早朝の庭園で、クレイブが薔薇を摘んでいる。邸の上階の窓からその姿を見つけたアメジオは、そこで敷地に薔薇の生垣があったことを改めて認識した。そこに足を踏み入れていたのは幼い頃、カルボウだった頃のソウブレイズと。その記憶も、父の撮った写真に依るものでしかない。
父の様子を伺っていると、不意にハンベルが廊下の先の暗がりから現れた。
「クレイブ様は今年も薔薇を贈られるのですね」
「今年も? 誰にだ?」
「それは、私の口からは」
「勿体つけるな」
「気になったのでしょう? ご本人に尋ねるのがよろしいかと。折角ですからクレイブ様のお手伝いをなされてみてはいかがでしょうか」
普段から細められた目元がはっきりと笑みの形になった。ハンベルがした意味深な提案に、アメジオはどうしてか気を引かれていた。
ぱちり、ぱちり。鋏が茎を断つ乾いた音が、朝靄と静寂に包まれた庭園に響く。クレイブは薔薇を切り、薄く水を張ったバケツに挿していく。時折、葉をむしり落としつつ。地面に散らばった薔薇の葉は、綺麗好きなチラチーノがすかさず掃き集めていった。
不意に近づいた足音に気づいて振り返ると、そこには亡き妻によく似た面差しの一人息子、アメジオが立っていた。早朝の自宅の庭だと言うのに、しっかり身支度を済ませているのが彼らしい。その生真面目さが、今は眩しく感じられた。
「アメジオ、どうした。こんな時間に」
「たまたま早くに目覚めただけです。父さんこそ。剪定ならストライクやハッサムがしてくれるのでは」
アメジオは怪訝そうに、バケツの中の真っ赤な花束へと視線を落とす。クレイブはふっと口角を緩め、再び手元の作業に戻った。
「毎年この日は、欠かさずしているんだ」
ぱちり、ぱちり。クレイブは次々と花を切り出しながら、薔薇を愛でる妻の可憐な表情を思い返している。バケツの中は密度を増し、そろそろ隙間が無くなりそうだ。もうひとつバケツを寄せる手には朝露が滴っていた。
「この日……?」
「マリアの……お前の母さんの誕生日だ。毎年、歳の数の薔薇を生けているんだ」
「……知らなかった」
「話すこともなかったものな」
クレイブは自嘲気味に呟き、新たな一輪を丁寧に手折った。
父子の間に長年横たわっていた確執が解けても、交わされる会話はいつもどこか遠慮がちで、少なからず探り合うような慎重さが伴っていた。けれどこの時ばかりは、息子が興味を持って近づいてくれたことが、クレイブの胸を軽くしていた。
「知っているか? 薔薇には本数ごとに花言葉があるんだ」
「花言葉……」
聞き慣れない単語に、アメジオがわずかに眉を寄せる。その反応を予期していたのか、クレイブは静かに言葉を継いだ。
「まず花言葉を知らなかったか。ハンベルの教育は厳しく、エクスプローラーズ以外に目を向ける暇もなかったろう」
「俺自身が望んだことです」
「だとしても、私も幼いお前にもっと目をかけてやるべきだった。今だから言えるが、お前があまりにマリアに似ていて、見る度どこかつらかったんだよ」
独白のような父の言葉に、アメジオの喉が小さく動いた。
声をかけるべきだったのは自分もだ、とアメジオは己を省みる。エクスプローラーズのリーダー教育をアメジオに施すハンベルに、やんわりとした反発を時折向けていたくせに、それを指示したギベオン様に対しては口をつぐんだままだった父。圧倒的な権力を前にして操られることに甘んじた父。
(俺はそうはなるまいと思っていた)
だが、その決意さえも、父を遠ざける理由にしていたのかもしれない。結果として、ふたりの時間はあまりに長くすれ違ってしまった。
「良ければ一緒にどうだ? お前なら薔薇を贈る相手のひとりくらい居るんじゃないか」
クレイブの提案に、アメジオが思い浮かべるのは唯ひとり。天色を覗かせながら揺れる黒髪、強く輝く空色の目の。彼女を想うと己の何もかもが囚われていくようだ。言葉を返せない息子をどう思ったか、父は表情を崩した。
「……何ですか」
「いや、年相応なお前の姿が見られるのがどうにも嬉しくてな」
「……」
「そんなにも想う相手なら、12本を持って告白しに行くことだ」
「俺は何も……」
「何とも思っていない相手に、お前はそんな顔をするのかい?」
言葉に詰まって目を落とした先、バケツの中の水鏡に映り込んだ顔をアメジオは覗き込む。鏡など身支度の時にしか見ない。それでも、水に浮かんだその顔は、普段の己からは程遠く、道に迷ったような腑抜けたものに見えた。
「すまない。差し出がましかったな」
アメジオがはっと顔を上げれば、クレイブはもう薔薇に向き直っていて、次の一輪を探していた。長らくすれ違っていた息子の内面に踏み込もうとしてくれた父。それでも臆病さと深い愛情ゆえに線を引く父。
もっと父のことを知りたい。それには己も心を開く姿勢を見せるべきであろう。
気づかれないように頭を振り、父に並んで立つ。驚いたように向けられた深い青の目を、アメジオは真っ直ぐ見つめた。
「……父さん、薔薇の選び方を、教えてください」
「アメジオ……勿論だとも」
クレイブの目元の皺が深くなる。安堵する心を認めながら、アメジオは言葉を継ぐ。
「俺も母さんに薔薇を贈りたいんだ」
「そうか、母さんもきっと喜ぶだろう」
柔和に微笑む父。唯一人の大切な家族。己のことを知っていてほしい相手だ。だからアメジオはあえて伝えたいと思った。どうしようもない気恥ずかしさに、目を見て話すことは出来ないけれど。
「その後で……俺の分は、自分で選ぶ。もう、親に言われて何かする歳じゃない」
きっぱりと言い切る息子の横顔に、クレイブは一瞬、遠い日の妻の面影を重ねた。
「では、お前の想い人に会える日を楽しみに待つとしよう」
ふ、と微笑むクレイブの、深く穏やかな声が空気を揺らした。同意するように、チラチーノが機嫌よく鳴き、アメジオに体を寄せる。アメジオはぐっと口を結び、薔薇の花を選ぶのに意識を傾けた。
靄はいつしか晴れ、朝日に満たされた庭園は美しく輝いていた。
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