「もし
月光さんとあのとき試合せんかったら、て、今でもときどき思うんですけど」
明かりを消した寝室、締めきったカーテンの裾からほのかに滲む夜の気配の中で、毛利の声だけがぽつりぽつりと聞こえる。肌を重ねたあとの男の中低音はいつもわずかに掠れていて、普段より少し大人びた響きで鼓膜を撫でていくのが心地好い。
自身の腕のなかに潜り込んだ男の言葉にそっと耳を傾けながら、ちいさな身動ぎを相槌に代えて先を促す。
眠りに落ちる前のつかの間のまどろみに、毛利がこぼすそれらはどこか無防備だ。この男の胸裡から、思考がそのままこぼれて落ちてきたようなやわさを感じる。
おそらくは太陽のひかりのもとでは輪郭を保てぬ類いのものなのだろう。(あるいは、コートのなかでも同様に。)朝になれば泡沫のように消えてしまうやわらかな夢を無粋に乱さないよう、男と同じまどろみの浅瀬に足先を浸しながら待つ。
「きっと、人生ぜんぶ、全然違うとこ行ってもうたんやろうなぁ。そもそも合宿にやって、呼んでもらえたかどーかもわからへんし」
「
……そうだな」
毛利寿三郎という男と初めて出会った日、高校三年生の関東大会を思い出す。
招集候補者のリストには載っていただろうが、あのときのプレーのままでは実際に通知を送る段階まで名簿に残ることができていたかはわからない。よしんば残れたとしても、強化合宿の恩恵を十全に受け取るための基礎がそもそも足りていない状態であることは確かだった。
自身の返した率直な肯定に男は気配だけでひそやかに笑んでから、背に回した腕を強めながら言う。
「もし俺が合宿に呼ばれやんでも、
月光さんは日本代表の一軍で、遠征行ったりW杯に出たりしますやん」
「
……ああ」
「そんでどっかでスポンサーの目に止まって、スカウトされて、いつかきっと、プロんなる」
「
……………………」
果たしてそれはどうだろうか、と思考の冷静な部分で思いはしたが、男が言わんとするところをどうにも掴みきれない。
口を噤んだまま、ひたりと五感を巡らせる。
胸元に額を押し付けるようにぎうと抱きしめられており、表情は窺えない。声は相変わらず穏やかで、
――静かすぎるほどだった。
「ほんで俺はフツーに立海の大学上がって就活とかしやって。朝メシ食べながら、テレビで
月光さんのニュース見るんです。もしかしてお頭とか、他ん先輩らのこともやるかもしれんけど」
「
…………、」
「へえ、俺とあんま変わらんのに、凄い人もおるんやなぁって。そんくらいのノリで、チャンネル変える。
――月光さんと会わんかったら、たぶんそないなふうやった」
「
……毛利」
自身にしては珍しく言葉を遮るように男の名前を呼んだのは、訥々と紡がれる仮定の景色がいやに鮮明だったからだ。いまあるなにげない朝の景色から、男がふいにぽっかりといなくなるような
――記憶の網のすきまをすり抜けて消える夢のような、喪失とも気付かぬ喪失の光景を、毛利はただ穏やかに見つめていた。
さざめいた胸中を察してか、応えの代わりに男が自身を呼ぶ。宥めるような中低音。「やからね、つきさん」
「いま、テニスがずうっとオモロくて、
月光さんの相棒と、恋人でおれとることが。
……俺、ホンマに、ほんまに嬉しいんです」
「
――、」
これは、それを忘れんようにするための、おとぎばなしみたいなもん。
そう呟く男はいま、微笑んでいるのではないかとすら思う。
……否、そのはずだ。聞かせるための溜息をひとつ吐き、厚みのある背をゆるく撫でた。
「寝る前に聞くには、あまり向かない童話だな」
「
…………すんません、忘れたってください」
「構わない」
「
――、」
「それも、おまえの一部だろう」
この男が時折、自身を抱きながら焦がれるように名前を呼ぶのを知っている。ここにいる己れをとおして、ここにいない己れを見ては、いま自分がどこにいるのかを確かめている。
自身にそれを止めさせることはできない。いつかその必要がなくなれば良いとは思うけれども、自身にできるのはその日までこの男のそばに居続けることだけだ。
ちいさく息を呑む気配。数瞬のインターバル。
あんがとございます、と、男がなにかを堪えるように言う。おやすみを告げる代わりに、そのつむじにそっと口付けた。
***
ふたりへのお題ったー
『おとぎばなしと微笑む』