ハヤゆき

花菖蒲。

 雪皎につけた側仕えに部屋の外から声をかけられ、ハヤテは手にしていた筆を置いた。
「どうした」
「四方様が長のご様子を伺っておりました」
「雪皎が。そうか、ならば向かおう。知らせを」
「は」
 側仕えの素早く消えた気配にハヤテは部屋の外を見通すように障子を見やる。
「四方様」とはハヤテの屋敷における雪皎の通称である。四方を照らすように美しいということから、配下からはこの名が多く用いられる。当人は昔の名残を引きずりやすい妖怪の世界とは違う現代の人里を生きた人間であるため、慣れないであろうと直接のやり取りの際は呼び名を変えているようだ。
 雪皎、雪皎。
 ハヤテは口のなかで舌に馴染んだ名前を転がす。白く清らかな雪とは彼に善く似合った名前だと思う。
 雪皎の容貌を思い浮かべながら文机の上を片付けるよう自身の側仕えに言いつけたハヤテは、屋敷の北に設けた部屋へ向かって歩を進める。山のなかにある屋敷であるが、人間に倣って庭を整えた部屋であり、以前はハヤテの無聊をよく慰めた。いまは雪皎のために整えており、彼はいまもそこにいるだろうと思ったのだが、部屋に近くなればハヤテを待っていた雪皎の側仕えが「こちらです」と庭へハヤテを案内した。
 杜若が整えられた一画の前に雪皎の姿はあった。
 馴染みの蜘蛛の妖怪が仕立てた白地に薄い紫で描かれているのは、雪皎の目の前にある花と似ているがこちらは花菖蒲だ。次の月には別の区画に咲くだろう。
「雪皎、機嫌はどうだ」
 振り返った雪皎の仕草にさらりと揺れた白い髪の煌めきと、頬へ落ちる睫毛の影。出会った頃は目立っていた隈はいまは影を潜めているようだが、ハヤテは習い性のように「体調は?」と続けた。
「体調は……問題ない」
 一瞬彷徨った雪皎の目に、ハヤテは早足で彼に近づいて乱暴にならないように気をつけながら顎を持ち上げる。上からじろじろ見られるのは居心地が悪いのだろう、きゅっと寄った眉も気にせずにハヤテは存分に雪皎の顔色を確認するとその手をやっと放した。
「顔色は悪くないようだな……
「だから、問題ないって言ってるだろ」
「お前は幾ら心配しても足りないよ」
 出会った頃の印象というのはなかなか変わらない。美しい顔を青褪めさせ、くっきりとした隈を浮かべていた雪皎。抱き寄せればその背中は随分と薄かった。
「それで、どうした?」
……お、お前の所為でもあるから、その……病気とかじゃない」
「俺の?」
 つっかえながら言う雪皎に一瞬考えたが、薄紅を刷いた頬を見れば答えはすぐに出た。
「それはすまなかった。おいで」
 応えを待たずに雪皎を横抱きにすれば、彼は驚いた声を上げてハヤテの項に両腕をぎゅうっと回した。反射の動きは男らしく力強かったけれど、人間の力であれば妖怪のハヤテにとっては大した問題にならない。こういう種族差もあってハヤテは雪皎の身を案じるのだけれど、昨晩は少し無理をさせたようだ。
「つらいなら部屋にいたらよかっただろうに」
「花が綺麗に咲いたと聞いたから……
「見たいと言えば、切って持って来るだろう?」
「態々切らせることはないだろ」
 むすっとしたように言う雪皎に「優しいことだ」と目を細め、ハヤテは彼を部屋に連れて行く。布団を敷かせるかと問えば首を振られたので、縁に腰かけて膝に雪皎を抱く。緊張したように身を硬くするので背中をとんとんと柔く叩いていれば、雪皎は「赤ん坊じゃないんだぞ」と文句を言った。
「嫌なら逃げてもいいぞ」
…………いいのか」
「逃げられても追うだけだからな」
「逃げる意味ないだろ……っ」
 逃げてもいいと言えば寂しげに目を揺らすのに、追うと言えばこの返事。天邪鬼なわけではないのだろうが雪皎の根は大層負けず嫌いで、ハヤテからいいように言い包められたりやり込められるのが気に入らないらしい。ハヤテにとってはそういう部分も可愛らしいのだけれど、言えば機嫌を損ねるだろう。いや、それとも照れて更に可愛らしい姿を見せてくれるだろうか。雪白の肌を赤く染めて唇をきゅっと結ぶ様はハヤテの胸をどうにも擽って止まない。
……なんか変なこと考えてるだろ」
「いいや? お前のことを考えているよ」
 じとっとした目をするくせに、雪皎はハヤテの上から退こうとはしない。ほんのりと頬を赤くして「ふうん」とも「ふん」とも言えず呼気のように漏らしたあとは、ハヤテの肩口に頭をごつっとぶつけた。
「はは。可愛いなあ、雪皎」
「ど、どこが……! お前くらいしかそんなこと言わないぞ」
「確かに雪皎はたじろぐほどに美しいからなあ」
 鉄砲百合のなかに咲いていても驚かない。白翡翠を彫って造ったような美貌を前にすれば、可愛いなどと言う余裕はどこにもなくなるだろう。
 だが、例えばハヤテの着物をきゅうっと握っている手だとか、恥ずかしそうに目を逸らす様だとか、抱き締める体から伝わる心音だとか。挙げれば数え切れないほどに可愛らしく愛おしい部分が雪皎にはある。
 一つずつ数えて挙げれば途中で雪皎は「もういい……っ」と呻くように言ってハヤテの肩に顔を埋めて、せめてもの仕返しにかハヤテの着物を強く引っ張った。合わせが盛大に崩れる。
「ははは。なんだ、俺を脱がしたいのか」
「っちが……ち、違う……
「俺は構わんが、お前の体にはつらいんじゃないか?」
「だから、違うって」
 まるで、猫が嫌がるようにハヤテの胸に突っ張って置かれた手。肩から上げた顔には勝ち気な表情。視線がばちっと合って、銀色の目が見開かれる。
「お前のほうが余程、魔性のようだな」
 雪皎の目に惹き寄せられるように、ハヤテは彼の唇に口付けた。あ、と薄く開いた口は小さくて、そういえば昨晩はこの口で随分と頑張って頬張ってくれたな、とハヤテは思い出す。その興奮もあって少しやり過ぎてしまったのだ。
 ちむちむと雪皎の唇と自身の唇を擦り合わせるのは優し気だが、忍び込ませた舌で咥内を荒らす様は傍若無人なほど。ハヤテは絡めて引き摺り出した雪皎の舌をじゅるじゅると音を立てながら吸って「ん、んっ♡」と甘やかに上がる声を溢れる唾液ごと呑み込む。
 口付けを続けたまま目線も遣らずに片手を振れば、廊下の隅に控えていた側仕えが承知して褥の支度に向かう。
 無理をさせてしまった体に酷なことだとは思うが、どうにも火がついてしまった。妖怪というものは基本的に堪え性がないのだ。
 雪皎の着物の合わせにすっと指を通せば、真白の肌がハヤテの目を灼く。ちらほらと散る情痕はまだ少ないほうで、裾を割れば数を増やす。ハヤテに蛇の血は入っていないが、その性質は執拗だ。ハヤテが幼い頃から仕える配下がこっそりと「四方様もお気の毒に」とため息を吐いているのをハヤテは知っている。
(いいだろう)
 いいだろう。構いやしない。
 雪皎はもう自分のものだ。自分の妻だ。実家になど帰さない。人里に下りたいと言うのであれば付き添うが、そうと願われなければハヤテは雪皎を屋敷から一歩足りとも出すつもりがない。
「ぁ、ハヤテ……ハヤテ♡♡」
 唇を離せば呼吸を乱した雪皎が縋るようにハヤテの背中へ腕を回す。ハヤテはそのまま雪皎を抱き上げて褥へ向かい、敷布の上に彼を寝かせて伸し掛かる。随分と育ってはいるけれど、ハヤテよりも薄い体だ。人間の世界で暮らしていれば、もう少し成長しただろうか。一等体が欲を求める頃に出会えて重畳。
「可愛いなあ、雪皎。いまからお前を抱くからな♡」
 帯に手をかけながら言えば、雪皎はさっと首まで赤くなって横を向き、微かに頷いた。
 花菖蒲を描く着物がぐしゃぐしゃに乱れるのはすぐのこと。甘やかに弾む声はやがて降る雨に消えるだろう。