いを
2026-05-15 20:56:27
3624文字
Public 刀神
 

杓子の話

青嵐
昇段した話

 長い廊下を歩く。装飾も何もなく、ただただ古いだけの廊下。右手には窓がはめ込まれ、その先に夏の舐めるようなぬるい風がゆらゆらと濃い花や茎を揺らしている。タチアオイが見えた。タチアオイは真っ直ぐ、背を伸ばして愚直に咲いている。青嵐の家の庭にもあり、毎年咲く。顔を近づければ、ほの甘い香りがする。暑さや寒さに丈夫な花。そんなふうにあれたらいいが、青嵐は人間だ。花になどなれない。
 暑さに慣れているとはいえ、毎日がこうだとからだは悲鳴をあげる。が、刀遣いには関係のないことだ。門が開けば急行せねばならない。餅は餅屋、そういうことだろう。
 廊下をぬけると、大きな道場がある。木刀がぶつかりあう甲高い音が耳朶を打った。
 灰青色の袴をはき、道場へ続くとびらを開く。黒いなにかが視界のすみに映った。ふと、足をとめる。じっとなにかを眺めている黒い男が道場の壁ぎわに坐っていた。襤褸のノートを摘まんでいる。たしか鯉朽隊の卜部小町。十年も前に壱段になり、一度も降格していないという。
 彼の視線の先をたどると、開けっぱなしになっている道場の窓に行きついた。そこにめぼしいものはなく、息をついて小町の前を通り過ぎる。
「昇段試験受けるんだって」
 確信めいた、だが聞き取りづらい、ゴロゴロとした声に振り返る。視線はあちらに向いたまま、男はもうくちびるを閉じていた。
「はい」
 うなずき、立ち止まる。摘まんだノートを腕にあずけ、慣れたようすでペンでなにかを書き始めた。書き終えたのか、男はこちらにノートを向けた。
 〝戦いたいのか、それとも死に急いでいるのか〟と書かれている。青嵐は片眉をあげ、「そういうことではありません」と答えた。
「私の年ではいままで以上に鍛錬しなければ、とたんにからだは朽ちます。それに抗った結果、昇段できれば御の字です」
 墨色の着物と袴をまとった男は、ひとさし指を口もとにあて〝読んでみろ〟とでもいうようにくちびるの端をいびつに上げた。
「〝俺が弐段になったのは26歳のとき、壱段になったのは30歳のとき。試験には7回落ちた。この意味が分かるか?〟……というところでしょうか。読唇術は私の専門ではないのですが」
 小町はヒュウヒュウという掠れた息をもらしながら笑った。
 46歳という年齢を馬鹿にしているわけではなさそうだが、愉快なものをみたという表情をした。
 顔に傷がなければ整った顔だちなのだろうが、古傷で皮膚が引っ張られ、表情を左右対称にするには難しいようだった。
「心配しなくとも、なにもなければ壱段の試験は受けません。そんな器でもないですし。刀遣いとしての使命を全うできればそれでいい」
 男は不思議そうに首をかたむける。
 からだをずらして壁に背をむけて立ち、目を細めた。
「私は私の神に殉じられれば、それでよいのです。これをだれかに分かってもらおうとは思わない。バディ――あの刀神殿であろうと、理解を求めない」
 小町は頭をフラフラと動かし、ふたたびノートに書き始めた。
 ――あんたは理性もある、刀遣い、下緒院としてもうまくやっている。あんたに足りないものは人間性だ。人間としての感情を、律しているな?
……人間性。壱段のあなたに言われるとは。当然、私にも欲があります。それが人間にとって必要なものだとも知っています。ですが私は私という存在を主語にしない。私がしたいことをするよりも、そう在るべきならそれに従う。それだけです」
 そのとき、男がどんな表情をしたのか分からない。ただ黙したまま手を握ったり、開いたりを繰り返していた。
「私が人間でなければ、より楽にあれたのかもしれませんね。たとえば、花のように」
 もしも、の話をしても仕方がない。ふっと息をついた直後、小町は音をさせずに立ち上がった。親指をたてて、道場の内側に誘うようなそぶりだった。くたびれたノートは床に置かれている。
「ご期待に添えるかどうか分かりませんが」


 壱段という存在にことごとく打ちのめされたが、切っ先を向け合ううちに一体自分はなにに向かって歩いているのかを考えるようになった。が、結局答えはでず、やみくもに霧や靄のなかを歩くしかないように思えた。それが、からだの傷よりも痛みとなった。


 昇段試験の日はよく晴れていた。麻の上衣に綿の袴。めったに着ないが、風を通すほどに軽いので、夏にはよい。
 息をゆっくりと吸い、同じように時間をかけて吐く。
 このとびらを開けば、昇段試験の相手が分かる。知っている人間かもしれないし、全く知らない人間かもしれない。
 ギイと音をたてて開いたとびらの先――道場の真ん中に立っていたのは卜部小町、その人だった。
 驚くようなことではないが、おそらく天照上部の人間の采配ではなく、彼自身が指名したのだろう。青嵐と顔見知りだが、それほど親しいというわけではなく、かといって刀の腕を知らない、というわけでもない。いわゆるちょうどいい壱段と参段なのだろう。
 審判役の職員は気の弱そうな男だった。それでも目尻のしわが優しく、よく使い込まれた衣をまとっていた。
「雲井参段」
 と、ゴロゴロした声で男は呟いた。
「それは、死ぬための剣じゃない。生きるための剣だ」
「そうですね」
「俺がこうして相手をして、弐段になったとたん殉職した奴らがたくさんいた。片手ぶん、ちょうど5人だ」
 小町は指をひらき手のひらを見せつけるように語った。珍しいと思った。
「だから、俺は2年前から合格者を出していない。雲井参段はどうだろうな?」
「さあ……
 左右非対称の笑みを浮かべながら、男は刀を構える。
「あとは剣に聞こう。そうしよう」
 審判のはじめ、という発声の直前、小町は足を踏み出した。
 木の床がべこりと凹み、小町の目が青嵐の鼻先を捉える。身じろぎさえ許されない状況に見えた。
 青嵐のからだはそれでも無意識にあらがい、鼻の数ミリ先、刀の峰で視界がいっぱいになる。鉄の、鋼の、匂い。打ち古されて銘が消えかかったなかごの、錆びた匂い。握りすぎて擦り切れそうな柄糸の、つんとした匂い。静寂のなか、匂いが青嵐の感覚を過敏にした。
 手のひらの皮膚が一度の打ち合いで、破れそうだった。目前の赤茶色の瞳孔と、濁って白くなった瞳孔がじいっとこちらを覗き込む。
 それが一時間以上続いたように感じた。絶え間なく続く卜部小町の押す力と青嵐の返す力。それが分散することなく、熱を溜め込むごとにからだの内側が疲弊し、摩耗していく。
「花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせし間に」
 面白げに、そして唸るような声で男は歌を詠んだ。小野小町・・・・の歌を。
……
 歯を食いしばっているからか、答えることもできずにただ歯がみをしていた。それしかできない――――あえてそうしていたのかもしれない。
「強さに年齢は関係ない。妖魔も男だろうが女だろうが、老人だろうが若いのだろうが関係なく襲う」
 くっと不意に刃の向きが変わる。それを目視した時点で刀は手のひらから落ちていた――だろう。以前ならば。すくなくとも、前に剣を交えたときには。
 今回は落とさなかった。だが力の向きが変わった瞬間、足を一歩引いた。ただそれだけだった。
「上出来、上出来」
 刀を引き、ヒュウヒュウと息をもらしながら男は笑った。
「俺の力を受けて、なお落とさないならソレは本物だ」
 小町の左右違う目の色が青嵐の手首を見下ろしてから、親指をついと立てた。まるで何事もなかったかのように。
「2年ぶりの合格者だ。よかったな。雲井弐段」
 鞘に刃をおさめ、そのまま審判に押しつけて背中を向けた。はじめ、も、やめ、もない試験であった。
 試験管は困ったようにやさしげな目尻をさげ、ええと、とまごまごとしている。
「合否は、後日言い渡します」
 と、とってつけたように、そして自信がなさそうに背中を丸めながら礼をした。
「はい。よろしくお願いいたします」
 同じように礼をして、刀を預け道場を去った。
 背中がひんやりとしている。滲み出る冷や汗を風がなめる。いやな寒気とはこういうことなのだろう。久しぶりに感じた。
 長い廊下を歩く。左の窓のむこうに、タチアオイが咲いている。まだまだ盛りの花だ。
 ぼんやりと2メートルほどの花を眺め、手のひらの痛みで我にかえる。皮膚がわずかに破れ、赤く滲んでいた。ようやくひと息つけるということか、と窓辺でひとり、笑む。

 一週間後、書状を預かった。
雲井青嵐殿
貴殿を弐段と証明する。
証人卜部小町
 というだけの、簡素な書。 
 小町の字は、案外ととのったものであった。

 特別感慨深い感情は湧いてこなかったが、これであの方と外での任務が多く望めると思うと、笑みを浮かべざるを得なかった。