やまだ
2026-05-15 12:05:44
3856文字
Public 無双オリジンズ
 

No title

赤壁後の黄蓋×紫鸞with周瑜 カプ名わからないよ〜

「公覆殿は……
 と、紫鸞が口を開いたとき、周瑜は思わず微笑んでしまった。執務室の窓からこぼれる陽射しがきらきらと竹簡の上を滑る、気持ちのよい朝のことだ。
 過日、赤壁での大戦で風向きの変わる瞬間を読みきった紫鸞と、苦肉の策をもってその風に乗せて曹操軍へ火を放った黄蓋は、ともに孫呉の大英雄だ。赤尾の霊鳥が諸葛亮の築いた壇に舞い降りて天を焦がさんほどの炎を熾したのだ、そうではなくかの霊鳥は焼け落ちる船で先主に殉じようとしていた黄将軍を救ったのだと、そんな物語じみた囁きも城下で頻繁に交わされていると聞く。誰も彼もその霊鳥殿が人並みにそわそわする当たり前の人間だとは思いもしない。
……公瑾。まだ何も言っていないのに、なぜ笑うんだ」
 照れ隠しで半目になって孫呉の大都督を睨みつけるような俗っぽい人間なのだとは、きっと知ろうともしていない。
「すまない。しかし四半刻に一度の頻度で尋ねられては、私もつい愉快になろうというもの」
 室の板間に寝そべる紫鸞の目元にさっと羞恥の色が走った。彼の横で机に向かい読書をする周瑜の体感としてはその程度だが、そう間違ってもいないはずだ。帛書の右端がだいたい同じほど伸びたころに紫鸞が口をひらくので。
「黄蓋殿は、火傷や怪我は酷いがご無事でいらっしゃる。ご自宅で静養なさっているから会えぬだけだ」
 笞打ちを受けたのち曹操軍に偽降し、孫呉と劉備の連合軍と干戈を交え、さらにその後曹操軍の大船団に火計をしかけてから連合軍に合流するという大立ち回りをしてのけたのだ。戦後の黄蓋のありさまと言ったら、立っているのが不思議なほどだった。実際、紫鸞が彼の傍らで肩を貸していた。
 どうも紫鸞はあの日以来黄蓋の顔を見ていないらしい。
「それほど心配なら見舞いに行けばいいではないか。君の顔を見れば黄蓋殿も喜ぶだろう」
……そうだろうか」
「おや、弱気だな。珍しく」
 帛書を机に置き、周瑜は斜め下を見る。戦場ではただひとりで敵拠点へ躍りこみそれを壊滅させるような男が、何やら途方に暮れた顔をして天井を眺めていた。
「公瑾。俺は怖い」
……怖い?」
 微笑ましいと半ば聞き流していた話の風向きが変わったようで、ふと周瑜の手が止まる。
 怖いとは、およそ紫鸞から聞いたことのなかった台詞だ。どんな戦場でも、どんな相手にも常に先陣を切って向かっていく彼にとって、もっとも遠い言葉であると思っていた。
 眉をひそめる周瑜に流し目をくれて、紫鸞は静かに顎を引く。
「公覆殿は、俺を避けて登城しないのではないか」
「まさか。なぜそんな考えに至るのだ」
……わからない」
 ゆっくりとした呼吸で紫鸞の腹が上下する。溜め息の代わりだったかもしれない。
「もうあの人を疑いたくなどないのに、どうしても考えてしまうんだ。こうして無事に孫呉へ戻ってこられた公覆殿に、俺はもう不要なのでは、と」
 ついに周瑜は膝を巡らせて紫鸞に向きあった。
「紫鸞。君と黄蓋殿のあいだでどんな対話がなされたのか、私は聞くまい」
 胸に浮かんでくるのは戦後の赤壁で黄蓋を支えて立つ紫鸞の姿だ。
 周瑜は知っている。黄蓋という孫呉に欠かせぬ宿将は、たとえ足が砕けたとて他者に縋って立つような男ではない。
「だがそれでも、君の苦悩が杞憂であることくらいはわかるぞ」
 紫鸞の瞼が静かに伏せられた。
「そうだといいんだが」
「そうに決まっておろう」
 周瑜が身を起こして空いた空間に、腹筋を使って跳ね起きた紫鸞の顔が飛びこんでくる。見えざるを見通す瞳は戸口を見つめていた。骨身に沁みる厳冬の時期だが、火鉢の暖気で弛んだ気を一度改めるために扉を開けていたのだ。
「公覆殿」
 そこを塞ぐように治療の痕跡だらけの巨漢が立っている。どこから話を聞いていたのか、黄蓋は疲れたようにこめかみを揉み揉み紫鸞を呼んだ。
「どうせこのようなことになっておると思っておったわ。言葉を惜しんだ俺も悪いが、見舞いにも来ず城で周瑜相手に管を巻くおまえもおまえよ。まったく」
「黄蓋殿。お加減はよろしいのか」
 体のあちこちを覆う布に薬草の香りと色が染みている。椅子を勧めようとする周瑜だったが、黄蓋は頷きひとつでそれをやんわり拒んだ。
「まだ馬は乗れんが、歩くには問題ない。迷惑をかけたな」
「迷惑など。黄蓋殿に働いていただくのはむしろこの先です。今はしっかりご療養ください」
「うむ。……して周瑜、そこで固まっておる鶏を杖代わりに借りていきたいが、構わんか」
「ええ。ご随意に」
 黄蓋はたとえ足が砕けたとて他者に縋って立つような男ではない。
 周瑜は慇懃に微笑んだし、黄蓋は不敵に唇を歪め、紫鸞は高所から落ちた猫のような顔をした。にゅうっと伸びた太い腕がその襟首を掴んで持ち上げる。
「そら、供をせい紫鸞。中庭がよいな。風を浴びたい」
「ではな。紫鸞」
 古い腹心であり友人でもある男のしんなりした背中を、周瑜は微笑みで見送った。
「四半刻が過ぎたとて気にするな。寒気を侮らず、しかしゆっくりと逍遥を楽しむといい」
 
 
 杖代わり、などと言ったくせをして、黄蓋は鷲掴みにしていた紫鸞を通路へ立たせるとさっさと先に立って歩き始めた。周瑜のもとへ引き返してしまおうかとも一瞬だけ考えたが、呆れられるのが目に見えているので諦めた。大股で進む黄蓋へ並ぶために足を速める。
「俺がいつおまえはいらぬなどとほざいたのだ」
 横並びになった瞬間、断つような声が寒気を裂いた。
……言っていない」
「俺がいつ、おまえを避けた」
「赤壁以後しばらく、音沙汰がなかっただろう」
「それはそちらも同じであろうに。すべて俺のせいか?」
 紫鸞は口を噤んだ。見上げる黄蓋の横顔は落ちついていて、刃のような声音と乖離がある。どちらが真実の黄蓋であるかを見分けられるだけの経験が、いまだ紫鸞には不足していた。
「公覆殿」
 いつまでも口の中で話す癖が直せずにいる紫鸞の言葉を黄蓋に聞き直されたことはない。視線が絡んだ瞬間に、ふとそのことを思い出した。
「ずっと考えている」
「何をだ」
「戦の前にあなたと酌み交わした盃の意味を」
 紫鸞を見下ろす黄蓋の眉が片方だけ上がっている。
「とっくに知っているだろう。俺はあなたを好いている。それを許されていると思っていたんだ。あの夜まで」
「紫鸞」
「だがあなたは、俺ではあなたが生きる理由にも、死を悔いる理由にもならないと言った。それなのに酌み交わした契りの正体は後の楽しみだとも言った。公覆殿」
「そうではない、紫鸞」
「何が違うのか、何を間違えたのか教えてくれ。俺はどの面を下げてあなたに会いに行けばよかった? どう催促して、あなたから契りの内容を聞き出せばよかったんだ」
……紫鸞よ」
 よほど、抱き寄せようとする太い腕から逃れてやろうかと思った。紫鸞にとっては、黄蓋から目を逸らさずに見つめつづけるよりもそのほうがはるかに簡単なことだ。
 しかし黄蓋の高い体温を拒むには江東の風は凍てつきすぎていたし、何よりも紫鸞はこの大男から存分に慰められたかった。他人のために思考を割き心を乱すことが、どれほど人間を疲弊させるのか、初めて学ぶ日々だった。
 薬草や軟膏の匂いに満ちた黄蓋の胸はあたたかい。風をすっかり遮る厚い体に額を擦りつけ、紫鸞はきつく目を閉じた。
「すまん。すべて俺が悪い」
 黄蓋からすれば紫鸞など常識知らずの小僧でしかないだろう。あやすような声にありありとそれが滲んでいて、そして今はその扱いがとろけてしまうほど心地よい。
「おまえの気持ちに甘えて、おまえをないがしろにした。そんなつもりではなかったが……言い訳にしかならんか」
 黙って頷きながら紫鸞もわかっている。彼にとって何よりも、自分自身すら差し置いて第一に大切なものはこの国だ。孫呉を守るためならば、この先も黄蓋はどんなことでもするだろう。また紫鸞を置いて行くだろう。
「あなたが好きだ。だが、だからこそあなたを理解するごとに悲しくなる」
 俯いたままの紫鸞が口の中で呟いた言葉を、黄蓋は過たず聞き拾う。その理由も紫鸞はわかっているのだ。
「どうして俺にあなたをくれない。公覆殿」
 それさえ恵んでくれたなら、紫鸞はもう思い悩まずに済む。
……あまり年寄りを煽ってくれるな」
 太い溜め息は真上から落ちた。顎を紫鸞の後頭部に乗せるので、髭がうなじをくすぐった。
「紫鸞」
 低く甘い、どろりとした声が紫鸞の背筋をしたたった。総毛立った理由が寒気にないことを黄蓋は目の当たりにしたのだろう。く、と愉しげに笑う音がする。
「契りの盃に込めたものを、暴くがよいか」
 声を聞くだけで眼底が熱い。肺が震え、それが全身に伝播する。黄蓋の首筋へ頬擦りするように顔を上げた紫鸞は、何かが詰まって声の出ない喉の代わりに浅く頷いた。
 黄蓋が息を呑むさまを見る。やがて厚い手が紫鸞の顎を掬い、それで深く微笑む男から目を外せないようにされてしまった。
「ああ、よいな」
 季節を忘れるような声に耳の底がじんと痺れる。
「おまえのこのような顔が見られたのだから、生き延びた甲斐があったというものよ」
 おそろしいわけではない。無論、命の危機があるわけでもない。ただ黄蓋の声を至近で聞いただけだ。
 腰が抜ける、という感覚を、このとき紫鸞は初めて味わった。