ヴァレンティン・ヴォーダ、かの有名なヴォーダ財閥の跡取りであり、法大学でも優等生として名を知られている。眉目秀麗、あらゆる分野にも優れているヴァレンティンだったが、料理ができないことと、一つだけ困った体質を持っている。
「すみません、今日はみんな状態が悪いみたいですね」
「いや、構わないよ。もう、慣れたからね……」
法大学から遠く離れた猫カフェ、勉強の息抜きにやってきたヴァレンティンは窓側の席に座っていた。本来、暖かな太陽の光が差し込むそこは猫たちの特等席であり、特に今の時間帯になるとどの子もこぞっと日向ぼっこをする。しかしどういうわけか、どの子も向かおうとはしない。
原因は、席に座っているヴァレンティン・ヴォーダにあった。
店内唯一の吸血鬼というわけでもなく、金継ぎが恐ろしいわけでもなければ、むしろ一番遠くにある強面な厳つい吸血鬼の男性でさえ猫たちにモテモテである。だがヴァレンティンにのみ、どの子も寄ってこようとはしないのだ。
そう、ヴァレンティンは困ったことに、動物に嫌われる体質である。
店員にもフォローされ、しょんぼりしながら頼んだコーヒーを啜るヴァレンティン。普段から動物に怖がられ、避けられるヴァレンティンは猫カフェならいけるのでは…!? という安易な考えによって来店した。しかし来店を重ねても、結果はご覧の通り。
もう、諦めよう。店員にも多大な迷惑をかけてしまっている。仕方ないが、猫カフェ通いは今日限りに──
「えっ……!?」
ふと、店員の驚きの声が聞こえて、俯いていた顔をあげる。その視線は、なぜかテーブルの方へと向けている。釘付けといっても過言ではなかった。
何だろうかとヴァレンティンも釣られて視線の先を追い……己の右手の横に、白い毛玉があった。否。毛玉のように丸まった猫だった。
汚れひとつない美しい毛並み、己の手より少しだけ大きな体と、ゆらりと揺れるしなやかなしっぽ。よく見れば、おでこやしっぽにも淡いミントグリーンの差し色があった。見るからに愛らしくも美しい猫が、俗にいう香箱座りをしている白猫は閉じていた目を開ける。
「……うつくしい」
淡いアメジストと、落ち着いたエメラルド。宝石よりも、水晶を閉じ込めたような瞳。猫はじっとヴァレンティンの顔を見て、逃げるそぶりはおろか、のんびりとしていた。挙句は、口を大きく開けて、ふわぁ、とあくびまでしてみせた。思わぬ落ち着きっぷりに、唖然としてしまう。
「お客さま、とても良い方なのですね」
「…? どういうことだい?」
「この子、極度の人見知りで、こうやってそばにくるのはとっても珍しいんです」
この子が近づくのは、決まって心優しい人間なので。そう付け加える店員の言葉に同意を示すように、白猫は「…に」と小さな声で鳴いた。
……猫。ねこ、にゃんこだ。
人生初めての、猫からの急接近。柄にもなく冷や汗をかき、心なしか手まで震えてきた。触れたくて、撫でてみたいが、いざ動いたら逃げられるのではないかとヴァレンティンは恐れ慄いていた。この絶好のチャンスを逃したくない。しかし失敗したくはなかった。そうなればきっと今度こそ立ち直れない。
猫カフェ通いを引退するかどうかは、今、この瞬間にかかって──
「……にゃ」
「──!」
手の甲から伝わる柔らかな感触に、一気に鳥肌が立ってしまった。ヴァレンティンにとって、全身へと広がるような衝撃だった。
生まれて初めての、猫との接触。夢にまで見た、愛らしい猫からの触れ合い。人生初の体験ばかり。なまじ優秀なヴァレンティンでさえ、固まらずにはいられなかった。
動く気配のないヴァレンティンを訝しんだのか、白猫は彼の手に擦り寄るのをやめて、顔をあげた。つぶらな瞳でヴァレンティンを見つめ、こてん、と首を傾げる。続くようにして「んにゃ?」と彼を心配するように声をかける。
「……ぁ、嗚呼…!!」
ヴァレンティンは、一瞬にして白猫の虜となった。
ようやく反応を見せたヴァレンティンにホッとしたのか、白猫はゆっくりと瞼を閉じ、またゆっくりと開いた。その間にもしっぽをゆらりと揺らして、「にゃ」と短く鳴く。
ずっと見守っていた店員はハッとして、さっきまでヴァレンティンを生暖かい目でフォローしていたはずが、なぜかやや興奮したような笑顔になっていた。
「お客さま、すっかり懐かれてますね! この子、誰にも懐かなくて心配だったんです…!」
「懐いた……のかい?」
「えぇ。猫がゆっくり瞬くのは、愛情を伝えるための仕草なんです!」
愛情を、伝える……譫言のように繰り返したヴァレンティンは脳内で何度も意味を反芻させて、咀嚼して、ようやっと理解に至った。
動物に好かれることのない己を、音もなく現れた白猫が、懐いてくれた。
その事実だけでも、ヴァレンティンは心を射抜かれたような感覚を味わった。グサッと、深々と。抜け出せなくなるほど、ゾッコン。
「この子は……名前は、なんだい?」
震える指先で、白猫の頬に触れてみる。同時に、その子の名を尋ねる。ふわふわでサラサラな毛にまた心を動かされ、ヴァレンティンはもはや己を律することすらできなくなっていた。
「ユーちゃん、じゃなくて…ユヅキです。女の子ですよ!」
「……ユヅキ」
店員に愛称やフルネームで呼ばれても、当の白猫は反応を示さなかった。確認するように鸚鵡返しをしたヴァレンティンの声に、不思議にも白猫は片方の耳をピクリと跳ねさせ、パチリと目を瞬かせた。
「んー?」
今度は口を開くことなく、喉を鳴らすだけ。けれどオッドアイはしっかりとヴァレンティンの姿を正確に捉えていた。ほかのだれでもなく、呼んでくれたヴァレンティンに反応を示している。じっと、見つめて。じっと、要求を待って。じっと、静かに耳を傾けている。
たったそれだけの仕草。ヴァレンティンの心を鷲掴みにするのに、十分だった。
「あの……よければ、これからもお時間があるときに、ユーちゃんを探しに来てあげてください」
「……いいのかい?」
「ぜひ。彼女、あなたのことをとても気に入っているので。よければ、ぜひ」
二回も続けて、強くおすすめする店員に頷く。ヴァレンティンは猫カフェ通いの引退をすっかり忘れ去り……今後もずっと、通い続けることを決めた瞬間だった。
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