mt19ssgz
2026-05-13 22:18:05
20072文字
Public
 

せかいでいちばんすぎきさま


 タブレットに映るのは画質の荒い動画と英語でのアナウンス。最初に呼ばれた名前への反応は拍手よりもざわめきが先だった。まばらに拍手が始まり、最終的にはスタンディングオベーションにもなったものの、最初に名を呼ばれた男の表情はどこか固い。パートナーと喜びを分かち合っているように見えるものの、なぜか瞳の奥がどこか冷めているように鈴木の目には見えた。次に名前を呼ばれた二人がハグをして健闘を讃え合っているからなおさらだ。1位の男と2位の男が握手をする時に何を考えていたのかは、たとえこの動画が鮮明であったとしても正確に読み取ることはできない。ピン、と1位で名前を呼ばれた男の顔を指先で弾いてから、鈴木はタブレットの画面を落とした。


「僕は一度も世界チャンピオンだったことはありませんよ」
 強く、ハッキリとした、意志のある声だった。驕りも嘲りもない、ただ事実だけを述べたと言わんばかりの言葉が鈴木の耳に届き、足を止めさせる。うわ、と鈴木は億劫さを隠そうともせず、面倒くさそうに声の発生源へと顔を向ける。事実、面倒だと思っているのだから顔に出ても仕方なくはあるが、こういったところが鈴木が「上」にいけない、向いていない理由だとは鈴木自身よく分かっていた。
 視線の先には思っていた通り、先程も鈴木に声をかけてきた男がソファに身を沈めていた。紛れもなく、ボールルームの世界チャンピオンである杉木信也、そして奥には杉木のパートナーである矢上房子もいる。「矢上房子いいよねぇ、キレーでお淑やか。私も一回くらいあんな風になりたーい」「無理だろ」「はぁ!? そう見せんのがアンタの役目でしょうが!」と房子への憧れを口にして鈴木の隣を歩いていたアキも驚いた顔を見せ、鈴木の顔と杉木の顔を往復するように見てから立ち止まっている。
 つい先ほどまで同じフロアで表彰をされてはいたものの、誰かが言っていたように競技ダンスの本場でもない小さな島国のラテンチャンピオンである鈴木と杉木信也とは「格」が違った。そもそも、どうして杉木矢上ペアが今更、わざわざ日本の大会にエントリーしているのかと理不尽だと分かっているものの苛立ちが増す。これまでだってスペシャルゲストとして現れて一曲踊って去っていく、という姿は幾度となく大会参加者の立場から見ていた。だが、国内大会に選手として出場しているのはここ数年、それこそ世界チャンピオンになってからはなかったのではないかと鈴木は頭の中で自分が出場してきた大会をさらっていく。
 妙な視線を杉木から向けられていることには気付いていた。まとわりつくような、見られた箇所に痕が残るような日本の夏のような湿度のある視線の先にはいつだって杉木信也がいて、どうしてだか妙に鈴木の気に障って心を乱される。ボールルームとラテン。競技ダンスとひとくくりにされようが全く別のダンス、元々の土俵が違うのだからこちら側に気を向けないでほしいと本気で鈴木は思っていた。だが杉木はその一線を飛び越え鈴木をこともあろうに10ダンスに誘った。取り付く島もなく断ってこれで終わりかと思いつつ、あれこれ口を出してきたアキに便利な日本語である「よそはよそ、うちはうち」で鈴木が終わらせようとしたところで「一度も世界チャンピオンだったことはない」と杉木は宣った。頂点にいる男が、その言葉を言う意味が分かっているのか。ハッと鼻で笑ってから煽るように杉木へと鈴木は言葉を返す。

「何の冗談? アンタ、いきなり数も数えられなくなったわけ? ……アンタがちょっと前まで、ワールドで万年2位だった理由俺知ってるよ」

 そのまま「理由」を続けようとした鈴木の言葉を半ば強引に杉木は遮った。ほら、言われたくないんだろうよと声量を上げようとしたものの杉木の返しの方が早かった。いつ表舞台から引きずり下ろされるのかなど、鈴木が知るわけがない。国内は鈴木とアキのペアの一強、他の誰かが引きずり下ろせるものなら下ろしてみろと傲慢に大口を叩いたところで止められる人間がいないことを鈴木は分かっている。だからこそ、杉木からの煽りを茶化すように受け流して帰ろうとした。杉木と鈴木では事情が違うのだから放っておけと言外に滲ませたものの、煽りには煽りをと言わんばかりの杉木の言葉に鈴木から余裕も笑みも消える。
 つい数十分前、表彰式が終わってトイレから出てきたところを杉木に呼び止められ、そのまま告げられたのは10ダンスへの誘いだった。肉体も精神も極限まで追いつめられるゴージャスなトライアスロン。どうして世界のボールルームダンスの頂点に立っている男が日本チャンピオンでしかない鈴木を誘って10ダンスへの参戦など、と不審に思った。しかも鈴木の心を知ってか知らずか、さらに告げられたのはお互いの専門分野を教え合わないかという提案だった。鈴木が断ることを念頭に置いていないことが丸分かりの態度が気に食わず随分な態度で断ったはずだが、意にも介さずに待ち伏せのような真似までして鈴木を10ダンスの世界へ連れて行こうとしている。冷静に、断れとわずかながらに残っていた冷静さが押し潰されて、気付けば去っていく杉木を追いかけていた。本気を出されて後悔するなと言えば口角を上げて、鈴木より僅かに低い身長からそれでもどこか見下ろされているような感覚にもなる。それが杉木の態度か、姿勢か。よく分からないがとにかく気に食わない。

「僕がファイナルまで引っ張りますよ、ラティーノ」

 鈴木は主戦場である国内大会に今更杉木の言うような「大層な闘争心」は持ち合わせていない。だが、杉木信也相手に今闘争心がないかと言われたら話は別だ。本気を出して、後悔させてしまえばいい。それこそ、杉木を壊してしまえと鈴木の心が叫んでいた。



「鈴木先生は、競技ダンスはどういった理由で」
「金」
 杉木の顔を見ることなく言い切った鈴木に、杉木の態度が硬化したことが分かる。初練習とはいえ女子2人と比べてあまりに進まなかったスキル習得をカバーするための2人きりの居残り練習。杉木信也からのマンツーマンでの指導など、ボールルームダンサーからすれば垂涎ものだろうが、どうしても鈴木は反発してしまう。例えここが杉木信也のテリトリーであるスタジオだとしても、教わっているのがスタンダードだとしても杉木の思う通りに動かされたくはない。だが、やると決めた以上上手くはなりたいと正反対の感情が渦巻くものの、杉木を見ればやはり苛立ちが先行する。
 今日、このスタジオに来るまでにも、スポーツ飲料か何かの広告塔になっている杉木と房子を見つけた。交差点の信号で止まった時に目に入ったのは杉木と房子の姿が全面に出した大きな看板だった。顔をしかめた鈴木とは裏腹に、目を丸くしたアキが一度ぽかんと口を開けてからどこか興奮したように鈴木の腕を引っ張り、もう片手が鈴木たちの看板を指さしている。

「うっわすご。信也見てよあれ。私たちと同じ競技してるとは思えないんだけど。あれもしかして、杉木先生たちってあんな大企業がスポンサーついてるってこと?」
「知らねえけど、そうなんじゃねえの。流石にアイツの勝負服にメーカーの名前の刺繍はいれられねえからそれ以外でどうにかしてるとかなんだろ。うちの会社は杉木矢上ペアを応援しています、みたいなやつ」
「あーなるほどね。テレビとかにも最初に世界一取った時出てたし、やっぱ私と信也があの二人と10ダンスやるとかお門違いじゃない? 今からでも断る?」
「は? あそこまで言われて引き下がれるわけねえだろ。ほらさっさと行くぞ」
「アンタのせいで遅れてるって分かってんの? ちょっと信也!」

 日本人はとにかく「世界初」「世界一」が好きだ。数年前に世界一になった杉木と房子は競技ダンスに親しみのない人間からすればまさにおとぎ話のような出で立ちで、紳士と淑女。イメージ的にも爽やか。恐らく企業の広告塔としてはもってこいだ。鈴木にそんな話が来るわけではないが、看板の杉木の薄ら笑いですら鼻につく。きっと杉木は、鈴木と違って大会の賞金額を調べて高い順に並べたことなど一度もないのだろう。
沈黙が続くスタジオの中、ダンス教室特有の傷がついた床からチラリと目を向ければ、杉木は随分と不快そうな顔をしていた。鈴木には愉快で、馬鹿にしたように笑ってから言葉を続ける。
「何? 金のために踊って何が悪いの。誰もが皆アンタみたいに頂点に立ちたいとかお綺麗な理由でダンスやってんじゃねえんだよ」
「それは分かっています。でもあなたは」
「アンタに活躍されすぎると困るんだよね。ダンス雑誌のインタビューがアンタらに持ってかれる分稼ぎが減んの、分かる? それとも何? わざわざ誘った相手が自分と同じような高い志を持ってなくて嫌になったとか?」

 反発する鈴木とは打って変わって、鈴木からラテンを習う杉木は素直な生徒だった。試しに基本のステップとムーブメントをやらせてみればカウントは正確だがとにかく色気がない。まっすぐに伸びた腕、柔らかさのない動き。杉木のお上品な求愛には剥き出しのエロティシズムなどどこにもなく、鈴木も全くそそられない。全然駄目だと笑ってやっても言い返しては来ず、手本を見せればじっくりと鈴木の動きを観察している。鈴木がいかに杉木のことが気に食わなかろうが、指導をするというなら適当にする気はなかった。むしろ、ここまでやってみろという思いで全ての動きの基礎になるムーブメントを見せつけ、腰に手を当てさせて動きを覚えさせる。腹の中で何を思っていても表には出さず、自分のスキルを上げるために真摯に観察し、すぐに自分の動きに還元し、取り込んでいく。やり返せたことには胸がすく思いだったものの、一流の競技者としての手本を見せつけられたような悔しさも確かに鈴木の中にはあった。

「本気で踊らずとも、国内では敵なしの選手です。教え方も分かりやすかった。指導される身としては、あなたへの不満はありません」
「じゃあ指導する側としては不満だらけってことだろ……そもそもさあ、アンタもう世界一じゃん。それなのに毎日こんなことやってんの」
……圧倒的な差をつけて、誰がどう見ても一位だと思わせたい。それだけです。御免なんですよ。2位はもう二度と」
 座り込んでいる鈴木とは裏腹に、杉木はすぐに鏡の前へと戻りベーシックを再開させた。杉木の言葉には、今日聞いてきた中で一番熱があった。全ての感情をコントロールしているような男が見せた僅かな綻びに座り込んだままの鈴木が急に格好悪く思えて立ち上がる。床に靴を打ち鳴らしてから同じように鏡の前に立ち、反発しつつも頭の中に残した杉木からの指摘事項を一つずつ確認して、鈴木もステップを踏み出した。



「俺の操縦通り動いてろよ」
 一向に上手くいかないボールルームの習得。ひとえに鈴木が勝手なせいだと杉木に言われた。下男並み、危険と鈴木を評した杉木に言われた鈴木は思わず笑ってしまうほどだ。上手くいかないのは鈴木のリードを一方的に扱き下ろして身を任せるつもりがそもそもないない杉木にも原因がある。一方的に鈴木だけが悪いと言われる筋合いはないと再度手を伸ばそうとして、鈴木は一度引っこめた。何をするつもりだったのか、寄ってきていた杉木の眉がピクリと動く。距離は手を伸ばして届くかどうかのところで、目に力を入れて鈴木は杉木を睨みつけた。

「そもそもさ、アンタが言ってたじゃん俺が本気じゃないって。そうだよ、本気で踊ってなんかない。それが分かってんのに俺を誘って、俺にラテンを習って、スタンダードを教えて? アンタこそ正気じゃない」
「今はその話はどうだっていい。そもそも、あなたも知ってるんでしょう。僕がどうして今、ワールドで最初に名前を呼ばれているのか。10ダンスは、だからこそです」

 杉木に出会ってから何度か鈴木に見せた自嘲するような顔。視線が合わない目に、無理に引き上げたような口角。それがどうしても鈴木は気に食わなかった。杉木の事情を何もかも知っているわけではないが、確かに噂の速い業界で鈴木が知る限りであっても同情の余地はある。だが。

「ムカつくんだよ。世界で自分だけが不幸で可哀想みたいな顔してんのが」

 鈴木よりはるかに少ない制約で、憂いもなく海外に出られるだけの人脈や資金があって、とまでは鈴木が情けなくなるために続けなかった。制約はともかく、人脈や資金は維持や獲得のために杉木が労力を割いていないとは思っていない。だが、根本的に杉木はダンサーとしての環境に恵まれている。世界一になるために、それ以外の雑念を払ってひたむきに踊ることができて、現状なろうと思ってなれるものではない世界一の座についていて。贅沢だ、と睨みつければ杉木の眉間に皺が寄る。

「それこそ、あなたに言われるようなことではありませんよ。あなたは僕の言う通りにやればいい」
「あぁそう。アンタさ、俺にばっか問題あるって言うけどダンスって二人で踊るもんだろ。俺がアンタのこと信用してねえみたいに、アンタだって俺のことを信用してねえし信用しようとも思ってないだろ。それで、言う通りにしろって?」
「信頼できるほどのものをあなたに見せていただいていませんから」
「さっきも言ったじゃん、俺の操縦通り動け。まずはそっからだろ」

 今度こそ手を差し出せばその手を取られて一度フォローをやってみろと強引にホールドをされる。淡々と指示を出され、鈴木の体勢を矯正する腕の強さになすがままになる間に、女よりよほど体感も筋肉もあるであろう鈴木でも維持をするのが精一杯の形に整えられた。その上で「大変美しく立てました」と淡々と告げる。そんなことはいいから、早くどうにかしろと思ったところで滑り込むようにリードの位置に入ってきた杉木がホールドするために合わせた手を握り締める。途端にさっきまでの辛さが緩和された、と思った時には世界一のリードの思うままにフロアを動き、くるくるとターンを決める。悔しくなるほどに身を任せるのが心地よく、それでいて鈴木が「何もせずに従うこと」が最適だと分かってしまう。これまでに、こんな風に「運ばれる側」になったことはなかった。ラテンの指導をする時にフォロー側に回ることは当然あるが、あくまで指導する側であり、相手にペースを握られるなんてことはまずない。アキとのダンスだって、鈴木の気持ちに連動してアキが動くのが鈴木たちのダンスだった。
 最後のスローアウェイオーバースウェイも悔しいほど様になっていて、ざっとこんなものかと言わんばかりに離れた杉木を信じられないように、どこか呆けた様子で鈴木は見つめた。これまでの自分をあれやこれやとひっくり返された。本来ならボールルームの経験などほとんどなく、杉木にこうして指導されただけの鈴木が一度もやったことのないフォロー役であそこまで滑らかに踊れるわけがない。もちろん杉木のレベルが高いゆえに鈴木が「美しく躍らせてもらった」ことも十分にある。だが、それ以上に鈴木の身体を動かしたのは杉木を受け入れ、どうにかしろとホールドされた手を強く掴んだ時に流れ込んできた杉木の感情だった。
 鈴木に対する優越感、独占欲、征服欲。とことん鈴木を杉木の管理下に置いて支配したいと涼しい顔の下でグツグツと煮立った思いの塊がダイレクトに伝わってくる。そのくせ、体重はもう少し杉木にかけて楽にしていい、次のターンは右足から、と手だけでなく身体全体を使ってさりげなく鈴木をサポートする優しさを垣間見せ、鈴木ならできるだろうという期待感を滲ませる。
 杉木は、鈴木に対してどうしてあんな執着を見せているのか。日本人ラテンダンサーと言えば確かに鈴木とアキのペアが一強であることは間違いない。燃え滾るものがなくともステップは確実に点数を拾い、参加と防衛は同じ。鈴木が年収を計算する時にはあらかじめ大会の賞金額を計算に入れている。鈴木が日本チャンピオンになる道は綺麗に舗装され、鈴木とアキの前だけに存在していた。だが、所詮国内に限った話だ。普通の日本人のボールルームダンサーが10ダンスに参加するためにラテンを習いたい、となった時に鈴木とアキの名前が出てくることは理解できる。だが相手は杉木信也で、その辺の日本人ダンサーと一緒くたにしていい存在ではない。
 世界一のダンサーで、そもそも主戦場はイギリスを中心とした海外だ。鈴木は杉木が煽ったように視野を広げて見れば「猿山を死守しているだけの小物」で、世界には鈴木など足元にも及ばないくらい上手いラテンダンサーがごまんといる。杉木からコンタクトを取れば応じる可能性は高いだろう。拠点が同じ日本にあるからかもしれないが、それも海外選手の指導を受けない理由としては弱いように鈴木は感じていた。鈴木なら簡単に御せると思ったわけでもないだろう、わざわざ一度断ったのを追いかけてきて、紳士らしからぬ挑発を交えてまで杉木は鈴木から許可をもぎ取った。杉木にとって何かしら都合がいいのだろうが、鈴木でなければならない理由が杉木にあるとは思えない。あれこれと考えて鈴木は緩く首を左右に振った。気に食わない男だ。だが、杉木のことを鈴木はもっと知っておく必要がある。鈴木の心の内をそう仕向けるのも杉木の策略かもしれないと思うと舌打ちの一つもしたくなった。ちょうど鈴木がそう考えた時に「食事でも」と誘ってきたのだからなおさらで、せめてもの抵抗のように時間をかけてゆっくりと鈴木は階段を下りてくる杉木を見上げた。ただ、杉木の感情が鈴木に伝わっているのなら、鈴木の感情も杉木に伝わっているはずだった。困惑も、動揺も、わずかな期待も、楽しさも。もう少し人となりを知るために話をするのに食事などもってこいで、しかも杉木から誘われたのだからさっさと首を縦に振ればいいのに、素直に頷くのも憚られて、顔をしかめて反発する。

「何いきなり。アンタと飯とか肩凝りそうじゃん」
「お互いのことをもう少し知っておく必要があるかと思いまして。それに、確認しておきたいこともありますし。いかがですか」
……そこまで言うなら。まぁ、別にいいけど」
「分かりました。それでは追って連絡します」
 あぁ、鈴木先生のご想像の通りドレスコードがありますから。鈴木の了承を取り付けてから付け足した杉木の策に、今度こそ鈴木は押し留めていた舌打ちを一つ鳴らした。



 レストランの食事は、合流した時点で下ろしていた髪の毛をせめてハーフアップに城と杉木の手で結わかれた鈴木にはある程度予想通りではあったものの随分と窮屈だった。視界には毎日同じような食事をとっていると言われても納得できるくらいに洗練された動きでカトラリーを操る杉木がいる。鈴木のカトラリー使いやら言動に対して眉を顰め苦言を呈する杉木は出来の悪い生徒に教えるようだった。会話、という会話はない。
 杉木も少しは鈴木を知りたいと思い食事に誘ったのかと思ったが、結局はレッスンでしかなかったことがどうにも気に食わない。杉木にとっては、鈴木は「教えを請い、教えを授けるラテンダンサー」でしかないことが腹に据えかねた。お互いを知るだなんて出まかせよく言ったもんだとムカムカするものの、それならと手元から携帯電話を鈴木は取り出した。やられっぱなしは性に合わない。
「なぁ、人集めとけ。帝王様一名ご招待だ。今から行くから派手にもてなしてやってよ」
 
 雑然とした鈴木のホームでのパーティは杉木を大いに混乱させているようで、顔を見た鈴木は胸のすくような思いになる。居心地の悪さを感じれば、鈴木が杉木のホームで虚勢を張る理由も分かるだろうと流れる音楽に合わせて踏むステップも軽快になる。固い動きしかできていなかった杉木に笑え踊れと言い聞かせれば、徐々に強張った顔の筋肉が解れてきて、自然な笑顔に思わず鈴木も笑う。
「いーじゃんその顔。ここは規定に縛られたフロアの上じゃねえんだ。好きに踊れよ」
……あなたは、こんな風に踊りと生きてきたんですね」
「そ。でも、アンタも凄いとは思うよ。俺とは何もかも違うから、なおさら。ちょっとは俺のこと分かった? お互いを知るための会、だったよな?」
「はい……もう一曲、お願いしても?」
「いいよ、ほら。お手をどうぞ、帝王様?」

 鈴木も杉木も恐らく予定外はあったものの、次の合同練習の時に杉木の踊りからほんの少しだけ硬さが消えた。動きがカクカクして来たら「ここ、俺んちだと思って」と言えば眉間の皺が薄くなる。一方で、鈴木にも変化があったらしく、鈴木から「僕のことを気にかけていただけるようになって何よりです」とその皮肉は治らないのかと思ったもののこれまでの進捗を考えれば大きな一歩だった。
 いつでも連れ発つわけではないが、その後もぽつぽつと、どちらかといえば練習は杉木のホームでやっているのだからと鈴木が知る店やバー、そして家のパーティに杉木を連れ込むことが増えた。普段難しい顔ばかりする男の表情が和らぐとなれば連れ出したくもなる。その上でひとたびホールドをすれば手から「楽しい」「もっと踊りたい」「自由な彼をコントロールしたい」と少し不穏な感情もあるものの逐一伝わってくる。鈴木のスタジオでアキに感じていることをそのまま伝えれば「恋してる人みたい」と準備をしているアキに言われて何を言っているのかと軽く流す。
「おかしいだろ」

 そう、おかしいはずだ。鈴木の知る恋はもっと簡単なものだった。なんかいいなと思った誰かと、いいなと思わなくても悪くないなと思った誰かとなあなあに始まってなあなあに終わるもの。いや、若い時は修羅場になったこともあったが、ここ最近は特定の相手すら作っていない。深く考えることもなければ、別れた後も一人寝の朝が寂しいなと少し感じるくらいで、別の誰かで代用が利いてしまうことに特に疑問も持たなかった。だが、鈴木にとって杉木信也の代わりなどいるわけがない。伝わってくる感情と実際の杉木の言動はどこかちぐはぐで、手から伝わってくる感情に加えて多少会話が増えて分かったつもりになっていてもやはり何も分からないままだと思い知らされる。そんな中、鈴木のスタジオに盗聴器でも仕掛けているのかというタイミングでイギリスにいる杉木から電話がかかってきた。昨日言ったはずだと言われても覚えがない、多分聞いていない。イギリスのUKベスト。杉木信也がそれこそ世界一と言われるようになる前から獲り続けている大会であることはわざわざ説明されなくても鈴木も知っている。電話してきた理由も話さずに勝手に早口で話して勝手に切ろうとする杉木を引き留めた理由は鈴木自身もよく分かっていなかった。ただ、それなら今週あると思っていた合同練習は当然ない。動画を見て少しボールルームの練習もしたからきっと杉木も驚くだろうと思っていたし、あの鉄仮面を崩す所を見たかった。杉木と房子のラテンの動画もアキと見返して、練習メニューを少し変えようと相談していたのに。どうせ、杉木が出るってことはただ連続優勝記録をひとつ伸ばしにいっただけだ。世界一の椅子に座る男が出ると分かっている大会でその座を奪えると野心を持って出ているペアがどれだけいるか。それなら、どうせいつも通りの仮面をつけて踊って帰ってくるだけなら。

「じゃあ早く帰ってこいよ」

 俺と踊っている方が楽しいだろ? 

 言外に滲ませた鈴木の思いは伝わったのか分からないが、何も言わずに切れた電話にそこまで不快感は感じなかった。世界一の座に君臨し続けながらなお上を求める男。その一方で、追う側から追われる側になるプレッシャーと戦い、理不尽な謂れにも屈しない精神性。杉木信也が世界一であることを鈴木は疑わない。だが、金と権力に巻き込まれその弛まぬ努力にケチがつくような形での戴冠は、きっと杉木が求める形ではなかっただろうと鈴木も分かっている。だからこそ、踊り続ける杉木自身をもっと知りたい。そのためには、杉木のいる場所までたどり着いて、追い抜いて、戦う相手として眼中に入って、見せつける必要がある。アキに手を伸ばしながら、とっくに失ったはずの熱が燻ぶり、どんどん火種を作るのを鈴木は感じていた。


 UKベストの防衛を終わらせ、いつもならもう少し長くイギリスに滞在するものの、今回は「日本でやることがあるから」と予定を予め指定されていたマーサとの食事以外は何も入れずにさっさと帰ってきたことは房子しか知らない。
「引き際は華のあるうちが望ましいものよ」
 房子への負担を最初に杉木に説教したマーサから伝えられ、杉木はスッとマーサから目を逸らしてからマーサの名前を呼んだ。これまでも何度か匂わされてはいた。だが、ここまで直接的に言われたのは初めてだった。マーサの目指すアジア人ダンサーの育成、その指導者の後継としてアジアの至宝と言われた杉木はまさにうってつけであることは分かっている。愛がない、とマーサは続けたが杉木も言われたばかりで終わらせるわけにはいかない。
「引退はまだしません。僕は確かに世界チャンピオンになった。ただまだ、僕自身が踊りきったと思えていない」
「シンヤ、あなたは」
「僕は僕のやり方で成功して頂点に立った。マーサは僕のダンスに愛がないというけれど、愛じゃ勝てないことは知っている。マーサ、もしかしてあなたも、僕が世界一になったのは僕の実力ではないと思っている?」
 ズルい聞き方であることは杉木自身が一番よく分かっていた。予想通り、目を開いて黙り込んだマーサを横目に残った紅茶を飲み干して、そっと席を立つ。当然、会計は自分が持つことは忘れていない。
「どうしてもやりたいことがあるんです。楽しいと思っていることもある。僕自身を前に突き動かしてくれた存在がいる。まだ僕から、ダンスを取り上げさせはしませんよ」
飽きられていく自分の姿を想像したことなどいくらでもある。ただ、杉木が踊るのは観客のためではない。ただ、やはりマーサも杉木の世界一の座は「そう」思っているのだなと分かってしまったのは、少しだけ心が軋む。

 アジア人は一位になれない。ヨーロッパ偏重を当然とする競技ダンス界の暗黙で公然の了解だった。その慣例に何度も挑み、跳ね返されたのが杉木信也だったことはこの業界にいるアジア人なら誰だって知っている。アジア人が冷遇されることは分かっている。それなら、会場中がブーイングするほど、冷遇など意味がないほど突き抜けた実力を見せつければいいとステップを踏む足を杉木は止めはしなかった。
 公私ともにパートナーだった相手からチャンピオンになる道を選びたい、杉木と組んでいてはチャンピオンになれないと別れを告げられた。彼女なりに考えての結果だと分かってはいるものの、杉木が世界一になる未来はないと突き付けられたのは心に来た。将来まで考えていた相手だったのだからなおさら傷を負った。事実、次の大会では彼女と新たなパートナーが杉木の一つ上にいて、彼女が間違っていなかったと証明させてしまうことになる。考える必要もなく作り上げることのできる微笑の裏に隠した感情がどのようなものであったか、もう杉木は覚えていない。

「またアジア系企業か?」
「あぁ、だがとんでもない額だ。無碍にはできない」

 ただ、そのアジア人冷遇が大きく変わる。きっかけはアジア系の企業が大会のメインスポンサーに次々と名乗りを上げ、ついにはアジア系の企業で埋め尽くされたことだった。マーサのアジア・マーケット戦略が上手くいったというよりは、ヨーロッパに進出した膨大な資金を持つアジア系企業が手初めに歴史はあるが凝り固まって担い手や資金不足に苦しむ競技ダンス界に目をつけたということらしい。ここを足掛かりに、ヨーロッパでの知名度、認知度、親しみやすさを上げていく魂胆だと誰かが言っていた。あくまでも噂であるが、とにかく妙に精度の高い噂が回るのがこの業界だ。きっと大きく間違えてはいないと杉木は思っている。
 なんにせよありがたい大口のスポンサーに、上の人間は権威だなんだと言いつつも擦り寄ることは忘れなかったが、そこで問題になったのは競技ダンスは素人である彼らが見ても分かるアジア人冷遇の現状だった。
「彼は、ずっと二位なのかい?」
「アジア人は、これからということかな。いやはや、我々と同じということか。いや、深い意味はないよ」
 そもそも世界大会、しかもワールドチャンピオンシップで勝ち上がっていくダンサーのアジア人の割合はそこまで多くない。それも冷遇の結果と言ってしまえばそれまでだが、それでも残るメンバーには落とせば不正を疑われる程度の実力があることになる。
 ワールドチャンピオンシップにエントリーしても、現チャンピオンやファイナリストより圧倒的に力の差があるのであれば公平なジャッジによる結果だと言っても不思議はないのだからこれまで通りで誰も、何も困らなかっただろう。
 ただ、そこには杉木がいた。アジア人がゆえに頂に挑んでは跳ね返されたとされた、負けるところが見たいと杉木信也を「二位」に置くべき理由はなくなってしまった。それどころか折角の大口スポンサーに逃げられてしまったら、と上が思うことは杉木も想像に容易い。まだ凝り固まった上の連中も、マーサ・ミルトンを師として自身も長くイギリスで生活をしていた杉木に対するアレルギーは少なかったのかもしれない。むしろ、杉木に感謝しろと有難迷惑な感情を向けてこられたことをよく覚えている。
 チャンピオンとの僅かな差。その軍配は、確かに杉木に上がっていた。

「シンヤ・スギキ、フサコ・ヤガミ!」

 だからこそ、この頂点は杉木の実力だったはずだった。だが、決して杉木たちの実力が認められたわけではないと誰しもが思っている、マーサだけでない、杉木本人ですらそう思わざるをえない余計な「お膳立て」のせいだった。上の連中がスポンサーに阿ったことを隠したかったのか、それとも杉木に恨みを持つ誰かか「杉木の涙ぐましいロビー活動の結果、この業界にアジア系企業が溢れかえった」やら「アジア人を優遇せざるを得ない状況でチャンピオンにしてもらえた」とやら口さがもない噂があちこちで広まり、まるで真実のように扱われる。杉木にとってはやっと得たチャンピオンの座にケチをつけられた形になった。生まれで頂点に立てないと嗤われたが今、膨大なアジアマネー獲得や損失回避のために設えられた頂点の座に立っていると結局暇な誰かの笑い話として消化されていく。一位であろうと二位であろうと純粋な選手としての力量の結果ではなく、杉木が望んでいない形は結局これまでの二位と何も変わらない。

 どうしても欲しかった、キラキラに輝いていると思った頂点の椅子も、王冠も。どうしてだか褪せて、誰かの手垢に塗れているように見えた。

 そして今も、防衛するたびに見える椅子にも王冠にも輝きは戻っていない。そして、今はかつて杉木と組んでいた時と同じく二位で名前を呼ばれているかつての杉木のパートナーが今何を思っているか、杉木は知る由もない。
 防衛を重ねていく度にいつ足元を掬われるかもしれないとじりじりと心を削られて追い詰められていく。ただ、誰よりも杉木が圧倒的なのだと思わせればいいと毎夜欠かすことなくベーシックを続け、努力と研鑽を重ねてきた。世界一になったことで増えたメディア露出にCM、スポンサー。テレビ出演ではダンスとはあまり関係のないことを聞かれることも多い。外を出る時も多少注意しなければ今はすぐに誰かにカメラを向けられる。周りの目など気にしないと思っていても鬱陶しいことに変わりはない。
 どうしてもずっと息がしづらかった。最初に世界チャンピオンになった時からマーサに匂わされ続けている「引き際」も頭によぎるような日々が続き、踊ることに意味を見出せなくなった。
 そうして雁字搦めになった杉木を圧倒的なエネルギーで前に突き動かしたのはラテンアメリカンで踊るアマチュアのダンサーだった。たまたま自身の教室の生徒が初めて出るからと応援がてら見に行った大会で、掴める最後の藁がそこにあった。誰かの声で聞いた名を調べ、瞬く間に日本の頂点に上り詰めた彼がいつ世界の舞台に足を踏み入れるのかと心待ちにしたが、鈴木は世界への切符を捨て続けていた。どうしてか、と考えても当然答えなど分かるはずもなく、10ダンスへの参戦は様々な要因が重なった最終手段だった。どうしてと思われることは承知の上で、鈴木の名がチャンピオンとして刻まれ続けている日本の大会に出たいと房子に頼み込み、その上で「計画」を話したのもただ一人、鈴木信也をなんとしてでも口説くため。それだけだった。

 マーサとの会食からあれこれと思い出し結局は溜息をついた杉木に、房子は何も聞かなかった。代わりに、房子が話題に選んだのは、あれこれと考えていた中での数少ない幸運の話だった。
「杉木先生、鈴木先生にラテンを教えていただくこと、了承いただけて本当に良かったですね」と妙に温かい視線を房子から貰いつつも日本に帰る飛行機の中で次の合同練習の日程の調整を房子に頼む。一度目にバッサリと鼻で笑いながら断られ、諦められるわけもなくロビーのソファに座って出待ちを行った二度目には「鈴木先生にも事情がおありでしょうから、これでもお断りされたらすっぱり諦めてくださいね」と房子に言われたことはよく覚えている。普段は杉木のやることなすことに異を唱えることなくついてきてくれる房子が止めたのだから、流石に杉木も黙らざるを得ない。足を止めた鈴木に煽り返したのは賭けではあったが、鈴木がのってくれなければこの日々がないと考えれば本当に良かったと杉木も数か月前のやり取りを思い出しつつ胸をなでおろした。杉木の雰囲気が多少柔らかくなったことを察したのか、房子が今後のスケジュールですが、とまるで秘書のように話しだす。房子は秘書ではなくパートナーなのだから杉木のスケジュール管理はしなくてもいいと以前に言ったが、なんだかんだこうして二人分の予定を調整してくれており、こう言ったことには頭が上がらない。

「今回の優勝に絡んだ取材がいくつかと、テレビ出演の話も来ているようで。スタジオに連絡があり、受けてくれた講師の方が杉木先生にメールするようにお願いいただいたとのことなので確認しておいてください」
「ええ、分かりました。ですが、まずは合同練習の予定から入れてください。テレビについては内容次第ではお断りしますし、インタビューについても多少はこちらの予定を考慮してくださるでしょうから」
 房子が考えていることを察してしまい、少しずつ目線を逸らして窓の外を見る。普通なら日程調整をすべきは合同練習だと杉木も分かっている。だが、これ以上鈴木たちを待たせるのも得策ではないだろうと言い訳のようなものを頭に浮かべて理由を作った。
「分かりました。あとこれ、アキちゃんから。鈴木先生とアキちゃん、私たちと練習できない間も動画を見ながらボールルームの練習をしてくれていたみたいで。凄く良くなってるんですよ」
 房子のスマートフォンに贈られてきていた動画の鈴木とアキは、最後の練習から比べても上達していた。しっかりと基本を押さえて練習していたのだろう。これなら、次の練習からは音楽をかけてみてもいいかもしれないと練習メニューを組み替える。音楽が欲しいとあれだけ言っていたから、きっと杉木には素直に見せないだろうが鈴木も喜ぶだろうと簡単に想像がつく。
……僕たちも負けていられませんね。よろしくお願いします、矢上さん」

 帰国して最初の合同練習後の居残り練習。音楽をかけた時からいい動きをしていたが、久々に鈴木とホールドした時の感情に驚きつつ踏み出した一歩はこれまでの何よりもスムーズだった。楽しい、もっと踊りたい、上手くなりたい、杉木のことを知りたいと、手から伝わってくることになぜか杉木の背筋が震える。ゆっくりとポージングを確認し、調整しながらフォローが、つまりこの場合は杉木が一番美しく見える形を鈴木に叩き込んでいく。
 休憩中に鈴木から幼い頃の話を振られイギリス、ブラックプールタワーでの話をした。夕暮れの天に昇っていくマーサの絵姿は今でも覚えている。紳士になりなさいと肩に手を言われた声の調子も高さも、杉木の頭から消えることはない。そして、鈴木はどうなのかとキューバでの話を尋ねれば、音楽とダンスとラム、まさに杉木の知る鈴木を体現したような国だと思った。すぐに恋に落ちた母親と共に住むところを転々としたという話、寄る辺なく指輪を弄る姿に、杉木は幼い頃の鈴木を見たような気がした。杉木の知らない海と空を語る声は弾んでいて、その感情のままに階下から杉木を見上げた目はいつか一緒に、と確かに語っていたように思う。どこまでも抜けていくような青が見渡す限りに広がり、どこからか音が聞こえる中に二人。その日を境に、もう少しダンス以外のお互いの話をすることが増えた。お互いに手探りの状態で少しずつ踏み込んでいく。この日も、休憩時間に杉木が鈴木に問いかける。

「あなた、金のために踊ってるって言ってましたよね。その、キューバに妹さんがいるとこの前あなたの家の近所の方に伺ったんですが」
 あれから何度か、鈴木の家に杉木は立ち寄っていた。彼の故郷であるキューバにルーツを持つ人間が集まってそれぞれに暮らしているあの居住区で、座らせた杉木にあれやこれやと故郷の味を紹介し、皿を引き寄せたと思ったらラムが入ったグラスを片手にさっさと踊りに行った鈴木を眺めながらカトラリーを手に取る。
「お、来てたのか帝王。シンヤは?」
「彼なら、もう踊ってますよ」
 彼らの会話は殆どがスペイン語で杉木には聞き取れない言葉もあるが、一方で英語が話せるメンバーがよく杉木に話しかけにきた。今日杉木の姿を見つけて寄ってきたのもそのうちの一人で、踊っている鈴木に目線を送れば豪快に笑ってから杉木のグラスに酒を注いで乾杯をする。
「アイツは踊って生きてきたようなもんだしな。ま、普段妹たちのために踊ってんだ。こういう時くらい好き勝手やりたいんだろ」
「妹のため?」
 聞き返した杉木に男は一度キョトンとしてから、やってしまったとでもいうように苦笑いをする。以前、会話の糸口として鈴木がダンスを始めた理由を聞いた。即答で金のためと言われ、予想と異なった答えに思わず眉を顰めてしまったのを鈴木に指摘されたことは覚えている。ダンサーになる理由が人それぞれであることは当然杉木も理解している。そして、人によって目指すべき場所や熱量が異なることも分かっている。だが、鈴木が踊る理由はもっと別だと思っていた。
 口籠った男に教えてほしいと杉木が言い募れば、絶対に俺が教えたって言うなよと数度言われてからようやく男は口を開いた。
「シンヤ、妹が何人だったかいるらしいんだ。だから日本に来たってさ。俺から言えるのはそれまでだ、あとはシンヤ本人に聞いてくれ」
 杉木の問いに、鈴木は一度目を見開いて、逸らしてからぐるりと首を回した。どこか落ち着きなく、指に嵌まるリングを触ってから目を合わせずに杉木に答える。
「あー……。そう。俺、妹が九人いんの。で、今は母親とキューバで暮らしてる。生きていくのは全然問題ないんだけど、俺がこっちで稼いで仕送りすればもっといい生活ができるって分かればさ、こっち来るでしょ。一番上の妹は頭が良くて医者になりたいって言っててさ。将来の道は広げるだけ広げてやりてえし。それで金が必要なわけ」
「だから、世界へは挑戦しなかった?」
「アンタ、大会を賞金高い順に並べてどれに出ようか考えたことある?」
 絶対ないでしょ、と笑いながらこちらへと顔を向けた鈴木に杉木は何も答えなかった。答えないことが答えだと鈴木にも伝わったのだろう。言う通り、杉木が大会の賞金額を気にしたことはない。優勝した後で賞金額を考えることはあれど、その額によって出場の可否を決めたことはこれまでに一度もなかった。
「世界に出るのは俺にとってコスパが悪い、今だってそう思ってる。国内で確実に獲れる大会を確実に獲っていく。それで十分やっていけてたとこにアンタが来たわけ」
……最初、僕はあなたに随分と失礼なことを言いましたね」
「まぁムカついたけど。いいよ、アンタのこと抜いて上から見下ろしてやればいいんだろ」

 ある日は、鈴木から杉木へ。居残り練習を始める前に杉木をちらりと見た鈴木がその後少し遠くを見てから杉木に目線を戻す。
「アンタさぁ、甘いもん好きなの? なんか凄いチョコバーのゴミそっちのテーブルに転がってるけど」
「あぁ、すみません。最近少し忙しくて。甘いものはなんでも好きですね。疲れた時には特にいい」
「ほどほどにしとけよ、アンタ忙しいなら今日もうやめといてもいいけど」
「いえ、もう少しだけお付き合いいただいてもよろしいですか」

 ぽつぽつと、お互いの話をして、ダンサー以外の部分を知った。ダンサーでしかなかった相手の中身を知り、ダンサーではない人としての興味を持った。だからか、選んだ曲の歌詞の意味は杉木には分からなかったが選んだ鈴木は分かるはずだった。
「曲は、どうしましょう」
「あー……ベサメムーチョ、ある?」
「えーと、これですね。あります」
「じゃあそれで」
 自ら選んだ曲でのルンバでフォローとして踊った鈴木はどうしようもないほどに扇情的だった。無意識のうちにゴクリと杉木の喉が鳴る。鈴木相手に感じるはずのないと思っていた欲、つまりは性欲をこれでもかと刺激されて目の前の鈴木の色気にとにかく煽られる。身長のほとんど変わらない男同士で踊るからこその距離の近さで感じる鈴木の息遣い。腰に顔を近付けられて、ゆっくりと立ち上がる鈴木に対し振り付けとしてゆっくりと頭から背中に流した手は、その後頭部を掴んで杉木のもとへ引き寄せなかったことが奇跡とも思えるくらいだった。鈴木の瞳が黒ではなくセピアカラーであることもこの距離で見つめ合わなければ一生知ることはなかったかもしれない。そして、その瞳に映る自分の顔が帝王とは程遠い獣欲を隠そうともしないただの男の顔をしていることも。結局その日は、グツグツと腹の奥底から沸き立つ欲を抑え込むのに必死でわずかにステップが遅れ、腕に時計な力が入ってしまう。

「やっぱちょっと調子悪いんじゃねえの。あちこち力入りすぎ、息止めすぎ。なんかあった?」
……いえ、ルンバは久々だったので勘が」
「ふーん。残りは基礎、で次の時にもう一回確認な」
「はい。あぁただ、すみません。少しテレビの取材と、CMの撮影が入るので次の合同練習の日付がまだ確定していなくて」
「アンタそのうちぶっ倒れんじゃないの。レッスン講師、自分のボールルームの練習、俺らとの10ダンス、それにスポンサー周りやら取材やらさぁ。世界一になってからメディアで扱われることもどうせ増えたんだろ」
……僕がアジア人だから今頂点の椅子があるのに、この国では随分と持ち上げてくれますからね」

 口を滑らせたのは疲れからか、杉木のスタジオで鈴木しかいないことが気を緩ませたかと、口にしてすぐに杉木は自らの失態に気付く。こんな皮肉を誰であっても聞かせるつもりは杉木にはなかった。誰がどこで何を聞いてどう捉えて何を吹聴するか分からない以上、自分を律して一片の弱みも漏らさないようにするのが最善だ。ただそれ以上に、誰であっても弱音など吐くつもりはなかった。鈴木が杉木に対して何をどう思うのかとらしくもなく緊張した。嘲笑か、失望か、どう考えてもいいものではないことは簡単に想像がつき、杉木の胸の奥がずんと鉛か何かを流し込まれたように重くなる。
「は? 何言ってんの」
「いや」
「アンタがアジア人なだけで世界一になれるわけねえだろ。アンタの努力をアンタが否定してんじゃねえよ。これまでアンタがやってきた全部、何も無駄じゃなかったから今アンタは世界一なんじゃねえの?」
 真っすぐな言葉が杉木を貫いて思わず鈴木の顔を見つめれば、なぜか居心地が悪そうに見慣れた眉間に皺を寄せた顔で「なんだよ。俺の方が正しいだろ」と呟かれる。
 あぁやはり、杉木の憧れは杉木の予想通りになどならない。思うままにコントロールなどされてくれない。それがどうしようもなく愛おしく、離れがたく感じていた。その一方で、だからこそ支配したい、征服したいという杉木の欲が顔を出す。紳士にあるまじき感情だと思っていても、自由な鈴木を手元に置いておきたい気持ちは日に日に増していく。だからこそ。

「つまんねぇ」

 細められた目に、眉間に寄った皺。ただ一言だけ残して、鈴木は杉木に背を向けた。告げられた言葉が杉木の胸を突き刺し、脳内で反響するものの理解を拒む。
 クリスマスの夜、スタジオを閉めてから、雪が降る中ふらりと向かったクリスマスマーケットを杉木は進んでいた。鈴木は、あの家で賑やかに周囲の人間とクリスマスパーティをしているのかとふと頭に浮かんだ。それともどこかで女性と過ごしているのかと考え、女性と過ごす鈴木の幻覚を不快に思った杉木自身に戸惑う。今日は合同練習を入れていないのだから、鈴木がどこで何をしていようが杉木に口を挟む権利はない。だが、どうにもそうであってほしくはないと自身の感情に上手く整理がつかないまま歩を進めた先、ついさっきまでスタジオで踊っていたにもかかわらず、それでも大きなガラス窓の前に思わずステップを踏む。少しずつ思考がクリアになっていく中でふと聞こえてきた声は先ほどの幻聴かと思ったが、それでも雪の降る夜には似つかわしくないほどの軽装で確かに鈴木が立っていた。約束など何もしていない中、それでも出会えたこと。ふと零した弱音を強い言葉で引きあげ、以前と同じように杉木を引っ張り上げたこと。クリスマスの雰囲気に、行きつけのバー。全てが相まって、鈴木からの質問に素直に口を開いた。
 鈴木が見た動画、店頭のアクシデントで動けなくなってしまった房子に無理やり決勝のドレスを着せ、叱咤し、罵倒し続けて躍らせた。紳士らしからぬ、まさに死神の振る舞いが高く評価されたのは審査員だけではなく、変わったばかりのスポンサーにもだった。
「その大会で優勝したのも、鈴木先生はご存知でしょう。それが僕の名前をスポンサーに売り、その後のワールドチャンピオンシップ、僕は世界一になった」
 告解のようだ、と杉木自身が感じていた。受け入れてもらえると、そう思った。だからこそ突き放された言葉に動揺した。鈴木なら、受け入れてくれるだろうと期待していたことに杉木はようやく気付く。これまでなら、ここで終わりだった。受け入れられることはなくて、また年が明けたら合同練習を行い、約束通り杉木は鈴木を10ダンスのファイナルまで引っ張り上げる。必要以上にお互いのことに踏み込まなくても、それで。

―――嫌だ。鈴木信也の人生の「その他大勢」になどなってやるものか。

 焦がれて、やっと道が交差して。鈴木にだって、杉木と同じくらい、自分に焦がれてほしい。もう、杉木は鈴木を知らない日々には戻れない。
 必死で走り、手に持っていたマフラーを投げ捨て鈴木を追った。電車の中で募りに募った気持ちをぶつけるようにキスをした。仕掛ける前にとった確認も、やめる気があったかどうかは微妙なところだった。何よりも、鈴木からも杉木を求めてほしかった。きっと、あのまま誰も乗ってこなければ、駅に着かなければ。ずっと杉木は鈴木と踊るようにキスをしていただろう。
 死神になればいいと、そのキャラを通せばいいと。やはり鈴木はどこまでも杉木の想像の上を行く。

「俺もアンタも日本人なのは変わんねえじゃん。そこは一緒だろ。それならただ俺とアキか、アンタと房ちゃんか。観客を魅了した方が、ダンスが上手い方が先に名前を呼ばれるだけ。俺とアンタの条件は変わらねえだろ。かかってこいよ、チャンピオン」

 先ほどまでのどこか現実離れした時間を忘れさせないと言わんばかりに鈴木に吸い付かれる。杉木自身ですら嫌悪した死神としての自分さえ、鈴木は肯定した。どうしたって目を離せない、杉木の憧れにそこまで言われて嬉しくないわけがない。
 最後に、憧れだと伝えて別れるものの、頭の中では次の計画を杉木は考えていた。すぐに連絡をしてしまったのは浮かれていると分かっていても手を止めることはできなかった。イギリスのワールドチャンピオンシップ、鈴木の目の前で誰にも文句を言わせない一位を取る。鈴木のお披露目にしたってちょうどいいはずだからエントリーをしなければ。そうしたら、鈴木がフォーマルを持っているかを確認して、いやこれから使うわけだから仕立てに連れて行かせなければ。杉木が鈴木に似合うものを全て見て、整えてやればいい。
 次々と決まっていく予定はあれもこれも鈴木関連ばかりで、それが面白く、揺れる列車の中で小さく杉木は口角を上げた。