碑硫竜紀
2026-05-12 09:45:26
2513文字
Public R1999:donriveryaoi
 

駆る

イヴァンゴール donriveryaoi あの子のこと

 久しぶりに故郷に帰ってきて、数日の余暇を楽しむにしてもどうしようかと考えながら家のドアを叩いた。出てきた母さんは華やかな笑顔で迎え入れてくれた。しかも入隊した俺の部屋を取っておいてくれていた。ありがたく変わっていない自室にカバンを置いて、母さんが淹れてくれた茶を飲んでから、俺は馬小屋へと向かった。
 馬は愛情深い。俺を覚えてくれていて、鼻筋を撫でさせてくれたし、そのまま鼻先を寄せてくれた。俺も嬉しくて顔を寄せ、撫でて愛情を返す。
 掃除をするから大人しくしててくれ、と念を押して、道具を手に馬小屋の中を掃除する。オレグ――馬の名前だ、まだ小さく入隊する前の俺が名付けた――は綺麗な瞳をどこかに向けながらも、静かに待ってくれていた。あとで軽く洗ってやって、遅くならないうちに軽く走らせてやりたかった。
「イヴァン、いるのか」
 突然聞こえてきた静かな声に、俺は箒を動かしていた手が止まった。中途半端になった寝床の藁を雑に広げて、慌てて柵から顔を出す。
「イゴール? 帰ってたのか」
 馬小屋の入り口を見ると壁に凭れて立っていた。近付いてきて、愛馬に触れて挨拶をしてくれた。オレグはイゴールのこともよく知っている。俺の親友……まあ実際はただならない仲であることを、こいつもわかってくれている。俺の時より少し遠慮がちだったが、イゴールにも鼻先を寄せていた。
 聞きたいことはたくさんあった。今俺はイゴールとは別の隊に所属していて、偶然近くで出撃があり、帰る前に出身者が多いからと休暇を貰うことが出来た。だから三日ほど滞在する予定なのだが、イゴールの隊はどうなんだろう。異動していなければ確か俺のいた戦地にはいなかったはずだ。
 俺がいることも知らせていないから、何故ここにいることを知っていたのかも、気になることの一つだ。
「このあと、こいつらを走らせないか」
 オレグを見つめ撫でながらイゴールは言った。その目は少しさみしそうにしている。楽しい誘いのはずなのに。
「そう考えていたところだ。待て、もう少しで掃除も終わる」
「ああ、外で待ってる」
 またあとでな、とイゴールはオレグに伝えて、俺と目を合わせてから馬小屋を出ていった。
 小屋の外の樹に繋いでいる愛馬を愛でている姿が見えた。見覚えのない栗毛の馬だ。
「変なやつだな」
 見上げて目が合ったオレグはぶるんと口を震わせた。


 遠出と言っても、草原の向こうに見える山を越えることはない。俺たちが向かうのはだいたい森のなかにある池で、昔はよく釣りに行っていた。
 空は秋晴れだ。収穫にはまだ早いが空が高く、風も夏にしては冷ややかだ。馬で走るにはちょうどよい季節だった。
 同じ速度で緩やかに並走していたが、イゴールがふと馬の脚を止めた。俺もそれを見て止めさせ、少し離れたところで半回転させる。
「どうかしたか」
……今日はあっちのほうへ行ってみないか」
 いつもの池とは少し違う森を指さしていた。少し森が深く、迷うことはないが他より季節の移り変わりが早い場所だ。
「いいけど……水辺はあるのか? 馬たちに飲ませてやりたい」
「ある。昔父さんに連れて行ってもらったんだ」
「なら行ってみよう。遅くならないようにしないとな」
 早速馬を走らせた。並走し、少し前をイゴールと馬が駆け、道案内についていく。森は入ってみると意外と鬱蒼としていた。鳥獣や虫の鳴き声と草木のささやかな音しか聞こえてこないなかで、突然せせらぎの音が響いた。馬を降りてついていくと、確かにそこには川があり、もう少し歩いた先に池があった。
 そこで馬たちを休憩させ、俺たちも川辺に座り込む。
「初めて来たな。こんなところがあったとは」
「迷いやすいからな。俺も昔は父さんに一人で来るなと言われた」
 川面を眺めていたイゴールの視線があがり、辺りを見渡していた。どうかしたのかと問う前に、イゴールが口を開く。
「このあいだの冬だ。あの子が行方不明になった」
 すい、とイゴールの視線が流れていく。そして静かにまた水面へと戻ってきた。それ越しに、イゴールの目を見つめる。
「俺が小屋に入ると柵から顔を出して、近付くと顔を擦りつけてくる子だった。俺が遠出をしようと言ったら鼻を鳴らして尻尾を振って、走り出したらたてがみがキラキラと靡いて、撫でると嬉しそうにする。まだときどき、あの子を思い出すんだ」
 あの馬のことだろう、と、俺もわかっていた。イゴールが熱心に世話をしていた、赤毛の馬だ。爽やかで、しかし豪胆にも見えるその美しい姿は、大切に育てられたことがわかる。馬は愛情を与えた分だけ、その姿を変えていく。
 イゴールの目は、水面越しでもわかるほど哀しみに溢れていた。泣き出すのではないかと思うほどだが、俺はこの男が泣いた姿を見たことがない。
「賢くて美しかったな」
「ああ、お前にも優しかったな、あの子は」
「一度追い払われたこともあった。お前に手を出そうとしたら何を察したのか軽く嘶かれたんだ。あのときはさすがに驚いた」
「そんなこともあったな」
 はは、と鼻で笑ったイゴールの表情が一周柔らかくなる。それでもまた視線は森を彷徨い始めた。あまりここに留まるのは良くない気がした。
 俺は立ち上がり、愛馬の背中や腹を撫でてやる。水を飲んで休んだ馬たちは、走りたがっているように見えた。もしくは、イゴールの感情を察しているのだろうか。
「帰るぞ。そろそろ出ないと遅くなる」
……そうだな」
 ゆっくりと立ち上がり埃を落としたイゴールは、やはり一度森深く奥の方を見たあと、切り替えた視線を愛馬に向けた。慰めるように、イゴールに鼻を擦り寄せている。それに申し訳なさそうに、イゴールは撫でて返した。
 オレグに跨り、イゴールの先導で森を抜ける。草原の向こうの山に太陽が落ちていくところだった。
 赤く染まる空が燃え上がるようだというのに、肝心の日差しは弱い。赤毛のあの子のたてがみのようだった。
「急ごう。日が落ちる」
「ああ」
 光に弱い薄い瞳に焼き付けるように夕焼けを見たあと、俺たちは馬を駆った。