、執務室まで迎えに行こうと思っていたのに、二十一時ごろ忍田さんがフロアに顔を出した。思っていたよりも早い。
忍田さんとここで待ち合わせるとお互い目立つから、どこか別の場所で落ち合ってそれからフロアに向かうことが多い。今は人の少ない時間帯だけれど、夕方なんかにフロアに入ると、人目を忍んでも戦っている間はモニターの前に人だかりができるし、帰りは戦う姿がレアな忍田さんが他の隊員たちに囲まれてしまう。そしてそういう時、彼は平等に隊員の相手をする。それがおもしろくない。だからとにかく、さっさと対戦ブースに入って、やることやって、さっさと去るのが吉だ。
忍田さんのいる202号室との通信をオンにする。
『待たせたな』
「おつかれ、そんなに待ってないよ。ねえ」
『なんだ?』
「今日俺が忍田さんから三本取れたら、飯連れていってくれない?」
『構わないぞ、それにしても三本でいいのか?』
通信の向こう側で、彼が挑発的に笑ったような気配を感じる。
俺は途端にうれしくなる。いつもの真面目で優しい本部長じゃない、もう一つの彼の側面。戦うことが好きで仕方がない、理性の皮の下の、獣の本性。その一端を覗いた気がして。
機械音声が十本勝負の開始を告げる。
転送先は、夜の工業地帯。廃工場の、軋む平たい屋根を踏みしめる。俺と対峙した忍田さんは、月明かりに照らされ、薄い唇を釣り上げて笑っていた。その笑顔は少し、薄情そうにも見える。
忍田さんはそういう類の表情を、あの恋人にはきっと、一生見せることはないだろう。
「じゃあ四本で」
挑発し返すように、俺も笑ってみせる。
自分だけが、ほんとうの、この人の姿を知っている。なぜなら俺たちは同類だから。根拠もなくそう思っている。黒い、温度のない瞳に見つめられて、血が沸騰するような興奮が、胸に湧き上がる。
「慶、上の空じゃないか?そんなことで四本、取れると思うなよ」
忍田さんは、弧月を構え、凄んでみせるように言った。青白い刀身が冷たく光る。
◇
工場内の通路に誘い込まれ、俺の剣撃をじりじりかわしながら奥に逃げる忍田さんを追い詰める。通路は狭く、天井も低い。ゆえに二刀を自由に振り回すことのできる道幅はない。先ほど忍田さんの利き腕を落とした余裕が、油断になった。しかし腕の損傷によるトリオン漏出は甚大で、このまま逃げっぱなしなら彼はトリオン切れになる。その前に必ず仕掛けてくるはずだ。
隙なく弧月を構え、彼は後退を続ける。
通路をぶっ壊して空間を作る手もあるが、ここは入り組んだ建物内で、どうせすぐまた狭い路に逃げこまれるだろう。
そうしているうち、ついに行き止まりにぶち当たった。忍田さんに逃げ場はない。すかさず放った一撃を、間一髪で避けられ、代わりに薙ぎ払われた配線から、火花が散る。返した刀でもう一撃仕掛けると、太刀で受けられ、押し返された。さらに一回転した勢いのまま、斬りつける。彼は一歩踏み込んで、中段で刃を受ける。そこから、剣撃の応酬。決着はつかず、距離を取ろうとしたその瞬間、回し蹴りが飛んでくる。顔をガードしたものの、バランスを崩し、俺は剣を一つ取り落とす。
両手で残りの一刀を握り込んで、続く彼の太刀をなんとか耐えた。
そろそろ緊急脱出してもおかしくないはずなのに、本当にしぶとい。
今度は俺がじりじり来た道を戻りながら、剣撃に耐える。構えが崩れ、胴が空いたように見える瞬間が何度かあったが、おそらくカウンターを狙った陽動だ。トリオン切れを予測して勝負を畳もうとしている。望むところだ。
地面と平行に振るわれた刃を、腰を落として避け、出来た隙を狙って彼の懐に入る。素早く心臓に剣を突き立てたその時、視界が反転した。首を刎ねられたのだ。
「相討ちだ、残念だな、慶」
「そっちこそ、しぶとすぎ」
同時に緊急脱出し、俺の身体はマットの上に投げ出される。
結論から言うと、今回俺は四本どころか、三本も忍田さんから取ることができなかった。二勝一引き分け、七敗。戦いの前、気が大きくなって四勝宣言したけれど、これじゃあ飯に行くというミッションを達成できないかもしれない。
明らかに気落ちした様子の俺に向かって忍田さんは言った。
「そんなに落ち込まなくてもいいぞ、動きは悪くなかった」
落ちてる原因はそこじゃないんだけど、うなづいておく。
「そう簡単に四本取られたら私も落ち込むよ。だから、飯行かないか」
なんと、忍田さんの方から申し出があった。
「マジで? でも毎週末俺と飯食ってたらさすがに怒られない?」
「ああ、でも今日の夜から友人の家に泊まりで女子会だって言っててな、だからもともと慶と飯に行けたらいいと思ってたよ」
話が思わぬ転がり方をして、迅からの指令の一つを達成できた。
腕時計を確認すると、時刻は二十三時五十分。ざわつく居酒屋の薄暗い半個室、テーブルには互いの好物が並び、四杯目のビールジョッキが空になろうとしている。
俺の正面に座った忍田さんはよく見ると目の下に薄く、くまを作っている。今日の稽古の感想戦はとっくに二周ほどして、話題はとりとめのないことに移る。
「忍田さん昨日何時に帰った?」
「二時」
「その前の日は?」
「同じくらいかな」
彼は酔いがまわったのか目の縁を少し赤らめて、連日の深夜残業のせいで少し眠そうだ。時々、あくびを噛み殺している。
「そんなんじゃ彼女と住んでてもすれ違いだろ」
「まあな、でもそのために一緒に住んでるから」
恋人の話を振られた時の忍田さんは柔らかく笑う。それがやっぱ、ずるいと思う。忍田さんの恋人に対しても、忍田さんに対しても。俺は、できるはずもないのに、彼のすべてを手に入れたくなってしまう。
この、二人だけの時間を長引かせるため、なるべくゆっくり飲むようにしていたが、ついにジョッキは空になる。今日の彼は遅くまで付き合ってくれそうな気もするけど、家に帰さないことなんて、できるんだろうか。眠そうな彼に遠慮する気持ちが湧いてしまう。いっそ彼を眠らせて、俺の家にでも引きずって行けばいいのかもしれない。
忍田さんが自分の腕時計をちらりと見たので、もうそろそろ、なんて言いださないか不安になる。
「忍田さん、飲み物頼む?」
「うん、じゃあ次の一杯で終わりにしよう」
彼が笑うから、俺は胸をぎゅっと掴まれたような気持ちになる。
「よかったらもう一軒行かない?」
必死さをひた隠しにして、提案してみる。珍しいことを言い出す俺に、忍田さんは不思議そうな顔をする。
「ならうちで飲むか?」
忍田さんの家に帰るのはダメだと迅は言っていた。彼を帰さないために嘘をつく。
「それもいいね、でも俺、忍田さんと行ってみたいとこがあるんだよな」
外はちょうど良い気候だ。昼間の蒸し暑さは落ち着いて、風もある。
結局、居酒屋のトイレで急いで調べた老舗のバーの名前を忍田さんに告げる。すると現在地から少し距離があったため、駅近くでタクシーを拾うことになった。金曜の夜だから、タクシー乗り場には行列ができていて、しばらく待たされる。忍田さんは携帯を触って、誰かにメッセージを送っているようだったが、おそらく例の恋人だ。舌打ちしなかっただけ俺は偉いと思う。
俺は手持ち無沙汰で、周囲を見回す。駅ビルの電光掲示板上には、嵐山隊の広告。その下にオレンジの字で今日の日付と時刻、明日の天気が流れてゆく。
酔っ払ったサラリーマンの群に、ホステスらしき女と恰幅の良い男の二人連れ、若いカップルが何組か通り過ぎ、居酒屋の前に大学生の集団がたむろしている。街は週末特有の浮かれた雰囲気で、人出もそこそこある。三門も、第一次侵攻から約五年が経って、完全にとまではいわないが復興したことが実感できる。
その賑わいの中に、俺は見覚えのある顔を見つけた。道を挟んだ向かい側に男女が腕を組んで歩いていて、その女の方が忍田さんの恋人に背格好がよく似ている。でも、見間違いか他人の空似だろうと思った。だって、本人は今頃、友人の家にいるはずだから。しかしそれにしては似過ぎている。先週、顔を突き合わせて食事をしたから、遠目にもわかる。それでつい、忍田さんのシャツの袖をひっぱって、道の向こう側を指さした。
「ねえ、あの人忍田さんの彼女に似てる」
「ん?」
忍田さんは頭を上げて、俺の人差し指の先を見ると目を見開き、驚いた顔をした。そして表情がこわばる。
「似てるよね」
「
…………
本人だ」
「え?」
「着てる服に見覚えがある」
忍田さんの言うことにびっくりする。なんでこんなところに忍田さんの彼女がいるんだろう。しかも、男連れ? 俺は状況がうまく飲み込めない。対する彼は驚くほど冷静だった。携帯のタッチパネルをすいすい触って、電話をかけたと思ったら、道の向こう側の、ちょうどそのカップルの付近で着信音が鳴り始める。俺はさらに驚愕した。なぜならその曲は、あの、会食の日、忍田さんの執務室で彼女から電話がかかって来た時聞いたものと、同じだったからだ。ちょっと前に流行った歌。この状況、一体なんなんだ。
女は、電話には出ず、俺たちにも気づかず、男に向かって何か言い、笑うと、路肩に停めてある黒い車の助手席に乗りこんだ。
どういうことか、俺もさすがにわかってきた。あれが忍田さんの彼女だとして、連れの男とは、例えば兄妹なんかの距離感では絶対ない。心臓に鉛の重りがぶら下がったように感じる。その黒い車が去る前に、ちょうどタクシーの順番がまわってきた。
「えっと、しのださん、あの二人、追っかける?」
「大丈夫、追っかけなくていい、万が一間違いだったらどうするんだ」
「忍田さんが本人だって言ったんじゃん、追っかけよう、タクシー代、俺が払う」
タクシーに乗り込むと俺は酔いも手伝って、運転手さん、あの黒い車を追いかけてください、と口にしていた。運転手は、しばらく前進し、うまくUターンして反対車線に乗ってくれたが、その頃にはもう黒い車は何台も先にいて、すぐに見失ってしまいそうだった。
「お客さん、申し訳ないですけど、無理かもしれませんよ」
「できる限り追ってください」
「こら、慶。あの、すみません」
忍田さんは申し訳なさそうにしているが、追跡をやめさせようとはしなかった。俺はドラマのような状況に、フキンシンにも、少しだけ興奮していた。
黒い車は交差点を左折する。その次は右。タクシーもそれを追いかける。いいところまで行ったのだが、黒い車の真後ろについた直後にタクシーだけが赤信号に引っかかって、そこからは完全に見失ってしまった。
あの女の人、本当に忍田さんの恋人だったのだろうか。状況からすれば限りなくクロだが、自分の目が信じられなくて、黒い車の行き先を明らかにして、真相を突き止めてやろうと考えていたのに。
俺の惜しそうな様子を見て、ため息をついた忍田さんは新しい行き先を運転手に告げる。
「慶、まだ付き合ってくれるか?飲み直そう」
そう言った忍田さんの目は据わっていて、俺は彼の妙に冷静な態度が怖いと思った。
◇
日差しが強く、アブラ蝉がうるさいくらい鳴いている月曜の昼前。今日は気温が三十五度まで上がるらしいが、換装していれば関係ない。屋上の日陰でぼんやり空を眺めていたら、迅が姿をあらわして、俺に声をかけてきた。
「よっ太刀川さん、暇そうにしてるね。横、座っていい?」
「おう、久しぶり」
「先々週の金曜日どうだった?」
会ったら一番に話そうと思っていたことを聞かれたので、事件についてまくしたててやりたい気分になる。
「いろいろあった。逆に聞きたいんだけど迅、おまえ、何が見えてたの?」
「ひみつ。それよりさ、沢村さんが元気になってた」
「ああ、指輪か
……
」
今度は忍田さんが指輪を外した、というニュースが沢村さん発で広まっているらしい。
あの夜、俺たちが最後に行き着いたのは漫喫でもホテルでも俺の家でもなく、迅に帰ってはならないと予言された忍田さんの家だった。けれど帰ったからといって特に悪いことは起こらず、忍田さんは土曜も勤務があるから、すぐに寝てしまった。
忍田さんがその後、彼女とどういうやりとりをしたのか俺は知らない。
先週一週間の忍田さんの少しやつれた様子を見るに修羅場らしきものがあったことは想像に難くないが、恐ろしくて詳しいことは聞けていない。テスト勉強とレポートの提出で手がいっぱいで、他のことにかまう余裕がなかったのもある。それでも彼の指から指輪が消えたのが何よりの答えだろう。
「忍田さん、何かあったんだね」
「おまえ、怖えからなんか見えても絶対本人に直接聞くなよ」
「はいはい、わきまえてますって」
今週、晴れて夏休みがやってきた。風間さんたちのおかげでテストには手応えもあり、いちおう一安心というところだ。先週の稽古は休んだから、二週間ぶりに忍田さんと手合わせできる予定で、俺は今機嫌がいい。本当は、機嫌のいい理由はそれだけではないのだが。
「それにしても、太刀川さんよかったね」
「なんで」
「わかってるくせに」
迅は忍田さんの指輪のことを言っているらしい。とぼけるか迷ったが、こいつには隠しても無駄だ。かといって正直に言っていいことと悪いことがある。
「よかったなんて、忍田さんの気持ち考えたらそんな単純なもんじゃねえよ、おまえも言ってたじゃん、幸せは難しいとかどうとかって」
「よく覚えてるね、でも嬉しくないって言ったら嘘になるでしょ」
「まあな
……
」
もちろんそうだ。忍田さんのことが好きだという気持ちを殺さずに済んで、よかったと思っている。だって、この片思いはもう、俺の一部なのだ。
今回のことで、わかったことがある。いくら好きな人でも、その人の幸せを願って身を引くなんて、身勝手な俺にはできそうもないってこと。指をくわえて見ているだけなんてもう二度と御免だ。
「太刀川さん、ボスが、忍田さんをよろしくって言ってたよ」
「はあ?! お前なんか知ってんの?」
「それに、これからいいことあるはずだから。俺の副作用がそう言ってる」
「もう少し詳しく教えてくれ。そしたら食堂でコロッケ奢ってやる」
「コロッケはいいや」
可愛くないやつだ。迅のセリフから察するに、林藤のおっさんが真っ先に忍田さんの相談窓口になったであろうことも気に入らない。俺は迅の脇腹を肘で小突いた。
迅はいてて、とか言いながら、サングラスを額から目元に下ろして、強い日差しに目を細めている。梅雨はとっくに明けて、本格的に夏だ。
上を向けば、狂おしいくらい空は青く、高い。飛行機雲がひとすじ、北に向かって伸びている。
それを見てやっぱり俺は、夏に何かを期待せずにはいられない。
八月がやってきてはや二週間、夏休みといえば、太刀川隊で海に行ったくらいで、そのほかは個人ランク戦に明け暮れるだけの俺だが、一つ嬉しいニュースがあった。忍田さんと二人で旅行に行くことになったのだ。
八月の第一週の金曜日、忍田さんに稽古をつけてもらった後のことだ。
人目を避け、訓練室近くの自販機スペースに移動して、稽古の振り返りをした。そのときにさりげなく外された指輪のことを聞いてみたのだ。するとやはりこの前のことがきっかけで彼女の浮気が発覚し、婚約が破談になったのだと、彼は静かに言った。
どの運命の分岐が、だれの幸運になり、だれの不幸になるかは、わからない。
ただ俺は、あの日迅が教えてくれた選択肢の中からこの運命を引き当てて、正直、ラッキーだと思っている。婚約が反故になって、あんな女に忍田さんを取られなくて、本当によかった。
でも好きな人が落ち込んでいるのを見るのは嫌だ。早く元気になってくれればいいのに。そんな風に思う俺は二重に身勝手だ。
「元気出して」
缶コーヒーを二本買って、一本を忍田さんに渡す。たまに飲んでるのを見かける、微糖のやつ。
「気を使わなくてもいいんだぞ」
忍田さんは頬杖をつきながら、力なく笑った。プルタブを開ける音が響く。
「だってこんなにヘコんでんの、見たことねえし、俺だって心配になるよ」
本心だった。好きな人を励ましたいと思うのは当たり前のことだ。
稽古の時の彼から落ち込んだ様子は感じなかったけれど、こうやって生身で向き合ってみると、いつものような覇気がない。
「すまないな、どうも脱力してダメなんだ」
「仕方ないよ、ひどい目にあったんだから」
忍田さんはまた、言葉もなく笑った。
「そういえば、お前夏休みに入ったんだったな。盆の予定空いてるか?」
「基本的に暇」
次の稽古のスケジューリングだろうか。予定はいくつかあるけど、忍田さんより優先するものはない。しかし返って来たのは予想外の答えだった。
「だったら俺の代わりに旅行に行ってこないか」
「どういうこと?」
「いや実は、盆に二人で旅行に行く計画を立ててたんだが、別れてしまっただろ。宿ももう取ってあるし、もったいないじゃないか。お前が暇だったら、誰か連れて行ってくればいいんじゃないかと思ってな。ちなみに部屋はダブルだから」
「マジで? ダブルってベッドは一つってことだよね。俺、野郎しかツテないわ」
冗談めかして言えば、忍田さんはようやく屈託なく笑った。そしてもしかすると、これはチャンスなんじゃないか。
「ねえどうせなら俺、忍田さんと行きたい」
「は? なんでだ」
怪訝な表情をされたが、構わない。
「昔、合宿行ったりとか忍田さん家に泊まることはあったけど、一緒に旅行って行ったことなくねえ? どうせ休み取ってるんだし、俺と行こうよ、それとも彼女のことを思い出しちゃうから嫌?」
「そういうわけではないが
……
おまえはそれでいいのか?」
「うん、連れてって」
「わかった。なら部屋をツインに変えられないか聞いてみておく」
忍田さんは、稽古以外では基本的に弟子の俺に甘いけど、このお願いが通るとは思わなかった。内心ガッツポーズして、迅のいいことあるよという言葉を思い出す。そういうわけで俺たちは旅行に行くことになったのだった。
「そこって何があんの?」
「湖と山と温泉、冬だったらスキーもできる」
「いいじゃん、楽しみ」
さっきより、忍田さんの表情が明るい気がする。辛いことは早く忘れてしまえばいい。そのためだったら、俺はなんだってしたい。
三門から車で三時間半。高原の別荘地だけあって、訪れた先は日中でも涼しい場所だった。標高が高いため空気は澄んでいる。途中、車窓から見えた小さな湖の不思議な色合いに驚かされた。
ホテルは山間の谷に位置していて、離れ家のように客室が建ち並んでいる。
俺たちの泊まる部屋はコンパクトな作りだが、テラスが湖に面していて、景色が美しい。
結局時期が時期だから客室はすべて満室で、ツインは一番いいグレードの部屋でさえ空いていなかったらしい。変更できなかったことを彼は謝った。ホテルの従業員に俺たちの関係を誤解されたら忍田さんは居た堪れないかもしれないが、俺は、構わない。この部屋でよかった。くっついて寝たいからベッドはキングサイズじゃなくてもよかったけど。
「こんだけベッドが広かったら俺と忍田さんでも楽々寝れるでしょ」
「悪いな、せっかく来たのに」
「気にしないで、さて、まずは何する?」
客室においてあるガイドマップを広げてみると、アクティビティは様々用意されているらしい。ゴルフ場、テニスコート、トレッキングコース、アーチェリー場、エトセトラ。もちろん大浴場で温泉に入ったっていいし、夏季営業のゴンドラで山頂を目指すのもいい。
テラスに出て風に当たっていると、目の前の湖で忍田さんと年の頃が近そうなカップルが手漕ぎボートに乗り、ゆっくり横切っていった。
「ボートもあるんだな」
少し遠い目をして、忍田さんが言う。何か思い出したのかもしれない。
「忍田さん運転で疲れてるだろ、もうちょっと休もうぜ」
「そうでもないよ、せっかくだから、あれ乗ろう」
再びガイドマップで周辺の施設を調べる。湖の西側に沿ってぐるっと四〇〇メートル行くと、ボート乗り場らしい。キジバトが鳴く森林の散策を楽しんで、目的地に到着する。
ボートをゆっくり漕ぎ出したけれど、なんだか進み方がぎくしゃくしている。それを忍田さんに笑われて悔しい。
「慶、下手だなあ」
「だったら交代します?」
「立ったら危ないだろ、ほら、頑張れ」
漕ぐのに慣れてボートがまっすぐ進むようになると、周りを見る余裕もでてきた。
湖の水は透き通っていて、山が写る湖面は深緑に見える。風景ははっとするほど美しいのに、忍田さんの表情は、心なしか固い。
「元気ない?」
「すまん、ちょっと考え事をしてた」
「元カノのこと?」
「
………
よくわかったな」
白茶の水鳥が二羽、ボートに近づいてきて、手を伸ばせば触れられそうだ。しかし俺がオールでつつこうとするとばたばた羽ばたいて逃げてしまう。
「俺でよければ、話聞くけど」
そう申し出たのは、多少の嫉妬心が理由だった。もちろん忍田さんを気遣う気持ちもあるが、ここに来てまで、気にかけてしまう相手のことを知りたいと思った。漕ぐのをやめれば、ボートはとぷりと揺れながら、その場にとどまる。
忍田さんは言いづらそうにしていたが、おまえならいいかと、ぽつぽつ、語り出した。
この間彼女が家に荷物を取りに来て、やり直したいと忍田さんに言ったこと。
彼女の浮気相手は妻子ある五十代の男性で、忍田さんと出会う数年前から不倫交際は続いていたらしいこと。そして、この間の逢瀬が本当に最後になる予定だった、と彼女が言ったこと。すっぱり縁を切って、忍田さんと歩んでいこうと真剣に思っていたのだと泣かれたこと。相手に都合のいい言い分だとは分かっている、でも、そう言う彼女が憎いのか、本当は許してしまいたいのか、自分で自分が分からなくなってしまったこと。
指輪を捨ててしまおうと思ったのに、捨てられないのだと言って、彼の視線はうろうろあたりをさまよった後、俺のまなざしとかち合った。
「じつは、今も持ってる」
ポケットに入れた小銭入れの中から、忍田さんは婚約指輪を取り出した。
「小銭入れに入れてんの?」
俺は少しだけ笑って、何気なく受け取ったそれを、空にかざす。薄く広がった雲が、太陽を一時的に隠していた。俺は自分の内側に暴力的な衝動が育つのを感じる。
「捨てられないなんて、そんな大事?」
「
………
大事だったよ」
かつての愛おしいものに、目をすがめながら、彼は言う。
「俺が代わりに捨ててあげようか」
え、と声を漏らして、忍田さんは目を見開く。その反応が無垢な少年のそれにさえ見え、ふ、と自然に笑みがこぼれる。
「ここに捨ててく」
なんだろう、笑えてくる。最近ここまで愉快な気持ちになったこと、ないかもしれない。二人っきり、ボートの上で、彼の弱音を引き出して、そんな状況に酔ってしまったのかもしれない。
振りかぶって、これをなるべく遠くまで投げて、湖の底に沈めてしまいたい、と思う。
「いい?」
しのださん、名を呼べばわざとらしいほど甘えた声が出た。彼は、ぽかん、と口を開けて数秒固まっていたが、無意識だろうか、みるみるうちに傷ついた表情になる。それも、あからさまに。
先程からの、どうも普段の彼らしくもない表情は、なんだろう。いつもは包み隠しているものが、表に出てくるのは、不安定に揺れるボートの上だからだろうか。
この人の、愛しい人を思う心を踏みにじってやりたい気持ちと、その真逆に位置する、表面の脆いガラスが割れないよう、そっと指先で撫でてやりたい気持ちが混ざり合って、ぐちゃぐちゃになる。
「慶」
黒い瞳は薄く涙の膜が張ったようにうるんで、水面のきらきらした深緑が写り込んでいる。泣かないでほしいとも、泣いてみてほしいとも思った。
「だめだ、高かったんだそれ」
指輪を人質に取られた彼は、わずかにうわずった声で言う。あの女は彼の泣き顔を見たことがあるんだろうか。俺は、ない。
「ここに捨てて行くくらいなら、三門に帰ってから質に入れて、好きなだけ回らない寿司でも食わせてやる」
まったく予想外の、それも妙に現実的な言い草に俺は吹き出してしまった。
それと同時に、突然、ぽつ、ぽつ、大ぶりの雨粒が水面を打ちはじめる。焦る俺たちの真上だけかと思うくらい狭い範囲で、あっという間に容赦のないザーザーぶりになり、俺と彼は濡れねずみになってしまった。だから、忍田さんが泣いたって、誰もわからない。
「そうだよ、お前とうまい飯でも食うほうが、よっぽど」
忍田さんがぽつり言った。
ばらばら、雨は降り続いている。しばし沈黙は続いた。それから俺たちは顔を突き合わせて、不運を苦々しく笑った。そうするしかなかった。
ボートが岸に着くまでのわずかの間に、夕立は去った。
「なんか、タイミング悪いな」
「最悪だね」
ホテルに急いで帰り、風邪をひかないよう、大浴場に直行して一風呂浴びることにした。源泉かけ流しの立派な露天風呂に、お互い、雨でどん底まで落ちたテンションが回復する。透明に近いが、とろみのある泉質だ。冷えた体に、暖かい湯はありがたく、忍田さんが三十分は平気で浸かるものだから、それに付き合った俺はのぼせそうになった。
それからすこし早目の十八時に、料亭の個室で懐石をいただいた。地酒をあおって、忍田さんはご機嫌になった。部屋に戻ってきてさっきまでにこにこしていたが、ちょっと飲みすぎたらしく、ベッドの端っこで横になるやいなや、眠ってしまった。俺はテレビの音を絞って、売店で買った地ビールを飲んでいる。
あの指輪は、また、テーブルの上に置かれた小銭入れの中にしまわれ、俺は今ならそれをこっそり持ち出して隠すなり、湖に捨てるなりできる。
でも、忍田さんを悲しませたくはない。
彼の言葉から覗いた未練や、瞳に宿ったものが、俺の心にヘドロみたいにまとわりついて、なんだか息苦しかった。
俺はもちろん、彼と彼女が復縁するのには反対だ。彼女は大事な忍田さんのことを一度でも裏切ったのだから。そんな女との縁なんて切ってしまえばいいと思う。
けれど、一度移った情は簡単に捨てられるものではないことはわかる。忍田さんは女関係にはクールでも、情に厚いから、一度懐に入れてしまった人間を切り捨てるのはきっと苦手だ。
相手の浮気を許して付き合っているカップルなんて世の中には山ほどいる。彼女とこれからどうするか、決めるのは忍田さんだ。仮に俺がどうこう口を出したって、結局は蚊帳の外なのだ。それが苦しい。
寝ている彼は少し呻きながら、こちらに向かって寝返りを打った。俺は椅子から立ち上がって、膝をついてベッドに上がり、彼の顔を覗き込む。閉じられた瞼にはふたえの跡がついていて、それに釘付けになる。地味な色の薄い唇に、誠実さをそのまま表したような鼻筋、白く平べったい耳殻。触りたい。つま先からつむじまで衝動が駆け抜ける。この人の全部がほしい。
指を、そろりと伸ばした。そのタイミングで、テーブルの上の携帯が振動し、背筋がゾッと泡立つ。嫌な予感がした。
鳴っているのはマナーモードにしている忍田さんの携帯だった。画面には、090から始まる携帯番号が表示されている。俺はピンと来て、一瞬のためらいののち、通話ボタンを押した。
『もしもし?
……
真史くん?よかった、もう出てくれないかと思った』
声でわかった、忍田さんの元婚約者だ。真史くんとか、今更、なんて気障りな呼び方なんだろう。
「何の用ですか」
俺は声にイラついた感情が乗らないよう努める。そして忍田さんに聞かれないよう、テラスに出た。
『あれ
………
もしかして太刀川くん? こんばんは。なんであなたが電話に出るの? 真史くんと一緒にいる?』
「旅行に来てます」
『二人で? ちょっと彼に話があるの、代わってもらえないかしら』
「それはできません、もうかけてこないでもらえますか。あなたは忍田さんには二度と会えません」
『どうしてあなたにそんなこと言われなくちゃいけないの?』
相手はあからさまにムッとした口調になった。俺はきっぱりと告げる。
「忍田さんにあなたみたいな人の相手してる時間はないんだよ」
『はあ? あなた何なの? とにかく代わって』
「知らねえよ。俺も、忍田さんのことが好きだけど、あんたにだけは絶対渡したくねえわ」
最後は喧嘩腰で通話を切った。宣戦布告のつもりだった。
しかし、本人には口が裂けても言えないセリフを、他人には簡単に言ってしまえるものだ。
「慶」
部屋に戻ってガラス戸を閉めた瞬間、ベッドの方向から、寝起きの声で名前を呼ばれた。
「起きてたの?」
電話に勝手に出たことを責められるだろうか。内心ドキドキしながら、平静を装って聞く。
「今起きた
……
どれくらい寝てた?」
「三十分くらい」
上半身を起こして、伸びをする忍田さんは大口を開けてあくびをした。
「めちゃくちゃねむい」
「疲れてんだって、忍田さん、こういう時くらいゆっくりしようぜ」
「でもおまえと来てるのにもったいないだろ、もっと遊べばよかった」
「まだ明日半日あるじゃん、今からだと暗いしトランプくらいしかやることないよ」
部屋に備え付けのトランプの箱を顔の横で掲げて、シャカシャカ振って見せる。それを見て笑い、忍田さんはベッドから這い出た。
ビールを飲みながら、窓辺の板の間にあぐらをかいて座り込み、床で七並べをやることになった。
想像に違わず、二人でやる七並べは退屈で、だけどそれが妙に好ましい夜だった。ずっと俺のところで止めていたハートの八を場に出したとき、忍田さんが聞いた。
「さっき、俺の電話鳴ってたの出ただろ、誰だった?」
着歴を見れば確実に番号がわかるのに、俺に聞くのは、忍田さんが電話の相手に気づいていたからだと思う。俺は「保険の営業」なんてバレバレの嘘を吐くか迷って、結局やめた。
「忍田さんの、元カノ」
正直に打ち明ければ、特に興味のない素振りで、彼は二度目のパス権を行使する。今、彼が俺を苦しめるために場に出さずにいるカードはおよそ4枚ある。
「なんか言ってたか?」
「さあね」
「まあどうでもいいか」
ボートに乗っているときの様子からてっきり彼女と連絡を取りたいのかと思ったけれど、存外吹っ切れたようなことを言うのに驚いた。
「連絡取らなくていいの?」
「相手にするのが面倒になってきた」
「あれ、いきなり吹っ切れた?」
「おまえが指輪を捨てようとしてからいろいろとバカらしくなったんだよ」
俺にとっては意外な成り行きだった。そして自分のとった行動を思い返して、さすがに悪いことをしたかなと思った。だから素直に謝った。
「大事な指輪、勝手に捨てようとしてごめん」
「別にいいさ、それより、慶に話したら、楽になった」
陽気に笑いながら、忍田さんはビールをあおる。酔いがまわって、普段より饒舌だ。
大人気なく七並べで俺に大勝ちして、笑い上戸の忍田さんはもっとご機嫌になった。
「なんか今、おまえのおかげで楽しい」
そんなことまで言いだすから、胸がぎゅっとなる。うれしいのか苦しいのかわからない。そのとき俺は誰が見たって変な表情をしていたんだと思う。忍田さんが俺のほおを不意に抓った。それで、酔い以上に顔が赤くなってしまうのを自覚する。ごまかすように、俺は負けて意味のなくなった手札を床に投げ出し、仰向けに倒れた。もう、降参だ。なのに、忍田さんは倒れた俺の上にぎゅうとのし掛かって、じゃれついてくる。寝技までかけてきた。それががっつりきまって苦しい。
「ギブ、ギブ!」
「あはは」
「あははじゃねえよ酔っ払い」
「酔っぱらってない」
「うそつけ」
「なあ、寿司食いに行こう、おまえの誕生日、近いだろ」
どうやらあの指輪は俺の誕生日に寿司になるらしい。覚えていてくれたのか、という驚きもあったが、彼が心から楽しそうに言うのが、うれしかった。同時に憎くもあった。気まぐれに俺に触って、無邪気に笑ったりする。人の気持ちも、知らないで。
「ねえ忍田さん」
「なんだ」
「
………
なんでもない」
一瞬、告白してしまおうかと思って、やめた。ふられて明日、気まずくなったら困るから。迅が見ていたなら、俺のことを小心者だと笑ったかもしれない。ふとはめ込みの大窓から見える星が美しいのに気づく。
「慶、本当にありがとう、誘ってくれてよかった」
にこり、俺を見下ろす彼の唇が、きれいに弧を描く。また胸が苦しくなってしまう。二人で星を見ながら、ちょっとだけ飲んで、その日は背中合わせで寝た。案の定よく眠れなくて、寝息を立てる忍田さんの背中にわざと背中をくっつけた。ぬくもりが切なくてぐっと胸が詰まった。泣けてしまいそうだった。こんなに、近くにいて、触れたいのに、抱きしめることさえできない。
◇
俺が起きた時、忍田さんはすでにベッドの中にいなかった。ヘッドボードのデジタル時計には6:42と表示されている。風呂にでも行ってるのかと思ったら、走りに行ってきますとテーブル上のメモ帳に書置きがしてあった。旅行に来ても鍛錬か、と感心を通り越して呆れる。でも早朝の森林の中を走るのは気持ちよさそうだ。
白い陽光が大窓から差し込んでいて、自然と外に出たいと思った。俺はコーヒーを淹れて、テラスで飲むことにした。やはり日差しはあっても涼しくて、半袖では少し肌寒いくらいだ。三門とは、太陽の感じも、空気もぜんぜん違う。第一、警報が鳴らないというのが、変な感じだ。
「不思議だな」
心の中の呟きが、声になっていた。
「何が不思議だって?」
「あれ、おかえり」
ひとっ走り終えた彼はガラス戸を人ひとり通れそうな分だけ開けて、そこから顔をのぞかせていた。ランニングウェアを身につけて、シューズを手に提げている。朝、走るためだけにそれらを持参しているのが彼らしい。
「これから風呂に行くけど、おまえはどうする?」
「えっ! 俺も行く!」
ばたばた準備をして、廊下を進み、暖簾をくぐる。
男湯は貸切状態だった。湯けむりがもうもうと露天に立ち込めているのを目にして、やっぱりテンションがぶち上がる。朝から温泉ってなんでこんなに贅沢な感じがするんだろう。隣の忍田さんも湯に浸かりながらニコニコしている。
それにしても、明るいところで見る彼の体は、目の毒だった。
彼には昔から、脇腹に剣を受けたような大きな傷痕がある。さっきそれが目に入って、そのまま釘付けになってしまった。
視線に気づいた忍田さんは、目立つだろ、と言って苦笑いした。
昔は痛そうだとしか思わなかったけれど、今は単なる傷ではなく、戦士然とした完璧な肉体とあいまって、妙に色っぽいように見える。歴代の女もきっとそこに触れたはずだ。そう考えると腹が立った。
俺は不毛な想像を頭から追い出すべく、努力した。例えば、今日の予定を考えてみるとか。
「今日何して遊ぶ?」
「うーん、山には登りたいよな、装備のレンタルもあるって聞いた」
「えっ、ガチ登山? マジで言ってる?」
「嫌ならゴンドラに乗るか、あと、ちょっと遠いけど牧場があるらしいぞ」
忍田さんの方が観光に対するモチベーションが高いのがちょっと笑えた。ああだこうだ、作戦会議は脱衣所で身支度する間も続いた。途中、腹の虫が鳴って笑われた。
朝飯は洋食と和食が選べたが、和食を選んでおいて正解だった。つやつやの白米に、新鮮なお造り、焼き魚、地元野菜を使ったサラダと煮物、和え物に味噌汁。中でも、忍田さんの好物のだし巻き卵が絶品だった。俺たちは言葉少なに一生懸命、飯を平らげて、幸せを噛みしめる。食後のお茶までうまい。
部屋に戻って、一服したあと、荷物をささっとまとめて準備万端。チェックアウトの時間にはまだ早かったが、部屋を後にした。
車に荷物を置いて、そこからはのんびりだった。トレッキングコースを歩いて片道約三十分のゴンドラに乗り、山頂のレストハウスでコーヒーを飲む。帰りのゴンドラも、晴れていたから遠くの風景までくっきり見えたが、同じような景色が続き少々退屈した。下山してからは少し離れた場所にある牧場で馬を見て、昼は蕎麦を食べた。その後夕方までアーチェリーと射撃。
そうして日が暮れて、帰る時間になった。朝の作戦会議の時点で、まだまだ予定を詰め込もうとしていたけれど、今日くらいがちょうどよかった。これから、運転して三門に戻る。名残惜しさより充実感が勝って、また来たいね、なんて言い合う。
帰りの車内は静かだった。道程の前半は俺も運転して、途中、サービスエリアで交代した。
あたりはすっかり暗くなって、助手席から高速のオレンジのランプが等間隔で流れていくのを眺めていると、ふと寂しくなった。なぜか、一緒のベッドで寝た時の、あの背中ごしの体温を思い出す。
旅行の間、いつもより俺たちの距離は近かった。それが元に戻ってしまうのが、なんだか嫌だ。ちら、と忍田さんの横顔を伺う。この人が愛おしい。
三門北インターチェンジまで、あと二キロ。三門に戻ったら、また日常がやって来る。その前に、ちょっと勇気を出せばいい。好きだと言ってしまえばいい。そのとき、なんとなく彼が、俺のことを受け止めてくれるような気がしたのだ。
「忍田さん、元気?」
「どうした、いきなり」
「別に、暇だから」
「なんだそれは。元気だよ。もう三十分くらいで着くんだし、眠かったら寝ていいぞ」
「いや、眠いわけじゃない。ここ来る前の忍田さん、結構へこんでたじゃん。だから、へっくしゅっ、」
情けないことにくしゃみが出た。鼻をすすったら、彼は冷房を弱めてくれた。
「
………
元気になって、よかったなと思って」
「それは心配かけたな」
いーえ、とだけ言って、俺は窓の外を見る。三門北インターチェンジまであと八百メートル。そろそろ高速を降りる頃だ。
「ねえ、あの人のことまだ好き?」
「なんでそんなこと聞くんだ」
「
…………
心配だから、忍田さんのことが」
好きだから、とは言えなかった。忍田さんは悩むように唸った。
「うーん、そうだな、よくわからない。まだ彼女のことを気にする気持ちはあるかもしれない。でももう付き合いたいとは思わないかな。例えば街で会ったとしても、普通に、良き友人として接することができる気がする」
忍田さんはするりと車線変更をして、インターチェンジに続く左側の車線に入った。ぐるっと坂を下ってすぐ、料金所が見える。
「それで、そんな風に思えるようになったのは、おまえのおかげだよ、慶。昨日と今日、楽しかった、ありがとう」
「忍田さん、」
名前を呼んだきり、沈黙が続いた。料金所を通過して、しばらく進めば見慣れた景色が戻って来る。俺は何も言えなくなってしまった。パチンコ屋の派手なネオンや、ファミレスの灯りが流れてゆく。三門の郊外の風景。俺の家に着くまであともうちょっと。
◇
「それで結局、告白できなかったんだ?」
「悪りぃかよ
……
」
俺は悪態をつくと、行儀悪く肘をついたまま、頭を抱えた。
迅が食べているのはカツ丼だ。めずらしく俺が奢ってやったのだった。
変わったことといえば何もない、月曜の昼だ。食堂で席を取ったら、やっぱり迅が話しかけてきて、俺たちは相席になった。ついさっきこのあいだの旅行の土産を渡して、一通りのことを話した終えたばかりだ。
「太刀川さんの意気地なし」
迅は本当に意地の悪い顔で笑った。さっきから未来視様のお知恵を借りようとしているのに、俺のことをせせら笑うばかりで、全然取り合ってくれない。
「うるせえな」
「来週、誕生日だっけ? 一緒に寿司食いに行く約束したんでしょ、それ、チャンスじゃん」
「わかってるって。おい、なんか見えてんだったら言えよな」
「知りません。俺は俺で忙しいしね。まあ一つアドバイスすることがあるなら、なんだろ、まいっか」
「ふざけんな」
「あ、忍田さん」
「どこ?!」
迅が指をさして、俺が振り返った先、本当に忍田さんはいた。唐沢さんと何か談笑しながら、定食のレーンに並んでいる。
俺は彼が気づくまで大きく手を振って、存在をアピールする。忍田さんは俺に気づくと、微笑んで、手を振り返した。笑うと、少し幼く見えて、かわいい。
「あーあ、そんな嬉しそうな顔しちゃって、好きなのダダ漏れだよ、太刀川さん」
「本当のことだからいいんだよ」
「忍田さんも、気づいてくれればいいのにね」
迅がやれやれ、とでもいうふうに言った。まだしばらく、俺の片思いは続くらしい。
指輪が寿司になる
「なあ国近、最近デートした?」
「え〜セクハラだよ〜それ」
国近は、小さな携帯ゲーム機の画面から目も上げずに言った。隣の俺はソファにだらしなく座りながら、国近が作戦室に持ち込んだ雑誌をぱらぱらめくっている。それから約五分後、やれやれ仕方ありませんねといった感じで、国近はようやく俺に顔を向けた。
「なあに、太刀川さん、デートの予定がおありなのかね」
「国近くん、聞いてくれたまえ」
渋々尋ねてあげましたという様子の国近に、俺は、今度好きな人と食事に行く、という話をした。相手は俺のことを全く意識していない、ひとまわりも年上の人ってことになっている。忍田さんだってことは言ってもいいんだけど、なんとなく言わずにいたら、思いもよらず国近が食いついてきた。
「ええ、太刀川さんの好きな人ってそんな年上なの。どんな人? 美人系? かわいい系?」
「え、いや、美人ってか、なんか、強そう。強い。そんで、次飯行くときに告白しようと思ってるんだよな」
「うっそ、でも相手、太刀川さんに興味ないんでしょ? 勝算あるんですか?」
「ねえけど、しないことには、はじまんねえんだよ」
「そっかあ、そこから意識してもらうってことね」
国近はゲーム機を置くと、携帯で何か検索して、その画面を俺に見せた。年上の女性に告白するとき、大事にしたいことと書いてある。なんかおもしろいことになってきた。一体国近はどんな相手を想像しているんだろう。
「告白の言葉は短く、ストレートにだって」
「そうなのか」
「年下の男にとって大事なのは、押しの強さと粘りだって」
「ほう」
「太刀川さん、私で練習してみて」
笑いそうになるのをこらえて神妙な顔をつくり、俺は言う。
「俺が、国近のこと好きだっていったらどうする?」
「まわりくどい! もっとシンプルに!」
「国近、好きだ、付き合ってくれ!」
「ヒュー! もうちょっと押しを強く!」
「国近、年齢なんて関係ない! 好きだ!」
俺は勢いよく両手で、国近の肩をがしりと掴んだ。
「アンタら、何やってんですか?」
「あ」
ふざけて盛り上がっていたら、作戦室のドアが開き、そこには出水が立っていた。
「外まで聞こえてましたよ。おれ、お邪魔でしたね」
「違う、誤解だ」
「太刀川さんひど〜い、わたしのことは遊びだったの?」
国近はノリノリだった。出水が本気で誤解してそうな様子だったから、俺は順番にこいつら二人の頭をはたいておいた。
それが昨日のこと。
ついに俺の誕生日がやってきた。もっと小さいころならまだしも、この歳になれば自分の誕生日なんて案外どうでもいいものだが、今年は忍田さんと寿司に行く約束をしたおかげで、前日までずいぶん浮かれていた。
日付が変わった瞬間、国近やら出水やら、唯我やらからメッセージが届いて、携帯がしばらく鳴り止まなかった。返信は朝にまとめてしようと思い、その日は寝た。起きてからまた携帯を確認してみたら、朝方に忍田さんからもメッセージが届いていた。出勤前に書いたのだろうか。内容はこうだった。
『慶
誕生日、おめでとう
今日は約束通り、十八時過ぎに駐車場で』
寿司を食べに行く約束に誕生日当日を指定したのは俺だ。
彼は、当日なのに大丈夫かと言って俺の他の予定を心配していたけれど、問題ない。
俺の誕生日をダシにしてケーキを食うための太刀川隊の集まりは、忍田さんとデートだからと言って
——
その言い方で国近が何か勘づくかと思いきや、ただの冗談だと思ったみたいだった
——
午前中にしてもらったし、そのあと、村上と荒船、めずらしく影浦にランク戦の相手をしてもらう約束は夕方までということになっている。夜は丸々寿司のために空けてある。来馬や堤をはじめとする同期が飲み会を開いてくれる気でいるらしい。それはまた後日。
それで、何かと騒がしい一日だった。
太刀川隊の集まりで、唯我が差し入れたお高いホールケーキは少々大きくて四人では食べきれず、一部オペレーターの女子たちにおすそ分けすることになった。太刀川隊作戦室は一時的に女子だらけで異様に華やかな空間になり、唯我がお礼を言われてどぎまぎしているのが面白かった。
午後からの個人ランク戦では、その場にいたギャラリーが飛び入りでどんどん入ってきて、途中風間さんもなんだかんだ言って俺とやってくれた。迅も顔だけ出しに来たし、通りすがりの熊谷がアメをくれたり、加古の炒飯で堤が犠牲になったりした。
こんなににぎやかなのは俺の人徳だな、と軽口叩いたら、風間さんがものすごく冷たい目で見てきた。
十八時を少し過ぎた頃合いを見計らって、駐車場に向かった。出入り口のガラス戸の手前で忍田さんは待ってくれていた。壁のそばにまっすぐ立って、携帯に何か打ちこんでいる。今日は火曜だ。彼は、定時に帰るためにがんばって業務を調整してくれたらしい。沢村さんづたいに聞いた。
「忍田さんおつかれ」
「ああ、おつかれ」
彼は制服から着替えていて、織地のあるネイビーのスーツに白い無地のシャツ、クラシックな小紋柄の入ったブルーのネクタイという出で立ちだった。普段より、しゃれている。それにそのネクタイは去年の忍田さんの誕生日に俺が贈ったものだ。
彼は長身でスーツ映えするから、そうやって整った身なりでいると本当にかっこよく見える。それがいつもの通勤用のスーツじゃないならなおさらだ。いい店に行くから、っていうことも関係してるんだろうけど、彼が俺の誕生日を祝うために少しだけドレスアップしてきてくれたのが意外で、嬉しい。俺は半そでシャツに適当な細身の黒いパンツというよくある格好だが、回ってない寿司屋ってジャケットとか着ていかなくちゃいけない場所じゃねえよな、と不安になってきた。
忍田さんの後に続いて、もうすっかり見慣れた紺のセダンの助手席に乗り込む。車の中には日中の熱が篭っている。彼はエンジンをかけるとまず冷房を強くした。
「今日、私の家から歩いて寿司屋に行くけれどいいか? 少し距離があるが」
車だと飲めないのが嫌だからだろう。忍田さんの家から駅前の繁華街までは、男の足ならば楽勝で歩いて行ける。俺は提案にうなずく。
忍田さんはうなずき返し、車を発進させた。
「てか本当に指輪、質に入れたの?」
道中、俺が冗談半分で聞けば、運転する彼はにやり笑った。
「おまえに寿司を腹いっぱい食わせてやれるくらいにはなったかな」
彼にしてはめずらしく、冗談なのか、本気なのかわからない言葉だった。でも約束したから、たぶん、本気のはずだ。ひとりで質屋に行って、指輪を換金してきたのだろうか。想像したらちょっと、どころではなく、笑える。俺のために、あの指輪は何枚かの一万円札になって、これから、さらに寿司になるのだ。気分がいい。
夜になれば暑さは落ち着くとはいえ、まだまだ蒸し暑い。
忍田さんはジャケットを着たままだが、見た目は涼しげだ。彼の家から十五分弱は歩いただろうか。駅近くの雑然とした裏通りに出た。スナックの看板が縦にいくつも並ぶビルを通り過ぎ、そこから角をいくつか曲がって、昔からやっている飲食店が多いエリアに到着する。
「そこだ」
忍田さんが指をさした、そちらの店構えは、洒落ているし、見るからに建物自体も新しい。のれんには「鮨」の文字と店名が小さく書いてある。戸の前の片隅には、和紙が用いられた丸いフロアライトがやわらかく光っていた。
忍田さんが格子の入った引き戸を開けて、店内に入り、予約していた旨を告げる。
中はカウンターが八席。先客に、年配の夫婦が一組。
白木に囲まれた空間は、やはり、和の雰囲気を残しながらもどこか現代風にまとめられ、落ち着いている。とにかく内装は、俺には、洒落ている以外に形容できない。唐沢さんあたりに教えてもらった店なのかもしれない。もしくは接待なんかでここを使ったことがあるとか。いかにもそういう感じだった。
彼は着物の女性に促され、上着を預けた。通された席からは、カウンターの中、白い作業着を身につけた職人の手元がよく見える。
「本日はいかがなさいますか?」
大将に丁寧に聞かれて、俺は忍田さんを見る。
「おまかせで、お願いします」
最初の飲み物には二人とも、グラスビールを注文した。
「慶、あらためて、誕生日おめでとう」
「アリガトウ、ゴザイマス、忍田さん」
そう言って乾杯する。俺は照れてついぎこちない敬語になってしまう。
まず出てきたのは、白えびのお造り。今まで食べてきたどれとも違う。ねっとり甘い。その次にアワビの塩蒸しと、煮ダコの盛り合わせ。食感がよく、どっちもうまい。煮ダコは甘辛い味付けだ。日本酒が飲みたくなってしまい、ビールを一気に飲み干す。忍田さんも同じ気持ちだったらしい。俺の顔を見てくすりと笑ったのが、かわいい。
「つぎ、冷酒にしようか」
二人ぶんの酒を注文して、次に出てきたのは黄色が鮮やかな、三種ウニの盛り合わせだ。三種類全部、味が少しずつ違っていて、俺の舌でもそれがわかるのがすごいと思った。それからあんこうの肝とカニの味噌和え。
「これ、好きなんだ」
忍田さんがカニを指して言う。食べて見るとちょっと攻めた味。濃厚で、酒がすすむ。焼いた太刀魚は、皮がパリッとしているのに、身はふわふわでうまかった。
その次から握りが一貫ずつ出てきた。冷酒もおかわりする。
まずカレイに、ブリ。それからコハダ。コハダは塩と酢の感じが絶妙で思わず唸る。
「俺、このネタ初めて食べたかも。めちゃくちゃうまい」
「よかったな、何食べてもうまいぞ」
次に赤身の漬け、中トロ、大トロが順番に出てくる。がつんとくるかと思いきや、ふわりと繊細で華やかな味だ。
「すごい。こんなトロ初めて食べた」
「さっきから初めてばっかりだな」
「だって、こんないいとこ来たことないし」
俺はかなり感動していた。会話も楽しみながら、的確なタイミングで続々と、寿司が提供される。スミイカ、車海老、アジ、ムラサキウニ、煮ハマグリに、穴子。大きな玉子焼に、青ネギの味噌汁が出てきて、かんぴょう巻きで締めだった。俺たちは夢中になって、見た目も美しい寿司を一生懸命平らげた。腹がいっぱいで、ふう、と満足げなため息が出る。
会計のタイミングになって、忍田さんは鞄から財布を取り出した。俺は横目でそれを見つつ、あの指輪、実際いくらくらいになったんだろう、なんて思う。
店を出てから、忍田さんが言った。
「もう一軒くらいならいける余裕はあるぞ。おまえがこの前行きたがってたところあったろ、どうする?」
「えっ」
この前、俺がその場で適当に調べて行きたいと言った店のことだ。覚えてくれてたのが、うれしい。
余裕というのが、財布と時間の二重の意味を指しているのはわかった。あの寿司屋の心地よい余韻の中で、俺は告白のことを思い、一瞬迷って、答えを導き出す。
「どっちかの家は? そっちの方がのんびりできるでしょ」
「せっかくの誕生日なのにいいのか?」
不思議そうな顔をされたが、「いいんだよ、落ち着くし」と言って押し切る。彼は腕時計を確認した。
「じゃあ近いし、うち来るか?」
もちろんそう言われるのを待っていた。行く、と答える。こうやってなんの警戒もされず、彼の家に上がりこむことができるのは、俺たちが長年築き上げてきた信頼関係のおかげだ。今日、告白を実行に移せば、それが一変してしまうかもしれない。
コンビニに寄って、酒と、少しだけつまむものを買った。
忍田さんが、ケーキも買ってくれようとしたけれど、寿司の後じゃ食べられる気がしなくって、丁重にお断りした。
忍田さんの家に向かう途中、柄にもなく告白の段取りなんか考えて、やっぱりドキドキした。早く言ってしまいたいような、そうでないような。今まで、直感でなんでも決めてきた。それで二十一年間なんとかなった。だから、今回もそうするだけだ。そう思うのに、胸のざわめきは、全然おさまってくれない。
それは忍田さんのことが本当に好きだからだと思う。失敗したくないとか、フラれたらどうしようって、もちろん考える。でも、何も言わないまま、そのうち誰かに横から取られてしまうよりはマシだ。俺は今回の、婚約者の騒動でそう、強く思ったはずだ。自分に言い聞かせて、覚悟を決める。
彼の住むマンションの前は公園になっている。そこで、高校生のグループだろうか、七、八人が集まって騒ぎながら、花火をやっていた。
「若いな」
その様子を見て、忍田さんが笑いながら言った。今日はなんだかずっと機嫌がいい。ねえ、俺といるのって、楽しい? そういう風に聞きたくなるのを、おさえる。まだ早い。それをいうのは二人っきりで、いい感じになってから。
彼の部屋のリビングに通されて、ソファの前に敷かれたラグに座り、缶ビールと缶のハイボールでもう一度乾杯した。忍田さんは上着を脱ぎ、シャツの第一ボタンを開けていて、喉元が少し赤くなっているのが見える。俺も、彼も酔っている。
外からは、窓を閉めていても、公園の高校生たちが爆竹を使う音が聞こえる。ちょっとうるさいけど楽しそうだから大目に見てやろうと言い合って、ベランダからその様子を眺めながら飲むことにした。次は、市販の打ち上げ花火に点火してはしゃいでいる。外気はなまあたたかいが、それなりに風があって、気持ちいい。
「俺も花火、やりてえな」
「混ぜてもらってくるか」
「やだよ」
「花火も買えばよかったかな。今年やったか?」
「俺はやったよ、太刀川隊で」
打ち上げ花火は、想像したよりずいぶん高く上がり、この五階の部屋より上の位置で開いた。赤と黄の光が丸く広がるのが随分近くで見える。はかなく頼りない花火を眺めながら、俺は左手に収まった缶の結露を指で拭って、もてあそぶ。忍田さんに、慶、と名前を呼ばれた。ベランダの手すりに肘をついて、彼の顔をちらり覗く。
「寿司うまかったな」
彼は空を見上げている。細い月が、見える。
「質なんか行ったの初めてだ。思えばひどい目にあった」
どう反応していいのかわからなかったけれど、忍田さんはくすくす、とおかしそうにしているので、彼の中ではすでに笑い事なのだろう。
「ていうか本当に質に入れたんだ、冗談かと思ってた」
「冗談じゃないんだな、それが。俺が持っていても、もう、しかたのないものだし」
忍田さんは酔いがまわっているせいもあってか、ずっとにこにこしている。そこに、ボートに乗ったときのような未練がましい様子はない。いつも以上に屈託なく笑う、彼だ。
「忍田さんがいいならいいけど。てか、本当にあんないい店だとは思わなかったし、うまくて感動した。ありがとう」
「いや、慶のおかげだよ。このあいだから色々世話になったし、その礼だ。おまえがいてくれてよかった」
また打ち上げ花火が上がった。忍田さんの瞳に、花火の金色の光が写り込んでいる。それをじーっと眺めていたら、ぎゅっと胸がつまりそうになる。心臓が、早鐘を打ち出す。
「忍田さん、あのね、これからちょっと変なこと言うけど、聞いてくれますか」
「あらたまってどうした」
そう言って彼は缶に口をつけた後、唇の端を持ち上げた。
「言うつもりなかったんだけど、俺ね、忍田さんに婚約者ができてすげえ、いやだった」
パーン。破裂音とともに、打ち上げ花火がもう一発上がった。青い光が夜光虫のようにぱっとはじけて消える。
忍田さんは目をまんまるにし、そのあと、ぱち、ぱち、二回瞬きをした。
「だって十六のときから、忍田さんのことがずっと好きだったから」
喉が、やけに乾く。
「付き合ってください」
彼はぼやっとしたまま、俺の瞳をじっと見つめている。高校生たちの、騒ぎ声がどこか遠く感じる。
長い沈黙のあと、彼は口を開いた。
「慶
…………
知らなかった。おまえのことをずっと、見てきたはずなのに」
彼は驚きを隠しはしなかった。それから、見つめ合ったまま、しばらくお互いだんまりでいた。照れくさくなって、ふい、と顔をそらした時、彼がまた言った。
「おまえが本気なのはわかるよ。でも、どうして俺なんだ」
戸惑いが伝わってきた。
聞かれて、少し考える。きちんと言葉になるまで、時間がかかった。
「あんまりうまく言葉にできない。強いて言うなら、俺は忍田さんといるときの自分が好きだし、忍田さんが見せてくれる景色が好きなんだと思う」
「それは、尊敬や憧れじゃないのか?」
「はじめはそうだったし、今でも尊敬してるよ。でも、同時にあなたをどうにかしたいって強く思ってる。もっとはっきり言ったほうがいい?」
忍田さんの目の、奥を覗き込む。手元のビールの缶が少しへこむほど、強く握って、声が震えないように言った。
「
……
抱かせてほしい。そんなのは尊敬や憧れの範疇を超えてるだろ」
忍田さんは目を再びしばたかせて、当惑するように視線を彷徨わせた。俺はたたみかける。
「嫌だったら拒否して。じゃなかったらキスする」
彼の方に一歩、距離を詰めたら、一歩下がられた。俺はもう一歩詰めて、真っ白いシャツの、両肩に手を触れる。そこから左手で首筋を辿って、顎をすくい上げる。そうしたら、びくり、彼が身を固くするのがわかった。俺を映し出す目が一瞬揺らぎ、哀しげな光が宿る。はっとして、俺は指一本動かせなくなった。
振られる覚悟はしていたつもりだった。でも実際、目の前で彼の表情が揺れるのを見ると、あっけなくその心構えは崩れる。
「なんでそんな目、すんの」
驚くほど情けなく、縋るような声が出た。
「おまえこそ
……
」
答える忍田さんの声も震えていた。
「あのときと同じ目をしてる」
「あのときって?」
「初めて俺から、模擬戦で一本取ったとき。よく覚えてる。おまえの目が、あまりにも
——
」
その続きを、彼は言わなかった。
でも俺はそれで、彼の言いたいことが分かってしまった。
「おまえは危ういよ。俺に欲情してるわけじゃない。戦闘の興奮と性的興奮を混同してる、だけだ」
声は震えていた。忍田さんは師匠として、正しくあろうとして、俺を諭そうとする。
だけど俺が聞きたいのは、師匠としての答えじゃない。その上辺を剥いだところにある、彼自身の答えなんだ。
「何が間違ってて、にせもので、なんて、俺にはどうでもいいよ」
まっすぐ彼を見据えたまま、言った。
「忍田さん、好きなんだ」
彼はゆっくり目を伏せた。
それが、俺を許す合図だった。
金縛りが解けて、俺は再び彼の首筋を指でなぞりながら、顔を近づけ、頸動脈に歯を立てた。頰に、そして冷たい唇にくちづける。舌先で彼の上唇を突ついて、こじ開け、歯列を舐める。その舌に触れて、あまりにも熱い、と思う。
忍田さんは拒絶しなかった。それどころか、じっと、動かない。捕食されたけものみたいに。
気がすむまで貪って、唇を離し、次に彼の表情を覗きこんだ時、その瞳に浮かんでいたのは、半分同情で、もう半分は、はっきり、欲望だった。暗い星のような目。きっと俺も同じ目をしているはずだった。
火がついたら、そこから先は簡単だ。
もう音は聞こえない。ただ、火薬臭い、煙るような夜が、そこにあった。
もう後戻りはできない道に足を向けている。
ベランダの戸を閉め忘れかけるくらい、性急にもつれあった。
抵抗する代わりに、じりじり後退していく彼を壁際に追い詰めて、それ以上動けないように手をついて囲った。
ベランダの方向から点々と、道を作ったみたいに、ネクタイピン、ネクタイ、時計、ベルト、革のブレスレットが落ちている。
忍田さんは、呆然と俺を見上げていた。
彼の黒い瞳を覗き込む。写り込む照明の光が、星屑のように無感情に揺れていた。
「ごめんね」
二十四時を過ぎて、魔法が解けたみたいだった。
ドライヤーの音が止んだ。
リビングのソファでうとうとしていた俺をそっと起こした忍田さんは、風呂から上がり、髪も乾かしたあとだった。テレビはつけっぱなしで、俺がさっき視聴していた番組はとっくに終わり、今は淡々としたナレーションの動物番組をやっていた。照明は一番暗い光度に落としてある。彼は缶ビールを手にしていた。
「慶、風呂あいたぞ」
肌が触れ合ったあとなのに、彼の態度はあっさりだった。
風呂を借りて、頭から熱いシャワーを被りながら思った。このまま、何もなかったことにされるのかもしれない。きっと、ずるい大人が使う手段で、彼はただ一回きり、思い出になるように流されてくれたのだ。
風呂から上がったあと、遅いし泊まっていくか、と聞かれたが、断った。他にどうしろというんだ。
玄関先に座り込み、彼に背中を向けて、のろのろ靴を履いていた時、声をかけられた。
「忘れてる」
振り返ると、彼は革のブレスレットを手にしていた。それは俺が、次、また家に上がるチャンスを狙って、洗面所にわざと残したものだった。おそらく良かれと思って持って来てくれたのだろうけれど、使い古された手口を見破られたようで、ばつが悪い。
「時間も遅いから気をつけろよ」
その、善意ぶった保護者みたいな口ぶりが苛つく。やっぱり、彼はさっきの出来事を何もなかったことにしようとしているんだと思った。気に入らなくて、俺は、わざと怒らせるようなことを口にしてしまう。
「忍田さん、あのさ、ムラっときたからって好きでもない相手に簡単に流されちゃダメだよ」
忍田さんはぱち、ぱち、二回まばたきした。びっくりしたときの彼の癖だ。そのあと、彼は怒りもしなければにこりともしない。だんまりだった。それで俺は、ガキくさい態度を取ってしまったことを後悔する。
「なんか言って
……
」
「
……
慶、悪かった」
言葉を促せば、彼は簡単に謝った。それは、「俺」が「好きでもない相手」であることを肯定する、残酷な答えでもあった。
それでも諦めの悪い俺は、体の向きを変えて、ちょいちょい、と彼に手招きをした。彼が俺に合わせてしゃがみこんだところで、これからキスしますよとでもいうように、わざとゆっくり、顔を近づけた。彼が拒むか試したかったのだ。唇が、頰にそっと触れたとき、俺は、ああ、俺のこと、好きじゃないくせに、こういうことは、させてくれるんだ、と思う。
そのくせ忍田さんは唇が離れたあと、どうしようもなく寂しげで、思わせぶりな目をした。
だから、言うはずではなかった言葉が口をついて出てしまう。
「ねえ、ずるいよ
……
俺のこと、どう思ってるの?」
俺のセリフはずいぶん未練がましく響いた。彼の肩口に頭をうずめる。
「慶」
優しく名前を呼ばれ、肩に乗せている頭を撫でられた。俺が猫だったら、拗ねていたことも忘れて、手に顔をすり寄せ、喉をごろごろ鳴らしていただろう。そんな触れ方だった。
「あのな、好きじゃなきゃ、流されるはずないだろ」
「え?」
俺は頭を上げ、忍田さんを見た。
「俺とおまえはこうなるべきじゃないと思うよ。でもおまえの気持ちを考えたら、たまらなくなってしまったんだ」
忍田さんは子供をあやすみたいに、俺の髪を撫でる。
彼の言ってる意味が、一瞬どころか、全然飲み込めなかった。忍田さんの真意がわからなくて、俺はぱちぱち、と目をしばたかせる。
「なあ、何度でも言うが、この間、つらかったときにおまえが側にいてくれたのが、ものすごく支えになったし、感謝してる
……
」
忍田さんは俺の背にそっと腕を回し、抱きしめた。彼の顔が見えなくなって、俺は神の裁きを受けるような気持ちで次の言葉を待っていた。
「俺はおまえのことが大事だし、好きだよ。でもおまえとどうこうなるっていうのが、正直怖い」
「
……
どうして?」
俺を抱きしめたまま、とん、とん、と一定のリズムで、彼の手が優しく俺の背を叩いた。それがだんだん心地よくなってくる。
「だって弟子のおまえだけは、恋人と違って、替えが効かないんだ」
「忍田さん
……
」
「関係を持つにしたって、ちゃんと手順を踏むべきだった。慶、許してくれ」
忍田さんはふたたび、謝った。でもその謝罪は、さっきとは意味合いが全然違った。
「付き合ってくれるってこと?」
「それは、
……
考えさせてくれ。おまえに触れられてるとき、本当は、これきりにしようと思ったんだ」
「ねえ、ずるい
……
これっきりなんて
……
やだよ、俺」
声が震えてしまうのが、格好悪いと思った。でもこればかりは仕方ないじゃないか。幸せなはずなのに、胸が張り裂けそうで、こんなことってあるんだと思った。忍田さんの手が、俺の背を撫でる。
「忍田さん、好きなんだ
……
」
「知ってるよ」
慶。そう呼ぶ彼の、生真面目なのにずるくて、臆病な面を、今日、知った。
「あのさ、待ってる
……
」
忍田さんの頰に手を添えて、額に額をくっつけた。
「年齢とか、性別とか、立場とか、いろいろしがらみはあるけど、最後は忍田さんがどう思うかだろ」
「ああ」
「忍田さんが、付き合ってもいいと思うまで待つよ」
俺はそう言うと、彼の唇に触れるだけのキスをした。長いこと、唇は触れ合って、名残惜しげに離れる。
「本当に泊まっていかないのか?」
「うん。そうしたいけど、今日は帰る」
忍田さんが、ふ、と笑ったので、やっぱりずるいなあと思った。俺も唇を、笑みの形にして言う。
「じゃあ、おやすみなさい」
立ち上がり、鉄製の扉を開け、振り返りもせず閉めた。振り返ったら、もう二度と忍田さんから離れられなくなる気がしたからだ。癒着した大事なものを、無理やり引き剥がしたように、胸が痛む。
扉が閉まってから、一呼吸置いて、ガチャリ、彼が内側から鍵をかける音がした。
Reaction
If you make a mistake, you can cancel it by pressing the reaction.
Custom color
Reset color
広告非表示プランのご案内