あっという間に春休みが終わり、入学式の日の朝がやってきた。
鏡の前で、樹はぎこちなく制服の襟を整える。 宗真の姉
――静乃から譲ってもらったセーラー服は、驚くほど今の身体にぴったりだった。
(えっと、パンツの上には“見せパン”っていうの履いて
……)
昨日、宗真の姉達に教わったことを必死に思い出す。
(お腹冷えないように、あとパンツ見えないようにして
……)
スカートを引っ張りながら、落ち着かなさそうに身体を揺らす。 どうしても脚がスースーする感覚には慣れない。
「ど、どうかな
……?」
恐る恐るリビングへ顔を出すと、母親はぱっと表情を明るくした。
「うん、よく似合ってる」
嬉しそうに頷く。
「宗真くんのお姉さんから制服譲ってもらえて良かったわね〜」
そしてふと首を傾げた。
「それにしても、なんでうちに新品の学ランがあるのかしら? ま、いいわ」
「
…………」
樹は曖昧に笑うしかなかった。
もちろん、その学ランは“男だった頃の樹”のために用意されていたものだ。 けれど母親の中では、その認識だけがすっぽり抜け落ちている。
……コン太郎のせいだ。
そこへ、出勤前の父親がネクタイを締めながら顔を出した。
「今日、父さんは年度始めで仕事休めなかったけど」
靴を履きながら振り返る。
「母さんはどうにか休み取れたから行けるって。入学式、頑張って来いよ
――って言うと、お前は変に気を張っちゃうか」
少しだけ困ったように笑った。
「頑張りすぎるなよ」
「
……う、うん」
樹は小さく頷いた。
(相変わらず、お母さんもお父さんも
……)
胸の奥がざわつく。
(俺のこと、“最初から女の子だった”みたいな反応だ)
ただ、家族はいいとしても
――学校は?
(先生とか、クラスの人とかは
……?)
その不安が、ずっと頭の隅から離れない。やがて父親が家を出て、母親も見送りのため玄関へ向かった。
リビングに一人きりになった瞬間。
「
……ねえ」
樹は低い声で呟く。
「コン太郎。いるんでしょ」
するとカーテンの向こうから、ぬるっと狐耳が現れた。
「呼んだ〜?」
相変わらず気の抜けた声。 樹はじとっと睨みつける。
「お母さんたちにやった、“俺のこと最初から女の子だと思わせる”みたいなの」
一歩近づく。
「学校の先生とか、生徒のみんなにもできないの?」
「ムリ」
「即答!?」
「あれはサービスって言ったでしょ?初回限定みたいなもんだからできたの。お父さんとお母さんの二人だけだし」
ふわふわ浮きながら指を折る。
「先生、生徒
……何人いると思ってんの? 何百人とかでしょ? そんなのやったらボク死んじゃうよ〜」
「え、コン太郎って“死ぬ”とかあるの?」
「いや、死ぬわけじゃないけど」
げんなりした顔。
「そのぐらいしんどいってこと」
「俺をこんなふうにした元凶のくせに
……」
樹は机の上の小袋
――食塩をちらりと見せる。
コン太郎の顔色が変わった。
「だから塩はやめてって!」
「でもこのままだと、お母さんが変なこと言ってる人みたいになるでしょ!」
樹は半泣きで訴える。
「名簿だと男なのに、“うちの娘です”って言い張る人だって思われたりとか、俺の性自認がどうのだとか、絶対面倒なことに
……!」
言葉が早口になる。
「だから、お願い
……!」
「うーん
……」
コン太郎は空中でくるりと回る。
「“最初から女の子だった”って思わせるのはムリ」
ぷらぷら足を揺らしながら続ける。
「でも、“君の性別について深く興味を持たなくする”
……ぐらいなら、できるかも?」
「それでもいいから、早く
……!」
時計を見る。
「もう家出なきゃだし!」
「ほんと、コン太郎遣い荒いなぁ
……これが可愛いマスコットに対する態度?」
(誰のせいだよ。それに、見た目はともかく言動は全然かわいくないし)
樹は心の底からそう思った。
「ま、しょーがない」
気の抜けたような声だった。
「やるだけやってみるか〜」
コン太郎は、いつものようにふわふわ宙に浮かびながら、だるそうに片手を上げる。
その直後だった。
ふっと空気が静まる。
「
……?」
さっきまで騒がしかった気配が、不自然なくらい途切れた。樹は思わず周囲を見回す。
「コン太郎
……?」
返事はない。
またからかって隠れているだけかと思い、樹は机の上に置いてあった食塩のケースを手に取って軽く振った。
「塩かけるよ?」
いつもなら「やめてくださいっ!」と即座に飛び出してくるはずなのに、何の反応も返ってこない。
「
……ほんとに、いない?」
樹は眉をひそめた。
(あいつなりに結構頑張って
……ほんとに死んじゃったとか?)
そこまで考えて、首を振る。
(いや、でも
……神様?だか悪霊だか分かんないやつが、死ぬとかあるのかな
……)
考えても答えは出なかった。
その時、リビングの方から母親の声が飛んでくる。
「樹ー! そろそろ家出ないと、宗真くん待たせちゃうでしょー?」
「はーい!」
慌てて返事をする。
(気になるけど
……とりあえず学校行かなきゃ)
樹は鞄を抱え、ぱたぱたと玄関へ向かった。
月城家は、樹の住むマンションと中学校のちょうど中間あたりにある。
門の前には、すでに宗真が立っていた。
「おはよ
――って、お前
……」
宗真は言葉を途中で止めた。
姉の静乃から制服を譲ったとはいえ、実際に樹がセーラー服を着た姿を見るのは初めてだったのだ。
「お、おはよ。せ、制服ありがとね! お姉さんにもよろしく
……!」
「う、うん。言っとく
……」
樹は少し居心地悪そうにスカートの裾を押さえる。
銀縁の眼鏡。下ろした長い髪。元々毛量が多いため、良く言えば落ち着いた雰囲気、悪く言えば少し野暮ったい印象もある。
だが、その柔らかな雰囲気に、チャコールグレーの襟と紺を基調にしたセーラー服は妙に似合っていた。
宗真はなんとなく視線の置き場に困る。
「
……なんか、普通に似合ってんな」
「そ、そう
……?宗真も、学ランいい感じだね」
樹は少しだけ頬を赤くした。
けれど、すぐに視線を落とす。
「ほんとは
……宗真と一緒に学ラン着てたはずなんだけど
……」
ぽつりと漏れた声に、宗真は少しだけ困ったように頭を掻いた。
「でもさ」
「?」
「もしかしたら、コン太郎がどうにかして男に戻るかもしれないじゃん」
「
……!」
樹の顔がぱっと上がる。
「そ
……そうだよねっ」
その反応を見て、宗真は少しだけ安心したように笑った。
二人は並んで歩き出す。
春の朝の空気はまだ少し冷たく、セーラー服のスカートが落ち着かない。
「学校行くの大丈夫そうか?元男っていうのは秘密
……でいいんだよな?」
宗真が尋ねる。樹は小さく肩を縮めた。
「それなんだけど
……コン太郎にお母さん達にやったみたいに、学校の人たちみんなに“私のこと最初から女の子だった”って思わせられないか頼んでみたんだ。でも、人数多すぎて無理なんだって」
「えっ」
宗真は素直に顔をしかめる。
「それ、結構大変じゃね? お前の親と先生たちで言ってること食い違うじゃん」
「う、うん
……」
樹は不安そうに頷いた。
「けど、“私の性別について深く突っ込まないようにする”ぐらいならできるって
……」
「へえ
……そんなことできんのか」
「多分
……。でも、それやったあと急に消えちゃって」
宗真が目を瞬く。
「消えた?」
「うん。返事もしないし、姿も見えなくて
……」
宗真は少し考えるように空を見上げた。
「疲れて寝てんじゃねーの?」
「え?」
「オレも稽古しまくった日はさ、風呂入ったあと寝落ちしてるとかよくあるし。そんな感じなんじゃないか?」
あっけらかんとした言い方だった。
樹は少しだけ笑う。
「どうだろう
……」
でも。
「全然返事もないし
……ちょっと心配」
その言葉は、自分でも意外なほど素直に口から出ていた。
宗真はちらりと樹の横顔を見る。
「
……お前、なんだかんだ優しいよな」
「え?」
「だって、こんな目に遭わされてるのに」
樹は少し黙ったあと、小さく苦笑した。
「
……まあ、ろくでもないやつなのは間違いないけど」
それでも。
あの騒がしい声が聞こえないのは、思ったより静かだった。
中学校の校門前は、新しい制服に身を包んだ生徒たちで溢れていた。
張り出されたクラス分けの表の前には人だかりができていて、あちこちから歓声や落胆の声が上がっている。
「オレ二組だ!」
「マジ? 一緒じゃん!」
「うわ今年も一緒とか最悪〜!」
「まあまあ」
そんなざわめきの中、樹は恐る恐る自分の名前を探した。
「
……あ」
――見つけた。
一年一組、吉田樹。
その隣で、宗真も自分の名前を見つける。
「オレ、三組か」
「
……え」
樹の顔がみるみる曇り、宗真はぎょっとした。
「そ、そんな泣きそうな顔すんなよ!」
「だ、だって
……」
せっかくここまで一緒に来たのに。学校に入った瞬間、別々だ樹は自分でも驚くくらい不安になっていた。
宗真は慌てたように言葉を重ねる。
「なんかあったらすぐ行くからさ! 休み時間とかあるし!」
「
……うん」
樹は小さく頷いた。その様子を、周囲の男子たちがひそひそ見ている。
(なんだこの子、可愛い
……てか、胸デカくね?)
(うわ、でも男と登校してんのかよ
……)
好き勝手な声が飛び交う。
だが、その近くにいた一人の女子生徒が、じろりと男子たちを睨みつけた。
――本当に、男子ってくだらない。
背の高いショートカットの少女だった。すらりとした体格に、どこか大人びた目つき。彼女は呆れたように小さく息を吐き、自分のクラスを確認する。
一年一組。樹と同じクラスだった。
宗真と別れたあと、樹は重たい足取りで一組の教室へ向かった。
(コン太郎のやつ、ちゃんとやってくれたかな
……)
教室にはもう何人か集まっていて、みんな緊張したように席についている。
樹はできるだけ目立たないよう静かに席へ座った。
心臓がうるさい。
「吉田って男じゃなかった?」とか、「なんで女子の制服?」とか。そんなことを言われたらどうしよう。
考えるだけで胃が痛くなる。
やがて担任教師が教室へ入ってきた。
「それじゃあ出席を取ります」
教室の空気がぴんと張る。
「相田さん」
「はい」
「井関さん」
「はい」
「江沼くん」
「はいっ」
一人ずつ名前が呼ばれていくたび、樹の鼓動は速くなる。
(やばい
……やばい
……)
そして。
「吉田さん」
樹はびくっと肩を揺らした。
「は、はいっ!」
思わず裏返った声が出る。
――しかし。
担任も。周囲の生徒たちも。誰一人として、不思議そうな顔をしなかった。
普通に、自然に、“吉田さん”として流れていく。
「
……っ」
樹は呆然としたあと、心の底から息を吐いた。
(良かった
……)
(『あれ、吉田くんって男の子じゃ?』とか言われなくて
……)
全身から力が抜ける。
その安堵した横顔を、少し離れた席から、あのショートカットの女子がじっと見つめていたことに、樹はまだ気づいていなかった。
自己紹介は、思っていたよりもずっとあっさり終わった。
誰も樹のことを不自然に見なかったし、「吉田くんじゃなかった?」なんて言う人もいない。
それだけで、さっきまで潰れそうだった胃が少し軽くなった気がした。
けれど。出席番号順に並び、体育館へ移動する列の中で、樹は別の不安に襲われていた。
(あれ
……でも、俺
……)
前を歩く生徒の背中をぼんやり見つめる。
(宗真がいなかったら、誰と一緒にいたらいいんだろ)
その瞬間。
小学校五年生の頃の記憶がふと蘇る。宗真とクラスが離れていた一年間。
あの頃の自分は
――ほとんど一人だった。
休み時間も。帰り道も。誰かと笑い合った記憶なんて、ほとんどない。
(はは
……)
樹は心の中で乾いた笑いを漏らした。
(今みたいに女の子でもなかったんだから、友達の一人ぐらい作れてもよかったのに)
そして、はっとする。
(
……あ)
今は、女の子だ。
男子としてすら友達を作るのが苦手だったのに。女の子同士の距離感なんて、もっと分からない。
(宗真以外の、友達
……?)
列の流れに合わせて歩きながら、樹は唇を噛んだ。
(女の子って、どうやって仲良くなるんだろ
……)
その時だった。廊下の向こうに、三組の列が見えた。
その中に、宗真の姿を見つける。
「あ
……」
思わず声をかけそうになる。
けれど。
宗真は、列の前後にいる男子たちと普通に話していた。
「マジで!? 月城流って『OH!バンデス』出たことあんの?」
「ねーよそんなの!」
笑い声。
樹の知らない顔だった。たぶん、別の小学校出身なのだろう。宗真は、いつもの調子で自然に輪の中へ入っていた。
(あ
……)
そこで、樹は気づいてしまう。
今の自分は女の子で、宗真は男の子。しかもクラスまで違う。宗真が自分のクラスで同性の友達を作るのは、当たり前のことだ。
(宗真が
……)
胸の奥が、きゅっと痛む。
(俺のこと忘れるなんて、思いたくないけど
……)
でも。
もし、自分だけが昔のまま宗真に頼ろうとしていたら。
それって、すごく重いんじゃないだろうか。
樹はそっと視線を落とした。
新品の上履きが、体育館へ続く廊下を静かに歩いていく。スカートの裾が揺れるたび、自分が“もう前とは違う”ことを突きつけられている気がした。
入学式も終盤に差しかかり、在校生代表の挨拶も終わった頃だった。
椅子を引く音が一斉に響く。退場のため、新入生たちが立ち上がる。
樹も慌てて立ち上がった
――その瞬間。
(あ
……)
視界がぐらりと揺れた。
昨夜はほとんど眠れていない。中学初日。女の子の姿。クラス替え
……考えすぎて、気づけば朝になっていた。
足元がふわりと浮く。
「吉田さん?」
誰かの声が遠くで聞こえた気がした。
――そのまま、樹の意識は暗転した。
「
……ん」
目を開ける。
知らない天井だった。
カーテン越しに春の日差しが差し込んでいる。鼻をくすぐる消毒液の匂い。

(ここ
……)
ぼんやりした頭で考えるより先に、視界に誰かの顔が入り込んできた。
「大丈夫?」
「えっと
……」
樹は瞬きを繰り返した。
(誰
……?)
短く切った髪。すらりと高い背。涼しげな目元。樹はピンと来なかったが、今朝、クラス分けの表の前で男子たちを睨んでいた女子だった。
彼女は樹が起きたのを見て、少しだけ安心したように息を吐いた。
「あ、ごめん。名前言ってなかったね」
そう言って、軽く笑う。
「私、
名取深青。
――同じクラスだよ。よろしくね、吉田さん」
「うん
……よ、よろしく
……?」
まだ頭がぼうっとする。樹は半身を起こしながら、小さく頭を下げた。
名取はそんな樹を見つめながら言った。
「体育館で倒れたから心配したんだ。でも、だいぶ顔色良くなったかな?」
「た、体育館
……倒れた
……?」
そこでようやく記憶が繋がる。
「あっ、入学式
……!」
「さっき終わって、みんなもう帰ってるとこ」
「え
……」
樹の顔が青ざめた。
(それって、初日から変に目立つことしたんじゃ
……)
しかも倒れた。絶対目立った。最悪だ。
(宗真は
……もう帰っちゃったのかな。稽古もあるだろうし
……)
そんなことを考えていると、近くで書類を整理していた養護教諭が振り返った。
「名取さんと、三組の月城くんが連れてきてくれたのよ」
「そ、そうだったんですか
……!」
樹は慌てて名取を見る。
「ありがとう、えーと
……名取さん」
「別に。その月城くんって子、すごい慌ててたなあ」
名取は少し面白そうに笑った。
「『樹!しっかりしろ!』って」
「
……っ」
胸の奥が、じんわり温かくなる。
(宗真も、助けてくれたんだ
……)
やっぱり宗真は、宗真のままだった。
クラスが違っても。自分が女の子になっても。
――困っていたら、きっと助けてくれる。
そう思うだけで、不思議と安心できた。
(後で、宗真にもちゃんとお礼言わなきゃ)
すると名取がふと尋ねる。
「ひとりで帰れる?」
「え?」
「家、どっちの方なの?」
「えーと
……西小の方」
「あ、そっか」
名取は頷いた。
「じゃあ校門まで一緒に帰ろう?」
「う
……うん!」
樹は少しだけ嬉しそうに頷いた。
――宗真以外の誰かと、一緒に帰る。
他の人には当たり前のことかもしれないが、今の樹には特別な価値を持っていた。
校門の外では、新しい制服に身を包んだ生徒たちが、それぞれ友達同士で帰っていく。春の風が吹くたび、桜の花びらがふわりと舞った。
樹は紙袋を胸の前で抱えるように持ちながら、何度も頭を下げる。
「その
……ほんとに、ありがとう。私、実はすごく緊張してて
……」
声が小さくなる。
「名取さんがいてくれなかったら、どうなってたか
……」
すると名取は、くすっと笑った。
「あはは。大げさだよ。月城くんだって助けてくれたでしょ?」
そう言ってから、ふと思い出したように首を傾げる。
「それより、吉田さんって下の名前、“樹”っていうんだね」
一拍置いて、さらっと言った。
「
……可愛い名前」
(い、一応、男の名前なんだけど
……!)
樹は心の中で全力でツッコミを入れながら、顔を赤くした。
「そ、そう、かな
……? 初めて言われたかも」
「ほんと?」
名取は少し意外そうに瞬きをする。
「じゃあ、私が最初だ」
なんでもないように言うその態度に、樹の心臓がまた変な跳ね方をした。
「樹ちゃんって呼んでもいい?」
「う
……うん!」
反射的に頷いてから、樹ははっとする。
(宗真以外の子に、しかも女の子に、初めて名前で呼ばれた
……!)
胸の奥がくすぐったいぐらい熱くなる。
名取はそんな樹を見て、柔らかく笑った。
「改めてよろしくね、樹ちゃん」
「うん、名取さん
……!」
「もう」
名取が少しだけ肩をすくめる。
「私の名前、“深青”っていうの。忘れちゃった?」
「あっ
……!」
樹は一気に顔を赤くした。
「ご、ごめん! ちょっと緊張しちゃって
……!
……あ、失礼だったよね!?み、みお、ちゃ
……」
慌ててぶんぶん首を振る。声も少し裏返った。
そんな露骨にテンパる様子が面白かったのか、名取は思わず吹き出した。
「ふふっ
……ごめん」
笑いながら、少しだけ視線を逸らす。
「私の方が距離感おかしかったね」
そして、改めて樹を見る。
「樹ちゃんが呼びやすい呼び方でいいよ」
「あ
……ありがとう!」
樹はほっとしたように息を吐いた。
「名取さんって
……優しいんだね」
その言葉に、名取は一瞬だけきょとんとした顔をする。
けれどすぐに、どこか照れ隠しのように視線を逸らした。
「
……普通だよ」
春風が吹く。
長い髪が揺れる樹を見ながら、名取は心の中でそっと思った。
(やっぱり、この子
……放っとけないな)
気づけば、あっという間に校門まで来ていた。
途中で何を話したのか、樹はあまり覚えていない。ただ、名取が自然に会話を続けてくれたことと、自分が思ったよりちゃんと受け答えできていたことだけは、ぼんやり覚えていた。
校門の前で、名取が立ち止まる。
「樹ちゃん、また明日ね」
名取の短めの髪が、春風に揺れた。
「さっきのこともあるし、今日は早く寝た方がいいかも」
「そ、そうだね
……」
樹は慌てて頷く。
「ほんとにありがとう。ば、
……バイバイ」
「
……うん、バイバイ」
名取は小さく手を振って、樹と反対の方向へ歩き出した。
その背中を見送りながら、樹は胸の奥がじんわり温かくなるのを感じていた。
(名取さん、いい人だな
……)
自然と、そんな言葉が浮かぶ。
(友達になれるかな
……)
けれど、その直後。
(
……でも)
胸の奥に、冷たいものが落ちた。
(本当は男だって言ったら
……)
足元を見る。
(きっと、引かれちゃうよね)
今みたいに話しかけてくれないかもしれない。優しく笑ってくれないかもしれない。
そう思った瞬間、喉の奥が少し苦しくなった。
(
……絶対、隠さないと)
樹はぎゅっと鞄の持ち手を握りしめた。
一方、その頃。
少し先を歩いていた名取は、ふと足を止める。
そして、振り返らないまま小さく目を伏せた。
(樹ちゃん
……)
今日初めて会ったばかりなのに、不思議だった。
あの子を見ていると、胸の奥がざわめく。
ちゃんと笑ってくれたこと。 自分の言葉に、嬉しそうな顔をしたこと。
その全部が、名取には妙に眩しく見えた。
(あの子なら)
そっと、心の中で呟く。
(変わらずに、私の“一番”でいてくれるかな)
帰り道。
見慣れた月城家の門が見えてきたところで、樹はふと足を止めた。
(宗真
……もう帰ってるかな)
少し迷ったあと、意を決してインターホンを押す。
ほどなくして玄関が開き、宗真が顔を出した。
「樹?」
ぱっと表情を明るくする。
「体調大丈夫か?」
「うん!」
樹は慌てて頷いた。
「助けてくれてありがと」
「いや、オレはそんな大したことしてないよ」
宗真は頭を掻きながら言う。
「近くにいた、お前と同じクラスの女子も手伝ってくれてさ。名前までは聞けなかったけど
……」
「あ、その子、名取さんっていうんだって」
「へえ」
「今、途中まで一緒に帰ったんだ」
その言葉に、宗真は少し安心したように笑った。
「そっか。優しい人がクラスにいて良かったな」
「うん
……!」
樹も自然と笑う。
すると宗真は、何か思い出したように「あっ」と声を上げた。
「そうだ、樹。ちょっとそこで待っててくれる?」
「え?」
「入学式の写真、お前と撮りそびれたからさ」
宗真は玄関の方を親指で指す。
「母ちゃんが、“うちの前でいいから撮っとけ”って」
「
……!」
言われて、樹もようやく気づいた。
(確かに
……!)
入学式で倒れたり、名取と話したりで、そんなことを考える余裕すらなかった。
「もう制服脱いじゃったけど、今から着るから」
「う、うん
……!」
宗真が家の中へ戻っていく。
(そういえば、お母さんはどうしただろう
……心配させちゃうよね)
その間、樹はスマホを取り出すと、母からの通知が入っていた。
『ごめんね、職場のお子さんが熱出したみたいで、入学式出られなかった
……!宗真くんのお母さんに頼んでおいたから、宗真くんと写真撮れたら送ってくれる?』
母からのメッセージだった。樹は思わず苦笑する。
(なんか、この間の悪さ
……吉田家の血筋って感じするな
……)
けれど。入学式で倒れたことを思えば、結果的には親に余計な心配をかけずに済んだとも言えた。
(
……まあ、良かった
……のか?)
そんなことを考えていると。
「お待たせー」
宗真が再び玄関から出てきた。制服を着直したその姿を見て、樹はふと胸の奥が温かくなるのを感じた。
――ちゃんと、同じ中学に入ったんだ。
そんな実感が、今さら少しずつ湧いてきていた。
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