映画「アフターサン」のパロディです。ゴールデンカムイ、杉元さんとアシリパさんが現代でふたたび出会ったあとのお話です。カップリング要素は原作程度。アフターサンのパロですが、ふたりの関係は親子ではありません。
まだ書きかけですが、せっかくなので書いたところをかいつまんで進捗をお見せしたくなりました。
小蝶辺明日子としてこの世に生を受けた10年間のうちに、不可解なことがいくつか起こった。そのほとんどが、私の記憶に関する出来事だ。
一番多かったのは、私が経験したはずのない記憶を時々思い出してしまうことだった。いつも家族に話して初めて、それらが「出処不明の記憶」だと発覚した。なにせ両親がおおらかで楽天的なこともあって、私がどれだけ奇妙なことを言い出しても、「不思議なこともあるね」だとか「いつの間にこっそりと大冒険してきたんだ?」とかで済まされてしまったのだけれど。大事にならなかったのは、夢と現実とを混同している可能性も否定できなかったから、というのもある。それに記憶の混濁は頻繁に起こるわけではなかったし、私の暮らしや人生を妨げるほど大きな効力が有ったわけでもなかった。何より、私が小さな子供だったからだ。得た記憶を何か他のものと結びつけられるだけの、知恵や経験が全く足りなかった。青色のパズルのピースを一つ得たからといって、それが空や海の絵かもしれないとは考えても、生き物の血や瞳の色だとは思わないように。だから私は長らくそれが私以外にも起こり得る、成長過程で発生する一般的な現象のひとつだと信じて疑わなかった。
11歳の誕生日を迎える、7日前のことだった。なんでもない日だったのに今でもよく覚えている。その日、私は長い長い夢を見た。たまたま風邪を拗らせて、丸一日解熱剤を飲んで眠っていたのだ。夢の中で私はある、一人の女の子の一生を見た。アシリパという名のアイヌの女の子の、苛烈な人生を追体験する夢だった。
目覚めた時、私はもう10歳の女の子ではなかった。夢の形をしていたけれど、それは紛れもなく人ひとり分の記憶だった。遠い遠いむかし、いま胡蝶辺明日子の体にあるこの魂は、アシリパとして生きた魂だったのだ。
10歳の私にその全てを受け止められるはずがなかった。目が覚めた後はひとしきり泣いて、そして苦し紛れに、得た記憶のいくつかを永遠に放棄した。そうするより他なかったのだ。違う人間の記憶を得たからといって、その日から胡蝶辺明日子の人生すべてをすっかり変えてしまう訳にはいかない。「アシリパ」の記憶に今の私が支配されてしまわぬよう、どうしても取捨選択が必要だった。
どれを捨てたっていい。思い出すにはあまりにも辛い記憶もあった。ほとんど「アシリパ」の意志にしたがって、私は涙か止まるまでそれを繰り返した。けれども、どれだけ苦しかろうと「アシリパ」の記憶が最後まで絶対に手放さなかったものもある。それが「杉元佐一」にまつわる全てだった。アシリパが出会い、共に旅をし、添い遂げた男。アシリパにとって、杉元佐一との日々はどこまでも美しく健気で愛おしく、眩かった。
アシリパの記憶を引き継いだ私が猛烈に惹かれたのは、やはり杉元佐一との日々だった。杉元佐一もこの世界のどこかに必ずいる……。私はそう確信し、来たる日をじっと待った。たとえ離れ離れになっていても、私たちはきっと運命的に出会える日が来るだろうと私は根拠もなく信じていた。それはカムイたちの導きでもあまた存在する神々の思し召しでもなく、10歳の女の子が持てる全てで導いた精一杯の「慰め」の落とし所だったのだ。あとで思い返してみればその時の私は、会いたいという気持ちに名前と理由が欲しかったのだと思う。どの時代に生きていても、私は杉元佐一のことがただ恋しかった。
*
大きな力に導かれていると思わずにはいられなかった。11歳になった私は思っていたよりもうんと早く杉元佐一と再会する。その日のことを、単に偶然という言葉では片付けられないだろう。運命と呼ぶのもきっと違う。長い間行方がしれなかった無くしものがようやく持ち主の元に戻った……そんな例えが相応しいように思う。
その日、私は祖母の手伝いで小樽を離れて札幌を訪れていた。札幌で一人で暮らす大叔父が腰を痛め、手すりのついた介助ベッドを購入することにしたのだ。それが晩に家に届くのだという。念には念をと、私たちは昼間のうちに大叔父の杖を買うために市内へ3人で出かけ、昼食後に百貨店へと赴いた。杖を選ぶ間、少し気晴らししてきても良いよと小遣いを握らされて、私はぶらりと百貨店の外へと出る。天気は良かったけれど、風はまだ少し冷たかった。
どこかのカフェにでも入ろうかと目抜き通りで思案していると、傍の定食屋から揃いの紺色のスーツを着た団体がぞろぞろと大通りへと現れた。店から一番最後に出てきた男が、よく通る声で店内に向かって言った。「ごちそうさまでした」と。気持ちの良い声だった。私はなぜだかその声につられて足を止め、男の方を振り返った。東へと歩き去ってゆくその団体の一番後ろを一人、つかず離れずの距離を保って男が歩いてゆく。背筋のぴんと伸びた、姿勢の良い男だった。きっと先ほどの声の持ち主は彼だろうな、と思った。そして、私はすぐにその男から目が離せなくなった。
筋肉質な体格だ。スポーツ選手だろうか。スーツを着ていてもそれがよく分かる。サイズの合ったスーツを身につけ、髪をワックスできちんと後ろに流していて清潔感があった。肩から襷掛けした、旅行カバンほどの大きな鞄が彼が歩くたびに彼の身体にぶつかって揺れていた。
本当に不思議なもので、私の中の頼りは記憶しか無かったというのに、その背中のシルエットを少し見ただけで分かってしまったのだ。それが、間違いなく「彼」であると。彼の姿形が全く変わっていない保証など、どこにも無かったというのに。
「す……、」
杉元、と呼びかけようとして私は咄嗟に逡巡した。果たして、そのまま呼びかけて良いものかどうかを。それに知らない年上の男性にかつてのように呼び捨てで話しかけることの無礼さだったり、そもそも名前だって「杉元佐一」のままではないかもしれないということ。そして仮に彼本人だったとして、私を覚えている保証なんてどこにもないじゃないか……という迷いのせいだ。
それでも声は迷いを振り切って飛び出してしまっていた。それがそのまま、列の一番後ろを歩いていた男の耳にまっすぐ届いた。男がぴたりと足を止め、こちらを振り返った。
男の顔に、顔を横切るあの大きな傷跡は見当たらなかった。髭の剃り残しもなければ、出来立ての生傷もない。いつもおでこにくっきりとついていた帽子の跡もなにもかも、見当たらなかった。まるで別人のようだった。別人のようだったけれども、別人ではなかった。彼は間違いなく、杉元佐一そのひとだった。目と目が合う。
「すぎもと……」
私の声はほとんど祈りに近かった。あなたが、いまも「杉元佐一」でありますように。男が息を呑んだのが離れていてもよく分かった。
「アシリパさん……?」
男は今にも泣き出しそうな顔をして、私の「前」の名を呼んだ。私は迷いなく頷く。すると杉元の表情がまるで悪戯を咎められ、そしてようやく赦しを得た子供のようにくしゃくしゃと歪んでいった。私は杉元がそのまま声を上げて泣き出してしまうのではないかと思った。そんな姿を見たことなど一度もなかったというのに。そして当然、そうはならなかった。杉元はただその場に立ち尽くし、私を見つめて顔を歪めるばかりだった。
杉元の手が思わず、とばかりに私に触れようとして前に出される。けれどもそれが中途半端にぴたりと止まって、それからおずおずと引っ込んでいった。それがいまの私と杉元の、正しい距離感であると自身に言い聞かせるみたいに。なぜそこまでして躊躇ったのか、私には分からなかった。
「アシリパさぁん」
杉元はその場に立ち尽くしたまま、まるで迷子を探すみたいに私を呼ぶ。だから私は今度こそ迷わず、杉元の胸元へと飛び込んでいった。杉元が今度こそ私を全身で受け止めてくれる。受け入れられたことが嬉しかった。私たちは大袈裟なくらいに互いの身体を強くつよく抱きしめあった。往来であろうが誰が見ていようがかまわなかった。きっと、はたから見れば私たちはようやく巡り会えた哀れな迷子に見えていただろう。
「会いたかった」
私たちが感情を分かち合うにはその一言だけで十分だった。
いまの杉元は記憶の中の一番瑞々しい彼の姿から比べるとずいぶん大人びて見えた。年齢や服装が彼をそう見せているわけではなく、ただ彼の表情に疲れや痛みのようなものが浮かんでいるせいだ。彼がスーツを着ている理由が、彼に何かしらの負担を敷いているのだろうか? 私には分からなかった。
「アシリパさんはこっちに住んでいるのかい? 俺は昨日東京からこっちに来たんだ。飛行機でね。ええと、俺は今実業団でアイスホッケーの選手をやってて、今日は試合と本社への挨拶があって、だから札幌に来ていてそれで……、」
杉元は仲間の集団が少しずつ遠ざかってゆくのを横目で気にしながら早口でそう言った。
「ああごめん俺ばっかり……。どうしよう、行かなきゃ、ごめんねアシリパさん、また連絡しても良いかい」
私が頷くと、杉元は胸元に仕舞われていた革の名刺入れから名刺を一枚取り出した。そして自分の名や所属や会社のロゴが潰れるのも気にせず、表面に大きく携帯電話の番号をさっと書きとめ、私にそれを握らせた。
「会えて良かったよ。ほんとうに、本当に嬉しかった。またね、また会おうね、アシリパさん……、」
訂正する暇もなかった。彼は終始私をアシリパと呼び続けた。杉元は何度も何度も確かめるように私を振り返りながら、手を振りながら去っていった。杉元の姿が見えなくなるまで、互いに手を振り合った。いつまでも別れ難かった。時間にしてほんの数分足らずの、けれども全てを永遠に変えてしまうような勢いを伴った、嵐とも言うべき出来事だった。
杉元と別れた後、杉元に電話をかけるよりも先に、私は市の図書館へ赴き、司書の女性に声をかけて「杉元佐一」の名でヒットする文献を調べてもらった。どうしてこれまで一度もそれを試さなかったのか、今更不思議に思った。司書はすぐに日付が2年前のスポーツ新聞と、選手名鑑を持って閲覧室へと戻ってきた。
新聞には杉元がアイスホッケーの選手としてプロデビューした旨を知らせる記事が写真とともに載せられており、今よりも2歳若い杉元がはにかんだ様子でカメラの前でインタビューを受けていた。記事は、小さいながらに杉元への選手としての期待が熱意たっぷりに綴られていた。
一方選手名鑑の方は今年の4月に発行されたもので、こちらの写真の杉元は視線がおぼろで定まらず、その代わりに固く結ばれた唇と力のこもった眉が彼を必要以上に強面に見せている。まるで何かに怒っているみたいに。
「杉元佐一、24歳、XX社所属、期待のアイスホッケープレーヤー」……。記事の一節を声に出して読み上げる。不思議な気分だった。杉元は私が生まれる10年以上も前からこの世界にいて、学校に行ったりご飯を食べたり家族と過ごしたりスポーツに勤しんだりしていた。それがどうにも私の中でうまく飲み込むことができなかった。私はなんとか頭の中で、杉元の学生服姿やスポーツをする様や顔がよく似た家族と仲睦まじく過ごしている様を思い浮かべようとした。何ひとつうまくいかなかった。頭の中の杉元はどこにも馴染んでくれなかった。じゃあ私は一体誰を、この世界で探していたというのだろう。
翌日、昼過ぎに大叔父のうちの電話機を借りて、杉元が教えてくれた番号に電話をかけた。少しだけ緊張していた。もしも杉元が慌てて書いた番号に間違いがあれば、あるいは私が一つでもボタンを押し間違えていれば、杉元には繋がらない。コールが4つ鳴った後、杉元が電話口に出る。「もしもし?」。少し不安げな声だ。見知らぬ番号からの急な連絡に、少し戸惑っているような風だった。
「もしもし、胡蝶辺と申します。杉元さんのお電話でしょうか」
期待していたような反応でなかったことが悲しくて、私は茶化したい気持ちでわざとかしこまってそう切り出した。ひと呼吸おいて、杉元が「なあんだ」と明るく笑う声が聞こえてくる。それからすぐに「アッ、」と戸惑う声がして、杉元が私に聞き返す。
「コチョウベさん……?」
私はそれに「うん」と返し、もう一度ゆっくりと名乗った。「胡蝶辺です。コチョウランのコチョウに、キシベのベ」と。
「じゃあ下の名前は、」
「明日子。あしたのこ、と書いて、明日子」
「そうかアスコさん…….。ごめんね、昨日名前間違えて呼んでしまった」
「ううん。いいんだ、そんなこと」
それきり、少しの間沈黙が続いた。私はなぜかその瞬間、いま電話がここで途切れてそのまま永遠に繋がらなくなるかもしれないという不安に駆られた。恐ろしくなって、咄嗟に「杉元?」と呼びかけると、すぐに「はい」と朗らかな声が返ってくる。
「明日子さん。あらためて、こんにちは。杉元佐一です。杉の木のスギに、元気のゲン、ニンベンに左でサ、イチは漢数字のイチです。きっと、明日子さんが覚えている名前のとおりだよ。昨日は会えて本当に嬉しかった」
「こんにちは、杉元。うん、私も嬉しかった」
そこからまた唐突に沈黙が訪れたけれども、もう二度と先ほどの不安が蘇る事はなかった。畏まることに急に照れてしまい思わず笑ってしまうと、杉元もそれにつられて笑った。杉元と私は手短に互いの近況を教え合う。私は主に学校生活のことを、杉元は自身が所属するスポーツチームでの活躍を。
「もし良かったら、時々こうやって電話しあえたら嬉しい」
電話を切る直前、杉元が遠慮がちにそう申し出る。私もそうしたいと伝えた。次の連絡はいつ頃にするかを決め、そして私の自宅の電話番号を伝えて電話を切った。会話が終わっても耳の奥にはまだ、杉元の声が響いているような気がした。名残惜しかった。杉元が気まぐれを起こしてすぐに電話をくれないかなと願ったけれど、そんなことはいつまで経っても起こらなかった。
私は内心、本当は電話のやりとりだけでは足りない、できれば会いたいし、一緒にいたいのだと言いたかった。思い切って「また会おう」と言えば良かったと後悔した。はたして杉元は、私と同じように思ってくれているのだろうか。
(途中省略)
杉元が事前に知らせてくれた空港出口の広いホールで杉元を待った。売り場で買ったジンジャエールのペットボトルを片手に、スーツケースに腰を下ろして、ゲートから次々に出てゆく人の群れを追目で素早く追う。杉元が乗った便の到着はまだ15分ほど先だ。だからまだこうして監視員をしなくたって良かったのに、私は逸る気持ちでそこにそわそわと立ち尽くしていた。そうしないではいられなかったのだ。
結局、杉元が待ち合わせ場所にやってきたのは予め知らせてくれていた時間から15分ほど経った後だった。茶色いボストンバッグを提げた杉元が、グランドスタッフに怒られないギリギリの速さでこちらへ駆けてくる。
「本当にごめん、到着時間が遅れたんだ」
「いいんだ、気にしない」
「いいもの買ってるね」と、杉元が私の半分残ったジンジャエールを指差した。私が「一口いるか?」と差し出すと、杉元は少し考えてから「明日子さんのだから貰えないよ」と遠慮した。
半袖のシャツを着た彼の右腕はギプスで覆われている。出口から出てきた時からずっと、そのギプスの白ばかりがよく目立っていた。
「階段から転げ落ちたんだ。マヌケだろう? 見た目よりそんなに酷くないんだよ、大丈夫。心配ないからね」
私の視線がそこに注がれていることに気がついていたのだろう。私がその話題を切り出すより前に、杉元が先にそう言って私を慰めた。
「杉元も階段から落ちることがあるんだな」
「まあね。スギモトも、階段から落ちること、あるんだよ……」
杉元は右肩に自分のバッグを提げ、空いた左手で私のキャリーケースを引く。私が自分で運べると申し出ても、杉元は遅れたお詫びをさせてほしいと言って頑なにそれを断った。だから私はいつでも交代できるように杉元の右側を歩いた。隣り合って歩くと、私の視界の隅に杉元のギプスの白色がチラチラと目に入った。ギプスからは時々、病院の待合室を思わせる消毒液の匂いが漂った。
空港から出ていたシャトルバスに乗り、私たちは街へと繰り出した。夏休みらしく繁華街は人で賑わっている。私たちは予め決めていた海鮮が美味しいことで有名な定食屋で昼食をとり、それから荷物を預けるためにホテルへと向かった。ホテルも二人で決めた、コンドミニアム・ホテル。部屋の中に備え付けの小さなキッチンがあって、比較的安価で長期間滞在できるこじんまりしたところを選んだ。
フロントで受付スタッフに「杉元です」と伝える杉元の隣に立つ。はたしてこのスタッフから私たちはどんな風に見えているのだろうと想像する。受け取った鍵には可愛らしい貝殻のチャームが付いていて、杉元は嬉しそうにそれを写真に収めていた。問題が起こったのは、予約した部屋に入室してからだ。着替えたいから一度部屋に行きたいと私が杉元に頼んだのだ。
「アア嘘だろ、ベッドが一つしかない」
部屋にはダブルベッドが一つきり。私たちが予め予約していたのは、ツインベッドの部屋のはずだった。
杉元が小さく悲鳴をあげ、すぐさま備え付けの電話機でフロントと話し始める。ベッドは2台必要だったのだと訴える杉元の背中を眺めながら私は、別にこのままでもいいのにと小さな声で呟く。もちろん、杉元には聞こえないくらいの大きさで。かつて山の中の小さな猟師小屋の中で寒さを凌ぐために脚を絡ませ合いながら身を寄せ合って眠った日々を、杉元はきっと忘れてしまったわけではないだろう。ベッドはダブルベッド・サイズだ。私たち二人ならその大きさで十分に眠れるだろう。けれどもいまの私たちには、そこで一緒に眠るだけの理由がない。
「そうですか……ウーン、まいったな……」
杉元がちらりと私を見る。私はなんとか「ここでもべつに構わない」のつもりで首を振る。杉元は私を見てニコリと微笑み、「だいじょうぶだよ」と唇を動かした。私たちはもう、アイコンタクトだけで通じ合うことはできないのだ。
結局15分ほど交渉したのち、他の部屋が満室であることを理由にこの部屋に簡易ベッドを入れてもらうことで決着した。用意された簡易ベッドは備え付けのものと比べるとどうしたって見劣りがした。人の身体を支えるにはあまりにも粗末で小さく、どこまでも頼りなく見えるのだった。
「明日子さんがこっちだからね」
杉元はそう言って私に大きなベッドを譲った。杉元は運び込まれた簡易ベッドにさっそく横たわる。私に見えるように大袈裟に膝を曲げ、背を丸めて、できるだけ小さくなって見せて「ほうらピッタリだもん」と笑ってみせるのだ。杉元は変わらない。いつも、胸が苦しくなるくらい私に優しかった。
(途中省略)
「眠れないのか」
杉元がふっと私を見る。手元に小さな明かりが灯っていた。杉元がタバコを吸うなんて思いもしなかった。ジロジロ見るのもどうかと思い、なるべくタバコではなく杉元の顔を見ながら動揺を表情に出さないように努めた。
「ウン。時々ね、急に眠れなくなることがあるんだ」
杉元はそれ以上何も言わなかった。私がそばに寄ると、まだ火をつけたばかりのタバコをさっと揉み消し、少し端に寄って私が座る場所をこしらえた。窓が開いているから外からは川の音や虫の鳴き声がよく聞こえた。
「良い天気だったね」
少しして杉元がぼんやりとした声で言う。まるで沈黙を恐れているみたいに。杉元に、外のざわめきは聞こえていないのかもしれない。
「うん」
風の強い日だった。朝に丁寧に櫛で整えた私の髪は終始風に煽られてぼさぼさのままだった。夕方には雨が降った。冷たい雨だった。私たちは傘を持っておらず、ホテルのロビーのソファに腰を下ろし、上等なカップで提供される熱いコーヒーに恐る恐る口をつけながら雨が止むのを待った。天井まで続く大きなガラス窓の向こうをじっと眺める杉元の横顔だけが、場違いに美しかったのを覚えている。
この場には到底相応しくないのだと言わんばかりに縮こまった杉元の背。いつまでも消えない炎のように、杉元の体のあちこちから漂う「あの日々」の記憶たち。私は今日ここに生きているのに、気がつくとそれにばかり気を取られている。
「明日は、浜の市場まで歩いてゆこう。明日子さんの好きなものを食べようね」
「うん……」
「雨、降らないといいねえ」
「そうだな」
杉元の体に寄りかかる。杉元の腕が私の腕と背にそっと触れた。繊細な糸でできた見事なレース生地を台無しにしてしまわぬよう受け止めるみたいに。そのくせ私は、何があったって離れないよう強く強く握り返してくれた傷だらけの指先を思い出している。
杉元の体は熱かった。汗っかきなんだとはにかみながらそう教えてくれた。これは、激しさの中で懸命に生きるいきものの熱だ。ぶれることのない、強く美しい魂が宿った身体。私はその熱に触れるたび、泣きたくなるのを堪えなくてはならなかった。私はどうしてもいま、杉元にこう呼んで欲しかった。
アシリパ、と。
*
目覚まし時計が鳴った。朝、8時。目が覚めたらおはようよりも先に、杉元の誕生日を祝うつもりだった。なのになぜかすぐに声が出ず、高いベッドの上から杉元を見下ろすばかりだった。杉元に「誰のお祝いなの?」と言われることが恐ろしかったのだ。そんなこと、少し考えればあり得ないことだったのに。隣のベッドではまだ眠たいのか杉元がモゾモゾとシーツの中で寝返りを打っている。しばらくすれば杉元も目が覚めるだろう。迷っている時間は無い。
「スギモト……」
「ん」
「誕生日、おめでとう」
杉元が身体を起こして私を見た。その目に、私の不安がはっきりと写り込んでしまっている。どうかそれに気が付かないで、と願った。私をまっすぐに捉える杉元の瞳が潤んで、瞳の中にいた私が歪んで消えた。杉元が鼻を鳴らしながら照れくさそうに顔を伏せる。杉元は畏まってベッドの上で正座し、深々と頭を下げる。
「ウン。ありがとう、明日子さん。いい誕生日の朝が、迎えられました」
プレゼントを選ぶときに、思い浮かんだのはギプスが取れたての杉元の白い右手だった。病院の気配がこびりついたままのいびつな腕のためにお守りのようなものがあればきっと、杉元はもう二度と階段から落ちたりなんかしない。
「これ、誕生日のプレゼントに。杉元に、似合うと思ったから……」
「俺に選んでくれたの?」
「うん」
小さなビーズが編み込まれた青色のミサンガを、杉元の右手に結ぶ。昨日立ち寄った土産屋で見かけて、こっそり2本買ったのだ。青色と、赤い色のと。今の私にはそれしか手に入れることができなかった。子供みたいで恥ずかしかった。でも、11歳の私は正真正銘子供だった。杉元は手首を明るい窓の方に向け、手を返しながらじっくりとそれを見つめる。
「ワッ、かわいいね」
「いまだけでいいんだ、つけていて欲しい。私のと、お揃いにしたくて」
「どうして今だけなんて言うんだい? ずっと着けてるよ。……アア、嬉しいなぁ、みんなに自慢しよう。ありがとう、明日子さん」
互いの手首を突き合わせて私の赤いミサンガと見比べる。お揃いのせいか私たちはいっそう兄妹みたいだ。でもそれでかまわない。杉元が自分の右手を見るとき、怪我をした時の痛みではなく私と過ごした誕生日のことを思い出してくれれば、それで。
(続く)
***
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