史加
2026-05-17 21:45:45
3003文字
Public 原神(ルカキリ)
 

かつて咲いたヘリオトロープ

ルカキリ/初恋を墓場まで持っていくつもりだったファルカの話




 四十を過ぎ、人間でいうところの最盛期を過ぎた男の初恋というのは、まあなかなかいかがなものか。
 己の胸に生まれた想いを自覚したとき、真っ先にファルカの脳裡をよぎったのは体裁だった。我が身に悪評が降りかかるのは別にかまわないが、想いを伝えられた相手はどうだ。いい歳したおっさんに好きです、付き合ってくれ、お前が初めてだなんて言われて、手放しで喜ぶやつはまずいないだろう。その歳で色恋のひとつも経験していないのかと呆れられるならまだいいほうで、気味の悪いものを見る目を向けられる可能性だって十分にある。
 それにファルカはこの歳になってもまだ西風騎士団大団長という肩書を持っていて、プライベートな部分における自由はいくばくか制限されている。「仕事と私、どっちが大事なの」と聞かれたら真っ先に「仕事」と即答しなければならないし、実際そうだとも思っている人間だ。どれほど相手のことを好いていても、選択を強いられたとき、天秤を相手のほうへと傾けてやることが出来ない。普通の人間はそんなの耐えられないだろう。
 それなりに歳を取っていて、経験なしで、個よりも全を優先する。それは立場のある人間としては立派かもしれないが、恋人としては正直「なし」に違いない。ファルカとて好いた相手をこの手で幸せにしてやりたい気持ちはある。だが相手の幸せを願うからこそ、自らのすべてを相手のために費やすことの出来ない自分が相手の隣に立つことは最善ではないように思える。
 ならばこの想いは秘めて、墓場まで持っていくべきだ。そう理性は結論付ける。
 しかし繰り返すが、初恋だ。おそろしいことに生まれてこのかた初めての恋なのだ。ゆえに淡くも確かな熱を持つ特異な感情は、ファルカの想定外に歯止めが効かず、いともたやすく露呈してしまった。
……、」
 好きだ。
 ぽろりと口からこぼれ落ちた言葉をしかと耳にしたフリンズは、美しい月の目をはたと見開いたまま、いつもは雄弁なその口を動かすことすら忘れて固まっている。滅多に見ることのない相手の動揺を前に、ファルカもすぐに我に返り、やってしまったと頭を抱えたくなった。
 そらみたことか。おっさんに好きだなんて言われたら当然驚くに決まっている。言葉の意味を理解したフリンズはすべてをさらりと受け流して聞かなかったことにするのか、それとも侮蔑の目を向けてくるのか。おそらくこの男のことだから前者だとは思いたいが、後者の可能性も否定しきれない。
 いずれにせよファルカは墓まで抱えていくはずだった想いで墓の穴を掘ることになった。それもこれも恋というものを自覚するのが初めてだからなのだが、それにしたって格好がつかない。冗談だと言うにもすっかり沈黙が流れてしまったあとだし、まだ今日はジョッキ一杯しか煽っていないから酒で酔ったのだと言い訳をするのも苦しい。相手の言葉を待つしかなく、断頭台の上で刃が振り下ろされるのを待つ死刑囚の気持ちがほんのちょっぴり今なら分かりそうだ。
 長い睫毛に飾られたまぶたが上下して、緩慢なまばたきを繰り返す。あたたかな照明の光に照らされた頬がうっすらと色を帯びて、色素の薄い唇がゆっくりと開かれるのを、ファルカはひたすらに緊張した面持ちで見つめていた。
……意外でしたね」
 ぽつりと紡がれた言葉に、だよなあ、とファルカは内心呟く。
 まさか同性の飲み仲間が自分にそういった好意を抱いているだなんて、この高貴さのある清らかな男には想像も及ばないことだろう。他者との関わり合いにおいて礼節をわきまえた仕草で一線を引いて生きている存在なのだから余計に。
「あなたはてっきり何も言わずにモンドへ帰ってしまうのだと思っていましたので」
 いや、待て、なんて言った?
 続けられた言葉に今度はファルカが石化する。
「それだけ僕の隣では気が緩んでいらっしゃるのだと、自惚れてもいいのでしょうか」
 ふふ、と唇を緩めて控えめに笑うフリンズの頬は、いつになくはっきりと赤らんでいる。照れているのか、気恥ずかしいのか、艶やかな髪の間からのぞく耳までがうっすらと色付いていて、それがとてつもなく愛らしく見えた。
 気が緩んでいるのは、確かにそうかもしれない。フリンズの隣にいるときのファルカは大団長という肩書を気にせず、ただのファルカとして酒を飲み、他愛のない話で盛り上がって、故郷への郷愁の念をあっけなく口にすることが出来る。気の沈むことや迷いがあればそれをぽつりと吐き出してしまうことだって。部下の前では絶対に言葉に出来ないようなことも、フリンズの前ではおのずと話してしまうことがあった。
 そう考えると今までにも格好の悪いところをたくさん見せてきたような気がするのだが、それよりも聞き逃せないのはその後に続いた言葉だ。自惚れとははたして、世間一般で使われているものと同じ意味と認識していいのだろうか。
 ぐるぐると考え込むファルカとは反対に、フリンズはなにかを決めたらしく、すっきりとした顔をしていた。手套に覆われた手が伸びてファルカの頬に触れ、刻まれた傷痕を慈しむように撫でる。
「僕もあなたのことをお慕いしています。なのでどうか一生忘れ得ぬ傷痕を刻んでいただけませんか。本来はかたちを持たぬこの炎に、唯一消えることのない疵を」
 この世界でただのファルカという男が特別に大切にしたいと思った存在は、なんだか残酷なことを願ってきた。甘美な毒に等しい言の葉に目の前が眩みそうになって、けれど自分がだれか特定のひとりを愛するのはそういうことを意味するのだと改めて痛感する。
「疵を抱えたままどう生きていくのか、僕はもう決めていますのでご心配なく。さあ、お返事を聞かせてください」
 遠くも近い未来まですでに見据えているというフリンズは、どうやら本気らしい。ファルカがあれこれと頭を悩ませて自制心を働かせている間に、彼もまた懊悩する日々を過ごしたのだろうか。いずれにせよこれだけのことを言われてしまっては、引き下がるほうが甲斐性のない男だと言えるだろう。
 深く息を吸い込み、吐き出して、ファルカはフリンズを見つめる。
……フリンズ、好きだ。この時代でお前の名前を呼ぶ唯一の権利が欲しい」
 彼が名乗るとき、フルネームを丁寧に紡ぎながらも現代に馴染みやすいラストネームで呼ぶよう人々に伝えているのをファルカは知っている。戦友であるマスター・ライトキーパーですら彼のファーストネームを呼んでいるところを見たことはなく、ゆえにファルカはその栄誉が欲しいと思った。
 この世界において「名」が大きな意味を持つということは、かの月神の少女の一件でも知っていることだ。はたしてこれが正解であるのかはわからないが、目の前の愛しいと想うひとを大切にしながらも望まれた疵を与える方法なんて、少なくとも今ファルカに思いつくのはこれくらいしかない。
 頬に触れていた手を掬い、甲に恭しく口付けを落とす。騎士らしくゆるしを乞い、誓いを立てんとするファルカを、フリンズは気に入ってくれるだろうか。
 ちらりと蒼の目で見遣ったその美貌に浮かぶのは、偽りのないやわらかな微笑みで。
「ええ、喜んで」
 頷く彼の名を、ファルカは慎重に、まるで懐中時計の蓋のうちがわに刻印を刻むみたいに、紡ぎ上げた。