白を基調とした清潔な部屋の真ん中で、同じくらい白く清潔な服を纏う男が一人、項垂れるようにベッドに腰を下ろしていた。室内電灯の光を反射し、天使の輪を象るゆるく波打つ黒い前髪は、その傾けた顔の角度に従って男の目元を覆う。ただ伏せられた物憂げな黒曜石の瞳だけは時折、前方に向かってちらりと視線を送っていた。
「…………はあ、」
視線が目の前にある“物体”……天井に届かんと聳 えるように大きい、アクリル製のパネルとかち合う度に、男は深々と溜息を吐く。実のところもう小一時間ほど、何度もそうしていたのだが、男の中の時間感覚はこのパネルを自室に持ち込んできた時からすっかり馬鹿になっていた。
「……どうして、こんなことを……何故、私はこれ を手に入れてしまったんだ……」
溜息以外の意味ある言葉が口から漏れ出たかと思うと、その声を封じ込めるかのように両手で顔を覆う。崩していた身体の姿勢をじわじわと正しながら、逃れられぬ現実に意を決して向き合うように、両手の指の隙間から目の前に広がる光景を見遣る。改めて深呼吸を一つ。ようやっと腹を括った男は、この“物体”を手に入れた当初の本懐を遂げるため、ベッドからゆっくり立ち上がった。
先ほどから幾度となく奇行を重ねるこの男の名はアルジュナ。インド、ならびに世界に広く長く語り継がれてきた高名な叙事詩【マハーバーラタ】に記される大英雄が一人、その主人公格であり──アルジュナを悩ます元凶……眼前の壁際に立て掛けられているアクリルスタンドパネルに、威風堂々たる艶姿で総天然色 ・等身大塗装されている神々の王、雷霆神インドラの実の息子でもある。
時間は数時間前、場所は共用通路に遡る。人理に刻まれし歴史や伝承の英傑たち、その影法師 としてこのカルデアに“世界救済”の崇高な使命を負って召喚された一人として、アルジュナは日々求められる活躍以上の成果を出し、必要なタスクをそつなくこなしていた。今日も充分な業務を遂行したという高らかな自負、その充足感のまま、割り当てられた自室へ凱旋帰還する道すがらであった。
不幸にもとある一室の騒がしさに自然と耳が引きつけられ、頭ごとそちらへ向けた瞬間、己が目に飛び込んできた異様な景色──多幸感から一転、奈落の底へ気分が落ちたアルジュナは、絶句してそれを形容する術を持たなかった。ただ廊下を歩いていただけなのに、どうしたってこのような理不尽な目に遭わねばならないのだろうか。前世の行いの悪さが巡ってきたかと思わず悲嘆に暮れたが、死後、境界記録帯に焼き付いた影である今の自分における前世とはどこだろうかと哲学めいた思考に落ち込む。要は現実逃避だったのだが、アルジュナ自身に備わる責任感……または『理不尽を見過ごせぬ』という素朴な感情の発露が“スルー”という三文字を掻き消した。それがアルジュナ自身のためにならないとしても、だ。
結論から言ってしまえば、アルジュナが見たのは“インドラの立ち姿を模したアクリルスタンドパネル(等身大)”が販売されている光景だった。奇妙奇天烈な文字列が並んだが、そうとしか言いようがないのだからしょうがない。アルジュナが現場に寄り集まっていたサーヴァントやカルデアの職員たちを問い詰めた結果『以前、飲みの席で気分が良くなったインドラ神が気まぐれに加護を授けた結果、賭け事に負けなしになった同席の飲兵衛メンツが大層有り難がって「像でも何でも作って崇めたい」と軽口を叩いたことが起因して、現代的で大量にすぐ作れる像といえばアクスタ!とばかりに悪ノリが盛り上がり、最終的に欲しい人に販売してしまおうということになった』という経緯を把握した。「だからこれはインドラ神ご自身も承知の上で、何なら主導で作られたもので『我が威光 を理解する者の崇拝の念は多いに越したことはない』と前向きだった」と言われて「ああ、そうなんですね。ご苦労さまです」と終われるわけもなく、双方何をやっているんだという苛立ちがアルジュナの内から湧き上がる。
先日インドラがマスターからのバレンタインのお返しのために作ったスカイドームですら、その辺に放り出されれば現在過去未来問わずありとあらゆる魔術師が殺し殺され奪い合うほど、貴重で危険な代物であるというのに、あまりに気軽が過ぎている。マガヴァーン と呼ばわれるだけの気前の良さは美徳だが、カルデアの良き人々と違ってその価値を正しく理解できぬ者や、理解しているからこそ悪しき思想のもと利用する者の手に渡り混乱を招くのも必定。只人に神の施しは時に毒だ。アルジュナでさえ、扱いに手をこまねいたことなどいくらでもあるのだから。
インドラは帝釈天と名を変えてマスターの出身地である日本を含め、アジア圏でその信仰を伝播させていたこともあり、特にその一帯に関連するサーヴァント達から人気が高かったらしいが、面白半分の者も恐らくいるだろう。購入者一人一人の名前と顔を確認して、問題が無いか判断するべきだ。カルデア内で厳重に保管・管理するならばさておき、今後発生する特異点先に持ち出して妙な騒動の起因になっては敵わないし居た堪れない。現世においてこの手の物品は、出掛け先に一緒に連れて行って写真を撮るのが流行りで……とアルジュナが悶々としているところ悪いのだが、アクリルスタンドパネル……アクスタというのは、手乗りサイズのものをカバンに入れて持ち歩くのであって、二メートル超えの大きさのものを好き好んで運び回るような奴はそういないのだった。ともあれ不安が募り続けるそんなアルジュナの気持ちを知ってか知らずか、販売員の一人が蛮勇にもこう告げた。
「気になるのであれば、お一ついかがでしょうか?」と。
びしり、と想定していなかった問いに思わずアルジュナの中の何かが軋むような音がした。そう、販売しているのだから誰だって買える。息子であるアルジュナとて例外ではない。すかさず「いりません!」と一蹴できればよかったが、ここに立つアルジュナはそう言い返せぬ事情を抱えていた。──『実の父神へ敬愛と同時に恋慕を重ねている』という、大いなる事情を。
生前から地に在っては空を駆ける雷と恵みの雨に、天に招かれてはその玉座の先に在るインドラの姿そのものに、アルジュナはその心を掴まれていた。血脈を受け継ぐ父と子であってもやはり神と人……、天と地に別々に息づく者が真の意味で交わることはないと理解して死した向こう側の今。何故かインドラとアルジュナは同じ空間に居を構えて、毎日のように顔を合わせている。何故も何も、インドラからアルジュナの顔を見たいとこの地に降り立ったのだ。インドラが顕現した当初はマスターからさんざっぱら「お父さんの目的ははじめっからアルジュナに会いたかったの一択だよ!?このニブちん!!鈍感系ギャルゲ主人公!!」と面罵 (?)されたアルジュナだったが、今となってはさすがにインドラの意図を解している。だからこそこの恋慕が芽生え、持て余しているのだ。憎からず思っていた神 が、死後数千年と経った今でも己に会いたい、共に過ごしたいと思って同じ目線に立たんと我が身の不自由すら受け入れてくれたこと。それに勝る愛があるだろうか。確かな喜びが、アルジュナの中で恋慕の形を取るのはあっという間だった。
とはいえ……カルデアでの日々やマスターの導きにより、以前のようにアルジュナが個人的な欲や感情を必要以上に戒め自罰する意識は和らいでも、こればかりは“相手”がいる。アルジュナ自身がこの恋慕を抱えてしまったことは認められても、それをインドラに対して押し付けることはおろか、知られることまで甘んじて許容できるわけではなかった。自己完結できるうちが華とばかりに隠し続けているが、自覚するゆえの気恥ずかしさから、ここ最近はインドラから提案され、定例になっているインドラの居室での日報はボロが出ないうちにと手短に済ませ、そそくさと退出してばかりいる。インドラが明らかに物足りなさげな顔……もっと言えば寂しげな態度を示していることに気付きながらも、見て見ぬふりを続けていることにはアルジュナもさすがに罪悪感があった。己の都合で父の望みを……“親子の交流”を叶えられていないのだから。
だからそう──行き場のない恋慕が邪魔をして“本物”を前に上手く振る舞えないならば、振る舞えるまで“代用品”に向かって吐き出してしまえば、少しは落ち着いていいのではないだろうか。
抑え込んでいたインドラへの感情が静かに駆動し、名案かのように浮かび上がった思考が、アルジュナがこれから帰る自室にこのアクスタが鎮座する光景ばかり脳裏に浮かべる。気付けば先ほどまでの風紀委員思考も薄れて、アルジュナは自身のQP貯蓄額を確認し、指定の金額を揃えて渡すとインドラアクスタ(1/1)を一柱 抱え上げていた。ちょっとした闇取引のような緊張感。あとは誰にも見られぬうちに急いで自室に帰るだけとなったアルジュナは“共犯者”となった販売員の方を思わず睨めつけるように見つめてしまったが、販売員は怯むことなく「購入者のプライバシーは守りますよ」と返した。聞きたかった言葉が聞けたアルジュナはトップスピードで駆け出して帰室したところで、我に返って項垂れる冒頭に至るのだった。
アクスタの正面に立ったアルジュナは、改めてまじまじとその作りを眺める。プロデュースという形でインドラ本神 も携わっているからかその出来は確かで、インドラの美しく精悍な顔 、力強くもしなやかな肢体を写し取っている。無論“本物”とは比べようがないが、偶像崇拝の対象とするには十分過ぎるほどだろう。何よりアルジュナにとっては敬愛する父神であると同時に恋焦がれる男性の姿を模しているものなのだ。購入当初こそ山あり谷ありの感情起伏だったが、落ち着いた今となってはすでにそのものに愛着が湧き始めている。もしこのままインドラの気まぐれが続いて手の内に収まる程度の……例えばぬいぐるみやキーホルダーが“グッズ化”されるのであれば、集めたいと思い始めるほどに。元来アルジュナは好きなもの、気に入ったものがあれば買って部屋に飾ったり、身に付けることも好む人間だ。旅装を着る時などはガーンディーヴァにあひるのキーホルダーを付けているし、現地で仲良くなった猿を一緒に連れ回している。アルジュナはふと、推しのグッズを持ち歩いて見せびらかしている刑部姫や黒髭などのカルデアオタク界隈の気持ちに何となく思い馳せた。共感を覚えると同時に「推しそのものを本気で恋い慕っている私は邪道かもしれませんね」と、自嘲しながら。
はてさて、販売員がいくらプライバシーを守ってくれると言っても、通りすがりの他人 の口に戸は立てられない。特に死角から市場調査をしていた赤緑な二人の子どもたちなら、尚更。
「……ねえ、今インドラさまのアクスタ買っていったのってさ……?」
「御子息 でしたね」
「だよね!!インドラさまに報告連絡 〜!!」
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「……アルジュナが?」
「はい」
自身で誂えた玉座の上で寛 いでいたインドラは、怪訝な顔でヴァジュラたちの報告を耳に入れた。持ち上げていた酒の入ったグラスが空を彷徨い……そのまま口元へ迎えることなく脇のテーブルに置く。
かの販売員が語る通り、インドラは一連の案件を把握し流れに任せていた。宴席の勢いであったことも、自身を模したアクスタが売り出されていることも承知の上で、ヴァジュラたちを差し向けて定期的に様子だけは確認させていた。購入する信心者がいるならば見所ありとほくそ笑むくらいで、さして興味もなくなって傍観していたのだが、アルジュナが購入したとなれば話は別だった。
ひとまず、アルジュナがインドラに纏わるものを手にしたという事実は嬉しい。控えめなアルジュナが見せたインドラへの好意の表れであると確信し、玉座から立ち上がって飛び跳ねてしまいたいほどだったが、同時にインドラの腹の奥でモヤモヤとしたものが引っ掛かって腰を重くさせていた。言語化できぬそれの形を確かめるように口内で舌を転がしていると、インドラの思考を読むように緑のヴァジュラが呟いた。
「でも、ここに“本物”がいるっていうのになんか変だよね〜」
「……!、ああ……それだ。まったく、それ だ!」
食い気味に前のめる。すとんと腑に落ちたその言葉が、インドラの腹の奥のモヤモヤと結び付いた。嬉しいはずなのに、インドラにとって納得がいかなかったこと。それは“此処に存するインドラ”を蔑ろにされたような気がしたからだった。いかんせん最近のアルジュナはインドラに対して妙によそよそしくしていたため、それを密かに不安視していたインドラは余計に気が立っていた。
「仮にだ、アルジュナが自室でも神 の威光 を感じたいと思って購入したのであれば、そんなものより此処に在る神 に会いに来れば良いはずだ。一日の最後、眠りに落ちる寸前に瞳に映す姿が神のものでありたいならば、それこそ神 の寝台で共に眠れば解決だろうが……!」
何とも子どもじみた癇癪 だが、インドラは本気でそう思っている。アルジュナが絡むと途端に大人げ、もとい神げなくなるこのインドラは、つまるところ己のアクスタという無機物相手に嫉妬しているのだ。何故このインドラ自身も気軽に立ち入れぬ愛息の自室に、己のアクスタの方が先んじて招き入れられているのだと。隠せぬ不機嫌がインドラの居室の空間にも影響を及ぼし、天蓋の雲行きが怪しくなる。
「インドラさま〜どうする?神罰執行 ?」
「アクスタを直ちに回収し、アルジュナを連れてきますか?」
「………………待て」
ヴァジュラたちに判断を仰がれたインドラは顎を手で擦り、熟考する素振りを見せると、息を整え、玉座に深く座り直して背もたれに身体を預けた。そのまま両の眼を閉じると、周囲は不思議なほどにしんと静まり返る。
「あ、これは……」
「透視盗撮 してますね」
インドラが手ずから製造に関わったことでアクスタ自体にも微量ながらインドラの神力が流れている。ヴァジュラたちが察した通り、インドラはアルジュナの自室に持ち込まれたアクスタの気配を探り、『千眼』を接続しようとしていた。アルジュナの最近の己への態度と、アクスタの購入には因果があるに違いないと見立てたインドラは、とにかく急いで原因を知りたがった。
(…………あった)
アルジュナの購入したアクスタを探り当て、『千眼』が見開かれる。瞬間、目の前に立っているアルジュナが視界に入り、インドラは思わず身体を硬直させたが、アルジュナは本物のインドラがアクスタを通して覗き見ていることには気付いていないようだった。アクスタのちょうど頭部の部分に向かって、アルジュナはインドラの見慣れぬ切実さと悲愴さを湛 えた顔でそっと呼びかける。
「……インドラ神」
その声すらも切迫していて、インドラはとうとう身構えた。これはもう神 に何か非があったに違いないのではないか。神 に遠慮し直接言えぬ何かを、このアクスタに向かって鬱憤をぶつけようとしているのではないか──?緊張と恐怖から仮初の心臓をばくばくと激しく鼓動させているインドラの推察の筋は良かったが、根本的な部分を読み違えていた。
「いえ、と、……父様……。私は、貴方のことが……ぅ、好き、です……」
(────!?)
もとよりおかしくなっていた心臓の鼓動が、一際どくんと大きく拍を打った。これまでアルジュナから『敬愛している』とか『偉大な方』とか『華やかな方』だと恭しく好意を伝えられたり褒めそやされたことはあったインドラも、こんなにもストレートに、どこかあどけなさを残す甘さで愛を伝えられたことはなかった。ましてや『父様』と呼ばわれたことすら。一つでも狂いそうなのに、無い経験を二つも打ち込まれて、インドラの口から心臓が飛び出しかねない勢いだ。
わけもわからず過呼吸になりかけているインドラ(本物)のことなど当たり前だが知らないアルジュナは、インドラ(アクスタ)の胸元にそっと自身の身体を預けた。アルジュナの柔らかい頬がアクスタにぴたりとくっついていることに気が付いて、インドラ(本物)は慌てて全身の触覚もアクスタに接続する。この身に同じようにもたれかかられていれば我が腕 でしかと包み込んでいたはずなのにと歯軋りしながら、両の腕でアルジュナを見立てるように空気を抱いてその姿をただ見つめる。
「父としてはもちろん……あ、浅ましくも、一人の殿方としても……貴方を好いているのです。ああ……本当に、なんと身の程知らずな想いを……!!重々承知しているのですが、我が心を偽れず……」
ぽつぽつと小刻みに、何もかも初耳な告白が続く。インドラはその一語一句を聞き逃すまいと今持てる神力をすべて注ぐ勢いで感覚を研ぎ澄ませ、記録し、そのすべてを今日一日の間に起きたカルデアのマスターやそのほか有象無象とのやり取りの記憶の上にあっさり上書きした。さて、ここまで明朗明快に愛を囁かれれば、さすがのインドラもアルジュナが己に向ける想いが恋慕であることは察している。察しているが『ちょっと都合よすぎやね』という気持ちが先行して、疑心暗鬼に襲われていた。もう一つ、もう一つ何か決定打が欲しい……。そう考えていたインドラに絶妙なタイミングで、アルジュナが“動いた”。
背丈の違いで爪先を立てても近付かぬインドラ(アクスタ)の顔を上目遣いで見つめていたアルジュナは、しばし思案顔をしたかと思うと自身の魔力の流れを整えた。もう一人のアルジュナ──異聞帯のアルジュナ・オルタと違って常に浮くことはできないが、このアルジュナもスキルや宝具使用時に少しだけ身体を浮かせることができる。その要領で地を軽く蹴ると、ふわりと浮き上がり、インドラ(アクスタ)の唇の位置にアルジュナが顔を近付け、唇がゆっくりと重なった。
ふに…
無論、触覚をアクリルスタンドと接続していた本物のインドラ自身の唇にも、その感触がダイレクトに伝わる。常に何よりも疾 いと自負する神 は、この時ばかりはすべてにおいて出遅れた。何が起きているのか、アルジュナは一体何をしているのか、思考判断するために必要な集中力が、本能的に唇の感触を追うことに消費されていく。下手な女よりもまろく柔らかい、つややかなアルジュナの唇が、平べったく湿度も温度も無いパネルに向かってむにむにと押し当てられ、熱っぽい吐息を漏らす。視界いっぱいに広がるアルジュナの潤む瞳と蕩けた表情は、神核にヒビが入るような激しい衝撃を与えた。ハッと正気に戻ったアルジュナは慌てて地に降りて、先ほどまで己の唇が触れていた箇所を白衣の袖で拭い、真っ赤な顔で俯いた。
「な──……あ……???ま、っ……」
自身の唇を指で撫でながら呆然としていたインドラ(本物)は、距離を離したアルジュナへ追い縋るようにおもむろに立ち上がる。が、千眼を通した光景に没入し過ぎて、ここがアルジュナの自室ではなくインドラ自身の居室であることをすっかり失念していた。玉座から足が滑り落ち、硬い床に尻がしたたかに叩きつけられる。腰を抜かしたようにへたり込むインドラのその顔といったら茹でダコもかくやの紅潮ぶりで、好きな女と初キスかました童貞でもここまで間抜けな面を晒さないだろう。もはや神代のプレイボーイは見る影もなく、打ち捨てられて死んだように息をしていなかった。
「い、インドラさまー!?」
「大丈夫ですか!?」
「え、ええい黙れ黙れ!!今話しかけるな!!!!!」
突如まさに横転とばかりにひっくり返った己が主人を心配して、ヴァジュラたちがすっ飛んで駆け寄ろうとするが、半ばパニックに陥っているインドラは従者たちの相手をする余裕がまったくといって無かった。
(待て待てつまり……、これはもう……“そういうこと”でいいのか!?いいんだな!?アアア、アルジュナが、神 を……!?)
人間の倫理尺度で言えば血縁でましてや実の父と子の間に発生する恋慕の感情など言語道断だが……インドラがそれをいちいち気にするかと問われるとだいぶ怪しい。かつて美しい女筆頭の頼光を見ながら『親戚の娘、のような感覚がして食指が動かん』とさも近親NGの素振りを口にしたことも忘れて、満更でもない様子で否定以外の返事を考えている顔だからだ。例えそれが理に沿わなくても、愚かしいと唾棄されても……アルジュナが望んだかどうかが重要なのであって、インドラが良しと応じるならば他者の承認など必要がない。インドラがアルジュナに向ける愛の総量は変わらず、そのまま可変だ。アルジュナが求める愛の形がインドラの当初の想定と違っても、“アルジュナを愛せる”のであれば、どちらでもよいのだ。
勝手に舞い上がり続けているインドラは、ここまでのアルジュナの振る舞いから『神 にいつ己の真の想いを告げるべきか悩んでいたから、日報の時にああもよそよそしかったのだ』とすっかり結論付けていた。杞憂どころか極上の知らせ、今度こそ飛び跳ねて喜ぶべき展開。120kg越えの大男で神霊のスキップなど、いくらカルデアの施設が数多の英霊の現界に耐えられるように作られていたって底が抜ける恐怖だが、さすがに実行には移されなかった。『であればアクスタを買ったのも、本番に備えた予行演習というわけか……』と、ひとり合点したインドラは、先に聞くことができて良かったと心底思った。盗み見盗み聞きしている今だって大わらわであるのに、予行演習なしでアルジュナから愛の告白を受けていたら、父としての寛大さも、神々の王としての威厳も、へったくれも無くなっていただろう。そうなればインドラに告白したことを後悔するほどアルジュナを幻滅させていたやも……と悪い想像を巡らせ、勝手に身震いした。だがもうこれで大丈夫だ、明日になるか来週になるかはわからないが、アルジュナが覚悟を決め、その恋慕を包み隠さず打ち明けた暁には……神 は『よく言ってくれた』と肩を抱いて受け入れ、緊張で震えるアルジュナを宥めて、香を焚きしめ整えておいた寝台に招いてやるのだ。……と壮大な妄想シミュレーションを繰り広げるインドラを差し置いて、アルジュナは現実を見つめていた。
「……はは、本物のインドラ神にはこの想いを伝えることも、ましてやこんなことがしたいなんて、とても言えないけれど……『貴方 』がいれば、少しばかり気が紛れるかもしれませんね。いずれは、良い思い出に昇華することも……」
(────あ?)
聞き捨てならない言葉がインドラの高揚に冷水を浴びせかけた。アルジュナはインドラ(本物)にこの想いを今後一切伝える気が無いどころか、インドラ(アクスタ)相手に一人で気持ちを慰め、いずれはケリをつけるつもりだと、たった今そう宣言したのだ。
「ただでさえあの方がお好きなのは美しい女性で、ましてやインドラ神は私に親子の交流を求めておられるのに……私の我儘で最近は日報もまともに時間を取れず逃げ出すばかり……無理を押して現界され、今はカルデアに力を貸してくれることもあるインドラ神に、私から返せるものなど限られているのに申し訳がない……。父と子として、インドラ神と自然に話せるようになるまで、どうか貴方 に頼ってもいいですか」
アルジュナは労わるようにインドラ(アクスタ)の表面を撫で上げる。その感触も共有しながら、インドラ(本物)の顔には青筋がいくつも浮かんだ。本来、インドラ(本物)が享受し独占出来るはずだったもの。神への敬愛、父への家族愛、一人の男への性愛……アルジュナから向けられる愛のどれ一つだって絶対に逃したくないものなのに、今、それがただの板切れ一つに掠め取られようとしている。腹の奥がマグマのように煮え繰り返る。インドラからアルジュナを損なう者は、例えそれがアルジュナ自身であったとしても許し難い。
バチン
黒い閃光となったインドラが、居室内を眩むほど真っ白に照らすと、いつの間にか玉座から消えていた。赤と緑のヴァジュラは互いの顔を見合わせると『あーあ』と言わんばかりの呆れた顔で肩をすくめた。
「行ってしまいましたね」
「アルジュナ連れて帰ってくるだろうしお部屋の準備しとこ〜」
「マスター には『しばらくアルジュナに暇 を与えるように』と伝えておきましょう」
今まで言語化して音に乗せることなかったインドラへの恋慕を一通り吐き出して、どっと疲れが押し寄せたアルジュナは、少しばかり休もうとベッドに向き直ろうとしていた。どうせ今日はやることもなし……と程よく空っぽになった思考のまま、掛け布団に手を──、
ビシャーーーーーーーーン
「──ッ、!?なんだ!?」
劈 く雷鳴のような音。すわ敵襲かとガーンディーヴァを出現させ、手に取って素早く構えたアルジュナの前に、インドラのアクスタが……いや、インドラそのもの が佇んでいた。そこにあったはずのアクスタを、床に踏み倒しながら。
「………………ふざけんなよ」
「は……あ、え……インドラ、神……、ほんもの…、の…!!?な…んで……」
アルジュナの全身にビリビリと痺れるような感覚が奔 る。その規格外の巨躯ゆえに明滅する電灯の光を遮り逆光になったインドラの顔は、爛々と光る目と稲妻の傷痕が際立って、怒りと絶望の入り混じる尋常ではない表情を象っていた。
「い、いつから!?まさか、先ほどまでの、ぜんぶ……聞いて……!?」
もはや悲鳴のような声でそう尋ねながら、錯乱してその場に立ち竦んだアルジュナに向かって、インドラは粉々に砕け散る無残なアクスタの欠片を見せつけるように踏み躙り、大股で近付いてくる。地に縫い付けられたように動かなかった足を何とか引き剥がしたアルジュナは懸命に通路へ通じるドアに手を伸ばしたが、一歩及ばずインドラに二の腕を掴まれた。インドラは背を向けていたアルジュナの身体を腕の中に引きずり込み、顎を片手で掴んで上向かせると、呆けて閉まらない口内に親指を差し入れる。舌を引っ張り出すようにぐっと力を込めると、飲み込みきれなかった唾液がアルジュナの口の端をつたい落ちた。
「あッ、……ひ……ィ!?」
「唇を押し当てるような技巧もクソもない児戯の口付けで満足とは、妻を四人娶ったとは思えんほど我が息子は随分初 なことだな。……どれ、神 が“本物”の良さをこのナカに教え込んでやろう」
そうして本物のインドラによって居室という名の神域に連れ去られたアルジュナが口内蹂躙一時間コースのわからせ濃厚接吻 の果てに絶頂失神に追い込まれたり、一部始終を勝手に聞かれていたことに怒り拗ねたアルジュナとインドラが問答になった挙句アルジュナが抱き潰されて凄惨な状況になったり、最終的にあらゆる意味でめちゃくちゃになった寝台の上でアクスタに向かってしていた告白をやり直して収まるべきところに収まったり……というのは、まあ、別件事案である。
ちなみにこの後、インドラの意向でカルデア内にあったインドラ等身大アクスタは即日全回収ののち、廃棄処分された。(※購入者への返金対応もきちんと行われました)
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