淡居 灯
2026-05-13 18:17:32
10234文字
Public あまやどり同盟
 

あまやどり同盟|第4話


「ラッキーだな。一気に二人も集まるなんて」
「うん、あと二人だね」
 水曜――定休日のカフェエリゼにて。学校での例の一件があってから、あまやどり同盟としての初めての集まり。志音たちはテーブル席に四人で集まっていた。テーブルの上にはミルクティー、コーヒー、リンゴジュース、カルピスが並んでいる。
 蛍と琥珀の言葉に、珠華が首をかしげる。
「『あと二人』って?」
「あぁ、ちょっと前から俺と琥珀ともう一人で、『雨の紡ぎ人は天災を止められる』っていう噂について調べてんだ」
「きっかけは、まるきり真偽のわからない都市伝説からですけどね」
「この本、どう考えても怪しいよなあ。ぶっちゃけ眉唾物」
 琥珀がカバンの中から一冊の本を取り出した。彼らが市立図書館で見つけてきた、決して最近出版されたわけでもないのに新しく、ほとんど借りられていなさそうな本の中に書かれていたもの。名称こそぼかされていたが、明らかに雨の紡ぎ人について言及されていたから、気になって調べているという。
 蛍は続ける。
「その本によれば、七つの雨詠みの譜を持つ者が集まりそれを奏でたとき、どんな天災をも鎮めることができるんだと」
「それで僕たちは、噂を確かめるために七つの雨詠みの譜を持つ紡ぎ人を探していたんです。僕たち三人はもうそれぞれ違う旋律を持っていたので……。今は他の雨の紡ぎ人を探している途中で」
 ほぉ〜と、珠華は目を輝かせた。
「それって、普通に雨を止めるのとはまた違うの?」
「ああ。普通の雨の紡ぎ人の能力なら、降らせることができるのは一人で一時間十ミリくらいの降水量で、学校の校庭くらいの範囲になるだろ? 止めるときもそのぐらいの規模が限界。でもこれは違う。雷も、ゲリラ豪雨も、暴風雨も、洪水や川の氾濫も止められるらしい」
「そんな技があるんだ〜、初めて聞いた!」
「で、早速なんだけど……協力してもらえるか? 二人の雨詠みの譜を教えてほしいんだ」
「オッケー! 任せて!」
 と珠華は意気込むが、これまでじっと話を聞いているしかなかった志音が、控えめに手を挙げた。
「あの、私……わからない……
「あっ、そうか。星野は自分が雨の紡ぎ人だってことも、最近まで知らなかったんだもんな」
「じゃあ、順番に歌ってもらう? 七つ、総当たりで」
 琥珀の提案に、蛍は頷く。
「それがいい」

 まず最初に珠華の旋律を確かめるため、四人はエリゼの屋上に移動した。三階建ての屋上なので、そこまで高さはない。周りを囲むビル群が、ちょうどいい目隠しになってた。
 あいにくの天気で、空はどんより曇っている。晴れているよりもこういう天気のほうが雨を呼びやすい、らしい。
 志音は、琥珀が黒いファイルを手に持っていることに気づいた。
「森生、それは?」
 志音が近寄ってのぞき込むと、琥珀はファイルを開いて見せてくれた。楽譜だ。
「雨詠みの譜を書き起こしたものです。紡ぎ人は口伝が多くて資料が少なくて……。これからの世代のために文字で記録を残していこうと、蛍とやっているんです」
 説明している間に珠華の準備が終わったようだ。大きく背伸びをした彼女が、声を上げる。
「じゃあ、行くよ〜」
 軽い調子で、珠華は歌い出した。
 湿った風が頬を撫でる。
 伸びやかな透明感のある声に、志音は目を見張る。何か音楽の経験があるのだろうか、と思わせるほどに上手かった。
 珠華が降らせたのは、柔らかな霧雨だった。
「「「うっっま」」」
 シンクロした三人に、照れるように珠華は笑った。

「さ、次は星野の番。順繰りに行くぞ〜」
 琥珀にもらった楽譜を目で追う。蛍の雨詠みの譜だというそれは、なるほど、やはりハ長調だ。メロディー自体は単調で、童謡レベル。小学生でも歌えるだろう。
 これなら自分にもできそうだと、小さな声で歌い始める。
 ぽつ、と大きな雨粒が地面にシミを作った。
 うまくいった、と思った瞬間、何かが割れるような轟音がした。一拍遅れて、それが雷鳴だと気づく。思わず肩をすくめてしまう。
 降り始めたにわか雨は、あっという間に土砂降りへ変わる。傘を、と思ったがもう遅い。
 何かを失敗してしまったらしい。心臓が早鐘を打つ。
「っ、これどうしたらいいの……?!」
「星野! いったん歌うの止めろ! あ、」
 蛍がそう叫んだのとほぼ同時、ひんやりとした手が志音の背中に触れる。知らない人の手だ。
「息をして。そう、ゆっくり。大丈夫。私がいま、雨を止めるから」
 ゆったりとした喋り方で、彼女はつぶやく。振り返る余裕もないまま、少しずつ呼吸を落ち着けていく。そして彼女は歌い始めた。珠華の旋律とも違う、スローテンポの古い民謡のような旋律だ。
 けぶるほどに強く地面をたたきつけていた雨は次第に弱まっていき、雲間から光が差してくる。
 やがて、黒い雲は去っていった。
「大丈夫?」
 ようやく振り返ると、優しげな若草色の目がこちらを見ていた。彼女は志音の手をそっと握る。彼女の、青緑の石がはめ込まれた右手のミサンガが目を惹いた。



「よかった、取り返しのつかないことになる前に間に合って」
「た、助けてくれてありがとう。でも、あなたは……?」
 さっきまで慌てふためいていた珠華も、彼女の突然の登場にポカンと口を開けている。
「果耶! 助かった!」
 蛍がその見知らぬ人の肩に腕を置く。
「星野、三海、紹介する。こいつがあまやどり同盟の三人目」
「如月果耶です。蛍たちとは違って、月鍵高校なんだ。あなたたちのことは、蛍から聞いているよ。会えるのを楽しみにしてたんだ。これからよろしくね」
 生成色の、ふわふわとしたボブヘアの彼女はにっこりと笑って挨拶をした。たしかに糸凪の制服とは違う、上品な紺色のセーラー服だ。志音と珠華も挨拶を返すと、果耶、と名乗った少女は首を傾げる。
「ところで、四人は何してたの?」 
「ああ、二人の譜を見せてもらおうと思って。雨過天晴の件で」
「なるほどね。それで、どうだった?」
「三海のは俺たちの知らないやつだった。俺たちで三番目まで振り分けてるから、三海の旋律は四番ってことにしよう。……で、問題なのが――
 蛍がこっちを見た。無茶をさせた申し訳なさがあるのか、快活な眉が下がっている。
「星野は自分の譜を知らないっていうから調べたかったんだが」
「ご覧の通り、ってわけね」
 果耶は困ったように頬を手に当てた。
「ご、ごめん。上手く歌えなくて……
 迷惑をかけてしまった。本当に最悪だ。穴があったら入りたい。
 おそらく、さっき自分が歌ったのは、自分が歌うべき譜ではなかったのだと思う。間違った譜を歌うことを繰り返して、また同じことが起きたら、と考えて胸が冷えた。
 けれど果耶は首を横に振った。
「あなたが謝る必要はないよ。蛍たちの話を聞く限り、これまで一度も雨を歌った経験がなかったんでしょう? なら、自分の血筋のものではない譜を歌うのは、余計に無茶だったかもね。あてずっぽう戦法は、おすすめできないかなぁ」
「そうだよな。ごめん……澄涙石があるから大丈夫だと思って」
「確かにお守りにはなるけど……そもそも私たちだって、涙澄石があっても訓練をしなければ歌えないわけだし」
「リスクを考えるべきでした。ごめんなさい」
 しおしおと琥珀もうなだれた。その様子を見て、果耶は真面目そうに引き締めていた表情をゆるめる。
「大丈夫だよ、琥珀。また何かあれば、私が助けるから」
「果耶様頼もしい〜」
「もう、今はいいから」
「でもさ、結局歌ってみないとわからないんじゃないか?」
 果耶は少し考え込んでから、思いついたように志音を見る。
「もしかしたら、助けてくれるかもしれない人を知ってるよ」



「おはよう……何もこんな朝早くなくてもいいじゃん」
「それな〜」
「ちょっと遠いから、しょうがないなあ」
 志音がぼやくと、珠華と蛍が同意した。現在早朝の五時である。志音たちがいるのは、まだひと気も少ない駅だった。
 揃った顔ぶれを見て、志音はいつものメンバーが一人足りないことに気づく。
「森生は?」
……ああ、琥珀は予定が合わなかった。だから今日はこの四人」
 そうこう話しているうちに、電車がやってきたので、一行は乗り込んだ。始発なので当然ガラガラで、ちょうどよく向かい合わせの四人席に座る。
 電車に揺られながら、志音はずっと聞きたかったことを口にした。
「あのさ。あまやどり同盟って……具体的に、何してるの?」
「うーん、雨詠みの譜の研究とか、力の制御の練習、とかだな」
「っていうのよりも、勉強会とか、ゲームをするとか、ただご飯を食べるだけの方が多いけどね」
 果耶が補足すると、蛍が口を尖らせる。
「言うなよ……
「? 本当のことでしょう?」
「だってカッコつけたかったし……
「まったく。しょうがないなぁ」
「で、今日は何をするの?」
 珠華が訪ねる。
「今向かってるのは、私のおばあちゃんの家。あそこには紡ぎ人の資料がたくさん保管されてるんだ。だから、志音の雨詠みの譜を知る手助けになれるかもしれない、と思って。おばあちゃんも珠華や志音に会いたがってたし、せっかくだからみんなで行こうと思って」

 目的の駅で降り、歩いていく道に家が少なくなっていった頃、ようやく一つの大きな家にたどり着いた。北欧の国に迷い込んだかのようなログハウスだ。果耶がチャイムを押すと、年配の小柄な女性が顔を出した。果耶と同じ生成色の髪と、メガネの奥には抹茶のような緑の目。なるほど、果耶によく似ている。
「いらっしゃい、待ってたわ。さあ中にお入り」

「今日は何の用で来てくれたのだっけ?」
 四人は促されてソファに腰掛けた。目の前のローテーブルには美味しそうな紅茶とクッキーが並んでいる。遠慮なくお食べ、と言われると蛍は早速、それを遠慮なく口に入れていた。うまい!などと叫んでいる。その横で、祖母と孫は会話を続ける。
「この子__志音の雨詠みの譜を調べるためだよ、おばあちゃん」
  果耶が答えると、女性はポンと手を打つ。
「そうだった、そうだった。__あなたたちが新入りの子ね?」
 果耶の祖母は、志音と珠華を見た。珠華が手を高く上げる。
「三海珠華です! 小湊君とおんなじ高校です!」
「星野志音です。同じく」
……
 彼女は一瞬、まじまじと志音を見つめた。志音はその視線に思わず瞬きをする。
 果耶が首を傾げた。
「おばあちゃん?」
「ああ、いや、なんでもないさ。私は如月理子といいます。今日は来てくれて嬉しいわ。__雨詠みの譜、心当たりならあるわよ。地下室へ行きましょう」
 理子はかすかに首を振り、どっこいしょ、と立ち上がる。
「おばあちゃん、待っている間に三人で、書庫で調べ物していてもいい?」
「いいわよ、埃っぽいから気をつけてね」
「うん、ありがと!」
 こっちだよと、先導して果耶が二人を連れて客間から出ていった。理子は三人が部屋から出ていったのを確認してから、再び志音を見据える。その眼差しは、どこか懐古を感じさせるものだった。

 この人は、いったい何をみているのだろう。

「志音ちゃん。ついてきて」
 先ほどまでの穏やかさをひっこめたような雰囲気に、志音は背筋を伸ばす。
……はい」

 理子は廊下の階段下にある小さな扉を開ける。暗くてひんやりとした空気が頬を撫でた。懐中電灯を持つ理子についていきながら、階段を降りていく。彼女が、懐かしそうな声色で呟く。
……大きくなったねえ。さっきは一瞬、誰だか分からなかったわ」
「え? どこかでお会いしました……?」
 必死に記憶の糸を辿るが、思い当たる節はない。彼女は穏やかに笑った。
「ふふ、志音ちゃんが覚えていなくても無理はないわ。会うのはあの時以来だもの。人がたくさんいたし……よるちゃんのお葬式にいたのよ。やっぱり、大きくなったら本当によるちゃんにそっくりだわ」
 よる。しばらく聞くことのなかった響きに、息を呑んだ。そして、先ほどの眼差しの理由に思い当たる。
 自分に母を、重ねているのだろう。同じ黒髪と、青い目に。性格は、父に似たけれど。本来の年齢よりも若く見える母と並べば、姉妹かと言われるほどに、自分たち親娘は似ていた。
「母の……お知り合いでしたか」
 昨今では珍しい話で、母はたくさんの人に見送られるような、どちらかといえばにぎやかな葬式を望んだ。だから身内の家族や親戚だけでなく、親しい知り合いや友人も多く呼ばれたのだ。
「ええ。もう六年になるのかしら。……本当に早いものね」
……
 六年。大切な人が死んだ傷が癒えるには十分な時間だった。けれど志音は、今もまだ、その死を受け入れられないでいる。
「よるちゃんは私の弟子みたいなものだった。ああ、私はね、子どもの紡ぎ人に、歌と正しい力の使い方を教えていた先生みたいなものをしていたの。今はもう歳だから、していないけどね。あの子は、歌がとっても上手だった」
 そう話しているうちに、理子はある一つの棚の前で立ち止まった。その棚にはずらりと水の入った小瓶が並んでいる。そのどれもに、人の名前らしきものと日付が書かれた、小さなラベルが張られていた。理子はそのうちの一つを取り出し、しばらくそれを見つめてから、静かに志音に問いかける。
「果耶たちからこの力のことを聞いて、不思議に思わなかった? 『どうして母はこのことを教えてくれなかったのか』って」
「それは……
 志音の瞳が揺れる。
 思わなかったわけではない。むしろ、不思議だった。あまやどり同盟のかれらは、当たり前に自身の異能を自分のものとして知っていた。それなのに自分は、何も知らなかった。知らないままで、大きくなった。父にも、何も言われたことがない。
 理子は志音を見つめる。
「よるちゃんは、娘さんに――志音ちゃんにルーツを明かすのをためらっていたわ。そして、結局あなたに直接伝えることなく、この世からいなくなってしまった。それには理由があったのよ。……それでも志音ちゃんは、知りたい?」



 一方その頃。志音以外の三人は、離れの埃っぽい書庫を訪れていた。天井まである棚にぎっしり詰まった本や、製本すらされていない紙の束がそこかしこに積み上がっている。中央には、いかにも書斎にありそうな、やはり紙束で埋め尽くされた飴色のテーブルと大きな椅子。その秘密の場所めいた書庫に、珠華は目を輝かせる。
「うわあ、すっごいたくさんの本。図書館みたい!」
「ね、すごいでしょ。おばあちゃんが、雨の紡ぎ人に関する昔の資料なんかを集めて作ったのがこの書庫なの。結構脆いものもあるから、気をつけてね」
「任せて。ちなみに、何を調べればいいの?」
「雨過天晴の手がかり探しかな」
「え、これを全部、片っ端から見てくの? 結構たくさんあるみたいだけど……しかも分類とかされてなさそう」
「うん。これでも少しずつ整理しているんだけどね。地道な作業も、悪くはないでしょ?」
 三人で資料を手分けして漁りながら、果耶は、地下室の棚に小瓶のぎっしり詰まった風景を思い浮かべる。数多の記憶の眠る、果耶ですらめったに立ち入りができない、あの静かな記憶の墓地。雨の紡ぎ人ならば、志音と、彼女の家族に如月家と繋がりがあっても不思議ではない。けれど、ただ雨詠みの譜を知るためだけにわざわざ、「あれ」が必要になるなんて、志音に、一体何があったのだろう。果耶の中で、志音と雨の紡ぎ人の関係の謎は深まるばかりだ。



 志音はしばし、沈黙した。雨の歌い方を知ることはすなわち、母の願いに、遺志に反することになるのだろうと、理子は言いたいのだ。
 そして、ゆっくりと口を開く。
「母の知り合いだったなら__ご存知ですか。母の死後、何があったのか」
「ええ……たしか、よるちゃんに関して、根拠のない、悪い噂が流れたのよね」
 理子はかなりぼかして答えたが、本当に目を背けたくなるようなうわさが、たくさん流れたのだ。そのどれもが一つとして事実ではなかった。ねじまがって、誇張されたものばかりだった。どうして、誰が、なんて追及する余裕は、父にも自分にもなくて、そのままうやむやになっている。何より、うわさを否定するためだとしても、そのために当時以上に母への悪口に触れることになるのは、もう嫌だったのだ。死人に口がないからって言いたい放題の彼らに踏み躙られ、写真をくしゃくしゃにされ、汚されてしまったような心地だった。
「私はあの時、何を信じれば良いのかわかりませんでした。今もまだ、思い出しては、苦しくなります。私の大好きだった母は、偽りだったのかと……そう一瞬でも思ったことを、後悔しています」
 思い出の中の母を、信じられなかったことを。
 今はそんなことない、ときっぱり言えるけれど。だからこそ。
「私は知りたいです。母はちゃんと、私の知っている母だったって、確かめたいんです。歌が好きで、世界を、人を愛していた、あの母なんだって。雨の紡ぎ人のことを知ることは、それにつながると思うから」
 志音はきっぱりと言い切った。そこに、迷いはない。それを悟った理子は微笑んだ。
「わかったわ。――本当は、直接楽譜を見せてもいいのだけれど。よるちゃんは、特別だから」
 本当はマナー違反だけれど特別に、と理子は片目を瞑る。
 いったい、何をするつもりなのだろう。
――涙澄石を、少し貸してもらえるかしら?」
 志音は、蛍から絶対に肌身離さずいるように、と言われて身につけているペンダントを、首から外して差し出す。

 理子はパカっ、とコルクを抜いて、小瓶の中の水を志音の澄涙石に垂らす。透明な雫が澄涙石に落ちた瞬間、緑青が淡く脈打った。ひとつ、ふたつ、鼓動のように明滅する。染み込んだ雫が、石から立ち上がって無数の糸のように広がり、薄い膜となって志音の眼前に四角く広がる。細い雨粒が光を孕んだ薄膜になって、目の前に一枚の景色を結んでいく。
 志音は息を呑む。スクリーンのような雨景色には、病室の中のよるが映っている。
 一瞬だけ、地下室の湿った空気が、消毒液の匂いに塗り替わったような気がした。
「?! 母さん……!」
「私はこれを『天泣の足跡』と呼んでいるわ。昔は、紡ぎ人同士の連絡手段だったの。雨を通じて、記憶を残しておくためのものでもあった。今は思い出を残すための記録装置のような役割ね。――この人も、よるちゃんの歌声を残しておきたいって、これを使ったの。スマホやカメラではなく、あえてこの方法でね」
 どうやら病室にいるのだろう。よるは一人ではなく、記録の依頼主だという別の人とともにいた。父ではない。志音の知らない男性、しかもかなり親しげだ。
「はっ、まさか……
「安心して、彼はよるちゃんの古い友人よ」
「で、ですよね」
「し……よくお聴き」

 低い声がノイズ交じりに響く。
『お久しぶりです。体調はどうですか』
『今は大丈夫よ。でも……あなたの結婚式には行けなさそうね?』
『やめてください、そもそも今おれに恋人はいませんし、結婚をするつもりもないんですから』
 記憶の中のよるは、くすくすと子どもめいた表情で笑った。
『もう、少しからかっただけよ』
……。子どもが産まれていたそうですね。遅くなりましたが、おめでとうございます』
『ありがとう、今四歳なの。とっても可愛いわ。……でもね、雨の紡ぎ人のことは、教えないでおくつもりなの』
……! それは、どうして』
『如月家のように、血や使命を繋いでゆくのも私たちの使命の一つだって、わかってはいるわ。でも……もしあの子が、万が一、いずれ私と同じ道を辿ることになってしまったとしたら? そう考えると、怖いの。可能性は低いかもしれないけれど、あんな経験、してほしくはない。知らない方が幸せなこともある。だから、私はあの子に何も教えない。なんの能力も持たない、普通の子として育てるって決めたの』
……
 男性の表情はわからない。姿がスクリーンには映っていなくて、彼の一人称視点のようだ。
『勘違いしないでほしいの。みんなと過ごした、楽しくてかけがえのない思い出も――私の中には、たくさんある』
……
『ねえ、みんなは元気にしているかしら? まだ会ったりしている?』
『小湊だけには、時々。でもそれ以外のやつとは……。すみません、土産話があったら、あなたとその気持ちを共有できたのに』
『いいえ、無理もないわ。気にしないでいいのよ』
 男性が、居住まいを正した空気になる。
『星野さん。最後に一つ、お願いがあるんです。……あなたの歌が聴きたい。あなたの雨を、見たい。この天泣の足跡に、残したいんです』
『ふふ。わざわざ天泣の足跡を選ぶなんて、君らしいわね。ええ、もちろんよ』
 スクリーンの中のよるは、歌い出した。優しく、子守唄のように。

 じわりと、目が熱を帯びる。こぼれないように必死に瞬きをする。

 人は、声を一番最初に忘れるという。
 母が病でこの世を去ってから、六年。忘れてかけてしまっていた。でも、ずっと忘れたくなかった声だ。
 雨の日の弾き語り、眠れない夜の子守唄、自分のためだけのコンサート。
 懐かしさがこみあげるのと同時に、罪悪感に押しつぶされそうになった。母の願い通り、知らないままでいたほうがよかったと、後悔する日がいつか来るのかもしれない。雨の紡ぎ人という役割のせいで、決して楽しくはない経験をしたのだろう。
 けれど。だったらなぜ、なおさら母は、あのペンダントを捨てなかったのか。大事に大事に、いつもつけていたのか。
 雨の紡ぎ人の存在を疎んでいたとしたら、もっと話は簡単だったろう。ペンダントなんてさっさと捨てて、あの男性にも会うことすらしていなかったはずだ。あんなふうにやさしく歌える人が、雨を憎んでいるはずがない。
 やさしい雨音とともに、よるの声が、地下室を満たしていく。

 まぎれもなく、母は、雨を愛していた。

 それまでただ食い入るように雨のスクリーンを見つめていた志音は、軽く目を閉じた。そして、小さく息を吸う。
「、――♪、――……
 初めの一音が、頼りなく震えた。笑えるほどに掠れている。
 自分の歌声は、ちっとも母の歌声に似ていない。彼女の声はもっと美しくて、ガラス玉を転がすように透明で、高く澄んでいた。
 それでも、志音は歌うのをあきらめなかった。不格好でもいい。似ていなくてもいい。小さな声で、あのやわらかな歌声をなぞる。やはりどこか懐かしい旋律を、夢中になって追いかける。

 よるが歌い終わると、雨のスクリーンは消えてなくなってしまった。地下室に静寂が戻る。けれど、雨上がりの匂いが、薄く残っているような気がした。
「ありがとうございます、理子さん」
「どういたしまして。役に立ててよかったわ。さあ、戻りましょう」
 階段を数歩上がったところで、振り向いてみる。たくさん小瓶の詰まった棚。
 誰かの涙、笑い声、歌、出会い、別れ、祈り。雨の中に編まれて残された、誰かが歩んだ足跡。そんな無数の記憶が、静かに薄闇で眠っていた。

 前を行く理子が、ゆったりと尋ねた。
「かれらとの日々は、どう? いきなり不思議な力を持つ一族だって言われて、びっくりしたんじゃないかしら」
「そうですね。使命とか、正直よくわからないですし、いまだに信じられないことが多いです」
「そうよねえ。高校生になってから急に、こんなこと言われても信じられないわよね。この魔法は、あまりにもちっぽけだから、ひとの役には立たないかもしれない。この力をどう使うかは、志音ちゃん自身が決めることよ」
……
 浮かない顔の志音に、理子は首を傾げた。
「あの足跡を見たことを、後悔しているのかしら?」
 志音は首を横に振った。
 自分の手の中の澄涙石を見下ろす。淡い緑青の奥で、残滓のような光がかすかに揺れている。
 彼女が遺したものは、娘へ託すためのやさしい贈り物ではない。遺志なんてものでもない。母が墓場に持って行ったはずの、隠し損ねた傷痕だった。
 志音はそれを、見つけてしまったのだ。知らないままでいてほしいと願ったひとの、知られたくなかった祈り。
 きっと、そこから目を逸らすことを、あの優しい仲間たちは許してくれるのだろう。
 でも、知りたいと、心の底から思った。
 いつかの言い訳に使ったはずの気持ちが、嘘でなかったことをいまさら自覚する。

 向き合いたい。

 母が昔日に恐れ、傷つき、直面したものと。
 母がその傷痕の先に、守りたかったものと。

 それを知るために、雨を歌いたい。