獣の誓約(ジョン+リチャード)

三臨ジョンと三臨リチャードのIF軸。

 戦場で兄リチャードが行方不明となってから早数年。ジョン王の治世は音を立てて転がり落ちていった。
 度重ねられた徴税の増加、それにともなう飢饉、諸侯の反乱。他国の介入もやまず、兄が遺した国土も柔らかいチーズのように削られていく。
 終わりの見えない心労のためか、歳を経るごとに、王は老いていった。もはや父や兄から愛を注がれた未熟な少年はそこにいない。身体付きは壮年の男のものとなり、暴飲暴食で病の匂いのする肌を豪奢な衣装で隠し、顔や手には老人のごとき深い皺が刻まれ、目尻には重い隈が陰鬱さを演出した。変わらず手入れは欠かしていない濡羽の髪の艶ばかりがかつての面影を思わせたが、長く垂らされているのがなお暗澹たる影を作った。
 運命は王位の簒奪者とあざ笑うかのように年々に新たな問題を生み出していたが、此度訴え出られたのは、森に現れたという獰猛な獣だった。農村の作物や肥えた羊がいくつもやられ、近辺の領主が討伐に騎士をやったが、ことごとく返り討ちにあったとのことだった。
 よく調べさせてみれば、騎士もせいぜい骨を折った程度の怪我であって人死には出ていない。それだけであれば追加で討伐隊を向かわせればよいものを、すでに噂は尾ひれがついて、人喰いの獣として民を恐怖のどん底に陥れていた。ジョン王の治世が間違っているからこんな獣が出るのだ、と語るものすらある。名指しにされてしまえば王も黙って見過ごすわけにはいかなかった。王は噂を流す者に相応の罰を与え、自ら討伐に打って出た。
 農村が襲われるのは間隔を開けつつ月に二度、農村が仕掛けている罠も見張り番の犬も避けて的確に作物と羊を喰い荒らす獣は相当に賢いものと見えた。獣が出るようになってから一方、森には獣が食べ尽くしたのか小鳥の一羽も見られなくなったという。王は森に詳しい狩人を雇い、信頼のおける臣下と騎士を指揮し、森に張り込んだ。獣による次の襲撃を待つつもりだったが、数日も経たぬうちに森の調査を命じていた狩人が報告に上がった。
 用心深いかと思われた獣は痕跡を少しも残していなかったと狩人が告げた。狩人の口上の代わりとして、臣下が王に耳打ちした。
「狩人曰く、かの獣は、森の奥深くの洞窟をねぐらにしているものと思われます」
「よかろう。夜明けとともに討伐する」
 王は重々しく頷いた。獣の知性に比べて事が進むのが早すぎると頭に過ぎりはしたが、手短に済むのであれば越したことはない。王が為すべきことは永遠に尽きないものだ。
 夜明け前から少数の騎士を連れ、王は森を進軍した。薄暗い夜にあっても梟の鳴き声ひとつ聞こえない。腰が引ける若い騎士を叱咤し、怯える馬をなだめすかせて一向に云うことを聞かなければ鞭を打ち、王は内心の恐怖を腹に塞いで馬を歩かせた。
 狩人が示した洞窟はなるほど、大型の獣が雨風をしのげるほどの横穴だった。地獄に似た暗闇がぽっかり獲物を求めて口を開けている。案内をした狩人によれば出口はひとつしかなく、この先は袋小路だ。つまり、獣はこの中に眠っている。
 王は狩人を下がらせ、静かに装備を整えさせた。夜明けまでいくばくもない。全員が獣の牙に折られぬ鎧を纏い、槍や剣の武器を手にしていた。
 燃えるような陽が空を染め上げる。洞窟に一筋の暁光が差し込んだ。この討伐の期間、ほとんど眠っていない王はますます陰鬱を増していたが、粛々と手を掲げて告げた。
「王の名の下に命じる。討て」
 騎士たちが一斉に洞窟に飛び込んでいく。いくらもしないうちに獣が目覚めた。森中に獣の恐ろしい唸り声が響き渡った。一人、二人と洞窟から血みどろに鎧を染めた騎士が何事かを喚きながら戻ってくる。死者はいないものと思われたが獣に手加減されているのだと王の癇に障った。選りすぐりの騎士の無様な有様に王は苛立ち、馬から飛び降りた。獣の気配に気づいた馬が暴れて乗っていられなかったのだ。危険です、おやめくださいと縋る侍従を振りほどき、王は洞窟の前に踏み込んだ。
「我が名はジョン王、イングランドの正当なる王なり! 汝、王の御前と知っての暴虐、無礼か! 姿を現せ、猛獣よ!」
 王は腰に差していた剣を引き抜く。……なぜそのような危険極まりない真似をしたのかは、王にもわからない。王は剣術に凡庸だった。王としても暗愚だった。秀でていたのは、かつて十字軍に参加し、英雄と賞讃された先代王の兄だった。兄であれば喜んで獣を討ち取りに行っただろう、そして吟遊詩人たちが兄を讃える歌をうたったことだろう……
 いまだ兄の幻想に囚われる王は、無意識に兄を越えることを望んでいた。兄よりも良き王、有能な王となれば、民衆は兄を忘れて我を讃えるであろう。それは、兄の功績を醜く塗りつぶしたいという思いも少なからずあったが、本心には、あれほど美しく輝かしかった兄が王の責務に使い潰され実体のない英雄譚と変質していくことに、暗君として堕ちるばかりの己のせいで兄がいっそう崇められていく現実に、たとえようもない憎悪を感じていたからだった。
 洞窟の獣が並外れた咆哮を上げた。木々がびりびりと葉を震わせて森の外にまで獣の咆哮を聞いた。怪我を追った騎士たちは膝をつき、そうでない者も恐怖で震え上がった。王はついに全容を現した獣を、毅然と睥睨していた。
 イングランドの森にいるはずのない黒い獅子は、伝説上の生き物としか見えなかった。厚い毛皮で覆われた体躯は長身の王よりも大柄な獣の威容を誇っている。炎がほとばしるような毛並みはところどころに血が固まり、夜明けに煌々と艶めいた。
 獣はどこで失ったものか隻腕であったが、擦り切れた赤いマントを纏って、百獣の王にふさわしき貫禄を備えていた。誰ひとりとして動けないまま、獣は一歩、二歩、と王に近づいた。王が喰われる、と誰もが慄いて、自身の眼を疑った。
 剣を捧げる王の前に、獣は頭を垂れて跪いていた。
 まるで首を落とせと云わんばかりの獣に王が瞠目していると、獣の血染めのような眼がふっとやわらぎ、手の甲にうやうやしくキスをささげた。王の剣がからりと岩に当たって滑り落ちていく。しばし、誰も動かなかった。最初に王が身じろぎをした。
……まさか、……
 絶句した王は直感を飲みこんだ。まさか。――まさか! 獣は王の動揺を嗅ぎ取ったように再び深々と跪く。王は獣が、己を待ち続けていたことを悟った。
 王は侍従に獣にふさわしい手錠と鎖を持ってくるように命じた。森の端で待ちかねていた臣下に伝えられて品は迅速に届き、獣は実にあっさりと鎖に繋がれた。それどころか、急遽用立てた檻に獣が自ら入ると、それらの光景を目にした人々は、王を正当なる者として迎え入れ、やがて国中に歓喜が満ちた。


 王は獣を住まわせるために王宮の地下に迷宮を作らせた。まるでミノタウロスの迷宮のごとく、しかし最高級の素材と技術が惜しげもなく注ぎ込まれた。堅牢な迷宮が完成すると、仮の牢獄から迷宮へと移動させられた獣は、新しい住居を満足そうに受け入れた。獣のために毎日生贄に代わり王となんら変わらない素晴らしい食事がどっさり運ばれる。ついに気の触れた王を止める者は誰もいない。諸侯はもはや王に逆らいはしなかった。人喰いとうたわれた獣をいともやすやすと手懐けた王を、皆恐れた。
 王は政務の合間を縫って、獣を訪ねていく。一日に三度の食事を持って。
 迷宮の主となった獣は、王を目にするとひどく喜んで飛びつかんばかりに抱きしめてくる。煉獄の炎に焼かれる獣は、黒毛の中にうっすらとあざやかな赤毛が混じり、王にとって懐かしいような匂いをまだわずかに残していたが、喉を鳴らす音が彼が獣に果てたことを如実に示していた。
「ご機嫌いかがですか、兄上」
……ああ」
 心身ともに獣と化した兄が歓喜を込めて返事をする。人の言葉を忘れ、人の身体を失ったというのに、弟のジョンの前ではかつての面影を思い出したかのようにただのリチャードとなる。ジョンもまた、リチャードと話すときばかりは、日頃の苦慮を忘れたように笑い声を立てるときすらあった。
 王は獣を御した。奇しくも昔々の口約束の通りに。


 しかし王の治世は好転することはなく、獣を養うためにまたたく間にただでさえ逼迫していた財政を喰らっていったので、次第に諸侯や民の不審を買うようになっていく。獣は悪魔の使いであり、王は悪魔に堕落したのだと密やかに噂された。
 数年と経たず王が崩御したのち、王が飼っていた悪魔を一目見んと諸侯が押しかけた。しかし、迷宮最奥部の王宮のような美しい部屋には壊れた鎖が落ちているばかりで、たしかに獣がいた証はなにひとつ残されていなかった。