Privatter+
Font
Serif
Sans Serif
Color
Light
Dark
auto
Font size
Large
Medium
Small
Language
Japanese
English
Sign in with Google
Sign in with ID and password
Account ID
Password
Sign in
Forgot password?
Create account
Hnyanko
2026-05-13 00:17:23
15449文字
Public
Clear cache
悠アキ貴族オメガバパロ⑤
浅羽邸での暮らしが始まって、しばらくした頃だった。
表向きには穏やかな日々が続いていた。リンは少しずつ屋敷の広さに慣れ、窓辺の明るい部屋で本を読んだり、庭の花の名前を侍女に教わったりするようになっていた。アキラもまた、パエトーン家の整理に関する書類へ目を通しながら、悠真と必要最低限の会話を交わす生活に慣れ始めていた。
慣れ始めていた、というのが厄介だった。
人は、暖かい場所にいると忘れそうになる。
ここへ来た理由も、外にまだ悪意が残っていることも。
けれどアキラは、忘れなかった。
だからこそ、その日、庭へ続く渡り廊下ですれ違った下働きの男に、ほんのわずかな違和感を覚えた。
見慣れない顔だった。
それだけなら、屋敷が広い以上ありうる。けれど、歩幅が違った。使用人らしい控えめな足運びではなく、いつでも踏み込める重心をしていた。目線も不自然だった。主人の家族を避けるようでいて、実際には周囲の出入口を確かめている。
アキラはリンの手を取った。
「リン」
「お兄ちゃん?」
「部屋へ戻ろう」
リンはきょとんとした顔をしたが、アキラの声音に何かを感じたのだろう、すぐに頷いた。
だが、その一瞬の遅れで十分だった。
男が振り返る。
笑っていた。
使用人らしい会釈をしながら、目だけが笑っていない。
「アキラ様。旦那様から、お呼びでして」
嘘だ、とアキラは即座に思った。
悠真ならこんな伝言の回し方はしない。最低でも葛城を使う。あるいは女性の侍女を寄越す。何より、こういう男をリンのそばに近づけるはずがない。
アキラは微笑んだ。
「そうですか。では葛城さんに確認を」
「お急ぎのようで」
「なおさら確認が必要です」
会話をしながら、アキラは半歩ずつリンを後ろへ下がらせる。
男の視線が、その動きを追った。
狙いは自分だけではない。
その事実に、背筋の内側が冷える。
「
……
賢い方だ」
男が小さく言った。
「話が早くて助かる。大人しく来ていただければ、お妹君に乱暴はしません」
リンの指先が、アキラの袖をぎゅっと掴む。
アキラは呼吸を整えた。
叫べば、警護が駆けつけるかもしれない。
けれど、この距離ではリンを抱えて逃げ切れる保証がない。男の懐には何かある。刃物か、薬か。どちらにせよ、ここで刺激するのは得策ではなかった。
だからアキラは、声を荒げずに言う。
「リン」
「うん
……
」
「僕の後ろに」
その言葉と同時に、男が動いた。
速かった。使用人のふりを脱ぎ捨てた動きだった。アキラはとっさにリンを庇い、身体を捻る。男の腕が伸び、アキラの肩を掴もうとした、その瞬間。
横から、強い衝撃が男を弾き飛ばした。
鈍い音。
男の身体が廊下の柱へ叩きつけられる。
何が起きたのかを理解するより先に、アキラは見た。
悠真だった。
いつもの穏やかな衣装ではなく、動きやすい上着を羽織っただけの軽装。片手でアキラの肩を庇うように押しやりながら、もう片方の手で男の手首を正確に蹴り上げている。男の懐から短い刃物が落ち、床の上を滑った。
「下がって」
短い声だった。
その声音には、議論の余地がなかった。
アキラはリンを抱き寄せたまま、二歩下がる。悠真の背が目の前に入った。普段は涼やかで、ひどく軽やかに見えるその背中が、今は刃のように張り詰めている。
男は舌打ちをして、体勢を立て直した。
「さすが浅羽卿、ですね」
「屋敷に入るところまでは上出来だったのにね」
悠真は微笑んでいた。
だが、その目は少しも笑っていない。
「誰の差し金?」
「答えると思いますか」
「思わない」
次の瞬間には、もう動いていた。
男が二本目の刃を抜くより早く、悠真が間合いを詰める。踏み込みが深い。無駄がない。手首を取り、肘を返し、刃の向きを逸らしながら懐へ潜る。貴族の剣術というより、もっと実戦に近い制圧だった。
男が低く呻く。
だが、そこで終わらない。男は崩れながらも袖口から細い針を抜こうとした。アキラの喉がひやりとする。
危ない。
声にしようとした瞬間、悠真がその手を靴で踏みつけた。
「それ、嫌いなんだよね」
ひどく静かな声だった。
男の顔が歪む。
悠真は踏みつけたまま、ほんの少しだけ力を込める。骨の軋む音がして、男が短く悲鳴を漏らした。
「君たちって、どうしてすぐ子どもに触ろうとするんだろう」
その声音に、アキラは息を止めた。
怒っている。
昨夜までの“処分”とは違う、生身の怒りだった。
そのとき、廊下の奥から複数の足音が響く。警護の者たちが駆けつけてきた。悠真は視線だけをそちらへ向ける。
「生け捕りにして。口を割らせる」
「はっ」
護衛たちが男を取り押さえる。男はなおも抵抗しようとしたが、悠真がひと目向けただけで、空気が凍りついたように動きが鈍った。
すべてが終わってから、ようやく静寂が戻る。
アキラは自分がリンを抱きしめたまま、ひどく強い力で支えていたことに気づいた。リンが小さく震えている。泣くのを我慢しているのだろう。
「リン」
声をかけると、リンはぎゅっとアキラにしがみついた。
「お兄ちゃん
……
」
「大丈夫」
そう言う自分の声も、少し掠れていた。
悠真が振り返る。
戦っていたさっきまでとは違い、その顔にはもう冷たい怒気を引っ込めたあとの静けさがあった。けれど目の奥だけは、まだ鋭いままだった。
「怪我は?」
それはアキラへ向けた問いだった。
「
……
ありません」
「リンちゃんは?」
アキラが確認するより先に、悠真は膝をついてリンの目線まで下りる。だが今度は昨夜のようなやわらかさだけではない。彼女が怖がらないよう慎重に抑えながらも、周囲の状況を逃さない顔だった。
リンは唇を震わせながら頷く。
「へ、いき
……
」
「偉いね」
悠真の声が少しだけ和らぐ。
「怖かったね。でも、もう大丈夫」
リンの目に涙が溜まる。けれど泣く前に、彼女はアキラの袖を掴んだまま、悠真を見た。
「
……
分かってたの?」
悠真は一瞬だけ目を瞬いた。
リンは続ける。
「来るって、分かってたの?」
子どもらしい問いだった。
けれど、その実、核心だった。
アキラもまた、悠真を見る。
悠真は短く息を吐いて、立ち上がった。
「可能性は高いと思ってた」
「だから、ここに?」
「うん。君たちが庭へ出る時間に合わせて、近くにいた」
アキラはそこで、胸の奥が鈍く痛むのを感じた。
この人は、ただ偶然通りかかったのではない。
こうなるかもしれないと考えていた。
自分たちが狙われることも。
アキラがそれを察することも。
そして、リンを庇って動けなくなることも。
全部、分かった上で来た。
助けるために。
「
……
最初から、教えてくださればよかったのに」
アキラが言うと、悠真は少しだけ苦い顔をした。
「君、知ったら庭に出なかったでしょ」
「当然です」
「それだと、相手が別の機会を狙う」
「だから囮にしたんですか」
アキラの声が硬くなる。
悠真は首を振った。
「囮にはしてない。僕の目の届くところに置いた」
その言い方が、ひどく悠真らしかった。
傲慢で、勝手で、けれど守る気だけは嘘がない。
アキラは睨みつけようとして、うまくできなかった。胸の鼓動がまだ早い。怒るより先に、安堵のほうが身体に回ってしまっている。
リンがとうとう堪えきれず、小さく泣き出した。
「
……
こわかったぁ
……
」
アキラが抱きしめ直す。けれど、リンはそのまま腕を伸ばして、悠真の上着の裾もぎゅっと掴んだ。
悠真が一瞬だけ目を見開いた。
「リン?」
「二人とも、いなくなっちゃうかとおもった
……
」
その言葉に、アキラの胸が締めつけられる。
悠真の顔から、最後の怒りが消えた。
彼はゆっくりと身をかがめ、アキラとリンの二人ごと包み込むように近づく。抱きしめるわけではない。逃げ道は残したまま、けれど二人とも視界に入る距離で。
「いなくならない」
静かな声だった。
「少なくとも、僕がいる場所では」
その一言が、どうしようもなく強かった。
ご当主としての命令にも聞こえる。
誓いにも聞こえる。
そして、武力を持つ者の断言でもあった。
アキラはそこで初めて、自分の指先が少し震えていることに気づいた。さっきまで止まっていた恐怖が、遅れて身体に戻ってきたのだろう。
悠真はそれも見逃さない。
「アキラくん」
「
……
はい」
「立てる?」
アキラは頷こうとして、少しだけ間が空いた。
すると悠真は、それ以上問わずに手を差し出した。
命令でもなく、当然のように。
「部屋に戻ろう。今日はもう、外へは出ない」
「
……
僕たちは、まだ狙われますか」
悠真の目が、わずかに冷たく細まる。
「狙わせない」
「質問に答えてください」
アキラが言うと、悠真は短く沈黙した。
「可能性はある」
やがて、そう答える。
「でも、次は今日みたいに近づかせない」
そこには確信があった。
今の一件で、悠真はもう遠慮しない。屋敷内の警備を見直し、使用人の出入りを洗い、背後関係を徹底的に潰すだろう。先ほどの男を差し向けた者たちも、ただでは済まない。
アキラはその未来を理解してしまう。
理解してしまうから、少しだけ息がしやすくなる。
悔しいほどに。
「
……
あなた、本当に武力行使も得意なんですね」
ぽつりと零すと、悠真は意外そうに目を瞬かせた。
「今さら?」
「ご当主が、あんなふうに前に出るとは思っていませんでした」
「家を守るには、机の前だけじゃ足りないこともあるからね」
言いながら、悠真はようやく少し笑った。
「剣術も体術も、一応ちゃんと叩き込まれてる。まあ、今日は使うまでもなかったけど」
アキラは思わず眉を寄せる。
「十分使っていました」
「そう?」
「そうです」
「怖かった?」
不意に問われて、アキラは答えに詰まる。
曲者が現れたことも怖かった。
リンに手が伸びたことも怖かった。
だがそれ以上に、悠真の中にある“守るためなら躊躇しない力”を見てしまったことが、少しだけ恐ろしかった。
それは暴力ではある。
けれど、正しく制御された暴力でもある。
必要なときにだけ抜かれる刃。
そんなものを、自分たちのために持たれてしまった。
「
……
少し」
アキラが正直に言うと、悠真はあっさり頷いた。
「うん。それでいい」
「否定しないんですね」
「しないよ。怖がらせたいわけじゃないけど、怖くないふりもしたくない」
その返答が、妙に誠実だった。
アキラは何も言えず、ただ差し出された手を見る。
この手が、さっき男を叩き伏せた。
同じ手が、昨夜は書類を整え、今はリンを安心させるように静かに差し出されている。
アキラはゆっくりと、その手を取った。
「
……
後で怒りますからね」
「うん」
「最初から教えなかったこと」
「うん」
「僕たちを危険の近くに置いたことも」
「うん」
「でも」
アキラはリンを抱き寄せながら、低く言う。
「助けに来てくれて、ありがとうございました」
悠真の目が、ほんの少し柔らかくなった。
「間に合ってよかった」
それだけだった。
けれど、そのたった一言が、アキラの胸の奥に深く落ちた。
――
間に合ってよかった。
もし、もう少し遅れていたら。
もし、悠真が予想していなかったら。
もし、今日ここにいなかったら。
考えたくない未来が、いくつもあった。
だからこそアキラは、差し出された手を離さなかった。離せなかった、と言ってもいい。
屋敷の奥へ戻る廊下を歩きながら、悠真は護衛へ簡潔に指示を飛ばしていた。侵入経路の洗い出し。屋敷内の人員確認。捕らえた男の尋問。誰に命じられたか、どこまで情報が漏れていたか。ご当主としての顔が、すでに次の対処へ向いている。
その横顔を見て、アキラは思う。
この人は、やはり怖い。
怖くて、勝手で、厄介で、たぶん普通の意味では優しくない。
でも。
自分とリンを守ると決めたその瞬間から、手段を選ばずに守る人なのだ。
それはきっと、ひどく危うい救いだった。
けれど少なくとも今のアキラには、その危うさごと背を預けるしかない。
部屋の前に着くと、リンがようやく少し落ち着いたのか、アキラの袖から顔を上げた。
「
……
悠真」
初めて、呼び捨てに近い響きだった。
悠真が目を瞬く。
「なに、リンちゃん」
「つよかった」
悠真は一瞬黙って、それから小さく笑った。
「ありがとう」
「でも、お兄ちゃんをこわがらせたらだめ」
「それは僕じゃなくて、さっきの人ね」
「悠真も」
ぴしゃりと言われて、悠真が珍しく言葉に詰まる。
アキラは少しだけ目を伏せた。
こんなときだというのに、胸のどこかが緩みそうになる。
悠真は観念したように肩をすくめた。
「
……
はい。気をつけます」
リンがこくりと頷く。
そのやり取りのささやかさに、ようやく空気が少しだけ日常へ戻る。
けれど、その日を境に、浅羽邸の空気はまた少し変わるんだろうね。
警備はもっと厚くなる。
悠真は表でも裏でも、兄妹に手を伸ばした者たちをさらに追い詰める。
アキラはそれを理解しながら、怒る。
怒りながら、助けられた事実を忘れられない。
そしてきっとその夜、ひとりになったアキラは思うんだ。
――
あのとき、来てくれたのが悠真でよかった。
そう認めることが、何より悔しいまま。
部屋へ戻ってからしばらく、リンはアキラのそばを離れなかった。
侍女が温かい飲み物を運んできても、毛布を掛け直しても、リンの小さな手はアキラの袖を掴んだままだった。泣き疲れた顔で、けれど眠るのを怖がっているように何度も瞬きをする。
アキラはその背を撫で続けた。
「大丈夫。僕はここにいるよ」
「
……
ほんと?」
「うん」
「いなくならない?」
「いなくならない」
そう言うたび、自分の声まで少しずつ落ち着いていくのが分かった。
言葉は、リンのために選んでいる。けれど同時に、自分にも言い聞かせていた。
ここにいる。
今は、ここにいる。
リンもいる。
扉の外には護衛がいる。
そして、悠真がいる。
最後のひとつを胸の内で数えた瞬間、アキラは眉を寄せた。
頼りにしてはいけないと思うのに、さっきから身体がその名前を安全の条件に入れてしまう。危険だ。あまりにも危険だ。人は、助けに来てくれた相手を簡単に信じそうになる。ましてその相手が、目の前でリンへ伸びた手を叩き折ったのなら。
リンが眠りに落ちたのは、それから半刻ほど経ってからだった。
何度も目を開け、アキラの顔を確かめ、悠真が扉の外にいるかまで尋ねたあと、ようやく力尽きたように寝息を立て始める。
アキラは寝台の縁に腰掛けたまま、動けなかった。
動いたら、何かが崩れそうだった。
さっきまで冷静に振る舞えていた。男の不審な動きにも気づいた。リンを後ろへ下げ、会話で時間を稼ごうとした。悠真が来たあとは、怪我の確認も、リンへの声かけも、礼も言えた。
なのに、すべてが終わって、部屋が静かになった途端、指先が震え始めた。
遅い。
恐怖というものは、どうしていつも遅れてくるのだろう。
アキラは自分の手を握り込んだ。リンに見られなくてよかった。兄が震えていたら、あの子はもっと怖がる。だから今のうちに止めなければならない。
深く息を吸う。
吐く。
もう一度。
それでも、胸の奥の鼓動は早いままだった。
扉の向こうから、控えめな声がした。
「アキラくん」
悠真だった。
アキラは一瞬、返事をしなかった。
会いたくない、と思った。
同時に、来てほしい、とも思った。
その矛盾が嫌だった。
「
……
リンが眠っています」
「うん。入らない。扉越しでいい」
その距離の取り方が、また腹立たしいほど正しい。
アキラはそっと立ち上がり、リンを起こさないように扉へ近づいた。開けるべきか迷って、結局、細く開けた。
廊下に立っていた悠真は、さっきの軽装のままだった。乱れた襟元は直されているが、袖口にわずかに擦れた跡がある。怪我はなさそうだった。そう確認してしまった自分に、また腹が立つ。
「リンは眠りました」
「よかった」
「
……
あなたは」
アキラは一度言葉を切る。
「怪我は、ありませんか」
悠真は少しだけ目を見開いた。
それから、困ったように笑う。
「ないよ」
「本当に?」
「うん」
「嘘なら、僕は怒ります」
「君、僕が本当でも怒るでしょ」
「それとこれとは別です」
「そっか」
悠真は手を少し上げて見せた。
「大丈夫。かすり傷もない。あの程度なら問題ないよ」
「あの程度、ですか」
声が硬くなった。
「リンの近くで刃物を持った男が現れたんです。それを、あの程度と言うんですか」
悠真の表情が、すっと真面目になる。
「ごめん。言い方が悪かった」
「悪すぎます」
「うん」
アキラは扉の縁を握った。
怒りが、恐怖を少しだけ押し流してくれる。それはありがたいことだった。震えるより、怒っているほうがずっとましだ。
「あなたは、可能性が高いと知っていたんですね」
「うん」
「なら、なぜ事前に言わなかったんですか」
「言えば、君はリンさんを部屋から出さない。相手は警戒する。別の日、別の場所、僕の目が届かないところで来る」
「だから、僕たちを外へ?」
「安全を確保できる範囲で」
「安全でしたか」
悠真は答えなかった。
沈黙が、肯定よりも重く落ちる。
アキラは唇を噛んだ。
「リンは怖がりました」
「うん」
「僕も、怖かった」
言ってしまってから、喉が詰まった。
悠真の瞳が揺れる。
アキラは自分が今、ひどく情けない顔をしていることに気づいた。けれど、もう繕う力が残っていなかった。
「あなたが間に合わなければ、どうなっていたんですか」
「間に合わせるつもりだった」
「つもり、では困るんです」
「そうだね」
「リンに何かあったら」
声が震えた。
それ以上は言えなかった。
リンに何かあったら。
その先を想像したくない。想像しただけで、足元が崩れる。
悠真は一歩も近づかなかった。
ただ、扉の向こうで静かに頭を下げた。
「怖がらせて、ごめん」
その姿に、アキラは息を呑んだ。
浅羽家の当主が、廊下で、扉越しに頭を下げている。使用人も護衛もいる屋敷の中で。アキラの怒りを、言い訳で丸めずに受けている。
そんなことをされると、怒り続けるのが難しくなる。
だから余計に、苦しい。
「
……
謝れば、済むと思っているんですか」
「思ってない」
「では、どうするつもりですか」
悠真は顔を上げた。
「二度と、あの距離まで近づけない」
声は低かった。
その一言に、さっき男の手を踏みつけたときの冷たい怒りが戻る。
「侵入経路はもう分かった。屋敷内に協力者がいた。今、葛城が全員押さえてる。背後も今夜中に割る」
「
……
協力者」
「うん。浅羽家の外部出入り業者に紛れ込んでいた。屋敷の中の人間にも、金で口を開いた者がいる」
アキラは胃の奥が冷えるのを感じた。
浅羽家ほどの屋敷でも、入り込める。
守られていると思った場所にも、穴はある。
それを理解してしまう自分が嫌だった。
「リンには」
「今は言わなくていい。必要なところだけ、僕からも説明する」
「僕が説明します」
即座に言うと、悠真は頷いた。
「分かった。じゃあ、君が説明できるように、先に全部話す」
まただ。
勝手に動くのに、説明はする。
隠し通して支配するのではなく、アキラが理解できるだけの材料は渡す。
それが厄介だった。
「
……
あなたは、そうやって僕を納得させるのが上手ですね」
「納得してくれる?」
「しません」
「うん」
「でも、理解はします」
悠真の目が少し伏せられる。
「君は、それが一番つらいんだろうね」
アキラは返事をしなかった。
つらい、という言葉を受け取ると、本当につらくなってしまう気がした。
扉の隙間から、廊下の冷たい空気が入ってくる。部屋の中ではリンが眠っている。暖かい部屋と、冷たい廊下。その境目に立っている自分が、ひどく中途半端に思えた。
「浅羽卿」
「うん」
「僕は、あなたに感謝しています」
悠真は黙る。
「今日、来てくれたこと。リンを守ってくれたこと。男を取り押さえてくれたこと。それは、本当に」
言葉を選ぶほど、胸が痛む。
「本当に、感謝しています」
「うん」
「でも、怒っています」
「うん」
「あなたが僕たちを危険に近づけたことも、事前に説明しなかったことも、許していません」
「分かってる」
「分かってないです」
「うん。たぶん、全部は分かってない」
その返事に、アキラは少しだけ目を伏せた。
分かっていると言い切らない。
それが、腹立たしいほど誠実だった。
「だから、教えて」
悠真の声が静かに落ちる。
「君が何に怒ってるのか。何が怖かったのか。僕がどこで間違えたのか。今じゃなくてもいい。言えるときに」
「
……
言えば、あなたは変えるんですか」
「変えられるところは変える」
「変えられないところは?」
「たぶん、また君に怒られる」
「最低ですね」
「うん」
アキラは思わず息を吐いた。
笑いそうになったわけではない。
ないはずだった。
けれど、張り詰めていたものが少しだけ緩んだのは確かだった。
「入っても?」
悠真が尋ねた。
アキラは振り返る。リンは眠っている。深い眠りだ。今なら、短い時間なら大丈夫だろう。
「
……
少しだけ」
扉を開けると、悠真は静かに部屋へ入った。足音を立てない。リンのほうへ不用意に近づかない。扉のそばで止まり、アキラが許す範囲を測っている。
普段の強引さが嘘のようだった。
いや、違う。
この人はきっと、踏み越えると決めた線は迷わず踏み越える。けれど、それ以外の線は意外なほど見ている。だからこそ厄介なのだ。
「座って」
悠真が言った。
「僕の部屋です」
「うん。だから君が座って。僕は立ってる」
「
……
そういうところです」
「何が?」
「何でもありません」
アキラは寝台の近くの椅子に腰を下ろした。
その瞬間、ふっと膝から力が抜ける。
自分が思っていた以上に、立っているだけで精一杯だったらしい。悠真はそれに気づいた顔をしたが、何も言わなかった。ただ近くのテーブルに置かれていた水差しからグラスへ水を注ぎ、アキラの手の届くところへ置く。
押しつけない。
でも、逃げ場のないくらいちょうどいい場所へ置く。
アキラは睨んだ。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
「礼を言うたび、負けた気がします」
「僕は勝った気になってないよ」
「そうでしょうね。あなたは最初から勝っている側ですから」
言った瞬間、少し鋭すぎたと思った。
けれど悠真は、傷ついた顔をしなかった。むしろその言葉を受け止めるように、静かに頷く。
「そうだね」
認められてしまうと、次が続かない。
「僕は持ってる側だ。家も、金も、力も、武力も、人を動かす権限も」
「
……
」
「だから、使い方を間違えると、君を簡単に潰せる」
悠真はゆっくり言った。
「それが怖いんでしょ」
アキラは息を止めた。
怖い。
そうだ。
自分は悠真が怖い。
彼が刃を持つからではない。
男を叩き伏せたからでもない。
自分たちを助けた力が、そのまま自分たちを縛る力にもなり得ると分かってしまうからだ。
アキラが沈黙していると、悠真は小さく息を吐いた。
「怖がっていいよ」
「
……
許可されることではありません」
「うん。でも、怖がられる覚悟はある」
「ずるいですね」
「何が?」
「そう言われると、責めづらい」
悠真は困ったように笑った。
「責めていいのに」
「あなたは、責められることに慣れすぎています」
「そうかな」
「そうです」
アキラはグラスを手に取った。
水を飲むと、喉の奥の熱が少しだけ引いた。
リンが寝台の中で小さく身じろぎする。アキラがすぐに視線を向けると、リンは眠ったまま「お兄ちゃん」と呟いた。
アキラは立ち上がろうとした。
だが、それより先に悠真が静かに後ろへ下がる。リンの視界に入らないようにするためだと分かって、アキラは胸の奥がまた妙に痛んだ。
寝台のそばへ行き、リンの髪を撫でる。
「いるよ」
そう囁くと、リンの表情が少し緩んだ。
そのまま再び眠りに落ちる。
アキラはしばらく妹の寝顔を見ていた。
「
……
僕は」
声が、勝手に落ちた。
「リンに、僕しかいないと思っていました」
悠真は黙っている。
「だから、僕が間違えられない。僕が怖がってはいけない。僕が迷えば、この子が危ない。ずっと、そう思っていました」
言葉にすると、思ったより重かった。
「でも今日、あの男が来たとき」
手の中に、また震えが戻る。
「僕だけでは、足りなかった」
それが一番、こたえた。
賢くても。
気づけても。
会話で時間を稼げても。
身体を張っても。
相手が本気で力を使えば、アキラひとりではリンを守りきれないかもしれない。
その事実が、何より怖かった。
悠真はすぐには何も言わなかった。
やがて、静かに口を開く。
「足りないのが普通だよ」
アキラは振り返らない。
「君ひとりで足りるはずがない。足りなくていい。リンちゃんを守るのに、君ひとりで全部できなきゃいけない理由なんてない」
「
……
でも」
「アキラくん」
声が、ほんの少しだけ強くなる。
「君が今日リンちゃんを守った」
アキラは息を呑む。
「君が気づいた。君が下がらせた。君が時間を稼いだ。君がリンちゃんを庇った。僕は間に合っただけ」
「違います」
「違わないよ」
悠真の声は、静かだけれど譲らなかった。
「僕が全部助けたみたいな顔をしないで。今日、最初にリンちゃんを守ったのは君だ」
胸の奥が、ふいに熱くなる。
そんな言葉が欲しかったわけではない。
ないはずだった。
でも、アキラはその瞬間、自分の膝から力が抜けるのを感じた。
咄嗟に椅子の背を掴む。
「アキラくん」
悠真が一歩近づきかけて、止まる。
アキラは片手で顔を覆った。
「
……
近づかないでください」
「うん」
「今、見られたくない」
「分かった」
悠真は本当に止まった。
それがありがたくて、また苦しい。
アキラは必死に息を整えた。
泣きたくない。
リンが眠っている。
悠真がいる。
泣きたくない。
けれど、目元が熱い。
「僕は、ちゃんとできていましたか」
小さな声だった。
自分で言って、ひどく幼い問いだと思った。
それでも、止められなかった。
「リンの兄として」
悠真は即答しなかった。
安易な肯定ではなく、言葉を選んでいるのが分かった。
「うん」
やがて、低く穏やかな声が返る。
「ちゃんとできてた」
アキラの肩が震えた。
「君は、リンさんを守ってたよ」
その一言で、視界が滲んだ。
涙は零さないようにした。けれど、一度崩れた呼吸はなかなか戻らなかった。アキラは顔を覆ったまま、じっと耐える。
悠真は何も言わなかった。
慰めもしない。
触れもしない。
ただ、そこにいる。
それが、今は一番よかった。
やがてアキラは袖で目元を押さえ、どうにか顔を上げた。
「
……
失礼しました」
「してない」
「しました」
「してないよ」
アキラは悠真を睨もうとしたが、うまく力が入らなかった。
「あなたは、すぐそうやって」
「うん」
「優しいようなことを言う」
「優しいわけじゃないよ」
「では何ですか」
悠真は少しだけ考えた。
「本当のことを言ってるだけ」
アキラは言葉を失う。
ずるい。
本当にずるい。
優しさなら拒める。慰めなら要らないと言える。けれど、本当のことだと言われたら、受け取るしかなくなる。
アキラは深く息を吐いた。
「
……
今夜、背後の者も処分するんですか」
「うん」
悠真の顔が切り替わる。
穏やかな青年から、浅羽家当主へ。ほんの一瞬で。
「捕らえた男は口を割り始めてる。伯爵家の残党ではない。代理人とも別筋。おそらく、パエトーン家の書庫を狙っている」
「書庫?」
アキラの意識が一瞬で戻る。
「何のために」
「君のお父上の書簡か、権利書か。あるいは、パエトーン家が持っている何かを探している」
「父の書斎
……
」
アキラは考える。
父は社交界から距離を置いていた。けれど、完全に無力な人ではなかった。古い書簡、領地の記録、母方の家との繋がり。何か、狙われるものがあるとすれば。
「
……
王都の旧区画に関する権利書かもしれません」
悠真の目が細くなる。
「旧区画?」
「父が亡くなる少し前、何度か話していました。価値のない土地だと言われているけれど、将来必ず意味を持つ、と。僕は詳しく聞く前に」
言葉が止まる。
父の死。
それからの混乱。
家を守ることで精一杯で、書斎の古い資料にまで目を通せていなかった。
「その書類は、まだ屋敷に?」
「おそらく。父の書斎の隠し棚に」
「場所、分かる?」
「はい」
悠真はすぐに頷いた。
「今夜、人を出す。君はここにいて」
「僕も行きます」
「だめ」
即答だった。
アキラの眉が上がる。
「僕の家のことです」
「分かってる。でも、今日襲撃があったばかりだ。君とリンさんを屋敷から出す選択肢はない」
「場所が分からなければ」
「図に描いて」
「細部までは」
「じゃあ、君から説明を受けた者を行かせる」
「僕が行ったほうが早い」
「早さより安全」
悠真の声は譲らない。
アキラも譲れなかった。
「また、僕の意思を聞かないんですか」
悠真は一瞬、黙った。
それから、真正面からアキラを見る。
「今回は聞いてる。聞いた上で、反対してる」
アキラは言葉に詰まる。
「君の権利を奪いたいわけじゃない。でも、今日の今日で君を外に出すことには同意できない。リンさんをここに置いて君だけ行くのも、二人で行くのも危険が高すぎる」
「
……
」
「君が必要な情報は、全部聞く。回収したものは、君に確認させる。屋敷の中のものは勝手に処分しない。これは約束する」
約束。
その言葉を、アキラは少しずつ重く受け取り始めている。
それが怖い。
でも、ここで意地を張ることがリンのためにならないことも分かってしまう。
アキラは唇を噛んだ。
「
……
僕が目録を作ります」
「うん」
「隠し棚の位置も、図にします」
「助かる」
「ただし、回収には葛城さんを同行させてください。あなたの命令だけでなく、僕の確認事項も伝えたい」
「分かった」
「あと、書庫の本は乱暴に扱わないでください」
「もちろん」
「父の机の右下の引き出しは、鍵が壊れています。無理に開けると中の仕切りが外れるので」
「うん」
「母の日記が見つかっても、誰にも読ませないでください」
「読ませない」
「僕が確認します」
「分かった」
ひとつずつ、悠真は頷く。
アキラはようやく息を吐いた。
感情はまだ乱れている。
けれど、すべきことがあると呼吸が戻る。
そういう自分を、悠真は痛いほど見ているのだろう。
「アキラくん」
「何ですか」
「少し休んでからでいい」
「休むと、手が震えます」
言ってしまってから、アキラは眉を寄せた。
また余計なことを。
悠真の表情が、ほんの少しだけ痛む。
「じゃあ、震えながらでもいいよ」
「
……
」
「震えてても、書けるなら一緒に書こう。書けなくなったら休む。それでいい?」
一緒に。
その言葉が、するりと入り込んでくる。
アキラは困った。
本当に困った。
「あなたは、僕を甘やかすのが上手すぎます」
「甘やかしてるつもりはある」
「あるんですか」
「あるよ」
悠真は少しだけ笑う。
「君、甘やかさないとすぐ自分を使い潰すから」
否定しようとして、できなかった。
アキラはため息をつき、机へ向かった。
「紙をください」
「うん」
悠真はすぐに部屋の外へ指示を出し、紙と筆記具を用意させた。アキラはリンの様子を一度確認してから、机に向かう。
手はまだ少し震えていた。
けれど、線は引けた。
パエトーン邸の書斎。机の位置。本棚。隠し棚。父がよく触れていた箱。鍵の場所。古い権利書の入っている可能性がある革張りの文箱。
悠真は隣に立たず、少し離れた位置で見ていた。
アキラが尋ねれば答える。必要なときだけ紙を押さえる。インクが滲みそうになれば布を差し出す。余計なことは言わない。
その距離感が、あまりにも心地よかった。
心地よいと思ってしまったことに、アキラはまた少し腹を立てた。
「ここです」
最後に、アキラは書斎の壁の一部へ印をつけた。
「父は、重要なものをここへ隠していました」
「開け方は?」
「暖炉の上の飾り棚に、銀の小箱があります。その中の鍵で」
「分かった」
「もし小箱がなければ、誰かが先に触っています」
「その場合は?」
「書斎全体を封鎖してください。床板の下に別の保管場所があるかもしれない」
悠真がわずかに目を見開く。
「本当に、よく覚えてるね」
「父の癖です」
アキラは静かに言った。
「大事なものほど、誰でも見える場所の近くに隠す人でした」
「アキラくんは?」
「僕?」
「君なら、どこに隠す?」
不意の問いに、アキラは少し考えた。
「リンの近くには置きません」
「うん」
「自分がいなくなっても、信頼できる誰かが見つけられる場所にします」
言ってから、アキラは気づく。
信頼できる誰か。
今、その役目を悠真に渡そうとしている。
悠真も気づいただろう。けれど何も言わなかった。
ただ、紙を丁寧に受け取る。
「任せて」
短い言葉だった。
アキラはその言葉を、しばらく見つめるように聞いていた。
「
……
はい」
返事は、小さかった。
けれど、確かに返した。
悠真は微かに息を呑んだようだった。
それからすぐ、何事もなかったように頷く。
「行ってくる。葛城には君の指示を最優先にするよう伝える」
「あなたも行くんですか」
「うん」
「危険では」
「危険なら、なおさら」
「ご当主でしょう」
「だから行く」
悠真は穏やかに言う。
「浅羽家が君たちを守ると決めた。なら、他人任せにはしない」
アキラは黙った。
この人は、やはり危うい。
家も力も人も使えるのに、最後のところで自分が前に出る。書類で処分もできるし、剣でも制圧できる。柔らかな言葉で安心させることも、冷たい目で相手を黙らせることもできる。
強すぎる人だ。
そしてその強さを、自分たちへ向けている。
「
……
無茶はしないでください」
気づけば、そう言っていた。
悠真の目が柔らかくなる。
「心配してくれるの?」
「違います」
「違うんだ」
「あなたに何かあると、僕とリンが困ります」
「そっか」
「そうです」
アキラは視線を逸らす。
「だから、困らせないでください」
悠真は少しだけ笑った。
けれど、茶化さなかった。
「分かった。困らせない」
それだけ言って、悠真は部屋を出た。
扉が閉まると、部屋の中に静けさが戻る。
アキラはしばらくその扉を見ていた。
リンの寝息が聞こえる。机の上には、まだインクの乾ききっていない図面がある。自分の手は、もう震えていなかった。
悠真が持っていった。
自分の家の秘密も。
父の書斎への道も。
そしてほんの少しだけ、自分の信頼も。
アキラはその事実に気づき、深く息を吐く。
怖い。
けれど、さっきよりは怖くない。
それが何より、怖かった。
Reaction
If you make a mistake, you can cancel it by pressing the reaction.
Custom color
Reset color
広告非表示プランのご案内